今年,タッチデバイスに関する話題のさらなる盛り上がりが予想される。そのための布石をつくってきたのは他ならぬiPhoneに代表されるスマートフォンの登場と認知であった。そしてiPadの登場。いよいよタッチデバイスが実際に私たちの手の触れる場所へやって来る。
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従来の携帯電話は単なる電話ではなくネットに繋がった情報デバイスであるとの事実が,教育界に情報モラル教育の必要性を認識させてから,まだ長くは経過していない。昨今の携帯電話はスマートフォンの影響を受けて更なる高性能化を果たし,完全にインターネットの世界を前提とした情報デバイスになっている。学校のPCよりも自由度が高い。それを学校教育でどう扱うべきかは,ほとんどコンセンサスが得られていない。まして,カリキュラムはほとんど蓄積が無い。
学校教育はどうしてこんなにも情報化やICTの動きに対して後手に回ったのだろうか。
一体,学校教育を取り巻いてきた私たちは何をしてきたことになっているのだろうか。
2000年頃の私たちは,世紀の越境を学級崩壊や学力低下の問題を抱えながら歩んでいた。その後,e-Japan戦略が国家戦略として示され,教育分野も2005年を期限とした目標を掲げたものの,これを達成しないまま2010年を迎えている。2009年度の補正予算に掲げられた「スクールニューディール事業」も政権交代と事業仕分けによって,滑り込み組を除けば,すっぱり廃止された。
残念な事態。そんな言葉が慰めのように中空を駆け巡る。各自がやるべきこと,出来る事に取り組むことが大事だと,物分かりのよい納得を奨励する空気が漂う。確かに,それが一番力を持つのだろう。誰のせいでもない以上,誰がどうこうできる話でもないのかも知れない。次の機会のために,一から積み上げ直す作業は必要だと思う。
けれども,それは一体いつの機会のことを指しているのだろう。
ハードウェアやICTを学校教育に導入することが目的化しているような動きに対して,多くの人々がけん制球を投げる。モノを売りつけるだけ売りつけて業者だけが儲かって終わるだけと案ずる声や,新しい道具が教育の営みを根本的に改善するわけではないのだと道具の導入を冷ややかに見る目が増えている。まずは実験的に確かめてから,事例を積み重ねてから,可能性と限界を見極めてから,その上で慎重に教育活動をデザインして普及させなければならないと正論が流布される。
なるほど。それは一理ある。
いやしかし,なぜ私たちは学校教育の場に道具が導入されることをまずは引き止められるのだろうか。
子ども達への影響を理由に,失敗が許されないと述べるその口や頭は,どんな理想的な導入プランがいつ紡ぎ出され,それがどんな方法で学校現場の教員に正しく伝えられると踏んでいるのだろうか。その成果は,導入タイミングを遅らせることを十分に納得させるにたるものだと,何をもって説明するのだろう。
もちろん,教員の適応力の水準が低いのだと指摘した上で,無目的にハードウェアや道具だけが導入されても使いこなせるわけがないと看破する意見はもっともである。だから,納得できる利活用の方法を蓄積するのが遠回りとしても近道なのだということも理解できる。その努力は,今も誰かが取り組んでいるし,今後も引き続き多くを積み重ねていくべきである。
しかし,そのような努力を継続的に取り組んでいくことと,ハードウェアや道具が導入されることは決して順列に為されなければならない事柄ではない。
正直なところ,前者の努力には多くの人々が意識を払うけれども,後者の努力は企業や業者がやればよいと考えて,どこか頬被りではなかったか。
本当にそう思うなら,自分でやれよ…。
私が私に対して出した意見である。
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私は,2010年代のうちに,先生たちの間でタッチデバイスが日常的な道具になっていると考えている。
その出発点は2010年のiPadであろう。
そして,iPadが集めたタッチデバイスへの期待をAndroidタブレットが引き継ぎ普及が始まると予想している。
私たちが今すべきなのは,iPadのもつ「わくわく感」要素をしっかり見極めて,Androidタブレットに正しくフィードフォワードしていくことである。その成果はOLPC(子ども1人にPC1台プロジェクト)にも反映されていくことがベストである。
日本の私たちは,モノの善し悪しを見極める力はどの国よりも高いはずなのだから,下手にオリジナリティを固執するようなことをせず,素直に善きものを取り込み,悪しきものに改善を加える努力で貢献していくことが望まれる。
その作業と並行して,どんどん学校現場にハードウェアを普及させる努力をないがしろにしてはならない。本気でモノを売り込む努力無くして,本気でモノを改良していく努力も生まれはしない。それぞれのプレーヤーは,それぞれの立場から普及に貢献していくことが望まれているのである。
要するに,これまでのハードウェア売り買いも道具売り買いも緊張感が足りなかったのであり,緊張感がないところに真摯で誠実な商売や消費もあり得ない。
今の私は,その緊張が生まれるような知見提供や活動を積極的に展開していくことが大事だと考えている。
私は,電子デバイスをまったく導入しない学校教育の可能性もあるとは思っている。カリキュラム研究に携わる人間として,いつ何時でも,その可能性と選択肢について立ち戻り吟味することを厭わない。けれども,今のところ,私は電子デバイスが利活用される学校教育の可能性の方に魅力を感じているし,その方向性でカリキュラムを考えていきたいと願っている。
そのために多くの変数を変えていくという「意志」「行動」が必要なのだと思う。
それは,研究者というよりも実践者としての選択なのだが,私はまさに今,そちらに重きを置いている。
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私は子ども達がタッチデバイスを活用する日が来るとも思うのだけれども,正直なところ,その部分に関しては自分の立場をニュートラルにしようと考えている。
多くの人々の関心は,子ども達一人一人がタッチデバイスあるいはデジタル教科書・ノートを持つ事に向けられている。そのことは了解しているし,私にとってもそれは興味深い未来予想図なのだけれども,私にはその前に小中高校の先生方にとって一般的なツール(それは使うなら使うし,使わないなら使わないという選択が自然にできる位置づけの道具という意味合い)になることが最優先だと思っている。そのこと無しには,どうしても子どもの方まで想