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教員養成フレンドシップ事業

 新人さんやモグリでもない限り,教員養成大学学部関係者なら文部科学省による「フレンドシップ事業」というものを聞いたことがあるはずである。平成9年度から始まり,もう12年目になるはずだ。

 教員養成課程に在籍する学生達が,教職に就く前にもっと子どもたちと触れ合うことを通して教育現場を担う人間としての経験を積みたいと願って生まれた様々な教育活動や動向を捉えて,当時の文部省によって補助事業化されたのが「教員養成系大学学部フレンドシップ事業」である。

 事業化されれば,当然,大学の教育課程内に位置づけが与えられ,講義や演習などの単位化が含まれる。制度的な持続性を確保するというメリットがあると同時に,このようなやり方は,意欲に温度差のある学生達を撹拌して全体の志気を下げるデメリットもある。

 そこで,フレンドシップ事業がとった方策は,単位化された課程内の養成活動だけでなく,むしろ学生達が主体となって取り組むボランティア的な教育実践活動を積極的に支援することだった。

 意欲ある学生達は,学生主体の教育実践活動に,選択科目を履修する形で参加するもよいし,あるいは科目履修はしないが活動自体に直接参加できたりする。そこまで求めない学生は,距離をとりながら周辺で見ているという関係になろう。

 実際は各大学で事情が異なるであろうが,フレンドシップ事業はそういう形を許容してきたと考える。この事業が10年を越えて続いているのは,そうしたスタンスを貫いてきたことにあるのではないかと思う(もちろん関係の先生方の熱意が支えてきたことも忘れてはならないだろう)。

 学生主体の教育実践活動は様々あるが,そうした活動がつながりをつくって「全国フレンドシップ活動」という大きな動きも断続的ながら続いているようだ。今年3月には信州大学を舞台に「全国フレンドシップ活動in信州」が行なわれたようである。

 在り方懇や大学GPなんてものが始まる前から,教員養成系大学学部ではボトムアップ的に志しある実践が生まれ,その中心部分で学生達が活躍していた。そして今現在も,多くの人々がこの事業に関わり,それぞれのスタンスと距離で,教育への貢献の努力を続けている。そのことを何度でも繰り返して思い出すべきと思う。

未来の教科書,教科書の未来

 日本のメーカーが長年取り組み続け幾度もの挑戦をしながらも商業的な成功に結び付けられずにいる「電子書籍」。鍵となるコンテンツを扱うノウハウが日本人には無理だったのか,米アマゾンのようなコンテンツデリバリー企業がようやく軌道に乗せつつあるというわけです。

 残念ながら日本では提供されていない「Kindle(キンドル)」と呼ばれる電子書籍ビューアが,アメリカの市場で徐々に受け入れられつつあります。そして新しいバージョン2やさらに大型スクリーンタイプの「Kindle DX (Kindle 3)」が登場し,発表会が催されたようです。

 この記事で気になるのは「新聞、雑誌、教科書を読むために特化した新しいKindle」という説明。教科書リーダーとしての活用を想定しているわけです。

 このような薄型の電子書籍ビューアが,学校で普及するかどうかは,いろいろクリアすべき条件があると思います。しかし,すでに一般読書用として社会に受け入れられつつあり,昨今のエコ配慮ビジネスとしての喧伝に乗じれば,教育現場にKindleが入り込む余地は十分ありそうです。

 ビューア機器としても薄型でなかなか魅力的なものになってますし,パソコンやiPhoneなどの携帯端末で閲覧できるソフトも用意されていますので,英語圏の書籍ビジネスにおいては,席巻するまでは行かないとしても,一定程度のシェアを確保して残っていくと思われます。

 一方,日本語圏では,パナソニック(松下)やソニーなどによるチャレンジがありながらも,ご存知の通り,この2社のコンテンツに対する商売の下手さが足を引っ張ったり,日本の書籍取り次ぎ業者である日販や東販,出版社との牽制のし合いや動きの鈍さなどもあり,幸か不幸か,電子書籍の市場は限定的なものになっています。

 教科書に限っていえば,光村図書といった先駆者達によるデジタル教科書といった取り組みが鍵を握っていますが,日本の教科書検定制度や法律などが邪魔をして,ビジネスとしてのチャレンジが進展しないという状況です。
 もちろん,こうした規制は,社会的な趨勢によって緩和されつつあり,デジタル教科書を活用する下地も,大画面デジタルテレビの導入推進とともに努力されていることは事実です。

 問題は,既得権益とは言わないまでも,従来のやり方や成功体験の範疇に留まり,新しいことに及び腰となっている日本のデジタル化スピードにあります。すでにGoogleが世界の書籍をスキャンして内容検索できるようにする試みにおいて,日本の著作権者達が知らぬうちに自分たちの著作についてもその俎上に載せられ,あとから慌てふためくという事態が起こっています。

 もし,日本の教科書がまったく異なる文脈の中でデジタル化されて公開されたとして,日本の教科書会社や日本の図書教材の諸団体は,すぐに有効なアクションを起こせる準備があるのでしょうか。

 また,そのような事態が起こってしまったとき,学校現場は,グレーな状態でデジタル公開された教科書を使うことを,どのように考えればよいのでしょうか。他者の権利が守れているのかどうかを常に不安に抱きながら教育にあたらなければならないのでしょうか。ニーズから生まれてくる誘惑に,つねに耐える苦労を強いられるのでしょうか。

 教育的利用に関する許容範囲を無限に拡大するということは,誰も望んでいないことは明らかです。そうであるならば,著作権やそれにまつわって利益を得ている人々が,利用者と向かい合って,本気で未来を描き出していく必要が,そろそろあるのではないかと思います。

 海の向こう側で起こっている電子書籍に関する動向のニュースから,こうしたことを読み取って考えていくことも,とても大事なことなのです。

教育の方法及び技術

 教職科目の一つである「教育方法・技術論」という授業を受け持っている。細々とでも,教職に関心を抱く学生達と授業を介して関われるのは幸せなことである。

 私が職場で受け持っている「教育方法・技術論」という授業の名前は,この大学が採用したネーミングである。同じ位置づけの科目でも他大学では異なる名前が付けられている場合もある。たとえば「教育方法と技術」とか,「教育の内容と方法」とか。

 教育職員免許法と教育職員免許法施行規則という法律までさかのぼれば,この授業が位置づけられている項目は次のようになる。

 「教職に関する科目」の
   「教育課程及び指導法に関する科目」の内の
     「教育の方法及び技術(情報機器及び教材の活用を含む。)」である。

 要するに,法律に記された言葉をもとにつくれば「教育の方法と技術」という名前になるのが普通というわけである。

 といっても,「方法」と「技術」だけキレイに取り出して扱うことが出来るはずもない。のりしろを用意して,「内容」「方法」「技術」「評価」という一連の大きな流れを守備範囲として講義をすることになる。

 大概の「教育の方法と技術」のテキスト(教科書)も,そのような範囲で書かれている。具体的な内容は,執筆者の顔ぶれ次第で様々だが,少しでも実践に近づくことが意図されているのは共通している。

教育情報誌『BERD』終刊

 その存在はあまり知られて無かったのかも知れないが,教育情報誌としては内容も体裁も高い水準を目指して頑張っていた『BERD』がこの3月の16号をもって刊行を終えることになっていた。引越し前の住所から最終号が転送されてきて,ようやく知った。

 教育情報誌というのもいろいろあるが,『BERD』は研究者向けという扱いで発刊されていた。確かに調査・学術研究の成果を掲載することが主だったので,読者も研究者かそういった次元の情報を望む人々におのずと限られていたところはある。

 しかし,実際にはもっと多くの人たちが目を通すべき雑誌だった。そもそも一般マスコミの流す教育情報は,安易なステレオタイプにもとづく論考か,パーセンテージだけ見てインパクトのある調査データの紹介で終わり,教育を深く考えるための材料を提示しているものは少ない。その点,『BERD』は,研究者らの研究成果を的確さを失わず読みやすく伝えていた,数少ない良心的な教育情報誌だった。

 情報を伝達するための努力は特筆すべきものがあった。一つには,インターネット上に最新号のみならず,すべてのバックナンバーを公開しているという点。二つ目は,その紙面作りの質の高さである。

 『BERD』はすべての論文や記事をPDFファイルとしてインターネット上に公開している。つまり無償で内容を見ることが出来るのである。そして申し込むことによって,印刷されたものを毎号送ってもらうことも出来た。
 そのフルカラー印刷された紙媒体も質の高いものであり,本来であれば1000円程度の値段が付いてもおかしくないものだった。たぶん,それでも足りないと思う。

 さらに『BERD』の紙面は,レイアウトとグラフィックに力を入れており,論文には必ず表やグラフなどの図版や執筆者のポートレート写真が掲載されていた。

 研究成果において黒子ともいえる研究者自身を前面に出し,ポートレート写真を掲載するということは,一見すると無駄にも思えるかも知れない。しかし,発信者の姿をしっかりと映し出すことによって,研究成果の伝達に強さや勢いを持たせることが可能になる。そのために,ちゃんとプロのカメラマンに撮影をさせていたと聞いている。研究者が一番格好良く写真に収められている雑誌はどれかと問われれば,それは『BERD』だったと断言してもいい。

 この2点が,何を意味しているかというと,編集者が内容面だけでなく,読んでもらうための雑誌を作るという点においても努力を怠っていなかったということ。それを「研究者向け」雑誌でちゃんとやっていたことが素晴らしかったと考える。

 もっと多くの人に,この雑誌が読まれることをずっと願っていたが,残念ながら終刊とのこと。とにかく,関係者の皆様,大変お疲れ様でした。雑誌は終われど,そのコンセプトは立派だったし,また復活すべきと思う。

 追記20090419:『BERD』創刊時のニュースリリース。創刊に至るための背景事情はいまだ変わらず,必要性はますます増大している。この雑誌を支える土壌や文化をつくれていない私たちの体たらくを厳しく反省すべきだろう。

子どものICT利用実態調査[速報]

 ベネッセコーポレーションの調査機関であるBenesse教育研究開発センターでは,様々な調査研究を行なっており,その成果を広く公開している。(Benesse教育研究開発センター > 調査・研究データ

 この度,「子どものICT利用実態調査」の結果がまとめられ,速報版として公開された。4月14日には記者発表会も行なわれ,調査と結果に関する説明が披露された。

 文部科学省の携帯電話等に関する調査の速報が2月に発表されたが,あちらは文部行政のための基礎資料を得ることを目的とした網羅的力技的な全国調査。

 一方,ベネッセが行なった「子どものICT利用実態調査」は,対象とする子どもたちを人口規模や密度を考慮して有意に抽出した調査となっており,なるべく子どもたちの目線に近づくことを特徴とした調査である。

 たとえばINTERNET Watchの記事などで,記者発表会と調査の概要が紹介されている。
 (追記:さらに翌日には追加のWeb記事が掲載された。この調査に一番興味深い部分の紹介である。)

 Benesse教育研究開発センターのサイトにある「速報版」を最後までご覧いただければ,何やら気がつかれると思うが,私も調査・分析のメンバーに加えていただき,ご一緒にお仕事をさせていただいた。

 この種の調査は,似たようなものが多いので,新たに取り組むにあたって何を大事にすべきか,えらく悩んで考え続けていた。独自性を持たせるというのは,言うのは簡単だが,奇をてらっても使える調査データになるとはいえない。かといって,単純な実態調査では,文部科学省の調査みたいな網羅的力技的な調査が存在するところで意義が見出しにくい。

 そんな風に相変わらずうんうん悩んでいる私をぶら下げながら,調査企画チームの皆さんのご努力によって調査が進られ,子どもたちの目線から見えるものをわりと素直に反映した調査成果を出すに至ったわけである。それはとても良かったと思う。

 来月には,調査・分析メンバーによる原稿を含んだ調査報告書が刊行される予定。私が何を書いたのかは,またそれが公開されてからご紹介するとして,その原稿の続き(?)も書いてみたいと思う。

デジタル教材コンテスト

 アップルが,「第1回デジタル教材コンテスト」開催し,作品募集をしている。QuickTimeを使ったムービー教材か,Podcastingを利用した授業企画を考えるという2つの部がある。小中高校の教職員の方を対象としているので,普段の経験を活かした作品や企画を応募してみてはいかがだろうか。グランプリ賞品はMacBook Proである。
 それにしても,審査員の顔ぶれを見たら,知っている人ばかり…。皆さん,ちゃんとマックユーザーである。

自分の子どもの教育問題

 教育学や教育研究の分野が,世間に正当に評価されたり,活かされていないのが本当だとすれば,本来それが埋めるはずのスペースには何かあてがわれているのだろう。そんなスペースはそもそもこの国にないのか,それとも無視できるくらいに小さいのか,あるいは学問よりも有用な何かが活躍しているのだろうか。
 そんなことを改めて思いながら,書店に立ち寄った。インターネットは,情報の欠片を見つけるには無限定な空間で都合がいいときもあるが,社会の姿を捉えるには外枠が曖昧すぎて役立たない。こんなときには昔も今も書店が一番である。
 あらためて,学参(学習参考書など)や児童書の集まるコーナーをじっくりと探検してみた。いやはや,たとえばお受験一つとってみても,目がくらむような種類の図書が並んでいる。

 本来,私くらいの年齢になると子どもの一人や二人いても(もちろんいなくても)不思議ではない。世間の同世代お父さんお母さんは子どもの将来を考える場面を多々持つのだろう。ちなみに私の身近にもそういう方々が結構居る。
 子どもを持ち,子育てに励むその先には,避けては通れない学校教育の問題がある。いざ自分の子どもの学校を吟味するときに,必要な知識や情報とは何か。それは実のところ,教育学や教育研究ではないのだろう。そう感じたら,少しばかり憂鬱になった。欲しがられていないにもかかわらず生き残るのは,並大抵の努力じゃ済まないなと。
 学参の棚には,幼稚園から小学校,そして中学・高校と,それぞれの受験に対応した「受験情報本」がズラッと並んでいる。把握できないほどではないとしても,初めて見る者は選ぶのに困ってしまうくらいある。
 奥さんにそそのかされ,自分の娘の小学校受験を考えなくてはならなくなった父親のつもりで,あれこれ受験本を眺め,一冊買うことにした。具体的な学校紹介や願書の書式が収録されたような図鑑形式のものもたくさんあったが,とりあえずは小学校受験にかんする基本的な知識を得るための解説書を購入した。

 仕事でいろんな方々とご一緒するときに,その方々が自分の子どもを事例にした話をすることがある。そういうときには,その内容を凄く注意深く聞いている。具体例が気になるのは確かだが,どちらかというと身近な事例をどの程度の距離感で捉えているのかが気になっていたりする。
 ものを考えるときに,あんまりそのものと近すぎると困ってしまうからである。お世話になっている人を批判することが難しいのと同じで,距離は適当に確保しないと割り切りがつかない。
 (自分自身のことはどこまでも答えが出ないし,他人とある程度の距離を取ろうとするのは,そんな直感が働いているせいかもしれない。)
 この調子なら,当分は独り身で通せると思うが,人生何があるか分からないものである。もし仮に奥さんが出来て,子どもが出来たら,私は自分の子どもの教育問題に直接介入して,実践的に取組まなくてはならないことになる。ただでさえ,教育研究の無力感みたいなものを感じているにもかかわらず,結局私もまた,受験情報本こそ最大の助言者として教えを請うようになるのだろうか。
 そこで,少しずつとはいえ,仮想的にそのようなジレンマに陥って,対処方法を考えてみようかと思ったのである。別に受験に役立つ教育学を開発しようというわけではない(でも市場的ニーズはあるかも知れない。家庭での「教え方」みたいな本や雑誌は,相当数出ている。下世話な話,いつかは「家庭教育らくがき」なんてブログをつくって,書籍化ねらいで文章を綴ってみるのもいいかもしれない。印税印税,はっはっはっ,ま無理だろうけど)。
 個人的に,教育学や教育研究と学校教育や受験に身をさらす人間として,どう折り合いを付けていくのかを疑似体験しておくのは,悪いことではないと思うのである。
 そうすると,結構増えてきた若いお父さんお母さん研究者の人たちと共通の話題で話が出来て,のけ者にされずに済みそうだから(そういう理由かよ,おい)。

 実のところ,日本教育学会でも,こういう表出の仕方ではないけれども,教育の「個人化」による教育学の危機あるいは失敗といった問題意識があちこちに噴出していた。おそらく,それの最たるものが初日の公開シンポジウムだったのではないかと思うが,まあ,それには参加していないので推測に過ぎない。
 本来は国家およびその社会の成因としての国民を育成する「社会的な営み」であった教育が,どんどん「個人的な営み」へと変わっていったのは,その国が成熟した証でもある。そして結果的に,そのことが社会の教育基盤を崩しつつあるというのもありがちな近代成熟社会の病といえる。
 立て替えとしてか,あるいは補完としてか,e-learningやOCWといった新たな潮流も見え隠れしているものの,それが崩れつつある部分に届いているかといわれると,心許ない。
 受験を云々出来るのは,まだ教育基盤が崩れていない層(あるいは領域や地域)でのお話だろう。多くの人々は,受験の声を聞きつつも,ごく普通に公立学校に通うことに関わる人々であり,崩れつつある教育基盤の渦中にいる人たちである。そうした渦の中で,自分の子どもの教育問題を考えるとき,どんな風景が広がっているのか。少しでもその視野を共有できたらと思うのである。

日本教育学会第66回大会

 慌ただしさにかまけて,忘れないように…。
 日本教育学会の第66回大会が慶應義塾大学・三田キャンパスで29日(水)と30日(木)行なわれる。
 今年,教育関連の学会は,みんな関東圏で行なわれる。
 場所は都合よくなったのに,いろいろ予定が厳しいぞ…,ああ悩ましい。

言語力育成協力者会議

 文部科学省のメールマガジン「初中教育ニュース」の第63号が発行された。その中のコラム「常盤の“とっておき!”」が言語力育成協力者会議について触れていたので,ご紹介したい。
 公的なメールマガジンの文章だから引用は問題ないと思うので,本来なら全文載せるのが礼儀と思うが,申し訳ない,必要な部分だけコピーさせていただく。

(前略)
会議では、協力者の先生から次の発言がありました。
今の子どもたちには、「自分の存在に確信を持つこと」が重要なのだ。その
ために言語力を育てる必要があるのだというコメントです。
私は、思わず我が手でひざを打ちました。
この会議は言語力の会であります。しかし、言語力を伸ばすこと自体が最終目
的ではないのです。他者とのかかわりが薄くなっている今日、私たちは、子ど
もたちを孤立から救い自立への道を歩ませなければならないのです。子どもた
ちが言語を通して他者との関係性の中に自己を見つめること。言語力の育成を
通じて、生きる力、それも、社会とともに生きる力を育てることが大目的なの
ではないでしょうか。
言葉は、知識や情報を獲得する、考える、感じる、表現するなどの機能を担
っています。学習、生活の基盤となるものです。言語力という基盤をしっかり
と固めることが、子どもたちの力を大きく伸ばし、わが国の教育を大きく飛躍
させることにつながっていくものと確信します。
 〔初等中等教育企画課長 常盤 豊〕

 こうした意味で言語力を重視するというのであれば,それは一つの立派なアプローチとして認められていいと思う。とすれば問題は,このメッセージが届くように幾重もの配慮が必要だということである。
 正直なところ,協力者会議で議論される面々と現場を担う先生方とでは,そもそも「言語」や「言語力」に対する認識や見解のスタート地点が異なっている。たとえば物事を思想的,哲学的に捉えるという態度にも,かなりの温度差があるだろう。それを乗り越える(あるいは潜り抜ける)術を考えなければならないのではないだろうか。
 端的に言えば,「どのように評価するのか」という疑問に対して,納得のいく,もしくは説得的な説明を返すことが出来るのかどうか。その辺に,協力者会議やそれに関わる人々の力量が問われているのだと思う。

遠く眺めること

 大学院生となり,慌ただしい毎日を送っていた。自分の研究を仕切り直しするために歩み出したとはいえ,学生としての学業も課題も多いので,教育界隈の話題や読みたい文献資料なども腰据えて追えていない。長らく皆勤していたカリキュラム学会の大会も,今年は近くで行なわれていたにもかかわらずお休みした。二兎は追えないものであるなぁ…。
 たまりたまった日本教育新聞を久し振りに眺めると,教育界は忙しく動いているのがわかるが,同時にそこで展開している論理の,世間からの遊離具合も感じられるようになる。

 NBonlineに掲載された広田照幸氏の「教育も,教育改革もけしからん」は連載が完結したのか,夏休みに入ったからなのか,8月の新しい記事更新は途絶えている。しかし,掲載された分に対する世間(日経BP社出版物を好む層とも言える)からのコメント反応は,論考への賛意もあるが,かなりの割合で異論を唱えるものがあり,教育をテーマにしたネット記事としては賛否を交えた大変興味深い展開となっている。
 それだけに,その反応を踏まえた論考続編の準備が必要になったと思われ,きっとこのお休みの間に準備しているのだと予想される。担当編集者である齋藤哲也氏の威勢のよい前口上から本人を信じるなら,きっと大リベンジを用意してくれているはずだ。そういう意味で,広田氏の教育言説への挑戦に新たな地平が広がったとも言える。広田氏をネットに引っ張り出した以上,齋藤氏にはそれなりの成果を上げることが求められるわけで,それでお金もらってるなら「教育らくがき」みたいに「難しい問題である」なんて結論で終わらせるアマチャンなことは許されるはずがない(と発破かけてみる)。意地悪はさておき,少なくとも居酒屋社長のコラムには勝ってほしいものだ。

 ちくまWebに連載中である苅谷剛彦氏の「この国の教育にいま,起きていること」も毎月楽しみにしている記事である(どうして両方のコラムタイトルに読点が入っているのだろう,流行りかな?)。このコラムの面白いところは,苅谷氏の問題関心あるいは怒りの程度がページ数に如実に表れていることである。
第1回 教育バッシングの思わざる効果(3ページ)
第2回 未履修問題から何を学ぶか(5ページ)
第3回 参院選に利用される教育再生会議(4ページ)
第4回 教育委員会制度のどこが問題なのか?(4ページ)
第5回 教育政策の路線変更と全国学力テストの意味(6ページ)
第6回 免許更新制と教員受難のパラドクス(9ページ)
第7回 選挙の目玉になりそこねた、教育再生会議第二次報告(6ページ)
第8回 政治と教育(3ページ)
第9回 参議院選挙以後の教育政策——教育振興基本計画(3ページ)
 本来,3ページ程度の連載コラムとして始まったのだが,徐々にボルテージが上がって,第6回には9ページにわたる文章(まあ引用とか多かったんだけどね)を書くまでに至るが,選挙だの政治だのに関わるテーマとなると勢いが消えてしまったかのように元に戻ってしまった。
 ページ数変化が面白いと書いたが,きっとこれはそれにまつわる文章を書く立場になった人間にしかわからない,「やっぱりそうだよねぇ」的な共感から来る面白味かも知れない。要するにこの手の話題は「注視する」とか以外に書きようがないのである。だって,真面目にやってない人たちのことを書くようなものだよ,真面目に書けるわけ無いじゃん。
 文句たれるなら延々と愚痴はこぼせるけれど,それが建設的でないことくらい,普通の人はわかる。だから教育言説は難しい。文句を建設的なものに変えるには,それなりの「言語力」が必要になってくる(by 中央教育審議会)。
 政治と教育…。教育が政治主題として取り上げられることは必要なことだった。しかし,政治舞台で教育を取り上げようとする人間がどんな人間なのかを知ったとき,私たちは大きなため息をつく他なかった。教育は人なり。あらためてこの言葉の意味を重く受け止める次第なのである。

 そんな人を育てることが大事だと考えて取組まれているはずの「教員免許更新制」。その説明会が行なわれた。ニュース報道によれば,「教員免許の更新講習は「双方向評価」」(朝日新聞)とか「10年研修と一元化せず」(日本教育新聞)とか考えられているらしい。
 制度設計する人間の心理として,システムの耐性を高めるための様々な予防線や機能・規則を盛り込みたくなるのは理解できる。そもそもそうしないと客観的「評価」が出来ないと言うだろうし,客観的評価ができないと,制度としての評価が出来ず,アカウンタビリティが果たせないことになる。そういう制度設計手法に乗っ取っている以上,こういうデザインになるのは当たり前である。
 問題は,説明会に集まった大学や教育委員会が,どれだけ「行間読み」して,違法ではなく「脱法」できるか,またその余地をどれだけ残してあるか,ということなのである。(野暮な説明だと思うが,「違法」と「脱法」は意図していることが違うので同列に考えないでいたたきたい,気に入らないなら「抜け道探し」と読み替えていただいて結構である)
 ところが,説明会で事前に集めた質問が,約700件! 地方分権の時代にお上に対して700件も質問が飛ぶのである。こんな依存体質で,行間を読むような芸当が出来るわけがない。700件も行間を潰したかもしれないと思うとゾッとする。事前確認せずにやって,後で注意や警告を文部科学省から食らうのが嫌という発想なのだろうが,それがもう中央依存体質なのである。
 そもそも注意や警告といった事態が起こったときに何とかするのが「政治」であり,それぞれの地方で選出した政治家の存在意義も,そういうところで力を発揮して,果敢な地方の挑戦と威圧的な中央の支配との折り合いやバランスをつけるべきなのである。そういう有機的な関係性を築かないから,「政治と教育」という話題について失語症になるのも当然といわざるを得ない。
 本来,大学や地方自治団体という「行間読み」や「脱法」のプロ集団であるべきところが,こんなことでどうするのか?原典にあたるとか,第一次資料にあたるとか,張本人に聞くとか等が,研究や調査において重要であることは認めるが,解釈まで他人に頼っていたら,いったい自分のオリジナリティをどこで発揮するつもりなのだろう。
 そういう考え方が「ライブドア」のような事件を起こしたという反論もおありかも知れないが,そうした事例による反論だけで現場を絞め殺す規制の乱立やがんじがらめの制度デザインを許すことの方がよっぽど乱暴である。
 最近ヴィゴツキーづいているので,その道具主義的方法に当てはめて考えたら,どう解釈できるだろうと想像してみたりする。「行間読み」というのは,内言による思考過程によって編み出されるものだとすれば,そのような思考を可能せしめる内言へと転化する外言の行為として,説明会のやりとりがあったのか。しかし,そう考えると,700件もの質問が内言化されたとして,それら豊富な内言によって展開した思考過程によって編み出されるものが有るのか無いのか。ここでは700もの内言が実のところ自由な思考を妨げる効果をもってしまうという風に想定している。けれども,場合によっては700もの内言を踏まえ,それを乗り越えた思考のもとで高次の創造性を発揮することも可能なはずである。
 そうなるとハードルは700もの質問で高められてしまったが,それらを踏まえた素晴らしい教員免許更新講習が創造されることを期待できなくもない。もしも,私たちが国づくりのためのあるべき姿の設計を目指すというのであれば,まさにその難関を乗り越えて取組んでいかなくてはならないのだと思う。
 もっとも私みたいな能力のない者は,難関を「くぐり抜けて」取組んでいくほうが性に合っているのだけど,本当にこの国の大学や教育委員会の皆様は,志が高くていらっしゃる。いいんですよ,どっちでも,私,気にしませんから。