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タッチデバイスを現在へ

 今年,タッチデバイスに関する話題のさらなる盛り上がりが予想される。そのための布石をつくってきたのは他ならぬiPhoneに代表されるスマートフォンの登場と認知であった。そしてiPadの登場。いよいよタッチデバイスが実際に私たちの手の触れる場所へやって来る。

  従来の携帯電話は単なる電話ではなくネットに繋がった情報デバイスであるとの事実が,教育界に情報モラル教育の必要性を認識させてから,まだ長くは経過していない。昨今の携帯電話はスマートフォンの影響を受けて更なる高性能化を果たし,完全にインターネットの世界を前提とした情報デバイスになっている。学校のPCよりも自由度が高い。それを学校教育でどう扱うべきかは,ほとんどコンセンサスが得られていない。まして,カリキュラムはほとんど蓄積が無い。

 学校教育はどうしてこんなにも情報化やICTの動きに対して後手に回ったのだろうか。

 一体,学校教育を取り巻いてきた私たちは何をしてきたことになっているのだろうか。

 2000年頃の私たちは,世紀の越境を学級崩壊や学力低下の問題を抱えながら歩んでいた。その後,e-Japan戦略が国家戦略として示され,教育分野も2005年を期限とした目標を掲げたものの,これを達成しないまま2010年を迎えている。2009年度の補正予算に掲げられた「スクールニューディール事業」も政権交代と事業仕分けによって,滑り込み組を除けば,すっぱり廃止された。

 残念な事態。そんな言葉が慰めのように中空を駆け巡る。各自がやるべきこと,出来る事に取り組むことが大事だと,物分かりのよい納得を奨励する空気が漂う。確かに,それが一番力を持つのだろう。誰のせいでもない以上,誰がどうこうできる話でもないのかも知れない。次の機会のために,一から積み上げ直す作業は必要だと思う。

 けれども,それは一体いつの機会のことを指しているのだろう。

 ハードウェアやICTを学校教育に導入することが目的化しているような動きに対して,多くの人々がけん制球を投げる。モノを売りつけるだけ売りつけて業者だけが儲かって終わるだけと案ずる声や,新しい道具が教育の営みを根本的に改善するわけではないのだと道具の導入を冷ややかに見る目が増えている。まずは実験的に確かめてから,事例を積み重ねてから,可能性と限界を見極めてから,その上で慎重に教育活動をデザインして普及させなければならないと正論が流布される。

 なるほど。それは一理ある。

 いやしかし,なぜ私たちは学校教育の場に道具が導入されることをまずは引き止められるのだろうか。

 子ども達への影響を理由に,失敗が許されないと述べるその口や頭は,どんな理想的な導入プランがいつ紡ぎ出され,それがどんな方法で学校現場の教員に正しく伝えられると踏んでいるのだろうか。その成果は,導入タイミングを遅らせることを十分に納得させるにたるものだと,何をもって説明するのだろう。

 もちろん,教員の適応力の水準が低いのだと指摘した上で,無目的にハードウェアや道具だけが導入されても使いこなせるわけがないと看破する意見はもっともである。だから,納得できる利活用の方法を蓄積するのが遠回りとしても近道なのだということも理解できる。その努力は,今も誰かが取り組んでいるし,今後も引き続き多くを積み重ねていくべきである。

 しかし,そのような努力を継続的に取り組んでいくことと,ハードウェアや道具が導入されることは決して順列に為されなければならない事柄ではない。

 正直なところ,前者の努力には多くの人々が意識を払うけれども,後者の努力は企業や業者がやればよいと考えて,どこか頬被りではなかったか。

 本当にそう思うなら,自分でやれよ…。

 私が私に対して出した意見である。

 

 私は,2010年代のうちに,先生たちの間でタッチデバイスが日常的な道具になっていると考えている。

 その出発点は2010年のiPadであろう。

 そして,iPadが集めたタッチデバイスへの期待をAndroidタブレットが引き継ぎ普及が始まると予想している。

 私たちが今すべきなのは,iPadのもつ「わくわく感」要素をしっかり見極めて,Androidタブレットに正しくフィードフォワードしていくことである。その成果はOLPC(子ども1人にPC1台プロジェクト)にも反映されていくことがベストである。

 日本の私たちは,モノの善し悪しを見極める力はどの国よりも高いはずなのだから,下手にオリジナリティを固執するようなことをせず,素直に善きものを取り込み,悪しきものに改善を加える努力で貢献していくことが望まれる。

 その作業と並行して,どんどん学校現場にハードウェアを普及させる努力をないがしろにしてはならない。本気でモノを売り込む努力無くして,本気でモノを改良していく努力も生まれはしない。それぞれのプレーヤーは,それぞれの立場から普及に貢献していくことが望まれているのである。

 要するに,これまでのハードウェア売り買いも道具売り買いも緊張感が足りなかったのであり,緊張感がないところに真摯で誠実な商売や消費もあり得ない。

 今の私は,その緊張が生まれるような知見提供や活動を積極的に展開していくことが大事だと考えている。

 私は,電子デバイスをまったく導入しない学校教育の可能性もあるとは思っている。カリキュラム研究に携わる人間として,いつ何時でも,その可能性と選択肢について立ち戻り吟味することを厭わない。けれども,今のところ,私は電子デバイスが利活用される学校教育の可能性の方に魅力を感じているし,その方向性でカリキュラムを考えていきたいと願っている。

 そのために多くの変数を変えていくという「意志」「行動」が必要なのだと思う。

 それは,研究者というよりも実践者としての選択なのだが,私はまさに今,そちらに重きを置いている。

  私は子ども達がタッチデバイスを活用する日が来るとも思うのだけれども,正直なところ,その部分に関しては自分の立場をニュートラルにしようと考えている。

 多くの人々の関心は,子ども達一人一人がタッチデバイスあるいはデジタル教科書・ノートを持つ事に向けられている。そのことは了解しているし,私にとってもそれは興味深い未来予想図なのだけれども,私にはその前に小中高校の先生方にとって一般的なツール(それは使うなら使うし,使わないなら使わないという選択が自然にできる位置づけの道具という意味合い)になることが最優先だと思っている。そのこと無しには,どうしても子どもの方まで想

日本の教育を世界対応させられるか

 iPadの発表をきっかけに電子書籍(電子教科書)に関する議論が賑やかに展開している。
 日本の学校教育における「教育の情報化」の取り組みは,補正予算によってすべり込みで電子黒板を導入できたところと乗り遅れたところとの明暗をそのままに,大幅な縮小を余儀なくされた状況にある。
 
平成22年度の文部科学省予算案を覗くと,従来まで「学校等におけるICT環境の整備・充実」あるいは「情報通信技術を活用した教育・学習の振興」と呼ばれてきた予算枠は,ものの見事に消え去ってしまった。文部科学省内の予算案項目の中でICTに関係するものは「ICTの活用による生涯学習支援事業」だけとなっている。
 昨年末のニュース報道を見ると,川端文部科学大臣が電子黒板のデモを見たという話題を最後に,その後パッタリ文部科学省はICT関連の話題に絡まなくなった。その代わり登場してきたのは,総務省であり,原口総務大臣がデジタル教科書について触れた「原口ビジョン」が報道されたことをご記憶の方もいるだろう。
 このことは,政治的にICTに関連する事項が,総務省管轄に統合され始めたことの現れである。長きに渡った旧政権時代に,ITもしくはICTに関して各省庁に分散したまま省益維持していた状態を,新しい政権が変えようとしているというわけである。
 スクールニューディールあらため「フューチャースクール」(
原口ビジョン)は,日本の国家戦略として「ICT維新ビジョン」の一部として位置づけられ,2015年を目処にデジタル教科書の配布についても言及している(そして私たちがiPadに刺激を受けて電子教科書を注目し始めているのは,これと無縁ではない)。民主党政権の行方は危うさもあるが,もしも踏ん張ってもらえるならばICTに関してドラスティックな変化も期待される。
 一方,教育を所管する文部科学省からは,ICTに関する予算的な権限が取りさらわれた格好になり,今後は総務省との連携において,教育現場にいる教員への研修や教員養成の現場での対応事業を推進していくという形になる。しかし,予算があって動くというこれまでの推進手法を見直さねばならず,教育の情報化を推進してきた省内のグループは,今まで以上に孤軍奮闘を強いられることになる。そのことを理解して応援する必要があるだろう。
 ちなみに,これまでも文部科学省と総務省は「
教育情報化推進協議会」という繋がりをもって連携してきた経緯もあるので,関係者にとってはむしろ役割分担が明確化してやりやすい状況になったのかも知れない。いずれにしても,積極的な推進が今まで以上に求められている。

 2010年2月4日に慶應義塾大学SFC研究所
ネットビジネスイノベーション研究コンソーシアムのキックオフ・シンポジウムが開催された。これもやはりUSTREAMによる中継が行なわれ,この手のイベントとしては大変多くの視聴者を集めた。
 それというのはソフトバンクの孫正義社長が登壇者の一人として名を連ねていたためである。この数日前にはソフトバンクモバイル社の業績発表会があり,そこでもUSTREAMの中継が行なわれ,同時にUSTREAM社への投資も発表されたことが孫氏への熱狂的な注目を集める引き金となったからである。
 その場で孫氏は,日本がどうなるべきかビジョンを語り,1980年代の電子立国という言葉を引き合いに2010年代は情報立国を目指さなければならないと訴えた。
 そして「義務教育×IT」「観光立国×IT」「財政再建×IT」「民主主義×IT」というテーマでIT戦略を打っていくことを提案した。ご覧のように孫氏がトップに掲げたのが「義務教育×IT」(しかも「教育」でなく「義務教育」)となっている点は非常に心強く感ぜられる。
 孫氏は,例えばの話として,1800万人の子どもたち全員に2万円の電子教科書を配布すると3600億円ほどかかり,その後は小学1年生と中学1年生に新機種を提供するとして年400億円になると試算した。初期導入の3600億円は,とあるダム建設の4600億円と比較した上で,どちらに投資することの方が未来の可能性があるのかといったことを指摘し,その後の年400億円は現在の教科書無償給与の予算額とほぼ同程度であると述べて,実現の可能性を描いてみせた。
 もちろん,この試算は多少乱暴であり,仮に電子教科書端末を導入するとなれば,保証・修繕費用など付随的に発生するコストを盛り込まなくてはならない。また,電子教科書端末は単なる書籍ではなく,情報端末であるわけなので,そのための通信費,新たなコンテンツの提供コスト,それを使いこなす教員育成ための教員研修費用,教科書検定体制の見直しとその維持のためのコスト増加などが加算されていく。その負担分配を国と地方と受益者の間でどう振り分けるのか,高度な政治的駆け引きが必要になる。
 まして,これまでの教育の情報化シナリオで動いてきた様々な立場の人々が,新しいビジョンによって参入してくるプレーヤーとの競争を避けるために,これまた水面下での様々な動きを展開することは容易に想像できることであり,教育の情報化はまた再び呪縛に捕らわれて停滞を余儀なくされる可能性も否定できない。

 もう一つ,こうした「日本の教育」という枠組みで眺めるだけで終わらない事態が進行している。それは新興国の台頭という21世紀を象徴する世界動向である。
 特にお隣の中国は,驚異的な発展を遂げており,経済的にも文化的にもますます無視できなくなっている。中国で受け入れられることが物事の優先事項になれば,私たち日本も様々な場面で中国スタンダードを受け入れなくてはならなくなっていく。
 話題を教育におけるICTや情報化に絞れば,日本のメーカーが日本の教育市場を単に囲い込むようなことをしていてもダメな時代になったということである。
 日本のメーカーは中国市場に打って出るか,密接な連携をはかる努力が必要になる。日本の教育市場だけでは,商売が成り立たないからだ。仮に日本の教育市場の囲い込みに成功しても,それが世界スタンダードと異なるようであれば,今度は日本の教育が取り残されることになる。
 よって日本のメーカーには,中国教育市場を果敢に攻めて,世界スタンダードを提供する側にまわる気概が必要である。その場合,同時に日本の教育もそれを支えるという意味においてグローバルな視野に立った教育課程をつくっていく必要がある。
 そもそも学校現場レベルでは,他国籍の子どもたちが一緒に学んだり,他国の学校との交流が展開されたりと,時代に即した現実的な実践が営まれてきたわけだが,国の教育課程が国際化を唱えたのはこうした動きの後追いであったことを考えると,もっと先を見通した教育課程が議論されてしかるべきである。そうしたときに,鍵となるのはアジア・中国といった周辺地域との関係を学校教育レベルに据えていくことではないかと考える。

 考えてもみればおかしな話である。市場で(通信量の支払いが前提であるとしても)100円でパソコンが売られている時代に,教育現場にはどうして低コストのパソコンが大量導入されないのか。昨今では20万円を余裕で切り始めている液晶テレビ,大量導入すればもっと安価に買えるというのに教育現場に導入されないのはなぜか。小学校の普通教室は約26万教室とされているが,小学校へのデジタルカメラ導入数は21万台とされている。いまどきは旧型がたたき売り状態になっているというのに,なぜ学校のデジタルカメラは教室1台にも満たない数しかないのか?
 これは,教育に振り向けるお金の財布を誰が握っているのか。お金を出すことを要請したり,お金が出ると決まったあとのことを担うのが誰なのか。それをしっかり理解して市民や学校教育現場がハッキリと民意を示してこなかったせいである。
 私たちの住んでいる場所の「市町村長」がお金を出す権限を持っている。しかし,このご時世,市町村の予算は少ないから,導入してその後の維持費(数年後の買い替え予算も含む)を背負い込むことになるICT機器を買うのは躊躇われる。だったら福祉とかの予算にお金を当てた方が「市町村長」にとっては非難されない最善の策なのである。だからICT機器は買われない。
 仮にお金を出す英断を下す市町村長がいるとしても,お金を出すのを要望したり,お金が出るとなったあとの仕事をするのは「教育委員会事務局」である。この「教育委員会事務局」は,教育のことは得意だが,ICTのことは苦手な人たちも多い。そのため,要望を出すのが遅くなったり,IT知識の不足で現場のニーズに合ってないものを要望したり,完全に業者任せといったところも出てくる。
 今後,文部科学省から総務省に一括されたことによって,この構図にどんな変化が起こるのかはまだ分からない。しかし,こうした学校教育現場近くの「市町村長」や「教育委員会事務局」の理解の程度や水準によって,せっかくのビジョンが上手く遂行されないことがあっては,誰にとっても不幸である。学校教育現場の先生方も含めて,新しいビジョンに対して前向きな取り組みをしていく努力が必要とされている。
 いよいよ日本の教育を本格的に世界対応させていく機会が巡ってきたのだと思う。

私が言えるいくつかのこと

 片隅とは言え,教育の現場で十数年間身を置いた者として,私が言えることを書きとめておきたい。

 1) 私は,学校教育現場という場所を学びの意欲を受け止められる場所にすべきと考えている
 2) そのためには,更なる金銭的投資もやむを得ないと考えている
 3) 特に教育現場を司る立場である教師の知的学習環境を充実させることは重要と考えている

 1) のような場所とは,どのような場所なのか。具体的な要素は細かく存在するが,大雑把に言えば人的,物的,内容的属性のリソースに対する量と質の向上を実現した場所と考えている。そのようなリソースが多様な学びを実現し,支えるのに役立つからであるが,個別の事例は別途説明したい。

 2) 1)を実現するためには金銭的投資を必要とする部分がある。学習に必要な教具など物的リソースの購入,学習を促し,効果的な成果を挙げるための教材コンテンツを開発する資金,もちろん人的リソースにもその仕事に見合う賃金が必要である。一方で,厳しいコストカットやリソースの効率化は必要だが,リソースの充実にキリが無いのと同様に,コストカットにもキリは無く,どちらの場合にも見識を伴った適切な判断と選択が行なわれなければ未来に禍根を残すことになる。

 3) 優先順位を付けるとするならば,現行の人的リソースが持つポテンシャルを引き出すための学習環境整備が最も必要とされるのではないかと考えられる。事実,いま進行中の教育現場を担い司っているのは現職教師の方々である。こうした人的リソースを立て替えたり,入れ替えたりするための新たな人的リソースは存在しない。また,物的,内容的リソースの拡充があっても,人的なリソースの水準によって拡充効果が左右される現実もある。

 以上のことから,私たちが真に力を費やさなければならないのは,教師の資質向上・知的水準向上,そのための教師の知的学習環境の保証だと考えられる。

 これまで,私たち教育研究者は,教師の資質向上の重要性を確認し,各自の努力のもとでそのことへの貢献を続けてきたものの,残念ながら,「教師の知的学習環境の充実の必要性」の意味を広く社会に認知させることには力及んでいなかった。

 そして,確かな裏付けはないが,以下のような可能性があるのではないかと私は懸念している。

 4) 教育技術の先鋭化が,むしろ新しい教師の知的学習環境の導入を遅らせてきた可能性がある
 5) 「指導・助言」行為における主従意識が,知的学習環境の現状によって生成されている可能性がある
 6) 次代に生きる学習者を支援する専門職にふさわしい知的学習環境を教師自身が知らない可能性がある
 7) そのことについて直接的に責任を持つ者はなく,すべては学習者が将来自己負担する可能性がある
 8) それゆえ,私たちは根本的に次代にツケを残し続けている
 9) すでに,教育や学術研究との十分なコミュニケーションを形成していない世論としてツケは顕在化している
 10) ここからの再構築のためには,既存のものへの否定や閑却が伴い,人々を傷つけることがある

 とはいえ,私は1)〜3)についての考えは変わらない。そのために自分の出来ることを,理解を得られるような(あるいは気持ち的にのってくれるような楽しい)形の苗木にまでに育てて,世に送り出していきたいと思う。もちろん,私自身に残された時間でそれを実現できるかは怪しいものだが,結局は自然淘汰の世界の中で仕分けされるわけだから,出来るところまでやってみたいと思うのである。

 少なくとも私はタックスペイヤーに助けられてここまで来たのである。そのことは,私自身がタックスペイヤーになった今でも忘れてはいない。その分は次代の人々のために,片隅の私学の教員だけど,貢献し続けるつもりである。

社会で次世代を育てる

 政権交代後,様々なメディアが進み始めて新しい動きを報じたり論評している。総じて,期待を持つからこその称賛や論難であり,そこに私たち国民はどうあるべきかという視角も生まれつつあるのは,よい傾向だと思う。

 実のところ,「子ども手当」というキーワードが政治の表舞台で主役を張るようになっていることが,信じられないわけではないが,とても不思議な感覚を連れて来る。もちろん多くの国民にとっては「お金の給付」のこととして理解されているのだが,これは考え方や価値観の転換の話であり,これまでは票にならないと打ち捨てられていた部類のテーマだったのである。

 「社会福祉としての子育て・保育・教育」社会全体で子ども達を育て学習をささえていく形へ。

 そのためにダム工事を中断することを許容できるか,そのために配偶者控除を廃止することを許容できるか,そのために労働環境やスタイルを買えることを許容できるか,そのために増税する可能性に対して許容できるか…。

 これまでの優先順位を並べ替えてしまうのだから,前の方に並んでいた人々が後ろに回ることを承知しなければならない。「なんで俺が後ろに回らなきゃならないんだ!」と大声で叫ぶ人も出てくるだろう。その人を説き伏せる必要もあるだろうし,場合によっては,有無を言わせない必要もあるかも知れない。声の大きい人は,そのことを知っているから,さらに声を大きく張り上げる。「不当だ!」ってね。

 教員養成の現場は,新しい養成課程のビジョンづくりに着手し始めることになる。

 これまでも世界の動向を見て,大学院と合わせた6年制教員養成の可能性は論じられてきた。いよいよ日本でも教員免許制度全体の見直しが現実味を帯びてきたわけであるから,これまでの議論を踏まえて教職課程をもつ大学は構想を練り始める必要が出てきたわけである。

 高等教育と幼小中高校段階の教育研究は,対象が異なるため普段なかなか接合しないのだが,教員養成課程のデザインという論点であれば,高等教育としての幼小中高校向け教員養成を考えることで手を繋がざるを得ない。そういうことができる人材をいまのうち育てていくことも重要だろう。

 私個人は,年4分割する短期サイクルのセメスター制を部分導入することが良いのではないかと考えている。

 日本は前期後期の2学期制のセメスターを採用していることになっているが,ご存知のようにほとんどの授業が週1回である。たとえば月曜から金曜日に1限から5限目まである場合,学生は毎週最大25種類の授業を受講していることになる。

 毎週25種類という想定が大袈裟というなら,4限目までとして毎週20種類としてもいい。1,2年生ならば,これに近い授業を履修して単位を稼いでいるはずだ。

 さて,いくら若い人たちの脳みそが柔らかいといっても,20種類もの科目について意識を払い続けられるものだろうか。もっとおまけをして半分の10種類でもいい。単位の条件である予習復習をしてくれているものだろうか。誘惑の多い年頃である。バイトやサークルの人間付き合いに夢中になっていても不思議はない。

 逆に授業をさせてもらっている立場からすれば,週1回の授業で伝えられることには限りがある。そして相手は前回の授業内容を忘れかけながらやって来る。他の授業の方に意識があって,この授業のことは最初から捨てながら出席だけしているのかも知れない。以前説明したことなのに「聞いたことない」とフィードバックが返ってきたりする。

 習得型も怪しく,探究型も十分な時間が確保できない,活用型に至っては無縁であるとしたら…。もちろん最悪な状況を想像しているに過ぎないが,そうなる危険が無いとは言えないのが,現行の2学期制である。

 たとえば年4学期制のセメスターだとしたら,授業は基本的に2ヶ月単位で考えることになる。週2回とすれば,8週間くらいで15回を満たす。(2ヶ月単位間の)隙間の1ヶ月には,集中講義を入れて応用編となる授業を配置する。実習的な活動をする期間としてもよいだろう。


 4   
 5・6 春学期
 7
 8・9 夏学期
 10
 11・12 秋学期
 1
 2・3 冬学期      (※あくまでも月単位のイメージである)

 これらはもちろん,従来の2学期制をとる授業と平行してもよい。ただし,同時履修している授業の数が多くならないように制限を設ける必要があるだろう。そうしないと本末転倒になる。

 こうすることで,学生達は授業を多様な密度で受講することができる。長期的にゆっくり学べる科目もあれば,週2回の授業で深く学ぶ科目を選ぶこともできる。さらに短期に知識を吸収したい場合には集中講義を選択できる。それぞれの科目で学んだことを,さらに定着させたり応用するための期間も確保されている。あるいはその期間に,次の学期の科目のために必要な基礎知識を短期集中で学んでおくこともできる。

 教員も自分の担当科目に適したスタイルを選択して授業をつくっていくことができる。4学期のうち,1学期(あるいは2学期)は授業免除されるルールを導入すれば,次の学期のための授業準備や研究時間を確保することが可能だ。もちろん,その間も学生指導や校務は継続する。

 新しい教員養成課程がこのスタイルをとれば,大学教員が教育現場へと関わるチャンスが増えるように思われる。授業免除されている間に現場指導や観察など行くことができるし,これを次の授業に連動させることもできる。

 とにかく,教員養成カリキュラム改革とは,学期制のような構造部分に関しても議論しなければ本物とはならないことだけ指摘しておきたいと思う。

 (付け加えれば,この提案は教員免許更新制を発展的に吸収することも視野に入れている。年4回ある1ヶ月部分の短期集講義は現職教員の受講を受け入れていい。Intel Teachのような民間のカリキュラムを導入するのもいいだろう。)

 多様な学び方を経験した教員が,次世代の子ども達の学びを豊かにすると信じる。

 基礎的な力とは,多様な状況に対して柔軟に対応できるための核になる力と言い換えることができる。そのためには教師を含めた学校環境がもっとリッチ(豊か)にならなければならない。

 学会で発表されている諸外国の教員養成や教師教育の事例や研究成果を踏まえつつ,私たちの日本でどのような教員養成や教師教育が私たちの学びをリッチにするのか。もっと夢を語る必要があると思う。そこからビジョンを紡ぎ出すしかないのだから。

平成21年度 補正予算の見直しについて(指示書)

  平成21年度 補正予算の見直しについて(指示書)

                     平成21年9月29日
                     文部科学大臣 川端達夫

1.全体として、施設(ハード)整備に関する予算は極力見直すこととし、知的財産形成(ソフト)、人材育成・確保(ヒューマン)に関わる予算については、その必要性を十分確認した上で、事業を行う。

2.新たなハコモノ整備事業(メディア芸術総合センター整備事業、地域産学官共同研究拠点整備事業)は行わない。ただし、当該分野におけるソフト・ヒューマン支援事業については配慮する。

3.安全確保、耐震化、老朽化・狭隘化などの対策が必要な施設の修繕・増改築や設備の整備については原則として事業を行う。

4.エコ改修、電子黒板等の事業については、地方議会での予算議決の現状など地域主権、現場の状況を尊重しつつ、優先順位を十分に検証して、将来展望を見据えて事業を行う。

5.今後は、学校環境の整備、国立大学および独立行政法人等の施設整備について、これまでの整備の在り方を基本から見直し、それぞれの将来展望を明確にした整備計画を策定するとともに、それに沿って計画的・効果的な予算執行に努めることとする。

これは共有?小銭稼ぎ?

Happy Campus! co.jp
http://www.happycampus.co.jp/

 このサイトのことはあんまりまじめに取り合っていなかったのだけど…。提供する人がいるのは当然として,買う人いるのかな。売買コストが持続可能水準で成立しているのか,そのことが知りたい。

小学校英語指導者認定

小学校英語指導者認定協議会(J-SHINE)
http://www.j-shine.org/

 2011年度の全面実施に向けて,すでに小学校では外国語活動(英語活動)の取り組みがほとんどの地域で始まっている。文部科学省も「小学校外国語活動サイト」を立ち上げたり,「小学校外国語活動研修ガイドブック」や現場用の教材「英語ノート」(困ったことに文部科学省は公開を終了してしまった。税金でつくったという意識に欠けてるのは毎度のことか…)を用意するなど,お膳立てをしている。

 現場の先生達の取り組みは様々である。私が見聞きした範囲でも,どんな取り組みをしてよいか悩んでいる学校や,市内の先生達の研究活動に位置づけて取り組んでいる学校などがあった。

 教職を目指している学生達の中にも,小学校外国語活動に関心を持っている人がいて,どうすれば小学校の英語の先生になれる
のか気にしていた。

 あまり話題にされないが,2011年度から始まる小学校外国語活動を担当する教員は,特別な資格や課程を経たわけではない。現場の代表教員が官製研修に参加した成果を,校内研修の場で共有しながら指導方法を身に付ける形で対応しているに過ぎない。そこに外国人のALT (Assistant Language Teacher),つまり外国語指導助手がやってきて一緒に活動を進めていくのである。

 ところが,最近の報道によると,外国人ALTの定着率がよくないらしい(読売新聞「小学英語は民間頼み、必修化控えて質が課題」)。記事が指摘するように,安定した教育活動や質に問題が出てくる可能性がある。
 ただ,辞めてしまう外国人の気持ちも分からないではない。会社組織みたいな雰囲気の日本の学校は,外国人達が経験して知る学校の雰囲気とはまるで異なる。授業時間外の職員室で居づらそうにしている外国人助手を何人も目撃したことがある。私は,報酬の問題よりも,教育の場である学校の雰囲気に対する不満の方が大きいのではないかと思っている。

 さて,外国人ALTの力を借りるだけでなく,日本人教師の方でも民間の力を借りる動きは出てきている。2003年からNPO団体「小学校英語指導者認定協議会(J-SHINE)」が動いており,共通カリキュラムに基づいて認定団体や認定者管理を行なっている。

 サイトの情報を見ると,様々な民間の英語教育に関わる人々によって設立され,そこにいろんな団体が登録しているといった風である。語学出版社のアルク,英会話のイーオン,教育商社のベネッセなどの名前も見える。

 J-SHINEが行なっているのは,団体の認定と,その認定団体が認定した指導者の認定管理とのこと。資格試験のような形ではなく,認定団体が用意したカリキュラムを受講し,推薦された者が指導者認定を受ける仕組みらしい。

 「小学校英語指導者」資格を基本として,基本資格の手前にあたる「小学校英語準認定指導者」資格と,基本資格取得後4年以上の「小学校英語上級指導者」資格がある。

 この認定資格は,英語指導者の質の確保という目的のために民間が行なっている努力の一つであり,これが教員になるための必須ではない。これを持っていても教員として採用される保証もない。

 ただし,J-SHINEと登録団体が各都道府県教育委員会とパイプを保つことによって,採用に関する情報を連絡してくれたりする可能性が高まるので,採用チャンスを見逃すという損は避けられる。場合によっては,資格自体が有利に働くこともあるだろう。その程度である。

 興味深かったのは,J-SHINEのトレーナー資格試験に関する概要記述のところである。指導者の認定も気になるところではあるが,指導者を指導・育成する者の存在をどうするのかも大きな関心事である。鶏と卵のどちらが先か。

 トレーナー検定試験の受験資格を見ると,やはり経験豊富で各種の英語検定試験でそれなりの点数をとっていることが条件のようだ。基本的には従来から英語教育に携わっている方々を受験者として想定しているわけだから,これが特別高いハードルということもないのだろう。

 それよりも,試験のための参考文献が紹介されている点に興味が向いた。小学校英語に関して気になっている方々は,これらについても目を通しておくとよいのかも知れない。

(以下引用) 
■試験のための必読書と参考文献

【必読書】
小池生夫(編集主幹)『第二言語習得研究の現在』第4章から第13章まで(大修館書店)
松川禮子『明日の小学校英語教育を拓く』(アプリコット)
M. Slattery & J. Wills English for Primary Teachers:A handbook of activities & classroom language. (Oxford University Press)

【参考文献】
大久保洋子 『児童英語キーワードハンドブック』(ピアソンエデュケーション)
吉田研作 『新しい英語教育へのチャレンジ』(くもん出版)
中山兼芳 『児童英語教育を学ぶ人のために』(世界思想社)
文部科学省中央教育審議会関連サイト
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gaikokugo/index.htm
M.Celece-Murcia Ed. Teaching English as a Second or Foreign Language, Third Ed. (HEINLE & HEINLE)

環日本海諸国図

 地図の世界は奥深く,いまだにイノベーションが起こっている領域でもある。衛星写真を用いてつくられた仮想地球儀を操作できる「グーグル・アース」の登場は衝撃的だったし,ジオタグ技術による様々なマップ・サービスは,ますます私たちの生活を楽しませてくれている。

 何年か前に乗った新幹線だったか飛行機だったかの機内誌のコラムに「環日本海諸国図」という地図が紹介されていた。大変印象深い記事だった。私たち日本に住む人間が認識している日本の地政学的な位置づけとはまったく違う認識をもたらすものだった。「逆さ日本地図」とも呼ばれている名前の通り,単に地図をひっくり返しただけのものにも関わらず…。

Kannihonkai_map

 ネット上検索すると富山県が独自に作成した地図があって,使用するには許諾の必要がある云々と少々煩わしい。それでも,富山県が自分たちの地理的位置を重要だと読み取りたくなるのも自然なくらい,国内都市の重心の捉え方に転換を迫る地図だと思う。

 休日の朝のテレビ番組で,国際空港政策の問題を取り上げ,日本の空港政策の破綻と韓国の仁川国際空港の台頭を報じていたが,それもこの地図を見ればさもありなんという感じである。アジア諸国やヨーロッパへのアクセスを考えると仁川国際空港は絶妙な場所にあるようにも見える。

 先日送られてきた日本教育工学会研究報告集には,教師の資質能力基準に関する研究報告が載っていて,米国の基準であるINTASCのカテゴリーの一つである「ディスポジション」について論じていた。INTASCというのは教師の資質能力について「10個の原理」それぞれを3つのカテゴリー「知識(ナレッジ)」「姿勢(ディスポジション)」「行動(パフォーマンス)」で構成した基準である。

 これを踏まえると,環日本海諸国図のようなものを「知識」として理解しておくことは重要であるけれども,おそらく私たちに求められているのはこの日本海諸国図に対してどのような「姿勢」をとるのかということだと思われる。「構え」と言い換えてもいい。その上で教育実践としてどのように「行動」するのかということへと繋がっていくのだろう。

 それは教師に限らず,私たち日本国民が,こういう知識や認識を前提とした姿勢や構えで生活できているのかと問われているのだと思う。

 逆さ日本地図が表している日本の地政学的な存在感を,肌で感じるようになることも必要なのかも知れない。

ガラガラ?

教員免許更新、大学講習ガラガラ 228講座中止に(asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0715/TKY200907150200.html

 選択制なのだから,そういうこともあると承知しないと…。制度が定着したら,もう少し内容を柔軟にして,教師が学ぶコミュニティづくりに繋げていくべきだと思う。8人以下で学べるなんて贅沢じゃないか。時期が来れば,少人数が売りになる。

 免許更新講習自体の成立までには,いくらも論ずるべき問題があったと思うけれど,始まってしまったなら,どれだけ制度の隙間から逸脱できるのか,そう考える方に早く発想転換した方がよいとも思う。

 講座の名前の付け方ひとつで,応募の数は激変する。そういうマーケティングのイロハを,もう少し下世話に活用しても罰は当たらないと思う。だって,中身をズルするわけではないのだから。そういう工夫で試行錯誤しながら,ニーズをつかんでより良い学びの場をつくっていく必要がある。

 ただし言っとくけど,それは簡単なことではないし,大変な苦労が必要だ。安上がりに済まそうと考えているなら,お門違いも甚だしいのである。

iPhoneを学校へ

iPhoneあしながプロジェクト(仮名)
http://rinlab.justblog.jp/blog/2009/06/iphone-ba31.html

 iPhoneの教育利用の可能性については,iPodが登場してその教育利用が注目されている延長線上で,誰もが認識していたことだし,このブログでもたまに取り上げていた。

 しかし,いくら使い方次第でiPhoneが教育利用に有望なデバイスだと言っても,モノがないことには始まらない。私たちの期待や研究の可能性は,いつも機器整備のところで足をすくわれてしまう。

 スポンサーを探して資金提供を受ければ,教育研究用に新しいiPhoneを複数台購入することができるかもしれない。しかし,それを実現するのはなかなか難しい。

 仮に資金提供を受けられたとすると,どうしても成果を出さなくてはならず,もっと気楽に活用する雰囲気が生まれない。どこまでも特別扱いである。

 もちろん自分にできることは小さな試みでしかないが,何かこの状況を打開する明るいムーブメントを生み出せないだろうか。そう考え続けていた。

 それで,iPhone3GSという新モデルが登場したのを機に,前モデルのiPhone3G無印のおふるを持つことになる人々に向けて,教育利用に提供してもらえないかという呼びかけを始めることにした。

 もちろんおふるのiPhone3G無印を手放す人はそう多くはないだろうし,提供するくらいなら売ってお金にした方が良いと考える人が多いかもしれない。

 それでも,中には教育利用に関心を持ってくれる人がいるかもしれない。それに,完全に手放すのではなく,自分のiPhone3G無印を子どもたちのもとに里子に出すというか,それを通じて「あしなが兄さん/姉さん」として教育に貢献するという活動に参加してもらう形なら,その可能性を検討してくれるかもしれない。

 これまでの携帯電話のおふるは,メーカーも機種もばらばらで,通信も赤外線くらいしか生き残らず,集めて学校提供するうま味はほとんどなかった。

 ところが,iPhone3G無印なら,最新のiPhone OS 3.0が動かせて,どれも形や操作性が同じ。カメラと無線LAN機能が生き残っているから,それだけでも十分メリットがある。必要があれば,ソフト開発して提供もできる。

 そんなiPhone3G無印が,iPhone3GSの登場でおふるになる可能性が出てきたのである。この機会を逃してはいけない。

 というわけで,「iPhoneあしながプロジェクト(仮名)」を立ち上げるべく,動き出すことにした。

 まずは40〜50台を集めて,一つのパッケージをつくることを目標としている。

 もちろん,学校に貸し出すということは,そう簡単なことではない。お役所が管轄している組織である以上,校長先生,教育委員会,教育長といった方々へのやりとりも覚悟をしなければならない。

 でも,新しいことをするということは,そういう苦労があって当然である。

 そして,何よりも仲間を募らなければならない。それも研究者や現場の先生方だけでなく,一般のユーザーを巻き込むこと。そのことが意味しているのは,教育の世界に新しいネットワークを作ること。

 iPhoneあしながプロジェクトは,単にiPhoneを学校へ持ち込もうというだけでなく,新しい教育の「つながり」や「きずな」を作り出してみたいという願いも含んだもの。

 まあ,小難しい部分は少し置いといて…,iPhoneの一ユーザーとして,取り組んでみようと思う。