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あの歌がきこえて

 2006年も残すところ半月を切る。私自身にとって今年は,大きな転機を迎えた年だった。お世話になった職場を退いて上京。当てもないのに東京へ出て,大学院受験の準備をすることにした。
 自分の人生がどうなるのか。かなりオープンエンドにしていて,ほとんど考えていない。いつか連れられたスナックで,隣の客から「モットーは何ですか?」と聞かれ,困ったあげくに思いついた「教育に貢献すること」というのが唯一の人生目標。ただ,それが自分に為し得ることなのかさえ,分からないまま過ごしている。
 NHK「あの歌がきこえる」で,オフコースの「生まれ来る子供たちのために」が流れていた。オフコースは,4人編成が解散する頃に曲を意識するようになってからのファン。この曲は特に自分の気持ちに入ってくる。あまりに純真な世界観ゆえに,違和感を抱く人も多いかも知れないが,私は結構好きだし大事にしたいと思っている。
 退職と上京という自分のわがままを通し,少なからぬ迷惑を周りにかけたというのに,多くの人たちが快く送り出してくれたり,手を差し伸べてくださった。何か言いたかった人たちもいただろうけれど,面と向かっては口をつぐんでくれたのだと思う。様々な形で助けられていることを思えば,結局は「教育に貢献すること」を全うするしかお返しする術がない。いまは大変未熟だし,これからも大した成果を残せるか分からない放浪者だが,自分なりに取り組んでいこうと思う。
 あと数ヶ月で,長い長い春休みが終わる(本当に休んでたかどうかは,よく分からない…ははは)。人生二度目の大学院生活が始まる。若さじゃ負けるが,その辺は精神年齢の低さでカバーするとして,年の功で経験が生かせるように頑張りたい。

教育界世代議論メモ

○世代役割
70歳代以上 〜歴史を語る
60歳代 〜経験を語る
50歳代 〜責任を引き受ける
40歳代 〜現実を動かす
30歳代 〜課題に邁進する
20歳代 〜挑戦する
10歳代以下 〜世界を学ぶ
○世代特徴後
70歳代以上 〜理想
60歳代 〜回想
50歳代 〜俯瞰
40歳代 〜冷徹
30歳代 〜野望
20歳代 〜情熱
10歳代以下 〜夢
○つぶやき
 年齢規範と世代規範という枠組みを使用したのは稲増龍夫氏であった。googleで検索しても,このキーワードを使っているページはほとんどないので,あまり一般的に認知されているとは言い難いようだ。枠組みの妥当性があるのかないのかは置いておくとして,示唆に富んでいることは確かである。
 いまの若い人たちが「子どもと友達でいたい」という線引き曖昧な関係を好んでいるのは悪いことではないが,だからといって線引きできなくなってしまうことは決して望ましいことではない。
 団塊の世代以上の人たちが「気持ちを若々しく保ちたい」という人生我が世の春を謳歌したいというのは悪いことではないが,だからといって引き際を忘れていつまでも舞台中央に居座ることは決して望ましいことではない。
 中間の世代の人たちが「誰にも迷惑かけない自分の生活が大事」という開き直りで過ごすのも悪いことではないが,だからといってみんなが好き勝手に動いてバラバラでしかないのは決して望ましいことではない。
 けれども,どうしてそうなってしまうのか。そのことを想像力めぐらせて考えてみることが大事だと思う。「そうせざるを得ない世の中」だとしたら,それは何かしら変えていけるかも知れない。
 個々人の思いや希望は個々人の自由であるから,それに働きかけられるのは直接対峙する人たちだけである。何かしら包括的なアプローチをとりたいというなら,「そうせざるを得ない状況」そのものに注意を向けて,働きかけられるかどうか考えないといけない。もっとも教育基本法なんてのは的外れもいいとこである。
 稲増氏は『パンドラのメディア』(筑摩書房2003)でその対象としてテレビを扱った。その題材選びはとても的確だと思う。日本には宗教がない代わりにテレビメディアがそれを立て替えちゃっている現実がある。
 『日経ビジネス』2006.12.4号の特集はベネッセ・コーポレーション。会長インタビューのタイトルには「宗教を超える株式会社へ」とある。その響きに違和感を感じないわけではないが,けれども,それは真面目に議論されるべき事柄だと思う。
 日本国内で過ごす分には,曖昧な宗教観が心地よい。けれども世界と対峙する段になれば,主張する何かを持たなくてはならない。テレビか,株式会社か。学校や教育という神話が崩れつつある今,目立った選択肢がこの二つくらいというのも寂しい話。
 それよりも何よりも,どこもかしこも倫理観も哲学も失われた世界。世界を学ぶ次代の子どもたちに,胸を張って示すことの出来る何かを残していかなくてはならない。それが先に生まれた私たち世代の共通した義務のはずである。

忘れられない事

 あの事件が起こったとき,私はラジオを聴いていたのだろうか。記憶に自信がない。とはいえ,ラジオからそのニュースを得ようとしていたのは憶えているし,CNNのWebサイトを注視していたことはよく憶えている。
 それから数ヶ月後に,個人的な失敗をしてしまい,それをきっかけにニューヨークへ行くことを決心する。事件からちょうど一年後,私は初めて訪れたニューヨークで黙とうをしていた。
 それからは,少しでも世界的な視野というものを意識しなければならない,そう思ってきた。けれども,自分の能力の乏しさが足かせになって,どうもうまく出来ていない。世界のことを知っていくのは大事だけれども,世界の中のこの国を足場にやるべきことがたくさんある。そう思うと,いつもの悪い癖で丁寧さがどこかへ飛んでしまう。
 あれから歳月が流れて,世界はますます混とんとしてしまったようにも思う。だというのに,日本の私たちの生活はどことなく変わらないようにも見える。緩衝材に守られ慣れたこの社会は,緩衝材が擦れて破れた事態に対応することが出来るのか。一日一日,その日がやって来ることを不安に思いながら生活をしている。
 それでも,教育の世界は,現実の先に希望を折り込まなければならない世界。少なくとも子どもたちが現実を自ら感知して判断を下せるところまでは,可能性を語らなければならない世界。目をつむれというわけではない,幻想を見ろといっているつもりもない。どんな形にしろ,自分を語っていく努力を続けなければならないということだと,いまのところ思っている。
 911。人々が空を見上げてから,5年である。

見えない世界を見る

 企画助言の仕事を終えて,ご一緒している先生と渋谷で昼食を取った。それからNHKまで連れて行ってもらって,スタジオパークを見学した。国会中継のために「スタジオパークからこんにちは」の放送はなかったが,おかげで入場者も多くなく,のんびりと見学できた。スタジオでは,「功名が辻」と「おかあさんといっしょ」の収録が行なわれていた。でも仲間由紀恵を直接見ることは出来なかった,残念。
 かつてはNHKで働きたいと思ったことがあった。漠然とテレビ局で働きたいという思いでしかなかったので,アナウンサーとかカメラマンとか,仕事の種類関係なくいろいろやってみたかった。現在の実情がどうあれ,かつてNHKの番組は,僕らを楽しませてくれたし,様々なものを画面を通して見せてくれる仕事に憧れさえ抱いたのである。
 スタジオパークに展示されたラジオとテレビの歴史と,NHKアーカイブスから選ばれた主な放送番組の歴史を振り返ると,ほんの少しだけ,当時の憧れを思い出す。何故だろうと考えてみると,そこに映る人の存在を想うからではないかと気づいた。さらにいえば,画面に映ってはいないけれども,その画面から伝わる作り手の気持ちのようなものを感じるからではないか。
 昔に比べれば,番組の映像技術も演出技法も高度化し,過去の番組映像は古くさく感じるのも確かである。そうやって(限られた範囲だけれども)過去と現在を比較できる立場にいる人間として抱く感情は,特別なものかも知れず,それが普遍化できるわけではないかも知れないが,「見せ方が上手くなった分,感じさせるものが貧しくなった」という気がしないでもないのである。
 何もかもを「見える化」して明示していくことは,伝達においては必要不可欠なのかも知れないが,「見えない世界を見る」ための能力の育成方法としては限界を持っているようにも思うのだ。というよりも,「やりすぎ」なのかも知れない。
(追記:20060608)—
 こう書いてみたものの,本心とはずれているようにも思う。私だって見せ方上手なリッチコンテンツ大好きだからだ。要するに,私の感受性が弱まってしまったか,あまりに重厚な画面づくりに意識がいきすぎて,本来画面から読み取るべき内容を読み取れないか,作り手の気持ちや心意気を感じとることが出来なくなってきたか。あるいは,作り手の方もそうした見せ方の技術的なところにエネルギーを注ぎすぎてしまうアンバランスな状態にあるのではないか,といった根拠のない危惧なのだと思う。
 少し違う例で考えるとすれば,教科書の分量に関する議論で考えることが出来る。見せることにこだわって,デザインを改善し,分量を制限し,全体的に取っ付きやすさを増した教科書。しかし一方で,分量の少なさが知識の少なさを招き,より深い学習や複雑な問題からの距離を大きくしてしまったとも指摘される。学校教育で触れさせる学習情報の絶対的な量が貧しくなったために,子どもの理解の多様性を封じ込めているのではないかとも考えられている。
 結局,一つで全てを満たすことは出来ないのだから,組み合わせの選択肢を用意して活用する環境や条件をつくるしかない。とはいえ,選択という環境条件は,選択主体の芯をどうするかという,とっても大きな問題を掘り起こしてしまうのだけど。

 その文脈において,どう解釈していけばよいのか,まだ考えらしい考えもないのだが,ここのところ911テロの周辺を描いた映画が登場している。「United 93」はハイジャックされた飛行機の出来事をドキュメント風に扱った映画だと聞いている。あの事件を映画で扱うのはまだ早すぎるのではないかという議論も起こったそうだが,事件の記憶を風化させてはならないという遺族たちの思いに後押しされているとも聞く。最近になってもう一つ出てきたのが,ハリウッド的にアレンジされたと思える映画「World Trade Center」である。オリバー・ストーンとニコラス・ケイジが組んだ実話映画化作品。予告編を見るだけで少し感傷的になるのは,これが実話だからなのか,ハリウッドによる映画化のせいなのか,正直戸惑いを感じる。たぶん後者なんだろう。だから,またこの映画に関しても議論が巻き起こるかも知れないし,それでも事件当日に勇敢にも現場に立ち向かっていった警察や消防士たちの活躍という実話のもとで,映画の結末次第では,もしかしたら何かまた違った影響を与えるかも知れない。
 カリキュラムを考えるということは,世界を考え,見えない世界を見ようとする行為のことである。そのことは(大文字過ぎるとしても),すでにわかっていることなのだ。それを実際の私たちの生活に据えようとする(桁を下げるとか,ブレークダウンするとか,言い方は何でも結構だが…)とき,どんな実際行為として具体化し,そのための環境をどのように構成していくのか。そのことについて,想像力を働かさなければならない。

電子書籍マーケット

 職場での仕事を早々に済ませ,東京に出かけた。とある公開研究会に出席するためだ。研究会催しの告知がある度に,参加したいと予定を調整するのだが,授業やら校務などとぶつかって,結局参加できないことが多かった。
 研究に携わる上では,やはり他者とのコミュニケーションも必要だ。多くの人の関心がどの辺にあるのか,別の立場での見方はないか,自分の考えている問題意識は妥当かどうかなどを確かめるには,研究会という場でやりとりしてみなければわからないものである。
 私が住む東海圏だって,もちろん様々な研究会が催されている。ただ,私の関心を引くものは圧倒的に東京で催されることが多い。学生時代だと,時間はあれど東京へ行く資金がなかった。社会人になると,資金はあれど,時間がなくなった。しかし幸い,時間は調整ができる部分もある。なるべくそういう研究会に参加したいというのが私のモットーだ。
 そして今回参加したのはLearning bar@Todai「未来の教科書はどうなるの!?」という公開研究会だ。東京大学の中原さんら情報学環BEAT講座が催してくれていて,ざっくばらんにテーマに関する最新動向を知り,意見交換しましょうという趣旨の研究会だ。開始時刻も夜7時から。夕方早くに名古屋を出れば,間に合う時間だ。

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