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文月四日

 週末は賑やかに過ごした。

 職場のすぐ近くにあるコミュニティFMの開局記念生放送があったので,ちょっと出入りをしていた。

 番組に出るのは土曜の午前中だったが,金曜の夜に担当者に会いに寄ったら,「(番組に)出ていきません?」と言われて,あれよあれよと生放送に出演していた。しかも控室はビール飲み放題状態。賑やかな空気とビールにつられてすっかり居座っていた。

 いつの間にか家に帰って寝ていたらしく,目が覚めて時計を見ると出演時間40分前!やっちまった,と思いながら飛び起きて行水して,身支度をして急いでラジオ局に向かった。幸い放送時間には間に合った。

 iPhoneやAndroid携帯などのスマートフォンについて話を振られて,今までの携帯との違いやその便利さ,プログラミングやiPadの話題まで,いろいろしゃべった。リクエスト曲はEPOのDOWN TOWNであった。土曜日だからね。

 本来はその日,徳島県らしく,阿波踊りの有名団体が一挙集合して競演するという一台企画が会ったのだけれども,天気が悪くなって残念ながら中止。屋台やら何やら到着するのを待っていたが,生放送以外はイベントが何もなくなったので,仕方なく昼食を食べに出かけてから解散することになった。

 スポーツで世間が湧いたと思ったら,スポーツがスポーツを賭けの対象にして世間を失望させたり,あれこれスポーツ界が落ち着かない。

 そして,来週は参院選挙投票日。当日の投票が難しそうなので,期日前投票をする予定。いつものことだが,判断の難しい選挙だ。

 久し振りにMacのOSをクリーンインストールした。あらかじめ「タイムマシーン」というバックアップ機能で退避しておくと,データはもちろんアプリケーションなども丸ごと保存されるので,復活も楽である。やってみたら,ハードディスクの空き領域がかなり空いた。

 さてと,明日からまた働くか。

頼まれ出演

 土曜日にコミュニティFMに出演することになった。頼まれたというか,誘われたので,こちらも二つ返事で参加表明した。

 徳島にあるFM眉山(B-FM)が14周年記念の34時間生放送をするのだという(→番組表)。その中の土曜日10:00から1時間の「ハイテクAWA」という枠に出演する。

 同じ職場の先生と共演。別に何をしゃべってもよいみたいだけど,番組名からすればメディア系の話をして欲しいような淡い空気が漂ってくるので,メディアとかITとかのことを話すことになりそう。共演の先生は「地域メディア」についてお話するらしい。

 まあ,iPadとかiPhoneがらみのことをお話することになりそうだ。その流れでソーシャルメディアについて触れて,共演の先生にお渡しすればよいかなと思う。

 ハイテク…といいながら諸事情でTwitterもUSTREAMも実使用は遠慮してくれということなので,話だけで終わりそうだが,私は気にせず勝手につぶやくからいいや。

頼まれ原稿

 しばらく精神的には缶詰めになって原稿を書いていた。いくつか書いた文章を読んで依頼をしてくれた様子。何事もご縁だし,素性の分かりやすい相手だったので気楽に引き受けた。

 依頼内容は昨今の教育の情報化に関して書いて欲しいというもの。ちょうど関心もあったし,ここらで一度見返しておきたい事柄でもあったので,あれこれ情報のウラを取り直していたというわけなのである。

 字数制限もあるので,大した内容は盛り込めないから,調べた範囲は日本の教育の情報化と,韓国のデジタル教科書,そして英国のインタラクティブホワイトボードの周辺に限定した。

 そうやって,筋だけでも裏付けできる資料を特定しながら,大まかな流れがわかるように原稿を書いたのだが,ものの見事にボツ。

 「専門家向きではなく初心者にも分かるようにお願いします…」

 むむむ,初心者にも分かるように書いたつもりだが,これは一体どういうことか。いままでもたびたび自分の文章が堅いと思われていることは承知しているが,またなのか…。

 いろいろ考えて,駄文を書けばよいことに気がついた。要するに相手は物語を欲しているのである。正しい知識は余計なお世話なのだ。

 まあ,そうなると私にとっては仕事ではない。原稿料は後ほど断ることにして,いつもの駄文を寄附するつもりで書き直した。

 そうしたら,すんなりOK。

 ただ,あんまりプライド無く書いたものだから,最後の部分「教育研究者としての先生の忌憚の無いご主張を」と注文をもらった。ひとくさり懸念を書いて再提出したところである。

 読者層の限られたインナーコミュニティ向けメディアに載る記事なので,その人たちに伝わる形にしなければならないのは仕方ない。主義主張を曲げろと言われれば依頼を断るところだけれど,もし問題に関心を持ってくれる人が増えてくれるなら,小さな貢献仕事としては引き受けてよかったと思う。

水無月一九日

徳島は一日中曇り空だった。蒸し暑さも増して、今日はぐったりと過ごす。まとめなければならない考えが山の様にあるが、あえて小説読んだり、映像を見たりして、遠回りしながらポツポツつぶやいていた。

学校の情報化について解説を依頼され、この機会に昔のことなど思い出したり、調べたりしている。

コンピュータと教育の関係は、ティーチングマシンを構想した頃から構図にあまり変化は無く、どちらかと言えば時間が立つごとに関わる私たちがせわしくなって柔軟性に欠けてきた感がある。

そうなると可笑しなもので、情報化から閉ざされた方が落ち着いてものを考えたり、学ぶことができる、なんて言説の方がもっともらしく響き始めるから議論は混迷するばかりだ。

教育は、不易流行のどちらに対する造詣も兼ね備えていなければならない。それが教育に携わる者にとっての重要な理念であるし、それをなし得るような環境や条件を確保する必要がある。

そのために教育に関わる人間がもっと必要だ。

水無月八日

こちらのサイトでブログを継続することになりました。どうぞよろしく。

資料収集開始

 将来的には現場教師が活用できるWebサービスを構築することを前提に,システム周りの構築ノウハウを蓄積することを先行して取り組んできた。いまのところクラウドプログラミングの習得中。これとiPhone/iPadとを組み合わせれば,なかなか面白いことが可能ではないかと考えている。

 学校教育の情報化に関する懇談会やデジタル教科書教材協議会など,それなりの発言パワーを持っている人々による正統な取組みが展開しているし,ネットを活用した公の声を拾う試みもようやく活用され始めているが,どうも私には縁もなければ反りも合わないようなので,むしろ面白い具体例をもって問いかけることしかないと思う。

 Google方式のようにベータ版でも面白いものを出していきながら研究し育てていくのも,片方の手に持つべきアプローチとしてしっかり援用していかなくてはならない。

 そうしたシステム開発に正当性を与えるための根拠を固める研究が必要であり,その研究をどう焦点化すべきなのか考え続けてきたが,ようやく自分で納得できる筋書きも見えてきたので,資料や文献を集めることを始めた。

 納得のいく調査課題を目標に据えるのは,簡単なことではない。まして,特別な仲間と組んでいない人間にとっては,他人が承認しない分だけ,明確さに欠ける自己承認の基準に照らさなくてはならない難しさがある。少なくとも私の場合,他者への論評を積み重ねることによって自分なりの納得解を探索しているので,そうした自分の見解との整合性を合わせる手間がかかる。

 地道な調査の始まりである。ベタな対象に落ち着いたなと思うが,これまで書いてきた学位論文や自分の興味関心に任せて関わってきた様々な取組みやご縁をすべてまるっと絡めて考えることができる。というのはちょっと言い過ぎだが,結局,やりたかったことはそういうことなのだと思う。

 ゆくゆくは全国調査につなげたいが,とりあえず今住んでいる四国や中国地方など西の方から進めたい。

 先日,教員採用試験についての相談をしに学生がやってきた。いろんな地域を受験するのだが,関東の方に出す願書の内容について,どうすれば良いのか悩んでいるらしい。自己PRの書き方をどうするのかといったこと。

 まあ,採用試験は知識技能を評価する側面は当然としても,つまりは恋愛と同じなのだから,相手を自分に惚れさせるにはどうするかを考えれば良いんじゃないかと勝手なことを話していた。それが本当かどうかは置いとくとして,それがどんなものとしても本人が自己PRとは何かを感得しないままでは,宙に浮いたような文章しか書けないだろう。

 女子学生だったから,人が人間のどこを見るのかについて,自分の場合に置き換えた話をすれば,すぐにも十を知る。女の子は,男の子よりも人を見る目が厳しいから,それをそのまま試験官の目だと思えば,すべきことは分かってくる。
 

 関東を受験するというので,自分の東京暮らしのことなど話した。ぜひ若いときに住んでみて,他にもいろんな土地を体験しておくのがいいと話した。

 若いとき,僕が欲しかった言葉をかける。僕にはそれを言う義務がある。

 来週からは1年生達の面談が始まったり,委員会活動を始めたり,そういえば,某コンクールのお仕事もそろそろ始まる。来月は東京出張。ぼちぼちiPadの集いも関西でやりたいなぁとも思う。

 

朝は苦手なのに…

 生活サイクルとしてなるべく朝方を保ってはいるが,実のところ朝はゆっくり寝ていたい派(怠け者)。けれども,今年度前期は木曜を除いて毎日1時間目から授業がある。健康的だけど,気持ちくたびれる。

 パソコン操作を教える授業では,Officeのバージョンが統一的に2007になって,ソフトの操作としては便利になった部分も多いけれど,授業の作り直しの手間はかかる。進度の遅い子と速い子の存在を両方とも考えると,いつもどちらかにしか対応できていない結果に終わる準備不足な自分が悲しい。私1人で40人を相手している現実に,私自身の体力や精神力はいつまで絶えられるのだろうかと,いつぞやの悩みを再び抱えているわけだが,それに朝1時間目のしんどさを掛け合わせて心配してくれるようなご親切な人は,なかなかそういなかったりするわけなのだ。

 明日は教育学の授業がスタート。あらためて今の時代に教育学を語るということは何を目指した行為なのかを,最近の関連文献を眺めて考える。

 広田照幸氏『ヒューマニティーズ・教育学』(岩波書店2009)は,教育学がポストモダン論の洗礼を受けたことによる影響が,教育目的の迷走を呼び寄せ,それが「教育学のシニシズム」を生んでしまうことを指摘している。また一方で,無理に「教育目的を再構築」することも危惧している。

 『変貌する教育学』において矢野智司氏は,共同体の内部で考える限りにおいて教育は共同体の内部の社会化機能の一部であり,そこに謎は無く,普遍的に合理的な手段の探究だけになると指摘する。そして,共同体が外部という限界・極限に直面するとき教育の起源はふたたび謎として立ち現れ,共約不可能な異質性をもった体験をもたらす「最初の先生」をも考えることができるという。

 教育学の言説は,分野細分化されたり,複雑に組み合わせを変えたりして,文言のバリエーションがやたらと多くなったこと以外は,基本的メッセージは何も変わっていない。どちらかといえば,私たちの現実の方が懸念されていた世界へと急速に接近したに過ぎない。

 けれども,それが私たちの選択であるし,途中成果はすでに産出されてもいる。それをグローバリズムと呼ぶのか,格差と呼ぶのか,環境危機と呼ぶのかは,私たちの視線の向け方次第。

 いま,教師という存在が揺らいでいるのは,教師の力量の問題と一般的には考えられている。

 もう一歩,踏み込んだ指摘があるとすれば,一般の人々の学歴も高くなり,多様な情報へのアクセスが容易になったことで,教師の知的優位性が相対的に低くみなされるようになったというものである。

 あるいは,教師という存在の多様性の理解不足と合わせて,教育サービスによる自主選択的な教育学習機会の獲得が可能だという思い込みや,一部の教師の失敗・不祥事を過剰に問題視する態度が,教師イメージに対する負の連鎖を紡ぎ続けている可能性もある。

 これを教員養成の充実や延長で打開する方策も考えられている。正しいか間違っているかを断じることはできないし,この問題とは別にそれ自体は取り組まれなければならない当然のことであるので,その努力を否定し得ない。

 ただ,今日起こっている教師という存在の揺らぎ,ひいては公教育への信頼の揺らぎといったものに対処する手段として考えた場合,あまりにも関係ないリスクを抱え込むやり方だというだけである。

 とはいえ,代替案に決定打がない。教育研究に携わる人間から言えることは,極めてシンプルである。「教師を外部の知を展望する高みに上らせること」。教員養成改革はもちろんそのための一案ではあるけれども,それは将来的な期待にもとづく策である。今現在,学校教育現場に従事する教師すべてが,この高みに上ることを促されるような策を打つことが必要だと思われる。それは何か。そこに万人納得する決定打がないことが悩ましいのである。

 個別的な対応を小さな範囲で努力することは,不可能なことでは無い。教師の自主研修やその類いの制度を各地域で様々な立場の人間が力を合わせて実現していけばよいこと。

 そうした動きは累積すると,本来は国家規模でなされなければならない事柄にも関わらず,個別具体的すぎて国家規模で対応するのに必要な統一的方策として提示できないがゆえに,納税者に対する形での予算措置へと結びつけ難いことが問題である。国と地方の権限や税源配分の問題は一筋縄ではいかない。地方の学校教育に直接届けられる「教育交付金」という予算枠の創設も話題になり,何かしらの動きも見られなくは無いが,おそらく教師の問題に直接届くのには時間がかかるだろう。

 昨今,ICT活用教育の推進も旗色が悪くなっているが,本来的にはこうした教師の情報環境整備といった事象が,教師の存在を原点回帰させる役目を負い,教師自身の知的展望などを拡げ高めていく方向に活かされるべきである。

 ところが,そのような環境整備を怠り続けた状況によって,一方の業を煮やした人々による導入圧力と,その一方の導入圧力に対する抵抗力が,むやみに高まり続けて,本来ならば不必要なICT有用無用議論の泥沼に自らをからめ捕ってしまう自体を招いた。何か一つの道具を教師が手にするために,これほどの労力が必要とされなくてはならないものなのか。そのこと自体を納得させる答えはあるものなのか。

 残念ながら,すでにこうした事態に直面した以上,丁寧なアプローチが必要であることは確かである。学術の世界は,先行事例を研究して,有効な成果を得てからことを運ぶべきと考える。政治の世界は,経済刺激策として抱き合わせるなどして財源確保や世界の情勢を突き合わせて政策的妥当性を模索する。学校教育の世界は,直接対する子ども達を経由して現実社会を追いかけ,自らの努力において研さんを積む。

 いま,「よい教師」を生み,「よい教師」となる努力をし,「よい教師」へと高める支援のための努力が必要だ。それは,乱暴な言動による個々の解釈枠組みへの揺さぶりや倒壊を企図するようなやり方では不可能である。なぜなら今日,そもそも解釈枠組みは形を成しておらず,物事を相対的に見ることが定着し,「何がよいのか」という問いさえ持つ余裕がなくなっているからである。

 朝起きて,「さて今日はどんな一日にしようか」と素朴に思うように,「どんな教育や学習を紡ぎ出そうか」という世界との交渉のもとで,「よい教師」の希求と探究を続けていかなくてはならない。

 もっとも私は,朝が苦手なのだが…。

新年度の時間割り

 帰りがけ確認したポストに,来年度の担当授業リストが入っていた。
 前期は週7時間。私立大学ならば標準的な時数かな。週3時間という先生もいれば,週10時間以上という先生もあるから,比較し始めたらややこしい話になる。曜日の割り振りは,月から金までまんべんなく。これも一日で済む先生もあれば,月から土まで授業という先生もいるから,あれこれ言っても仕方ない。
 私個人的には毎日出勤して,授業して,翌日の準備して,という規則正しい生活になるので,独り身としては堕落する暇がなくて助かるというものである。
 もっとも現実的には土曜日も出勤し,日曜日に一週間の家事洗濯をすれば,それでまた新しい一週間になってしまうので,学期が始まると一週間一週間が矢の如く過ぎていく。それがちょっと残念か。
 それでも幸い,今年度と同じ授業科目もあるから,蓄積を踏まえて授業を深めていけそうだ。新しく担当になった科目もあるから,それについてはまた一から蓄積を重ねなくては。パソコンの授業はようやくOffice2007ベースへ移行予定。どうなることやら。

 今日は,ご無沙汰している方々にメールを書いた。催しの告知をして,関心があったら来てもらおうと思ったからである。お世話になった方々全てには書けていないが,元気でやってますの報告を兼ねて…。
 大変お世話になった学校の先生方にもメールを書きたいと思っている。ただ,別の活動でお忙しそうだから,ちょっと気が引けてしまっている。あっちもやって,こっちも来てよと言うのは,先生たちの忙しさを思うと安易にできない。でも,告知だけでもしたいと思っている。


師走一五日

 有り難いことに賞与をいただいた。

 もちろん夏にもあったが,今年就社したばかりだから金額のインパクトは冬の方が強い。あらためて,愛知県に居たときにお世話になった皆様,東京でお世話になった皆様,徳島で迎えてくれた人々に感謝。大学教員に引き戻されたと表現してはいるものの,食べていけるように導いてくれた恩師に本当に感謝感謝である。

 そして,今日は職場の祝賀・忘年会。

 200名もの出席者による大掛かりなものは初めてなので,振舞いもわからないし,目当ての人を発見するのも難しく,結構大変な会だった。

 それでも,人とおしゃべりするのは好きなので,隣り合わせた先生や職員の方とおしゃべりしたり,所属している学部長先生や分属させていただいている学科の先生や学務関係の先生にご挨拶などして,それなりに交流できた。本当はもっとあちこちご挨拶すべきだったが,本当に人捜しが大変だったので,心の中の感謝に代えさせていただいた。

 日頃は独り研究室に閉じこもって,授業の準備したり,雑務を処理したり,プログラムのコード書いたりして過ごしている。だから,非常に限られた人としか日々接していないのだが,200人もの人が集まると,まだ知らない人達が同じ職場に働いていることが分かって,それはそれで嬉しい気持ちになる。

 理事長先生がわざわざまわられて来て,声を掛けてくださる。最後に「本はあるか?」と聞いてくれた。「研究する本がなかったら,また言いなさい」と言い残して次へと去っていく。どっちかというと時間が欲しいという気持ちが強いが,それでも「本があるか?」という質問は,なんて素敵な声掛けだろう。考えてみれば唐突な台詞だが,これもこれで嬉しかった。


 
 帰り際,「りん先生」と呼び止められて,振り返るといつもお世話になっている総務の事務職員さん。「あの私,○○学科の…」と言われて,最初は「???」という感じだったが,「△△の母です」と言われて驚いた。

 「大変お世話になっているみたいで…」とお礼を言われてしまったが,そんなに大したお世話をした記憶がないので,「いえいえどっちかというと,こちらがいろいろ教えてもらっています」と素直に答えるが,何やら話が大きく伝わっている感じで,かなり良いことをした風になっているらしい。とにかく,いつでもウェルカムですとこちらも合わせてお礼をした。

 
 人と人はどこでつながっているのか分からないものだなと単純素朴に思う。そして,どこでどうつながっていくのかも分からないなと思う。

 その可能性に対して常にオープンでいたいという気持ちが強いので,私は特定のグループに留まり続けたり,特定の人ばかりを指名するようなことは,なるべく避けるようにしている。逆にそういう風にされそうになると,少し距離を開けるように振る舞う。お互いのフリーハンドを尊重するためには必要だと思うからである。

 仲間を持った方が強いのは,その通り。でも仲間を尊重しすぎれば,外に対して盲目になる余地を生む。そのことに自覚的であれるかどうか,私たちは常に問われていると思う。

 正直なところ,あまり幸せな生き方ではない。早く年貢を納めろとも言われるし,善くしていただいた人々とも距離をつくって失礼を繰り返すことになる。それでも,いつも心に感謝の念を忘れず,片想いを続けられることにある種の幸せを感じないわけにはいかない。

 私はまた多くの人達とすれ違う。あとは自分なりに挑戦を続けるだけである。

師走一〇日

 師走も上旬が終わり,年内の授業も残りわずか。自転車操業状態が日常化すると,時間は本当にあっという間に過ぎてしまうものである。徳島に越して来たにも関わらず,まだ狭い範囲でしか動けていない。

 それでも職場にも慣れて,学生達にも認知されるようになった。担当している授業の受講生はもちろん,担当はしていないが同じフロアに出入りする他学科の学生達とも少しずつ交流を始めたところである。

 片手間で開発しているiPhoneアプリケーションも7割程度完成してきたので,そこに使うアイコンや画像を興味のある学生達に制作を依頼することにした。せっかく世界リリースするなら,学生達の作品とコラボレーションすると面白いかなと思う。こういうチャンスをつくるのも教員冥利である。

 今年は極めて印象的な年となった。社会的には劇的な政権交代があって,先日の行政刷新会議の事業仕分けは大きなインパクトを国民に与えた。個人的には,二度目の修論を書き終えたと思ったら,慌ただしく大学教員に引き戻され,四国・徳島の地で新しい生活が始まった。

 そうしたあれこれに伴奏するようにTwitterとUSTREAMというインターネットサービスが人々の注目を集め,興味深いコミュニケーション・チャネルとして頭角を現してきた。事業仕分けも,記者会見も,学会発表も,TwitterのつぶやきとUSTREAMの映像中継対象となった。

 技術的可能性だけでいえば,何年も前から可能なことだった。いままで,その可能性を訴えてみてもほとんどなんら反響は返ってこなかった。ところが2009年においては,この年に起こった様々な出来事と連動することで,実践事例が露見,あるいは需要が顕在して,一気に認知されるようになってきたともいえる。

 もちろん,iPhoneという新たなモバイル・デバイスの登場は,この展開が生起するため不可欠であった。iPhoneアプリケーションを開発して感じることは,このデバイス(プラットホーム)が持つ可能性がまだまだたくさんあるということだ。教育現場に限っても,あんな場面,こんな場面で活用したら知的な刺激を増やせるのではないかというアイデアが思い浮かぶ。

 そうやって技術的な可能性に心躍らせる一方で,冷静な自分の声に耳を傾ければ,使い手である私たちの知的態度や水準を確保すべきとの訴えが聞こえてくる。

 興味深い知的な道具を所有し操作するだけでは,単なる時間の浪費に翻る可能性を避けることが難しい。私たちは,学習に対する一定程度の理解を共有した上で,それらを使いこなす必要がある。

 単にこれまでのような教育技術の先鋭化に努力を傾けるだけでなく,専門知識の習得とそこへの回路を切り開く知的なブレイクスルーを個々の教員に期待しなければならない時代へと入っていることを自覚しなければならない。

 その作業は,ツールを開発するようにはいかず,決して生易しい行動ではない。

 ある種の知的圧縮物と対峙し,逃げ出さない忍耐力が必要となる。まして,学習者との実践に繋がる回路は,多様性を帯び,解釈の曖昧さに嫌気がさすかも知れない。だからこそ問題なのは,そのような困難な道筋をバックアップしたりフォローしていく仕組みが十分用意されていないということである。

 というわけで,教育フォルダは,新しいツールにまつわる取り組みを発動させることにした。

 まずiPhoneというデバイスに関して,これを教育で利用できるように技術的なノウハウを蓄積している。

 そして今月25日の夜に,インターネットラジオ放送を予定している。今年を振り返る忘年会企画だ。

 来年2010年は,年間Twitter読書会を企画している。一年間かけて学習に関する本を皆で読む取り組みである。

 課題図書の候補は『メタ認知的アプローチによる学ぶ技術』『人が学ぶということ―認知学習論からの視点』『授業を変える―認知心理学のさらなる挑戦』だが,それぞれ2000円程度,3000円程度,4000円程度とお値段が張ることを考えると,最初の『メタ認知的アプローチによる学ぶ技術』が良いのかなと思っているところである。ただ,本当ならこの分野の王道である『授業を変える―認知心理学のさらなる挑戦』を取り上げて一年間じっくり味わいたいという気持ちが強い。必読ともいえる本がこのような高い値段でしか手に入らないのは,まったくもって不幸なことである…。

 とにかく課題図書は,インターネットラジオでどれにするか吟味しながら決定したい。

 こうした無謀な取り組みは,ゲリラ的であり,実効性がどこまであるのか未知数ともいえる。しかし,少なくない数の人々がすでに正攻法で働き掛け,これからもそれは続いていくわけであるから,バリエーションとしてこのような取り組みが存在しても悪くないと思うのである。重要なのは,多用で多彩な機会づくりと,それに伸るか反るか参加する意志決定なのである。

 「教師が学習に関する専門知識を持つこと」少なくともそれに関する専門書をしっかり一冊読んでみた事の経験は大きい。それを教師全員で達成することが大事だ。一部の研究者や指導主事だけに任せるような態度をとってはならないのである。知的に刺激し合う関係を作ることが大事なのであり,そのためには一冊からでもこうした書物を読み,自分なりに実践との回路をつくっていく作業に取り組まなければならない。

 と考えた2009年の師走。相変わらず遠大な構想を立てて突っ走ろうとする我がサイトなのであった。

 
(追記:結局,2010年に入って,この読書会は始められていない。お恥ずかしい話だが,新年に入って,長考(いろいろな考え事)をしてしまったことと,実は反応がゼロだったこともあって,なんともお粗末な宣言になってしまった。顔を洗って出直してこようと思う…)