教育ツールとしてiPadをどう考えるか

 アップル社から新しいタッチデバイス(指で画面をタッチすることで操作する機器)である「iPad」が発表されました。発表日から60日ほどで発売予定。つまりこの春から購入して使うことが出来ます。

 すでにiPhoneという携帯電話機と情報端末を掛け合わせたスマートフォンと呼ばれる商品が普及を始めています。これもサイズは小さいながら立派なタッチデバイスの代表ですので,iPadがどのような操作をする機器なのかは,少し試してみればおおよそ見当がつくと思います。

 iPadの教育利用(あるいは教育活用)の可能性を想像する人が多いことは,ネット上の書き込みやTwitterでのツイートの内容を見ることからも伺い知れます。しかし,この可能性はどこまで本物なのか。

 視聴覚教育の歴史を追えば,これまでも様々なデバイス(映写機やOHPやテレビやAV設備等々)が登場するたび教育利用が試みられてきました。コンピュータの時代がやってきて,主役が電子機器になっても同じです。教育用パソコンも形が変わり,性能が進歩し,ネットワークに繋がるなど,その度ごとに繰り返し繰り返し教育での利活用が考えられ,先達によって試行錯誤が繰り返されてきました。

 そして最近は,携帯電話という機器を前にして,とうとう学校教育は排除的な態度も取り始めました。学校教育に落とし込むには,あまりにも商業・消費文化の都合に染まりすぎていることからくる隔たり感というか,扱い難さ。それでいて,教育関係者自身もパーソナルなコミュニケーションツールとして好きに使っているバツの悪さ。「これは学校教育が扱うべき対象物ではない」と閉じてしまう方が全体的に見れば破綻をきたさないで済むと考えて,その道を選択するところも多くなりました。

 度重なる新しいものへの対応,そして,やってきた手に余る代物への拒絶。本当に「教育の情報化」なるものが学校教育の根幹に必要なものなのかという懐疑が堆積したまま,一方で情報モラルは大事ですねと調子を合わせなければならない事態に,私たちは陥っていると考えることは出来ないでしょうか。

 そんな困難な状況にも関わらず,iPadなる新しいデバイスが登場したということに,どれほどの意味や価値があるのか。また新しさだけで化粧したがらくたを押し付けられるのではないか。携帯電話ならば正体は分かるにしても,タッチデバイス?それで教育や学習の何が出来るのか?と訝しく思う人々が出てきても,不思議なことではありません。

 そのことを踏まえつつもなお,今回のiPadには期待できるものがあると考えています。

 iPadは操作するためにiPad本体以外のものを必要としない情報ツール。

 端的にこれだけがこの新しいツールに備わっている可能性です。付け加えて言えば,一枚の板状のタッチスクリーンで本体が構成されていると見なせること。このことが学校教育現場で利用するのに最適であると考えてよい理由です。

 もちろん,充電にはACアダプタやケーブルが必要ですし,デジカメのメモリカードを読み取るにはカードリーダアダプタが別に必要になります。しかし,そのようなオプション利用の場面を差し引いて考えれば,iPadはその一枚のアルミ板のようなタッチスクリーン本体を扱うだけになります。

 これに匹敵するのは,算盤(そろばん)くらいではないでしょうか。

 ノートと鉛筆のメタファを採用したタブレットPC(とスタイラス・ペン)は,メタファの域を脱して魅力を訴える決め手に欠けてしまいました。

 パソコンをペンで操作するメリットはいくつかあれど,おおよその場合でマウス操作との違いが出ず,また,ペンを使って「書く」行為を活かそうとすれば,ノートと鉛筆との違いが曖昧になる。

 さらには,キーボードを使う場面において,ペンを使った操作との一貫性は放って置かれたままになりがち。ペンがPCから糸でブラブラと繋がれて揺れている光景は,スマートとは言い難いものでした。

 また,ネットブックと呼ばれる小型PCとの融合を図ったタイプもありましたが,小型軽量であるメリット以外のデメリットについて改善が図られているとは言えませんでした。

 私はタブレットPCとスタイラスペンというツールにも活躍できる機会があると考えています。しかし,活躍できる機会以外において,日常の道具としてのスマートさがあるかと問われると,私には上記のような光景を率直にお答えする他に考えがありません。

 ネット上に「iPadはわれわれのママにぴったりのデバイスだ!」という記事が掲載されました。iPadに対して多くの批判や失望の意見があり最悪な駄作であるとの指摘があるが,その認識は間違っているのではないかという意見の記事です。曰く「iPadはコンピュータ嫌いな人々のためのコンピュータだ」と。

 私は全面的にこの記事に賛成です。

 それというのも先日,私自身が両親にiPhoneをプレゼントした経験があるからです。多少サイズが小さいという問題点はあれど(高齢者になれば皆さんもその苦労が分かります…),私の「ママ」さえもiPhoneをあれこれ試しながら使いこなし始めたからです。これがiPadであれば,今度は重たいとか支えるの面倒とか言いそうですが,視覚的にはもう少し楽に操作できるのではないかと思われるのです。

 高齢者を引き合いに出すのは,少し卑怯なのかも知れませんが,私はごく普通の人にとっても楽に操作できる点は共通していると思います。あるいは,若いがゆえに物足りなさを感じるのかも知れませんが…。

 少なくとも,学校教育現場で使う道具としての条件は,ミニマム・シンプルな道具であり,物足りない余地が備わっていることです。ミニマム・シンプルであれば,道具としての煩わしさは少なくて済みます。パソコンのようにトラブルを運んでくることも少ないでしょう。物足りない部分は,そこに自分たちの教育・学習活動をつくって差し挟める余地があると考えることができます。

 タブレットPCとスタイラスペンの組み合わせや,他のタッチ式タブレットPCなどと,アップルのiPadが似て非なるものと考えられるのは,ひとえにツールとしてのシンプルさを満たしているかどうか,その違いです。

 その上で,ソフトウェアによって何が出来るのか,使い方・活用の仕方によって何が出来るのか,といったところでの工夫が教育や学習活動にもたらす可能性を決定していくことになると思います。

 iPadというデバイスは,ようやく現れた「教育現場に導入することを真剣に考える価値を持ったツール」だと考えます。

 それを私がもっともらしく言うよりも,遥か前にアラン・ケイという人物が描いたダイナブックというツールのことを思い出していただければ,納得のいくことだと思います。ようやく時代が追いついた,それが2010年なのかも知れません。