生活サイクルとしてなるべく朝方を保ってはいるが,実のところ朝はゆっくり寝ていたい派(怠け者)。けれども,今年度前期は木曜を除いて毎日1時間目から授業がある。健康的だけど,気持ちくたびれる。
パソコン操作を教える授業では,Officeのバージョンが統一的に2007になって,ソフトの操作としては便利になった部分も多いけれど,授業の作り直しの手間はかかる。進度の遅い子と速い子の存在を両方とも考えると,いつもどちらかにしか対応できていない結果に終わる準備不足な自分が悲しい。私1人で40人を相手している現実に,私自身の体力や精神力はいつまで絶えられるのだろうかと,いつぞやの悩みを再び抱えているわけだが,それに朝1時間目のしんどさを掛け合わせて心配してくれるようなご親切な人は,なかなかそういなかったりするわけなのだ。
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明日は教育学の授業がスタート。あらためて今の時代に教育学を語るということは何を目指した行為なのかを,最近の関連文献を眺めて考える。
広田照幸氏『ヒューマニティーズ・教育学』(岩波書店2009)は,教育学がポストモダン論の洗礼を受けたことによる影響が,教育目的の迷走を呼び寄せ,それが「教育学のシニシズム」を生んでしまうことを指摘している。また一方で,無理に「教育目的を再構築」することも危惧している。
『変貌する教育学』において矢野智司氏は,共同体の内部で考える限りにおいて教育は共同体の内部の社会化機能の一部であり,そこに謎は無く,普遍的に合理的な手段の探究だけになると指摘する。そして,共同体が外部という限界・極限に直面するとき教育の起源はふたたび謎として立ち現れ,共約不可能な異質性をもった体験をもたらす「最初の先生」をも考えることができるという。
教育学の言説は,分野細分化されたり,複雑に組み合わせを変えたりして,文言のバリエーションがやたらと多くなったこと以外は,基本的メッセージは何も変わっていない。どちらかといえば,私たちの現実の方が懸念されていた世界へと急速に接近したに過ぎない。
けれども,それが私たちの選択であるし,途中成果はすでに産出されてもいる。それをグローバリズムと呼ぶのか,格差と呼ぶのか,環境危機と呼ぶのかは,私たちの視線の向け方次第。
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いま,教師という存在が揺らいでいるのは,教師の力量の問題と一般的には考えられている。
もう一歩,踏み込んだ指摘があるとすれば,一般の人々の学歴も高くなり,多様な情報へのアクセスが容易になったことで,教師の知的優位性が相対的に低くみなされるようになったというものである。
あるいは,教師という存在の多様性の理解不足と合わせて,教育サービスによる自主選択的な教育学習機会の獲得が可能だという思い込みや,一部の教師の失敗・不祥事を過剰に問題視する態度が,教師イメージに対する負の連鎖を紡ぎ続けている可能性もある。
これを教員養成の充実や延長で打開する方策も考えられている。正しいか間違っているかを断じることはできないし,この問題とは別にそれ自体は取り組まれなければならない当然のことであるので,その努力を否定し得ない。
ただ,今日起こっている教師という存在の揺らぎ,ひいては公教育への信頼の揺らぎといったものに対処する手段として考えた場合,あまりにも関係ないリスクを抱え込むやり方だというだけである。
とはいえ,代替案に決定打がない。教育研究に携わる人間から言えることは,極めてシンプルである。「教師を外部の知を展望する高みに上らせること」。教員養成改革はもちろんそのための一案ではあるけれども,それは将来的な期待にもとづく策である。今現在,学校教育現場に従事する教師すべてが,この高みに上ることを促されるような策を打つことが必要だと思われる。それは何か。そこに万人納得する決定打がないことが悩ましいのである。
個別的な対応を小さな範囲で努力することは,不可能なことでは無い。教師の自主研修やその類いの制度を各地域で様々な立場の人間が力を合わせて実現していけばよいこと。
そうした動きは累積すると,本来は国家規模でなされなければならない事柄にも関わらず,個別具体的すぎて国家規模で対応するのに必要な統一的方策として提示できないがゆえに,納税者に対する形での予算措置へと結びつけ難いことが問題である。国と地方の権限や税源配分の問題は一筋縄ではいかない。地方の学校教育に直接届けられる「教育交付金」という予算枠の創設も話題になり,何かしらの動きも見られなくは無いが,おそらく教師の問題に直接届くのには時間がかかるだろう。
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昨今,ICT活用教育の推進も旗色が悪くなっているが,本来的にはこうした教師の情報環境整備といった事象が,教師の存在を原点回帰させる役目を負い,教師自身の知的展望などを拡げ高めていく方向に活かされるべきである。
ところが,そのような環境整備を怠り続けた状況によって,一方の業を煮やした人々による導入圧力と,その一方の導入圧力に対する抵抗力が,むやみに高まり続けて,本来ならば不必要なICT有用無用議論の泥沼に自らをからめ捕ってしまう自体を招いた。何か一つの道具を教師が手にするために,これほどの労力が必要とされなくてはならないものなのか。そのこと自体を納得させる答えはあるものなのか。
残念ながら,すでにこうした事態に直面した以上,丁寧なアプローチが必要であることは確かである。学術の世界は,先行事例を研究して,有効な成果を得てからことを運ぶべきと考える。政治の世界は,経済刺激策として抱き合わせるなどして財源確保や世界の情勢を突き合わせて政策的妥当性を模索する。学校教育の世界は,直接対する子ども達を経由して現実社会を追いかけ,自らの努力において研さんを積む。
いま,「よい教師」を生み,「よい教師」となる努力をし,「よい教師」へと高める支援のための努力が必要だ。それは,乱暴な言動による個々の解釈枠組みへの揺さぶりや倒壊を企図するようなやり方では不可能である。なぜなら今日,そもそも解釈枠組みは形を成しておらず,物事を相対的に見ることが定着し,「何がよいのか」という問いさえ持つ余裕がなくなっているからである。
朝起きて,「さて今日はどんな一日にしようか」と素朴に思うように,「どんな教育や学習を紡ぎ出そうか」という世界との交渉のもとで,「よい教師」の希求と探究を続けていかなくてはならない。
もっとも私は,朝が苦手なのだが…。