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3/28「iPad教育利用の集い」

 この数日,何かに突き動かされるようにイベントを開くための準備を始めた。

 昨日記事にしたiPadというタッチデバイスを教育利用の観点から受け止め考えてみようというイベントである。

 本当は「iPadのようなツールの教育利用を考える集い」とした方が私の真意には合っているのだけれども,何はともあれ,iPadという商品の持つインパクトに興奮している事実もあるので「iPad教育利用の集い」として開こうと思うのである。

 なぜこのようなイベントをする必要があるのか。

 私なりに理由はたくさん並べられる。そして,同じようにiPadに対して何かを思っている人はたくさん居て,私はそれをTwitterやブログやUSTREAMといったネットメディア上に見てしまった。

 この点在している声をただ分散させておくだけでは,またいつものように後追いの状況を作ってしまうだけではないか。そのような危惧とともに,先回りの姿勢を示す出来事を起こさなければならないという気持ちに駆られた。

 大学のような高等教育はいい。教育環境がそういったツールにある程度の親和性を持っているし,大学の先生たちは研究者でもあるから,新しいメディアだ,ツールだと注目して,研究対象としていろいろ試行錯誤するチャンスもある。高等教育段階での教育利用を考える役者はごまんといるわけである。私のようなものが立ち上がらなくても立派に進む。

 しかし,小中高校段階はどうだろう。

 一部の私立学校は独自に新しいツールを導入することを決めて,先進的な教育実践に取り組めるのかも知れない。けれども,この国の多くを占める公立学校の学校教育現場は?この国の学校教育を支えているたくさんの先生方の中にも,新しいツールに対する関心を示している人たちは少なからず居る。けれども,学校単位,あるいは市町村単位で学校教育の在り方が決められている制度の中で,一人一人の先生たちの興味関心は十分拾われるとは言い難い。

 私は,Twitterを始めとしたネットメディア上に発見した一人一人の先生たちの興味や関心の声を拾う試みも,ネットメディアの有効利用になるのではないかと思った。こうした声に応える形のイベントを開くことが大事ではないのかと思えた。

 他でもない,全国の教育現場で日々頑張っている教育関係者の中にいる,新しいツールに関心を寄せ,それが何かを知りたがっており,可能性を模索しようとしている人々,あるいは新しいツールに懐疑的で,それが学校教育の現場に持ち込まれても役に立たないと考え,過度な期待に否定的な人々に対しても,直接iPadが紹介され,教育関係に携わる各分野の人々がどのように展望しているのかという意見を届けるということは,重要だと思われたのである。

 そして,率直に全国からフィードバックを受けることによって,こうした新しいツールが,日本の教育現場に受け入れられるための条件とは何か,変えるべきもの,足りないので加えるべきもの,埋めるべき隙間,望ましい活用方法,考えられる限界を情報交換しておくことで,アップルも,また居合わせてくれる教育関係の人々にも立ち向かうべき課題が明らかになるようにしたいと考えている。

 集いは研究会ではない。どちらかといえばお互いのビジョンを確認し合う場だと思う。

 私たちには,考えにたくさんのズレがあるはずなのに,それをざっくばらんに語り合う場が無い。集いの場がそのような場になるのは難しいとは思うが,少なくとも,きっかけや一つの試みになることを私個人は期待している。

 そういう私個人の思いはともかく,3/28の催し自体は,気楽なものになればいいと思っている。最初の顔合わせみたいなものだから,緊張しすぎても仕方がない。

 iPadの実物がデモされたら,それはそれで嬉しい。しかも全国の先生たちに向けてのデモ。その事実が大事なんだ。そして教育関係の企業や団体の皆さんもタッチデバイス時代の教育の在り方に注視しており,全国の先生方のことを考えているのだということが伝われば,それは心強い2010年度の幕開けになるのではないかと思う。

 私は,日本の学校教育現場が元気になってくれることを望む。

 iPadにその願いのすべてを託しているわけではないから,iPadそのものを売り込むことに加担したいわけではない。むしろ,iPadのようなものを柔軟に受け入れられる先生たちを養成したり支援する環境の実現を望んでいる。だから,今回のような場を企画し準備している。

 この国には,もっと先生たちをバックアップしていく仕組みや動きが必要だ。その形や大きさは様々あるが,今回の催し物の企画も,小さいながらその一つの提案である。

知の階段

 私たちの仕事は「知の階段」を構成することにある。私はカリキュラム研究という分野に軸足を置きながら,教育工学の知見を用いながら教育研究活動をしているが,カリキュラム研究は知の階段の全体を見通すことを目指した学問だといえる。

 人はそれぞれ知の階段における自ら選んだ踊り場で活躍しているわけだが,その階段がどこから続いてやってきて,どこへ続いていこうとしているのかを強く意識しておくことがカリキュラム・マインドというわけである。

 こうした知の階段に関わる知的な情報環境は,情報機器・技術の進展によって急速に変化してきたことはご存知の通り。その変化をどう解釈すべきか議論はいろいろあり得るが,私は基本的に望ましい方向へと進んでいると思っている。

 ただ,いくつかの懸念材料もなくはない。私たちの視界に刺激や情報をもたらすチャネルの選択が狭まっているのではないかという懸念である。選択肢が少なくなっているというよりも,私たちの選択行動に幅がなくなっていると考える。結果的に選択されないチャネルは淘汰されてしまう。

本の販売2兆円割れ 170誌休刊・書籍少ないヒット作(20091213 asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/1212/TKY200912120271.html

 分かりやすいニュースが流れていた。もちろん,この記事に対しては「1980年代水準に戻っただけでは…」という捉え方もあり,膨れ上がった出版業界が適正な姿ではなかったのではないかという議論もある。1980年代の出版文化が過度に乏しかったという話が無い以上,特に大きな問題ではないともいえる。

 しかし,2009年現在の出版文化や取り巻く社会文化的な水準が,20年30年の月日を蓄積しただけ豊かになったとも聞かない。本当のところ私たちは,知の階段をちゃんと上がってきたのだろうか,それとも降りてきてしまったのだろうか。

 新潮社『フォーサイト』が休刊を発表した。また,毎日新聞社が共同通信に加盟するというニュースも流れた。子ども向け雑誌とはいえ,歴史ある『小学五年生』『小学6年生』,『学習』と『科学』が休刊した。

 日本国内市場を対象とした出版業ではグローバルな時代を生き残ることが難しいという,その具体化が起こっているだけともいえる。けれども,歴史や志があるにも関わらず,経済的に立ち行かないで衰退してしまうもののなんと多いことか。

 一体,いま20代30代の人々は,今後数十年の人生の中で,どんな出版物や雑誌を読んでいくというのだろう。それはインターネットや電子書籍で補い得るものなのだろうか。そもそも,そのようなメディアでさえ,良質な情報をどのようなビジネスモデルで確保していくというのだろう。

 一生懸命に駆け上がっていたと考えていた知の階段,それそのものが同時に沈み続けているとしたら…。上がるスピードの速い人たちが増えているとはいえ,そうでない人々にはいよいよ厳しい時代がやって来る。

「事業仕分け」は何を意味するのか

 某容疑者の護送の陰に隠れてしまったが,行政刷新会議による「事業仕分け」が11日から9日間の予定で始まり,文部科学省の諸事業も初日から俎上に載せられ議論の的となった。

 その日は疲労で寝込んで見逃してしまったため,肝心の学校ICT化事業に関する議論を見ることができなかったが,断片的な情報を組み合わせたり,評価結果を見たりして,なんとなく想定通りの展開になったのだなと納得している。

 結局,私たちの情報発信に関する力不足が露呈したわけだ。そのことをまともに受け止めなければならない。

 あれこれ眺めていると,議論が低レベルだとか,理解してない人間が議論していて仕様がないとか,結論ありきで議論もへったくれもないとか,いろいろ感想が飛び交っているようだ。その感想を否定するつもりはないが,そんなこと五年も十年も前から想定できた感想なんだから,いまさらそんな感想はないでしょうという気もする。

 少なくとも私たちはチャンスを幾度も逃したのである。

 自慢にもならないが,昨年度の補正予算の第一次募集への応募者がぎりぎりセーフ。
 
 結果的には,学校ICT化全体で言えばアウトを宣告されたわけである。

 妥当な宣言じゃない? 言い分が届かなかったんだから,反省するのはこちらである。

 情報が公開されること。このように事業仕分けの議論が全面公開されることは歓迎すべきことだと思う。

 けれども,こんなことが必要になるところまで来てしまった事態自体に深刻さを考えなければならない。

 本来,こんなことは信頼ある専門家が密室でしっかりやってくれれば良いことだったのである。

 それが不可能になってしまったほど国家の水準が低下していたのだし,それはかなり前から周知の事実。

 そのことに危機感を抱いて動けていただろうか。問題意識を持てていただろうか。

 結局,確定した方法や手続きに甘んじて,適切な運用や決断を怠ったツケが溜まってしまったわけだ。

 公開の場に引っ張り出さなければ刷新ができないとされてしまった専門家の硬直具合を,我が身のことではないかと疑う姿勢があるかどうか問われている。

 自分のことを考えると,本当にため息が出るくらい何もしていない。はぁ…。

 もちろん,概算予算要求に関する最終決定は各省庁にあるわけで,学校ICT化も見直して削った上で残ると思われる。教育の情報化は,学習指導要領にも盛り込まれた事項なのだから,まったくゼロでは整合性上問題も残るからだ。

 しかし,そのICT化の必要性が一般人に(事業仕分け人のような人々にさえ)届いていなかったという事実の方は,もっと重く見た方がいい。いや,それよりも教育関係者にも届いていなかったことの方が深刻か。

 本来ならば早い時期に各都道府県にローカルな教育の情報化エヴァンジェリストとなるような若手研究者を見出し,教育委員会や学校現場と関係づけるようにコーディネイトしていくべきだった。そのようなネットワークの中で,教育実践と教育研究との複層的なネットワークを構築して情報交換を展開すべきだった(もっともその若手を育てられないアカデミズムの構造問題はさらに深刻さを増している)。

 教育の情報化の世界では,限られたメンバーがグループを作って(結果的には)トップダウン式に啓蒙活動をしているのが実態であり,一部の実践者や研究者にほとんどの負担が向けられている。そして,そういう有名グループや研究者の周辺に,ほとんどの教育産業が集っているという構図である。正直なところ,この構図やアプローチには限界があるし,いよいよそれが露見している。

 いま求められているのは,そういう現状の改革なのかも知れない。行政刷新するというならば,実践・研究コミュニティの在り方も刷新していく柔軟さが求められると思う。

 これは失言なんかじゃない。私個人の決意を再確認しているだけである。これまでいただいたご縁やご恩を私なりに活かすには,そういう距離感を確保しなければならないとずっと考えているのである。傍流・逆流研究者の私には,小さなことしかできないとは思うが,自分の居る場所で自分なりに前に進むだけである。

 それにしても,「子どものICT利用実態調査」という調査に関わった人間としては,事業仕分けにおける議論は,いろんな現実を見ることになって悲しい。

 反省することはたくさんあるが,とにかく自分に出来ることを仕込み続けて開花させるしかない。遠回りしすぎて,勢いも何も無い感じだが,チャンスは必ずやって来ると信じて,地道に生きていくしかない。

それはフィルタリングの失敗

クレイ・シャーキー曰く「情報洪水などない。それはフィルタリングの失敗だ」
(シロクマ日報)
http://blogs.itmedia.co.jp/akihito/2009/08/post-a72f.html

 ものごとを端的に表現するのは難しいものです。「情報洪水ではない。それはフィルタリングの失敗だ」(It’s not information overload. It’s filter failure.)という言い方は,誰でも言えそうな表現ですが,これだけ取り出してバシッと掲げるのは容易いことではありません。

 情報過多とはフィルタリング失敗であり,フィルタリングのデザインを制していくことがデジタル・ネット時代には重要であるという指摘は,古くて新しい問題,つまりこれまでも別の顔して存在した問題が,新しい顔して再来したものだと考えることも出来ます。

 共通しているのは,情報統制の問題。異なっているのは,時代を経て,問題がパーソナルなレベルにより接近した点です。

 政治や教育の世界でも,どんな情報を隠し,どの情報を公表し,どんな情報を創造していくのか,という問題は常に社会的な行動に付随してきました。

 学習指導要領(基準教育課程)で何を扱うのかという問題も,教科書検定という一種のフィルタリングに関する議論です。教育内容が過剰なのか不足しているのか。学力問題とともに議論されていることはよく知られています。

 情報のデジタル化やネット利用の普及によって,このフィルタリングの必要性がパーソナルなレベルにまで降りてきたと考えることが出来ます。

 私個人を考えてみても,Web上に掲げた自己紹介や経歴はもちろんのこと,顔写真,メールアドレス,誕生年月,ブログに書く公私の出来事,個人的見解,Twitterに記録した行動と思いつきの断片などの情報が不特定多数がアクセスできる状態に置いてあり,これらは私の設定したフィルタリングの結果です。

 一般的に個人の情報は,初期状態として他者がアクセスできない状態にあり,必要があればフィルタリングを介して公開していくものと考えられていました。アクセスできない範囲がある程度確保されていたわけです。しかし,ネット時代においては,他者がアクセスできる可能性が高まって,積極的にフィルタリングを援用して個人の情報を守る必要も出てきたというわけです。たとえば,携帯電話のアドレス帳を覗き見られる可能性に対して,ロックをするのかしないのかという問題が発生するのも,広い意味でここに含まれます。

 シャーキー氏は「フィルタリング」の問題と表現しますが,私なりに考えていたのは「アクセス権限の設定・運用」の問題です。あらゆる情報操作あるいはそれに関するシステムは,アクセス権限の設定と運用実態を重要視して存立すべきだろうと考えます。

 校務の情報化に関するシステムを開発する企業の方々とご一緒する仕事もありましたし,そうした関連システムを個人的にもいろいろ勉強する機会があります。

 その度思うのは,システムプログラマの人々は「アクセス権限」という発想を(コンピュータの世界の概念として)了解はしているのだけれども,ユーザーの側は「アクセス権限」という発想や概念がないまま業務を認識しているので,両者が「アクセス権限」という切り口でシステムに対する要望や仕様をちゃんと相談できていないということです。

 教育工学の研究をしている人たちの中にも,情報共有のツールを作ろうとする人たちがたくさん居ますが,たとえば教育の現場における情報の扱いや行き交いをアクセス権限と運用のデザインとして捉えて具現化する人は少ないです。

 人が知識に対してアクセスするロジックを実態を踏まえてデザインできるかどうか。単に新しい研究がしたいのであれば新規性のあるロジックを考えればよいですが,少なくとも普及を考えているのであれば,実態をロジックとして捉えてからそれに匹敵する新しいロジックを考える必要があります。

 システム開発が得意な人たちは,ファイルシステムやデータベース開発などでアクセス権限という考え方に馴染みがあり,その重要性についても了解しているのですが,現場の業務や校務がどのようなアクセス権限デザインで存立しているのかを感得していないので,使い辛いシステムを構築してしまうのです。

 私たちはこうした不幸なシステムの存在によって,情報化を敬遠したり,難しく考えたりしていることが多いのです。

 付け加えていえば,「アクセス権限の設定と運用」とは,最初に決め打ちしてデザインしたら終わりという固定的設定を運用することを指していません。情報共有や業務・校務の進行によって権限の設定が変化していくことを考えています。

 つまり情報共有システムを作り出すときに重要なのは,可変的なアクセス権限をどのようにシステムとして実現するのかという問題なのです。

 こうした可変的アクセス権限のデザインのセンスにすぐれているのはGoogleのエンジニア達かも知れません。

 先日のカンファレンスで披露されたGoogle Waveは,たくさんの情報を束ねて情報の波のように扱うことができ,それら情報へアクセスする手段や環境も柔軟に変化させ束ねて運用できるツールだと考えることが出来ます。(@ITによる解説記事

 こういうツールをデザインできるセンスを持っているのでGoogleは強いのです。

 私個人は,システム開発者の方々と現場の先生方が情報交換する場に居合わせて,双方の考え方をアシストしながら橋渡しする仕事が好きです。

 そうしたやり取りの中で,システム的なチャレンジを提案したり,ツールがもたらす可能性から現場の在り方を提案したりするのが私の流儀です。そうした提案は,すぐには実現しないものばかりですが,それぞれの立場の思考を刺激するという意味で,また違う形になって出てきた時には嬉しかったりします。

 そういう仕事で私の名前が出ることはないんですが,まぁ,それでいいんです。

情報と接する自分を見直す

 新型インフルエンザ(swine flu)に関する事態は,私たちの日頃の情報収集に関して見直してみる良い機会を提供しているようにも思う。私たちはどこからどんな情報を得て,どう扱い,どう判断して行動に結び付けるべきなのか。特に,健康や命に関わる事態だけに,情報モラルにも関わる。

 未整理だが,私たちは次のような情報をあちこちで見たり聞いたりすることになった。

 ・新型インフルエンザ自体の知識(型や毒性,感染力)
 ・今回の感染拡大が起こった,そもそもの原因(に関する推察)
 ・感染者をめぐる情報
 ・予防など対策の方法
 ・感染範囲の最新状況
 ・感染した場合の症状や推測される結果
 ・世間,機関,組織などの方針
 ・具体的な対応方法
 ・正しい情報の取得と冷静な対応や行動の必要性
 ・事態や状況に対する風説
 etc.

 興味深いのは,あらかた見たり聞いたりしたあとになると,ほとんどのメディアで流れている情報は二次的なものに思えて,緊迫感が一気に失せてしまうことである。あとは,「新たな感染者の確認」というニュースの繰り返しにみえる。

 そうなったとき,何をどのように判断して,どのような行動をとるのかが問われる。そして,今回の全体状況を見た時に,日本の私たちの行動パターンがあらためて浮かび上がったようにも思う。明らかになっている感染回避方法をとって安心を確保しようとする行動自体は当たり前なことだと思うが,その広がり方を見ると,いかにメディアの影響が強いかがわかる。

 思考実験をしてみるとよいのだが,普通のインフルエンザが流行しているというときのことを思い返して,私たちはこのような反応をしたことがあっただろうか。その上で,普通のインフルエンザが流行している時に,今回の新型インフルエンザと同じ反応をするためには,どんな条件が必要だろうか。

 インフルエンザが普通か新型かに関わらず,感染力や毒性はそれぞれ異なり,それぞれの時に適切に対応しなければならない。インフルエンザに関する「正確な情報」は,厚生労働省の新型インフルエンザ情報ページなどの公的機関情報を頼ることになろう。

 それでも私たちは,正確な知識がそこにあっても,報道量やメディアの騒ぎ方といったところに,かなり影響を受けて,行動してしまっているのだなと思う。

 そのことの良し悪しを決する必要はなく,自分が納得できる形で問題の発生を防いだり,事態への対応を的確に行なえればよいと思う。逆に,それが達成できないのであれば情報源や判断や行動に問題があるということでしかない。結果が出てみないと分からないという世界だが,それゆえに人々はわかりやすい情報に飛びつくのかも知れない。

 まだ考えるべきことはあるが,またいつもの一週間が慌ただしく始まる。

リキッドな私

 新しい職場も第3週目が終わろうとしているところ。一週間が過ぎるのは速い。授業のための作業や校務もそうだが,引っ越して仕事に就いたことを知人の皆さんにご報告することも後手に回っている。いま名刺をパソコンの読み込ませたり,年賀状を整理し始めているが,それだけでも時間がかかって仕方ない…。

 『現代思想』4月号恒例の教育特集に,松下良平氏の「リキッド・モダンな消費社会における教育の迷走」という論考があった。そこで扱われている社会学者のジグムント・バウマン氏の著書(『リキッド・モダニティ』等)が気になったのであれこれ取り寄せたのだが読めていない。そういえば書店で『コミュニティ』という本が並んでいたなぁ,そっちも読みたかったのに。

 流転漂流するのに慣れた私にしてみると,リキッド・ライフ(液体的・流動的な生活)と改めて言われて,そのような生き方があまり望ましくないと指摘されると,ちょっとハッとする感じになる。

 普通は,就職したら,嫁さん見つけて,家でも建てて,落ち着いた生活や人生を送るのが健全なのかも知れない。実際,そういう近代の側に立つバウマン氏は,一連の著書でリキッドな社会や生活を批判している。

 でも,携帯電話やそれに類する道具が普及して,ユビキタスな環境が現実化する今日において,社会はリキッドたることをけしかけてくる。それも消費という誘惑を使ったり,雇用という条件をちらつかせたりして。

 都会と地方都市では,その影響の大きさがだいぶ違うのかなとも思う。結局,物事がつながっているので,まったく影響がないわけではないが,やはり地方は土着の共同体風土がリキッドになりにくい要素として残っているのではないだろうか。

 共同体やムラ社会,日本人の意識みたいなところは,山岸俊男氏の社会心理学のお話をもうちょっと丁寧におさらいをしないと…。ああ,でもあれこれやってからだな。

自分はどんな存在か?

 ドキュメンタリー映画監督マイケル・ムーア氏の最新作「シッコ(SiCKO)」をレイトショーで観た。「考えさせられる映画だった」という月並みな言葉は横に置いて,どんな風に考えさせられたのかを書くべきなのだろう。
 ムーア監督は,これは「私たち(米国人)とはどんな存在なのか?」という問いかけをするための映画だ,と何かのインタビューで答えていた。そして本人も言っているが,それは米国人に限る必要のない問いである。
 私は「プロフェッショナルとして就労するとは何なのか?」という問いかけをしている映画にも見えた。或いは単純素朴に,どんな風に働いて生きていくことを望んでいるのか?,という問いにも思える。

 私はいま,3本くらいの「私」を同時進行に走らせている。「社会人としての私」「学生としての私」「バカな浪費者としての私」である。実際のところ,シチュエーションによって,これらを混ぜて使い分ける。皆さんには幾様にも見えるだろう。
 どれも本当と嘘の私が存在し,都合次第で使い分ける。私はこれについて大変卑怯だと認識した上で,そのまま自分を許している。私が口だけなのは,そういう自分への甘やかしがあるからだ。
 ただし,それと引替えに,私は良い意味でも悪い意味でも徹底的に「教育的」であることにのみ,この身を捧げることにした。私の意識の中で,それを自分自身に対する免罪符として。だから私は善意を語りもすれば,悪意に満ちた皮肉をまき散らす。「教育的」であるという名の下に,私は自分を使い分け,ああでもないこうでもないと「教育的」な振りをするのである。
 けれども,何故そんなことになったのだろう。私にだって,ストレートに教育に貢献するための入口が幾つも用意されていたし,実際,そのうちの一つに身をゆだね,9年間も短大教育の現場で奉仕したはずではないか。
 なぜ私はいま教育現場で働いていない?
 なぜ私は地位や収入を捨てて,大学院生なんぞに戻った?
 なぜ私は人に冷や水掛けるような駄文を書き続けている?
 なぜ私は自分に善くしてくれている人たちを,最後のところでは信用していない?

 なぜ?を掘り下げて,一体何が自分にそうさせているのかを考え続けてきた。ムーア監督の映画っぽいって?残念ながら彼の映画に巡り会うよりも前から,人生の大半掛けて考え続けていることだから,映画に感化されたってわけじゃない。たまたま作品に出会って,波長が合っただけである。
 いろんな物事に原因を押しつけられるような気もする。あんな経験こんな経験。傷つけ傷ついたこと,裏切ったことも裏切られたことも,一度や二度じゃないから,そりゃ人格形成には大きく影響している。
 出会った人々も千差万別。どんな悪党だって,過去を振り返る時点にまで来れば,感謝の念さえ抱く。人がいいって?そりゃどうも。調子がいいな?そりゃそうだ。
 そして分かった。「矛盾だらけの世の中を生きていくためには,自分自身が矛盾に満ちていることが一番楽である」ということが。だから,すべての「なぜ?」への答えが,「それを自分が望んでいるから」あるいは「必要としているから」だ,ということに私は「すでに」辿り着いていた。
 だから私は,いくつもの自分を走らせることで,事態を混沌とさせることに甘んじている。そして,そんな自分を受け容れてくれそうな場所が「教育」という世界ぐらいにしかなかったのである。

 「こんないつまでたってもモラトリアムな野郎が蔓延っているから教育が良くならないのだ」と誰かがお考えなら,それは一つの見識だと思うが,私にしてみると,大して考えてもいないそんな感想論に,失望感すら抱く。
 もちろん私は天才ではないし,学力的に優秀とは言い難い。なぜいまだにペラペラと英語がしゃべれないのか,腹立たしく思うことすらある。研究者としての業績も,褒められたものじゃないだろう。
 それでも周りに対して誠実に対応してきたし,身を粉にして働いたこともある。私の周りって言うと結局は教育分野でしかないから,教育に対しても人一倍は気を遣って努力してきたと思う。そう,能力が無い分,達成度が低かったとしても私だって教育のプロフェッショナルとして存在していた。
 なのに「教育」に携わる者として,束の間の満足感を除けば,どんどんどんどん「教育」に対する人々の意識が衰退している現実に打ちのめされることが増えていった。個人的なレベルの事柄もそうだったが,国全体の雰囲気についても「教育」を印象論・感想論に閉じこめ,教育研究や志ある研究者をないがしろにし続けていることにもうんざりした。
 「プロフェッショナルがプロフェッショナルとして生きていくことが叶えられない」なんて,そんな国はどうかしている。気がつけば,声の大きいアマチュアがこの国の教育を云々して影響力を持っていたりする。(追記20070829:まあ,「そういうアンタが一番アマチュアだ」という指摘はもっともである。でも,当然ここではそういう次元の話をしているわけじゃない。)

 マイケル・ムーア監督の「シッコ」は米国の医療保険制度をテーマとして扱うために,その比較対象としてカナダとイギリスとフランスの保険制度やサービスを取材し,なぜWhy?を連発する。
 すると話は医療に留まらず,教育の保証にも及び,それらの国の人々が送っている生活の様子を見せていく。さらに,現地に移り住んでいる(監督にとって同郷の)米国人たちにもインタビューし,米国との生活の違いを語らせている。
 映画における現実の切り取り方に異論はあるかも知れない。それでも,そこには「医者は医者としての使命を果たす生き方」が叶えられ,「教師は教師としての使命を十全に発揮できる生き方」が支えられ,「人が人として生きる喜び」を保証する社会があるという事実について,間違った解釈は入っていないと思われた。
 だから私たちにとって,「たとえ困難があろうと自分が選択した道を安心して生きられる」ということが何よりも大事なのではないかと,映画は訴えているようにも思えるのである。この場合の「安心して」というのは,「困難に立ち向かう」のに必要なバックアップを受けられることだと私は考える。
 ところが日本は,米国を真似て,あるいは他国を見るときにも米国の用意した色眼鏡を掛けて,どんどん「安心して困難に立ち向かえない」国になろうとしてきた。結果的には,財政的な浪費が過ぎて,元に戻りたくても戻れないところまで来てしまっている。
 そんなとてもきわどい状態にある世の中で,教育に関しても丁寧な取組みが必要となっているのに,教育基本法改正?教育再生?教員免許更新制?耐震化や教職員増員計画で予算倍増?
 発しているメッセージが無茶苦茶で,誰一人として納得のいく説明が出来ない。プロフェッショナルとしての仕事はどこにあるのだろう。あるいは現場にいる無数のプロフェッショナルを支えるという発想はどこにあるのだろう。
 これは「困難」なんかじゃない。「安心」が脅かされているだけである。見せかけの困難は,私たちが本来的に生きることを遠ざけてしまう。

 それにしても,なぜ日本がそのような国になってきたのか?
 私は自分自身について出した結論と同じように解釈している。それは,日本の人々がそう望んだからだと。もっと正確に書けば「合成の誤謬」ということなのだと思っているが,いずれにしても,この国はそういうものを修正しようとする手段に乏しいことを許している時点で,そうなのだと思う。
 たぶん,どんな現場も,今できることを誠意を持って真面目にやろうとするだろう。困難に立ち向かうプロフェッショナルとして生きるために,来る日も来る日も努力を続ける。そうやって,この国を支えている。
 けれども,それは本来的なのだろうか。その困難は,本当の困難?他国が直面もせずに悩みもしない事柄に,なぜこんなにも大きなエネルギーを割く?誰かが選択の仕方さえ変えれば済むこともあるはずなのに。なぜ,それを問題にしない?

 私は,人々の「割り切り」に敬意を表する。
 「現実的であれ。」私自身,何度だって念じた。
 問い続けているだけでは何も産めやしない。どこかで現実的になって,現実解を出さなくてはならない。それは妥協の連続だ。だから私自身,下手な妥協を繰り返してきた。もっとエレガントに妥協できればと思う。
 けれども同時に,私は,人々の「割り切り」を疎ましく思う。
 その割り切りは,何かを覆い隠したり,見ないことだったりする。ときにその割り切りがこちらに向けられたりすれば,喪失感を抱いてしまうだろう。最後のところで,人は分かり合えないのかも知れないが,その事が頻発すれば,生きる意味にも関わる重大な問題を引き起こしかねない。
 「シッコ」のラストは,そのさじ加減をどこに置くべきかについて,ムーア監督なりの描き方がなされている。それだけでいいの?というさらなる問いかけもあろうが,一つの作品が描く一つの結論としてはそれでいいのだろう。
 このさじ加減問題について適切な距離を取りづらい私は,様々な「私」を同時進行で走らせることによって,それを潜り抜けようとしているわけである。
 ご存知のようにマイケル・ムーア作品は,内容や情報の取り上げ方や扱い方について問題視されるため,常に「鵜呑みにするな」という言葉と共に紹介される。どんな制度や仕組みにも長所短所があるわけで,描き方次第でどのようにも印象を変えられる。それゆえ,この映画にもある種の割り切りがあり,そして見る側には,割り切りで見るか,割り切らずにより問題に直接触れていくかを迫るのかも知れない。
 とにかく,見て考える価値のある映画だ。

財政制度等審議会 資料

 文部科学省に,中央教育審議会のような審議会がいろいろあるように,他の省庁にも,いろんな審議会がある。教育に対してケチなばっかりで,ちっともいい顔してくれない財務省には,財政制度等審議会というものがある。
 2007年5月21日の財政制度等審議会 財政制度分科会 財政構造改革部会で配布された資料「文教予算関係説明資料」は,財務省側のスタンスから見た文教予算の大変興味深い資料である。
 財務省主計局は,開口一番「単に対GDP比のみをもって教育予算を国際比較するのは不適切」と斬ったかと思えば,続けて「生徒一人当たりの公教育費支出や,一人当たりの教職員数が大幅に充実したにもかかわらず教育を巡る状況が深刻化していることが,真の問題」と断言し,「教育予算の額を伸ばせば,あるいは教員の数を増やせば教育が良くなるということではなく,教育予算のメリハリ付けを徹底し,予算の中身の充実,助成・配分方法の見直しが重要」と予防線を張り巡らすのである。
 いやはや,サイフを握っている人はいつでも強気である。

 財務省の人々の根性は,これはこれで真っ当で,決して潤沢とはいえない(むしろ破綻状態にも近いという見方もあるような)財政状況のもと,国家(限りなく自分たち官僚制度とイコールなのだろうが)を維持するため努力しているわけだ。ある意味,立場に忠実に働いていらっしゃるのだと思う。
 それでも文教予算に対して,このような敵対的ともいえる方針を貫くのは,もとはといえば教育に対して本気で金出す気のない政治家連中が作り上げた財政構造にある。そして,今回の教育再生云々の動きが政権の最優先課題と言われているにもかかわらず,各方面からホラ吹き呼ばわり・文句タラタラなのは,文教予算軽視の財政構造を変えようと本気で闘いもせず,ほったらかしにしているからに他ならない。
 要するに今回の財政制度等審議会・配付資料は,そういう現政権の最優先課題のハリボテぶりを示す証左であり,教育再生云々の議論が目くらまし,ミスディレクションに使われていることを再確認させる。
 改めて,お金に始まりお金に終わることが世間の常識だと痛感する。

 財務省主計局の言い分は,金勘定の上ではなるほど精緻で理屈に合う話ではあるが,教育論的には極めて横暴な議論である。たとえば苅谷剛彦氏が提示した「標準法の世界とパーヘッド世界」(関連駄文)に関する議論を考えてみても,一人当たりの教育予算や教員数が数値上増加したからといって,全国隅々に存在する公教育を(たとえ減らすにしても)維持し,かつ充実させることは簡単なことではない。その「真の問題」とやらの難しさを,彼らは(書いていながら)分かっちゃいないのである(だって,それが仕事じゃないし…)。
 役人は,自分の思いや考えで文章や資料を作成はしない。だから,こういう資料が配付され公表されるというのは,それがこの国の方向性として合意を得ているからである。
 あなたが,この財務省の資料を見たり,この資料にもとづく新聞記事を見て「財務省って酷いなぁ」と思ったとしても,それは感想のレベルとしてはよいとしても,本気でそんなことを考えたりしてはいけない。
 文教予算,つまり教育予算にお金を回さないのは,私たち国民がそう認めてきたからであり,総理大臣以下,閣僚や政治家たちを通して,官僚にそうさせてきたからである。
 もしもそれを変えたければ,私たちは基本に戻って望ましいと思う選択をする他ない。

企業と付き合う

 東京に出てきて,自分を取り巻く状況で変ったことはいろいろある。分かりやすいところでは,いくつかの企業とお仕事をするようになったことである。その事には,メリットもあれば,デメリットもある。今のところ深刻なデメリットはない。むしろ今後の教育世界を考えれば,教育のことを考えてくれる企業と関係することは,とても大事なことだと思う。

 「教育或いは学校は,企業と関係を関係を持たない」ことが定常状態か理想だと考えられている節が,社会通念みたいなところにある。組織目的の違いもあって相容れない部分は多いし,日本の様々な法律が「特定の」何かのためにする活動やら何やらを禁じていることもあって,学校が営利を目的とする私企業と距離を置いているのは確かである。
 けれども現実に,教育や学校は深く社会に根ざしているがゆえに,企業との関係を古くから維持してきたことは明白である。私立学校の中には,その設立から企業が深く関わっているものもある。公立学校も対価を払い,教科書や学校の備品は一般の私企業から供給してもらっている。それぞれの家庭は,必要と判断して自費で私塾に子どもを通わせているところもあろう。
 もし教育に企業が関わらないのであれば,私たちは今日普通に運営している教育活動を実現することはできない。まずはその大前提について再認識をしたい。

 その上で,なぜ私たちは,企業が教育の領域に関わることに一瞬の抵抗感や違和感を抱くのだろう。その心性は,どんな事柄を原因として成り立っているのだろう。
 教育に対し企業が関わることが必須であるのに,そのことに戸惑いを感じるとしたら,それは実際の「関わり方とその目的」に何かしら不安を感じるからかも知れない。適正に関わる分には問題とならないのに,場合によって不安を抱くとすれば,それは教育の本来的な目的から外れた「関わり方」や「関わりの目的」の可能性を心配するからではないだろうか。
 そもそも企業が活動するフィールドは資本主義原理を基盤としている。企業活動の目的は,株式会社の場合であれば,利益を上げて出資者に配当することである。もちろん単に念じていてもお金は入ってこないため,企業は活動の目的やら内容を明確化して,それに従って実際の経済活動することを通して利益を上げる必要がある。
 企業の経済活動は,特定の株主や社員の利益を目的とした「営利」活動と見なされる。一方,たとえば義務教育であれば,全ての国民が無償で等しく受ける権利を持つものという「非営利・平等」さが前提とされている。教育の世界では「特定の誰かが得をしちゃいけない」という理念が根強いわけである。このことが,教育における企業との関係性を遠く隔てる元凶になっている。
 けれども,教育も企業も社会の構成主体である以上,関係を持たないわけにはいかない。そもそも営利活動と非営利・平等とが共存できないわけではない。両者の目的が互いに脅かされない限りにおいて,組織形態の違いを超えた連携はむしろ妥当な社会活動として奨励されるべきである。それが私たちの住む「社会」という場である。今日,企業の社会貢献活動が重要視されているのも,その事を再認識した現れである。
 そのような共存において「互いの目的が阻害されない」ためにも,教育の側は企業の活動を幅広く観察しかつ注意深く吟味し,適切なサジェスチョンを与える術を持つべきである。また企業側も教育活動の本質を理解した上で,教育そのものに不利益が生じないよう活動を律する倫理を持たなくてはならない。
 そのような緊張関係のもとで初めて,教育と企業の連携という言葉は意味を持ちうるし,それぞれの不安や抵抗感を取り除くことが可能になるのだと考えられる。

 前職で複数業者とやりとりをする仕事をしたことがある。業者とのつきあい方は難しい。だから,緊張感を持って臨まなければならないと心掛けていた。もちろん緩急はあったにしても,相手の提案内容に対しては別案の可能性を問いかけたり,こちらも勉強して業者の知らない情報を提供することで,お互いにダレないようにした思い出がある。

 先般行なわれた全国学力・学習状況調査に2つの業者が関わったことは,ここでもご紹介した。私はそれを糾弾するために紹介したわけではない。そこに2つの企業が関わっていることを知っておくことが大事だと思ったからである。それはそれらの企業に対して緊張感を持ってもらうためであるとともに,私たち自身が緊張感を持つために大事だと思うからである。
 今回の例だけをとって,私企業に個人情報が流れるという懸念を大きく取り上げ問題にしようとしているところもある。その取り上げ方はある意味で悪くない。互いに緊張感を持つための一つの方途になるからだ。けれども,この取り上げ方はミスディレクションを起こしてしまう意味で悪く働く。こうした企業が教育に大きく貢献している真っ当な部分を,まったく見ないまま評価を下し,そのくせサジェスチョンも対案も出さず,何もしない「ダラけた」態度に荷担するからである。
 「20世紀まではそうした態度でも通用した」と譲るにしても,今日は21世紀である。山積みの問題が悪影響を顕在化させ,世代間での利益格差も顕著になってきた時代において,こういうダラけた態度はもっとも害多きものである。
 だからこそ教育に関わる人間は,短絡的な思考に陥ることなく,自分自身の手足や頭を使って物事を見極めていく努力を怠ってはならないのである。

 私が企業の方々と仕事をするようになって,得たメリットは企業側の努力が見えるようになったことである。そこで展開するジレンマについても知るようになった。もちろん「そりゃ違うでしょ」と感じる瞬間が無い訳じゃなく,それは職業柄当然なので,それも含めて教育の目的に沿うようサジェストしていくことが私の役目だと思う。
 一方のデメリットは,駄文を書くときに配慮すべき事柄が増えたかなということである。好き勝手に書き続けている駄文であり,場合によっては過激なときもあるが,いくらかは配慮しながら書いてきたつもりである。それが,知り得た事柄について今まで以上に配慮しながら書くようになったのかも知れない。あんまり変ってないかも知れ無いけど…。
 いずれにしても,私がお会いしている方々は,それぞれが真っ当に努力し,企業活動を通して教育に貢献しようとされている。その個々人に対して,私は私なりに緊張感を持って接することが求められているのだなと考えて関わっている。
 それゆえに私自身は,自分が必要とされなくなれば関係を終わらせることについて異論はないし,仮に直接的に仕事をしなくなっても,間接的には社会の構成員の仲間として連携していくことは変らないと思っている。
 だからこそ,緊張感は絶えず持っていたいし,今後も自分のできる範囲のことで誠実に付き合えればと思うのである。まあ,振られたら傷心旅行にでも出かければいいさ。

有り難いこと

 不思議なことは起こるもので,そんな出来事をきっかけに,感謝することの大事さを思い出すことがある。今朝もそんなことがあった。
 ここ数日,憂鬱な気分の連鎖に陥っていた。自分でも何故だか分からないが,物事がうまくかみ合わないことが続く。なるべく新しい環境に対して従順でありたいと思うが,下手に歳もとったから周囲に対してある種の威圧感を抱かせるのかも知れない。本当に場違いな迷い子になっちゃったかなぁと,悩まないといったら嘘になる。
 その上,いくつかの予定がキャンセルされて寂しい気分になる。残念な出来事は束になってやってくるなぁと,さらなる憂鬱にはまりかける。

 そんなところに,一本の電話。前職でお世話になった先生から「東京に行くから,今夜飲もう」とお誘いがあった。ああ,有り難い。想いは遠方より来たる。
 明日は学部の先輩が東京に出張されているので会うことになっている。いつも遠くから私のことを気にかけてくださっていることに改めて感謝。
 来年度からお世話になる指導教官の先生も,お忙しいのにかかわらず時間を取ってくださり,的確な意見やアドバイスをしてくださる。周りの皆さんも,仕方は様々とはいえ,案じてくださっているのだろう。有り難いことである。
 駄文をお読みになっている皆さんや家族からも,慮りを受けていることを見落としている自分がいた。どうしてその事をたびたび忘れてしまうのか。まだ意識の鍛錬が足りないのか…。精進しないと。

 こんなとき思う。人の視野の持ち方や感謝の気持ちに対する持続力について。高校時代,仏教系の学校だったこともあり般若心経を繰り返し唱えていた。卒業後もたびたび思い出して唱えてみたりしていたが,最近はすっかりその機会がない。深い理由もなく寂しいことかなと思う。
 特定の宗教に縛られているつもりはないが,そういう経験から,何かを無心に唱えるとか,何かを拠り所にするということについて,あれこれ考える機会は多い。
 有り難い出来事をきっかけに,見失っている想いや幸せを探してみるのはいいことだと思う。一方で,不機嫌な自分を抱えることがあっても,それだけじゃならないのは,たぶんこの点ではないかと思うのである。