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学校教育の情報化に関する懇談会

 4/23文部科学省が「学校教育の情報化に関する懇談会」が開催された。行政刷新会議の事業仕分けで好評だったネット中継に習い,ライブ配信も実施され,現地に赴いて傍聴できない国民にも会の内容が公開された。

 総勢22名ものメンバーによる初回は,定石通り自己紹介でいっぱいいっぱい。それぞれの立場と論点を披露するだけで時間はあっという間に過ぎた。そういうのがよく分かっている人たちばかりだから,もう少し控えめにするのかなと思っていたら,資料があるからとばかりに結構踏み込んだ指摘も出してきていたのは,よい意味で予想を裏切った。

 とはいえ,座長を務める安西委員もまとめに困るほど論点は様々だったにもかかわらず,それは資料を配布したので置いといて,次回からさっそくヒヤリングですとばかりに進めていくのは,相変わらずの事務調子の進行で残念だった。

 しかも,本来であれば,懇談会の継続的な公開を確認すべきところ,あっさりと「非公開で」と閉じてしまった。企業・メーカーへのヒヤリングという特殊事情が理由ではあるが,それではその後の公開は確保されるのかどうかもハッキリは示されなかった。情報公開に対する感度の鈍さがこういうところに残っているのは今後の改善が必要だ。

 私自身は,ライブ配信で傍聴するついでに発言内容のキーワードを記録しようかとTwitterを立ち上げ,いつもの調子でハッシュタグ(#johokon)を決めてツイートし始めたら,いつの間にかtsudaっていた。論点がシンプルな人もいれば,たくさんのことを伝えたくて盛り込んでいる人,座長がまとめるのに困ったことは理解できる。

 懇談会の回を重ねていく中で,懇談会の主題と合わせて示された論点がちゃんとマッピングされ,主題との関係性や距離,優先度などが明確にされるプロセスを示しながら,最終的に情報化ビジョンへと繋げていくことが重要になる。情報化を話し合おうという会なのだから,それくらいのことを委員から積極的にやってくれないと,信頼を勝ち取ることは難しい。

 現場で頑張る人々は,いつも「出来上がったビジョン」が降ってきて,自分たちが地道に積み重ねてきた努力を脇に置かされて,それを受け取るように仕向けられてきた。

 情報化の時代は,「出来上がったもの」だけでなく,そのプロセスを追えるように情報を伝達したり共有できることに意味があるんじゃなかっただろうか。だとしたら,懇談会の議論は,あるいは企業やメーカーの考えていることさえも,現場の人々が参照できる形に公開しておくことにこそ,最終的なビジョンへの理解も得られるのではないか。

 そういった根本的なところを閑却したまま,旧来と同じような懇談会運営でこのテーマを論じても,あまり信頼は置けない。

 あらためて,この懇談会の懇談事項は

(1)授業におけるICTの活用について(デジタル教科書・教材、情報端末・デジタル機器、学校・教員等の在り方を含む)
(2)ICTを活用した校務支援について
(3)ICTの活用に関する教員へのサポート等について

 である。基本的には扱おうとしている論点は(広範な議論の企図して)曖昧である。

 だから,何か特定の目標を実現するための手段として,この懇談会に期待することは,あまり効率的な話ではない。

 この懇談会に求められていることは,来年度の文部科学省概算要求の中に盛り込むICT予算項目を明確にすること。

 そのための根拠となる「情報化ビジョン」を策定するための材料を示すこと。

 それだけである。

 そこで実のある話が展開されても,それはあくまで副産物である。

 もし,学校教育現場の学習環境を実際に管轄している地方公共団体を動かしたければ,違うアプローチが必要だ。

 文部科学省だけでは無理なのだと思う。

 総務省と経産省との連携において,両省になめられないよう,どれだけ向こうを張れるのか。

 懇談会はそのための材料を出していくことが求められている。

 そういう意味で,企業・メーカーヒヤリングを非公開にしたことは,早くも及び腰を印象づける結果となってしまったと思う。こういう場合,道理云々ではなく,プレゼンスが重要なのだ。

 財務省にコテンパンにされた経験から,文部科学省は何も学んでいない…。

世界と繋がらない日本

 iPadに表計算ソフト「Numbers」を入れて,受講生名簿を扱い始めている。「一枚板デバイス」の携帯性・可搬性はノートパソコンとは明らかに異なっており,存在感はクリップボード(用箋ばさみ)に近い。

 そうなると,画面との距離のとり方も変わってくる。直接のタッチ操作であることが逆に表示物との余裕の確保を可能にしているように思える。ノートパソコンでは,どうしても画面に釘付けになる傾向があるのだが,iPadだと,他からの視線が入り込む余地を生んでいる。

 新製品ゆえ,目新しさからのめり込む体験をしている人も多いが,やがて見慣れてくれば日常に溶け込み,デバイス自体にはそれほど特別な関心を向けなくなるのではないかと思える。

 明日(22日)に「学校教育の情報化に関する懇談会」が行なわれる。

 文部科学省は,このところネットの力を活用することをさらに加速させており,この懇談会もネットで中継されることが予告されている。画期的といえば画期的。教育の情報化に関して以前から触れてきた私たちにすれば,ようやくの前進だが,世間一般の認識が追いつくことも重要な要素と考えれば,これでも先進的ということになる。

 懇談会は主に

(1)授業におけるICTの活用について(デジタル教科書・教材、情報端末・デジタル機器、学校・教員等の在り方を含む)
(2)ICTを活用した校務支援について
(3)ICTの活用に関する教員へのサポート等について

 を話し合うとされている。学校教育の情報化に以前から関心を持つ人々にとっては,出てくる話も想像できる範囲だと思われ,問題はそれをどう地方公共団体が理解して具体的な施策として学校現場に届くよう行動してくれるのかだが,広くコンセンサスを得るためには,少し遠回りも必要というところだろう。

 正直なところ,ここまで政治状況が混迷し,財政的な困難が深刻化している中では,大胆な提案も難しく,議論の展開も空回りがちになると予想される。ICT関連が総務省にお株を奪われたことや,過去にはメディア教育開発センターを廃止に追いやったツケをどう払うのか等,本来であれば議論されてしかるべきなのだろうが,おそらくそういう部分は触れない範囲で意見交換が行なわれるのだろう。

 日本という国の国際的なプレゼンスという観点で学校教育の情報化をどう考えるのか,そういった水準で懇談会の意見が交わされることを期待してやまない。世界の人々は,情報ツールをあっさりと利用して得られるものを得ようとしている。慎重なのが日本の取り柄とはいえ,そうこうしているうちに日本の情報化が世界のそれに付いていけてないことは,相変わらず国内志向の閉鎖性を維持することにしか繋がらないと思う。

 日本版のBecta(英)のような組織をつくって,もっとガンガンやるべきではないのか。財団法人だけどJAPETはもう少し政治的に動いてもよいように思うのだが,メンバーには日本の有力なメーカーが揃いすぎていて結果的に誰も動けなかったし,そうこうしているうちに韓国など海外勢が市場を席巻し始めて自社存続の危機意識から足並みが揃えられなくなって…。だれかビジョンを語って行動し,この領域に骨をうずめる覚悟の人を立てないとダメだなと思う。

朝は苦手なのに…

 生活サイクルとしてなるべく朝方を保ってはいるが,実のところ朝はゆっくり寝ていたい派(怠け者)。けれども,今年度前期は木曜を除いて毎日1時間目から授業がある。健康的だけど,気持ちくたびれる。

 パソコン操作を教える授業では,Officeのバージョンが統一的に2007になって,ソフトの操作としては便利になった部分も多いけれど,授業の作り直しの手間はかかる。進度の遅い子と速い子の存在を両方とも考えると,いつもどちらかにしか対応できていない結果に終わる準備不足な自分が悲しい。私1人で40人を相手している現実に,私自身の体力や精神力はいつまで絶えられるのだろうかと,いつぞやの悩みを再び抱えているわけだが,それに朝1時間目のしんどさを掛け合わせて心配してくれるようなご親切な人は,なかなかそういなかったりするわけなのだ。

 明日は教育学の授業がスタート。あらためて今の時代に教育学を語るということは何を目指した行為なのかを,最近の関連文献を眺めて考える。

 広田照幸氏『ヒューマニティーズ・教育学』(岩波書店2009)は,教育学がポストモダン論の洗礼を受けたことによる影響が,教育目的の迷走を呼び寄せ,それが「教育学のシニシズム」を生んでしまうことを指摘している。また一方で,無理に「教育目的を再構築」することも危惧している。

 『変貌する教育学』において矢野智司氏は,共同体の内部で考える限りにおいて教育は共同体の内部の社会化機能の一部であり,そこに謎は無く,普遍的に合理的な手段の探究だけになると指摘する。そして,共同体が外部という限界・極限に直面するとき教育の起源はふたたび謎として立ち現れ,共約不可能な異質性をもった体験をもたらす「最初の先生」をも考えることができるという。

 教育学の言説は,分野細分化されたり,複雑に組み合わせを変えたりして,文言のバリエーションがやたらと多くなったこと以外は,基本的メッセージは何も変わっていない。どちらかといえば,私たちの現実の方が懸念されていた世界へと急速に接近したに過ぎない。

 けれども,それが私たちの選択であるし,途中成果はすでに産出されてもいる。それをグローバリズムと呼ぶのか,格差と呼ぶのか,環境危機と呼ぶのかは,私たちの視線の向け方次第。

 いま,教師という存在が揺らいでいるのは,教師の力量の問題と一般的には考えられている。

 もう一歩,踏み込んだ指摘があるとすれば,一般の人々の学歴も高くなり,多様な情報へのアクセスが容易になったことで,教師の知的優位性が相対的に低くみなされるようになったというものである。

 あるいは,教師という存在の多様性の理解不足と合わせて,教育サービスによる自主選択的な教育学習機会の獲得が可能だという思い込みや,一部の教師の失敗・不祥事を過剰に問題視する態度が,教師イメージに対する負の連鎖を紡ぎ続けている可能性もある。

 これを教員養成の充実や延長で打開する方策も考えられている。正しいか間違っているかを断じることはできないし,この問題とは別にそれ自体は取り組まれなければならない当然のことであるので,その努力を否定し得ない。

 ただ,今日起こっている教師という存在の揺らぎ,ひいては公教育への信頼の揺らぎといったものに対処する手段として考えた場合,あまりにも関係ないリスクを抱え込むやり方だというだけである。

 とはいえ,代替案に決定打がない。教育研究に携わる人間から言えることは,極めてシンプルである。「教師を外部の知を展望する高みに上らせること」。教員養成改革はもちろんそのための一案ではあるけれども,それは将来的な期待にもとづく策である。今現在,学校教育現場に従事する教師すべてが,この高みに上ることを促されるような策を打つことが必要だと思われる。それは何か。そこに万人納得する決定打がないことが悩ましいのである。

 個別的な対応を小さな範囲で努力することは,不可能なことでは無い。教師の自主研修やその類いの制度を各地域で様々な立場の人間が力を合わせて実現していけばよいこと。

 そうした動きは累積すると,本来は国家規模でなされなければならない事柄にも関わらず,個別具体的すぎて国家規模で対応するのに必要な統一的方策として提示できないがゆえに,納税者に対する形での予算措置へと結びつけ難いことが問題である。国と地方の権限や税源配分の問題は一筋縄ではいかない。地方の学校教育に直接届けられる「教育交付金」という予算枠の創設も話題になり,何かしらの動きも見られなくは無いが,おそらく教師の問題に直接届くのには時間がかかるだろう。

 昨今,ICT活用教育の推進も旗色が悪くなっているが,本来的にはこうした教師の情報環境整備といった事象が,教師の存在を原点回帰させる役目を負い,教師自身の知的展望などを拡げ高めていく方向に活かされるべきである。

 ところが,そのような環境整備を怠り続けた状況によって,一方の業を煮やした人々による導入圧力と,その一方の導入圧力に対する抵抗力が,むやみに高まり続けて,本来ならば不必要なICT有用無用議論の泥沼に自らをからめ捕ってしまう自体を招いた。何か一つの道具を教師が手にするために,これほどの労力が必要とされなくてはならないものなのか。そのこと自体を納得させる答えはあるものなのか。

 残念ながら,すでにこうした事態に直面した以上,丁寧なアプローチが必要であることは確かである。学術の世界は,先行事例を研究して,有効な成果を得てからことを運ぶべきと考える。政治の世界は,経済刺激策として抱き合わせるなどして財源確保や世界の情勢を突き合わせて政策的妥当性を模索する。学校教育の世界は,直接対する子ども達を経由して現実社会を追いかけ,自らの努力において研さんを積む。

 いま,「よい教師」を生み,「よい教師」となる努力をし,「よい教師」へと高める支援のための努力が必要だ。それは,乱暴な言動による個々の解釈枠組みへの揺さぶりや倒壊を企図するようなやり方では不可能である。なぜなら今日,そもそも解釈枠組みは形を成しておらず,物事を相対的に見ることが定着し,「何がよいのか」という問いさえ持つ余裕がなくなっているからである。

 朝起きて,「さて今日はどんな一日にしようか」と素朴に思うように,「どんな教育や学習を紡ぎ出そうか」という世界との交渉のもとで,「よい教師」の希求と探究を続けていかなくてはならない。

 もっとも私は,朝が苦手なのだが…。

新年度が始まって…

新年度に入って何度もエントリーを書きかけていたのだが、下書きのまま公開せずに終わっていた。この文章もどうなるのかわからないが、懲りずに書き出してみている。

多分、昔よりも公開することに躊躇い迷うことが多くなったのだろう。基本的には独り言であるはずなのだが、誰かは読んでいるだろうことは自明で、そして昔はそのことに無頓着でいられた。けれども、今は恩義を感じる人も多くなって、その人達に誤解を与えることに不安を感じることが多くなってしまったのかも知れない。浅はかなままでは、たとえそれが私一人の言動であっても、周囲に迷惑をかけてしまう、場合によってはそのつもりがなくても相手を否定してしまう結果となる、なんかそういう人生の時期に否応なく至っているということである。

実は私の指先にはiPadがある。この文章も慣れないローマ字入力を駆使して打ち込んでいるというわけである。音をひとまとまりのキーとして入力するリズムにこだわっていた人間としては、フリック入力をあらかじめ用意してくれなかったことは腹立たしい(それに全角スペースを入力させてくれないのも煩わしい)が、一枚板のこのデバイスをチェアに座って操作する喜びを差し出されてしまっては、もう引き下がってローマ字に慣れるしかない。幸い、変換はストレスがない。

思いを巡らせていた通り、このデバイスには様々な可能性を感じられると同時に、その形態からくる限界があることがわかってきた。それについて、Appleがどこにとりあえずの着地点を定め、おそらく今後の様子をみて変えようとしているのかも感じ取れた。なるほどAppleの作品成果としての面白さがここにはある。

iPadは極めてオールディーズなデバイスだと思われる。本当の意味での未来のデバイスではない。そのことは、私のような古い価値観にもコミットしている人間にとって、とてもホッと出来るものでもある。あれもこれも何でも、という訳ではないということである。

もちろん、iPadは新しいツールである。こんな形に仕上げられたツールは無かった。だから、少しはお祭り気分で楽しむのも悪くないと思うのである。

ただ、これもすでに知られているように、iPadにはいろいろな縛りもある。私たちがよく知るパソコンに比べれば、出来ることが圧倒的に限られている。私は、もしも人々がこれまでの延長線上でこうした形のデバイスを求めているのなら、いずれiPadは通り過ぎて、Android端末が私たちを取り巻き支えてくれると思っている。だからiPadから吸収出来るものがあるなら今にうちに吸収すべきと思っている(この前の催しもそういう考えに基づいている)。

どうなるのか、それを決めるのは市場である。

個人的には、iPadの底辺に横たわっている世界観を大事にしたいと思う。

Macで仕事をすると様々なソフトが動き、支援をしてくれる。しかし、同時にあれこれに気を配り始めると集中が疎かにもなる。メールが届けば音が鳴るし、TwitterのタイムラインもRSSの通知も気にはなる。文献や情報の検索は掘れば掘るほどに切りが無くなり、いつしか調べている主題がすり替わっていたりもする。出来た人間が使う道具としてならともかく、そうでない人には混沌を運んでくる道具になりかねないのではないか。

iPadがそうならないとは言わないが、思うにこのデバイスはそれぞれのシチュエーションに意識をもっと焦点化させる専用機的な性格が織り込まれていると思う。次期iPhone OS4のプレビューイベントで披露されたマルチタスク機能を見ても、その辺を意図的か無意図的かわからないが堅持していることに、私は好感を抱くのである。

夢見たようなデバイスを実際に操作できる時代を迎えて、私は少し舵とる方向を変えていかなくてはならないと改めて思う。まだこうしたツールを教育で使う時代は始まっていない。一方で誠実にそのために研究を積み重ねる努力がなされている。一方で商業的にこうしたデバイスを盛り上げる動きが盛んになっていく。一方で政治的な文脈の中で経済刺激策的に論じられている。一方で教育現場には連綿と続く日々の困難な営みが待ち受けている。

今一度、その接合点を追いかけてみたいと思う。

「iのある教育と学習」終了と次回

 2010年3月28日(日曜日)13:30〜15:30に東京・初台オペラシティー32階セミナールームにて,iPad/iPhone教育利用の集い「iのある教育と学習」を開催した。
 事前申込みと当日受付を併用して参加募集したところ,95名の事前登録をいただき,うち54名の方が出席。当日飛び込みは17名。関係者や小さいお子様も合わせると83名が参加してくださった集いだった。
 ネット上で呼びかけながら実現した催し物としては,そこそこ立派な規模で出来たのではないかと思う。特に,こうしたテーマに敏感な来場者を多数迎えられたことは幸せなことだし,そうした期待以上に素晴らしいプレゼンとトークを展開したくださった登壇者の皆様,それを支えてくださった協力者の方々の力を得られたことは幸運だった。
 いや,もう正直「やったぜ!母ちゃん!今日はホームランだ!」(ガッツポーズ)。

 とはいえ,課題は多い。準備・運営に関して言えば,何かしら組織や体制を整えたものではなかった。あなたとあなたを呼んできて,ちょっと近くの喫茶店でお見合いしましょう。ということは出来たのだとしても,今回の成果を踏まえて継続的に開催していくための手続きはほとんど端折っている。
 願わくは「私たちもやってみよう」と声が上がってくれることなのだが,さて,その一声を出す勢いと,準備に関わらなければならない手間を厭わぬ積極さがなければ,本当のつぶやきに終わってしまいやすい。
 そのことはスタート当初から分かっていたことではあるけれど,それを丁寧に組み立てていると緊急開催が難しい。その上,ネット上の皆さんを結びつけて実イベントの準備に関わってもらうには,すでにある団体や組織が開催する場合とまた違った配慮が必要で,アクションとフィードバックを迅速・明確にしなければならない。単発性が強くなるのは,そうした理由もある。

 さらに,こうした活動を継続するには本当ならスポンサーも必要だ。今回入った喫茶店には,たまたま林檎のマークが付いていたわけだけれども,別に林檎さんから一銭ももらっていない。場所代は菓子折りと引き換え(たぶん)。登壇者や協力者の皆さんは手弁当で参加してくださった。確かにこういう点は継続性に欠ける点だっただろう。
 ちなみに今回少なからずかかったであろう経費は,私個人負担もあるが,iPhoneあしながプロジェクトで稼いでいる資金を充てようと考えている。開発したiPhoneアプリのアプリ内広告は,おかげさまで少しずつ稼いでくれているので,印刷費やポストイット代くらいは賄えそう。それ以外は初期投資として諦めなければならない。
 ただ,お金の問題は丁寧にする必要があって,そのためにも組織とか責任者が必要ともいえる。それがこの手の催しや活動を面倒なものにしてしまう原因でもあって,志はあっても多くのエネルギーは割けない個人が集う活動を難しくする。一方で,組織を作り始めれば,準備運営に関わる者とそうでない者との温度差が開き,やがて内輪や馴染みの人たちにしか訴求しなくなってくる懸念が高まる点,悩ましい。
 Twitter的なものがある種のコミュニケーション・プラットフォームになり得るのであれば,そのような問題を少しでも乗り越えるモデルや方法論などが見えてくるとよいのだが,それはソーシャル・ネットワーキングの分野でいろいろ明らかにされてくることだろう。私はその分野は門外漢だから,実践を通して探ってみるだけである。

 次回は西の方でやりたい。ゴールデンウィーク明け直後が良いのではないかとアドバイスもいただいている。名乗りを挙げて?いるのは大阪と京都。両方ともやってみたいが,まずどちらから開催するべきかは,ラブコール次第と考えている。あと,いろんな形のスポンサーがつくと嬉しい(事務引き受けとか,経費サポートとか,会場提供とか,宣伝告知サポートとか…)。
 私個人は,もう少し気楽に手伝えたらと思う。

イベント準備

 3月28日(日曜日)にiPad/iPhone教育利用の集い「iのある教育と学習」を東京初台オペラシティ32階にあるセミナールームで開催することになっている。

 それは1月28日あたりにアップル社の新しいタッチデバイスであるiPadが発表されたことをきっかけとして,iPadを学校現場に持ち込みたいと私がツイート(Twitter上の書き込み)し,様々な人々が反応してくれたことに端を発している。

 最初はオンライン上で協力し合えればよいかなと漠然と思っていたが,それだと盛り上がりが雲散霧消してしまうだろうことは経験的にわかっていたので,少なくとも最初は何か物理的に集うイベントが必要だと考えた。

 ならば,教育関係者向けにiPad発表内容をリピートしてもらおうと,アップルジャパンにお願いしてみることにした。どうせ会場も必要だろうから,AppleStore銀座のシアターを借りる手続きも始めてしまおう,そんな風に準備が始まった。

 林檎マークの会社と長らく付き合っていると,その行動規範のようなものも分かってくるし,最悪の事態もある程度想定できる。駄目元でお願いすることから始めたので,交渉中は緊張感もあったが同時に気楽でもあった。交渉は紆余曲折あって,当初イメージした形とは変わったものの,結果いろんな方々のおかげでイベントを開催する目処が立った。

 それにしても林檎マークの会社は,変な会社である。いい意味でも悪い意味でもストイックな姿勢を貫いている。そこが好きでもあり嫌いでもある。ただ,それは何かに似ているのではないか。そうだ,学校教育だ。多くの人々に強烈な影響を与えているくせに,ある程度インビジブルであろうとする。そして好きだと言う者もいれば嫌いだと言う者もいる。なるほど,私が林檎にシンパシーを感じるのはそういう理由なのかも知れない。

 これまでご一緒したことのない方々にも協力をいただくことができたのは,インターネットとTwitterがあったからこそだ。そしてUstreamがイベントを全国や世界の皆さんに届けるのに力を貸してくれる。本当の意味で「新しいご縁」を生み出すことに,これらのツールを活用できることを嬉しく思う。イベントを機に参加者同士の出会いも生まれるといいなと思う。

 黒子に徹しようと考えているが,呼びかけといて何もしないわけにはいかないので,最初のご挨拶や趣旨説明と資料くらいは用意しようと思って作業している。あとはイベント進行のために動くのが私の役目。そして,第2弾,第3弾をご一緒してくださる方を見つけて,流れを繋げていくことが大事だと思っている。

 おかげさまで,事前登録だけでも70名以上の参加表明をいただき,あと当日飛び込んできてくださる方を期待すれば,100名弱の皆さんとご一緒できる予定である。さらにUstとTwitterでイベントを見届けてくださる方を含めれば,そこそこの規模だと思う。扱うテーマと開催地,そして協力してくださる皆さんのネームバリューのおかげだ。

 こうした動きと学術的な世界を,うまく繋ぎ合わせられると,より可能性も広がるだろう。次回以降,私が表舞台を踏む機会が訪れたら,いろいろとお話しできることもあると思う。

 まだまだ,たくさんの人たちに出会わなければならない。ひとところには留まってられないなと思う。

使っていない筋肉

 数日前から通勤手段を徒歩にした。最近雨降りが多かったので,自転車ではどうも具合が悪いこともあったが,日頃の運動不足を解消するためにも,徒歩通勤が一番よいと思えた。

 徒歩で歩くと世界がまた違って見えたりする。通り道にはパチンコ屋やラブホテルくらいしかないので,あまり素敵な通勤路ではないが,遠くに見える眉山を眺めたり,Podcastを聴きながらトコトコと歩くのは,自転車でシャーっと走り抜けるよりも自分の存在感を強く感じる。

 どこかの雑誌に「日本人は膝下でしか歩いていない」という話が載っていた。それじゃあ姿勢も悪くなるし,そもそも運動にならないので,意識的に股を交互に前経出す感じで歩くようにしている。

 普段使っていない筋肉で歩くことになって,さらに身体もすぐ温まる。職場に着いたときには少し暑いくらいになっていたりする。そうやって日常的なエネルギー代謝があがれば,健康にもプラスになるかも知れない。

 今のうち,早寝早起きも習慣づけて,大忙しになる新年度の準備をしよう。そういえば,来週から名古屋,東京へ出掛ける。いろんなことが上手くいくといいなと思う。

世紀の越境からゼロ年代の教育行政記

 イベント用の資料をつくるにあたって私自身の見落としがないかどうかを確認する意味も込めて小川正人著『教育改革のゆくえ ――国から地方へ』(ちくま新書2010.2/777円+税)を読んだ。

 駄文でも教育制度や教育法規に関する知識が今後ますます必要になることは繰り返し述べてきたところではあるけれども,この本は,20世紀末から21世紀・ゼロ年代あたりの日本の教育行政の仕組みと起こった出来事を綴っており,制度と法規がどのように運用されたのかが分かる内容となっている。学校教育現場を振り回している教育改革の中心部がどんな風に動いていたのかを知るには手ごろな書である。

 ジャンルとしては教育行政学であるし義務教育周辺に焦点が当たっているので,たとえば教育基本法改正,学習指導要領のはどめ規定見直し,高等教育政策など,その他多様なトピックスや議論については触れられていない。この本が,当時の教育改革の全てを扱っているとはいえないまでも,確かに書名にある「国から地方へ」という大問題を考えるには十分な材料である。

 さらに,この本の執筆が政権交代して間も無い頃であったことも関係して,事業仕分けの話や教員養成課程の見直し議論などについて十分言及がされていない。民主党政権の教育改革は,まさにこれから始まろうとしているのだから,それも当然かも知れないが…。

 

 幸い,この新書が扱っている範囲で自分の認識が見落としているものはなかった。けれども,いまだ多くの一般市民がこのような新書に描かれている事情や変化について知っているとは言い難いようだ。

 これからは個々人がこうした事情を理解して学校教育に関わっていかなければならない時代になっている。特に教育が専門ではない分野の人々にも鳥瞰図を理解してもらい,効果的な方法で教育分野に関わってもらう必要がある。

 もちろん,直裁的に関わる人もいれば,面倒な部分を回避して関わる人もいるだろう。それは個々人のアプローチだから選択に口出しするつもりはないけれど,全体としてそれぞれが自分の立ち位置をおおよそ把握しておくことは大事だ。

 たまに全国の教育ニュースを収拾してTwitterで流しているのだが,そうした作業の中岳でも日本全国の地方の実態が様々であることはわかる。と同時に,地方分権の難しさも感じる。

 もっとこの問題にいろいろ斬込んでくれる人たちを増やさないと…。

新年度の時間割り

 帰りがけ確認したポストに,来年度の担当授業リストが入っていた。
 前期は週7時間。私立大学ならば標準的な時数かな。週3時間という先生もいれば,週10時間以上という先生もあるから,比較し始めたらややこしい話になる。曜日の割り振りは,月から金までまんべんなく。これも一日で済む先生もあれば,月から土まで授業という先生もいるから,あれこれ言っても仕方ない。
 私個人的には毎日出勤して,授業して,翌日の準備して,という規則正しい生活になるので,独り身としては堕落する暇がなくて助かるというものである。
 もっとも現実的には土曜日も出勤し,日曜日に一週間の家事洗濯をすれば,それでまた新しい一週間になってしまうので,学期が始まると一週間一週間が矢の如く過ぎていく。それがちょっと残念か。
 それでも幸い,今年度と同じ授業科目もあるから,蓄積を踏まえて授業を深めていけそうだ。新しく担当になった科目もあるから,それについてはまた一から蓄積を重ねなくては。パソコンの授業はようやくOffice2007ベースへ移行予定。どうなることやら。

 今日は,ご無沙汰している方々にメールを書いた。催しの告知をして,関心があったら来てもらおうと思ったからである。お世話になった方々全てには書けていないが,元気でやってますの報告を兼ねて…。
 大変お世話になった学校の先生方にもメールを書きたいと思っている。ただ,別の活動でお忙しそうだから,ちょっと気が引けてしまっている。あっちもやって,こっちも来てよと言うのは,先生たちの忙しさを思うと安易にできない。でも,告知だけでもしたいと思っている。


タッチデバイスを現在へ

 今年,タッチデバイスに関する話題のさらなる盛り上がりが予想される。そのための布石をつくってきたのは他ならぬiPhoneに代表されるスマートフォンの登場と認知であった。そしてiPadの登場。いよいよタッチデバイスが実際に私たちの手の触れる場所へやって来る。

  従来の携帯電話は単なる電話ではなくネットに繋がった情報デバイスであるとの事実が,教育界に情報モラル教育の必要性を認識させてから,まだ長くは経過していない。昨今の携帯電話はスマートフォンの影響を受けて更なる高性能化を果たし,完全にインターネットの世界を前提とした情報デバイスになっている。学校のPCよりも自由度が高い。それを学校教育でどう扱うべきかは,ほとんどコンセンサスが得られていない。まして,カリキュラムはほとんど蓄積が無い。

 学校教育はどうしてこんなにも情報化やICTの動きに対して後手に回ったのだろうか。

 一体,学校教育を取り巻いてきた私たちは何をしてきたことになっているのだろうか。

 2000年頃の私たちは,世紀の越境を学級崩壊や学力低下の問題を抱えながら歩んでいた。その後,e-Japan戦略が国家戦略として示され,教育分野も2005年を期限とした目標を掲げたものの,これを達成しないまま2010年を迎えている。2009年度の補正予算に掲げられた「スクールニューディール事業」も政権交代と事業仕分けによって,滑り込み組を除けば,すっぱり廃止された。

 残念な事態。そんな言葉が慰めのように中空を駆け巡る。各自がやるべきこと,出来る事に取り組むことが大事だと,物分かりのよい納得を奨励する空気が漂う。確かに,それが一番力を持つのだろう。誰のせいでもない以上,誰がどうこうできる話でもないのかも知れない。次の機会のために,一から積み上げ直す作業は必要だと思う。

 けれども,それは一体いつの機会のことを指しているのだろう。

 ハードウェアやICTを学校教育に導入することが目的化しているような動きに対して,多くの人々がけん制球を投げる。モノを売りつけるだけ売りつけて業者だけが儲かって終わるだけと案ずる声や,新しい道具が教育の営みを根本的に改善するわけではないのだと道具の導入を冷ややかに見る目が増えている。まずは実験的に確かめてから,事例を積み重ねてから,可能性と限界を見極めてから,その上で慎重に教育活動をデザインして普及させなければならないと正論が流布される。

 なるほど。それは一理ある。

 いやしかし,なぜ私たちは学校教育の場に道具が導入されることをまずは引き止められるのだろうか。

 子ども達への影響を理由に,失敗が許されないと述べるその口や頭は,どんな理想的な導入プランがいつ紡ぎ出され,それがどんな方法で学校現場の教員に正しく伝えられると踏んでいるのだろうか。その成果は,導入タイミングを遅らせることを十分に納得させるにたるものだと,何をもって説明するのだろう。

 もちろん,教員の適応力の水準が低いのだと指摘した上で,無目的にハードウェアや道具だけが導入されても使いこなせるわけがないと看破する意見はもっともである。だから,納得できる利活用の方法を蓄積するのが遠回りとしても近道なのだということも理解できる。その努力は,今も誰かが取り組んでいるし,今後も引き続き多くを積み重ねていくべきである。

 しかし,そのような努力を継続的に取り組んでいくことと,ハードウェアや道具が導入されることは決して順列に為されなければならない事柄ではない。

 正直なところ,前者の努力には多くの人々が意識を払うけれども,後者の努力は企業や業者がやればよいと考えて,どこか頬被りではなかったか。

 本当にそう思うなら,自分でやれよ…。

 私が私に対して出した意見である。

 

 私は,2010年代のうちに,先生たちの間でタッチデバイスが日常的な道具になっていると考えている。

 その出発点は2010年のiPadであろう。

 そして,iPadが集めたタッチデバイスへの期待をAndroidタブレットが引き継ぎ普及が始まると予想している。

 私たちが今すべきなのは,iPadのもつ「わくわく感」要素をしっかり見極めて,Androidタブレットに正しくフィードフォワードしていくことである。その成果はOLPC(子ども1人にPC1台プロジェクト)にも反映されていくことがベストである。

 日本の私たちは,モノの善し悪しを見極める力はどの国よりも高いはずなのだから,下手にオリジナリティを固執するようなことをせず,素直に善きものを取り込み,悪しきものに改善を加える努力で貢献していくことが望まれる。

 その作業と並行して,どんどん学校現場にハードウェアを普及させる努力をないがしろにしてはならない。本気でモノを売り込む努力無くして,本気でモノを改良していく努力も生まれはしない。それぞれのプレーヤーは,それぞれの立場から普及に貢献していくことが望まれているのである。

 要するに,これまでのハードウェア売り買いも道具売り買いも緊張感が足りなかったのであり,緊張感がないところに真摯で誠実な商売や消費もあり得ない。

 今の私は,その緊張が生まれるような知見提供や活動を積極的に展開していくことが大事だと考えている。

 私は,電子デバイスをまったく導入しない学校教育の可能性もあるとは思っている。カリキュラム研究に携わる人間として,いつ何時でも,その可能性と選択肢について立ち戻り吟味することを厭わない。けれども,今のところ,私は電子デバイスが利活用される学校教育の可能性の方に魅力を感じているし,その方向性でカリキュラムを考えていきたいと願っている。

 そのために多くの変数を変えていくという「意志」「行動」が必要なのだと思う。

 それは,研究者というよりも実践者としての選択なのだが,私はまさに今,そちらに重きを置いている。

  私は子ども達がタッチデバイスを活用する日が来るとも思うのだけれども,正直なところ,その部分に関しては自分の立場をニュートラルにしようと考えている。

 多くの人々の関心は,子ども達一人一人がタッチデバイスあるいはデジタル教科書・ノートを持つ事に向けられている。そのことは了解しているし,私にとってもそれは興味深い未来予想図なのだけれども,私にはその前に小中高校の先生方にとって一般的なツール(それは使うなら使うし,使わないなら使わないという選択が自然にできる位置づけの道具という意味合い)になることが最優先だと思っている。そのこと無しには,どうしても子どもの方まで想