日本の教育を世界対応させられるか

 iPadの発表をきっかけに電子書籍(電子教科書)に関する議論が賑やかに展開している。
 日本の学校教育における「教育の情報化」の取り組みは,補正予算によってすべり込みで電子黒板を導入できたところと乗り遅れたところとの明暗をそのままに,大幅な縮小を余儀なくされた状況にある。
 
平成22年度の文部科学省予算案を覗くと,従来まで「学校等におけるICT環境の整備・充実」あるいは「情報通信技術を活用した教育・学習の振興」と呼ばれてきた予算枠は,ものの見事に消え去ってしまった。文部科学省内の予算案項目の中でICTに関係するものは「ICTの活用による生涯学習支援事業」だけとなっている。
 昨年末のニュース報道を見ると,川端文部科学大臣が電子黒板のデモを見たという話題を最後に,その後パッタリ文部科学省はICT関連の話題に絡まなくなった。その代わり登場してきたのは,総務省であり,原口総務大臣がデジタル教科書について触れた「原口ビジョン」が報道されたことをご記憶の方もいるだろう。
 このことは,政治的にICTに関連する事項が,総務省管轄に統合され始めたことの現れである。長きに渡った旧政権時代に,ITもしくはICTに関して各省庁に分散したまま省益維持していた状態を,新しい政権が変えようとしているというわけである。
 スクールニューディールあらため「フューチャースクール」(
原口ビジョン)は,日本の国家戦略として「ICT維新ビジョン」の一部として位置づけられ,2015年を目処にデジタル教科書の配布についても言及している(そして私たちがiPadに刺激を受けて電子教科書を注目し始めているのは,これと無縁ではない)。民主党政権の行方は危うさもあるが,もしも踏ん張ってもらえるならばICTに関してドラスティックな変化も期待される。
 一方,教育を所管する文部科学省からは,ICTに関する予算的な権限が取りさらわれた格好になり,今後は総務省との連携において,教育現場にいる教員への研修や教員養成の現場での対応事業を推進していくという形になる。しかし,予算があって動くというこれまでの推進手法を見直さねばならず,教育の情報化を推進してきた省内のグループは,今まで以上に孤軍奮闘を強いられることになる。そのことを理解して応援する必要があるだろう。
 ちなみに,これまでも文部科学省と総務省は「
教育情報化推進協議会」という繋がりをもって連携してきた経緯もあるので,関係者にとってはむしろ役割分担が明確化してやりやすい状況になったのかも知れない。いずれにしても,積極的な推進が今まで以上に求められている。

 2010年2月4日に慶應義塾大学SFC研究所
ネットビジネスイノベーション研究コンソーシアムのキックオフ・シンポジウムが開催された。これもやはりUSTREAMによる中継が行なわれ,この手のイベントとしては大変多くの視聴者を集めた。
 それというのはソフトバンクの孫正義社長が登壇者の一人として名を連ねていたためである。この数日前にはソフトバンクモバイル社の業績発表会があり,そこでもUSTREAMの中継が行なわれ,同時にUSTREAM社への投資も発表されたことが孫氏への熱狂的な注目を集める引き金となったからである。
 その場で孫氏は,日本がどうなるべきかビジョンを語り,1980年代の電子立国という言葉を引き合いに2010年代は情報立国を目指さなければならないと訴えた。
 そして「義務教育×IT」「観光立国×IT」「財政再建×IT」「民主主義×IT」というテーマでIT戦略を打っていくことを提案した。ご覧のように孫氏がトップに掲げたのが「義務教育×IT」(しかも「教育」でなく「義務教育」)となっている点は非常に心強く感ぜられる。
 孫氏は,例えばの話として,1800万人の子どもたち全員に2万円の電子教科書を配布すると3600億円ほどかかり,その後は小学1年生と中学1年生に新機種を提供するとして年400億円になると試算した。初期導入の3600億円は,とあるダム建設の4600億円と比較した上で,どちらに投資することの方が未来の可能性があるのかといったことを指摘し,その後の年400億円は現在の教科書無償給与の予算額とほぼ同程度であると述べて,実現の可能性を描いてみせた。
 もちろん,この試算は多少乱暴であり,仮に電子教科書端末を導入するとなれば,保証・修繕費用など付随的に発生するコストを盛り込まなくてはならない。また,電子教科書端末は単なる書籍ではなく,情報端末であるわけなので,そのための通信費,新たなコンテンツの提供コスト,それを使いこなす教員育成ための教員研修費用,教科書検定体制の見直しとその維持のためのコスト増加などが加算されていく。その負担分配を国と地方と受益者の間でどう振り分けるのか,高度な政治的駆け引きが必要になる。
 まして,これまでの教育の情報化シナリオで動いてきた様々な立場の人々が,新しいビジョンによって参入してくるプレーヤーとの競争を避けるために,これまた水面下での様々な動きを展開することは容易に想像できることであり,教育の情報化はまた再び呪縛に捕らわれて停滞を余儀なくされる可能性も否定できない。

 もう一つ,こうした「日本の教育」という枠組みで眺めるだけで終わらない事態が進行している。それは新興国の台頭という21世紀を象徴する世界動向である。
 特にお隣の中国は,驚異的な発展を遂げており,経済的にも文化的にもますます無視できなくなっている。中国で受け入れられることが物事の優先事項になれば,私たち日本も様々な場面で中国スタンダードを受け入れなくてはならなくなっていく。
 話題を教育におけるICTや情報化に絞れば,日本のメーカーが日本の教育市場を単に囲い込むようなことをしていてもダメな時代になったということである。
 日本のメーカーは中国市場に打って出るか,密接な連携をはかる努力が必要になる。日本の教育市場だけでは,商売が成り立たないからだ。仮に日本の教育市場の囲い込みに成功しても,それが世界スタンダードと異なるようであれば,今度は日本の教育が取り残されることになる。
 よって日本のメーカーには,中国教育市場を果敢に攻めて,世界スタンダードを提供する側にまわる気概が必要である。その場合,同時に日本の教育もそれを支えるという意味においてグローバルな視野に立った教育課程をつくっていく必要がある。
 そもそも学校現場レベルでは,他国籍の子どもたちが一緒に学んだり,他国の学校との交流が展開されたりと,時代に即した現実的な実践が営まれてきたわけだが,国の教育課程が国際化を唱えたのはこうした動きの後追いであったことを考えると,もっと先を見通した教育課程が議論されてしかるべきである。そうしたときに,鍵となるのはアジア・中国といった周辺地域との関係を学校教育レベルに据えていくことではないかと考える。

 考えてもみればおかしな話である。市場で(通信量の支払いが前提であるとしても)100円でパソコンが売られている時代に,教育現場にはどうして低コストのパソコンが大量導入されないのか。昨今では20万円を余裕で切り始めている液晶テレビ,大量導入すればもっと安価に買えるというのに教育現場に導入されないのはなぜか。小学校の普通教室は約26万教室とされているが,小学校へのデジタルカメラ導入数は21万台とされている。いまどきは旧型がたたき売り状態になっているというのに,なぜ学校のデジタルカメラは教室1台にも満たない数しかないのか?
 これは,教育に振り向けるお金の財布を誰が握っているのか。お金を出すことを要請したり,お金が出ると決まったあとのことを担うのが誰なのか。それをしっかり理解して市民や学校教育現場がハッキリと民意を示してこなかったせいである。
 私たちの住んでいる場所の「市町村長」がお金を出す権限を持っている。しかし,このご時世,市町村の予算は少ないから,導入してその後の維持費(数年後の買い替え予算も含む)を背負い込むことになるICT機器を買うのは躊躇われる。だったら福祉とかの予算にお金を当てた方が「市町村長」にとっては非難されない最善の策なのである。だからICT機器は買われない。
 仮にお金を出す英断を下す市町村長がいるとしても,お金を出すのを要望したり,お金が出るとなったあとの仕事をするのは「教育委員会事務局」である。この「教育委員会事務局」は,教育のことは得意だが,ICTのことは苦手な人たちも多い。そのため,要望を出すのが遅くなったり,IT知識の不足で現場のニーズに合ってないものを要望したり,完全に業者任せといったところも出てくる。
 今後,文部科学省から総務省に一括されたことによって,この構図にどんな変化が起こるのかはまだ分からない。しかし,こうした学校教育現場近くの「市町村長」や「教育委員会事務局」の理解の程度や水準によって,せっかくのビジョンが上手く遂行されないことがあっては,誰にとっても不幸である。学校教育現場の先生方も含めて,新しいビジョンに対して前向きな取り組みをしていく努力が必要とされている。
 いよいよ日本の教育を本格的に世界対応させていく機会が巡ってきたのだと思う。