リキッドな私

 新しい職場も第3週目が終わろうとしているところ。一週間が過ぎるのは速い。授業のための作業や校務もそうだが,引っ越して仕事に就いたことを知人の皆さんにご報告することも後手に回っている。いま名刺をパソコンの読み込ませたり,年賀状を整理し始めているが,それだけでも時間がかかって仕方ない…。

 『現代思想』4月号恒例の教育特集に,松下良平氏の「リキッド・モダンな消費社会における教育の迷走」という論考があった。そこで扱われている社会学者のジグムント・バウマン氏の著書(『リキッド・モダニティ』等)が気になったのであれこれ取り寄せたのだが読めていない。そういえば書店で『コミュニティ』という本が並んでいたなぁ,そっちも読みたかったのに。

 流転漂流するのに慣れた私にしてみると,リキッド・ライフ(液体的・流動的な生活)と改めて言われて,そのような生き方があまり望ましくないと指摘されると,ちょっとハッとする感じになる。

 普通は,就職したら,嫁さん見つけて,家でも建てて,落ち着いた生活や人生を送るのが健全なのかも知れない。実際,そういう近代の側に立つバウマン氏は,一連の著書でリキッドな社会や生活を批判している。

 でも,携帯電話やそれに類する道具が普及して,ユビキタスな環境が現実化する今日において,社会はリキッドたることをけしかけてくる。それも消費という誘惑を使ったり,雇用という条件をちらつかせたりして。

 都会と地方都市では,その影響の大きさがだいぶ違うのかなとも思う。結局,物事がつながっているので,まったく影響がないわけではないが,やはり地方は土着の共同体風土がリキッドになりにくい要素として残っているのではないだろうか。

 共同体やムラ社会,日本人の意識みたいなところは,山岸俊男氏の社会心理学のお話をもうちょっと丁寧におさらいをしないと…。ああ,でもあれこれやってからだな。