財政制度等審議会 資料

 文部科学省に,中央教育審議会のような審議会がいろいろあるように,他の省庁にも,いろんな審議会がある。教育に対してケチなばっかりで,ちっともいい顔してくれない財務省には,財政制度等審議会というものがある。
 2007年5月21日の財政制度等審議会 財政制度分科会 財政構造改革部会で配布された資料「文教予算関係説明資料」は,財務省側のスタンスから見た文教予算の大変興味深い資料である。
 財務省主計局は,開口一番「単に対GDP比のみをもって教育予算を国際比較するのは不適切」と斬ったかと思えば,続けて「生徒一人当たりの公教育費支出や,一人当たりの教職員数が大幅に充実したにもかかわらず教育を巡る状況が深刻化していることが,真の問題」と断言し,「教育予算の額を伸ばせば,あるいは教員の数を増やせば教育が良くなるということではなく,教育予算のメリハリ付けを徹底し,予算の中身の充実,助成・配分方法の見直しが重要」と予防線を張り巡らすのである。
 いやはや,サイフを握っている人はいつでも強気である。

 財務省の人々の根性は,これはこれで真っ当で,決して潤沢とはいえない(むしろ破綻状態にも近いという見方もあるような)財政状況のもと,国家(限りなく自分たち官僚制度とイコールなのだろうが)を維持するため努力しているわけだ。ある意味,立場に忠実に働いていらっしゃるのだと思う。
 それでも文教予算に対して,このような敵対的ともいえる方針を貫くのは,もとはといえば教育に対して本気で金出す気のない政治家連中が作り上げた財政構造にある。そして,今回の教育再生云々の動きが政権の最優先課題と言われているにもかかわらず,各方面からホラ吹き呼ばわり・文句タラタラなのは,文教予算軽視の財政構造を変えようと本気で闘いもせず,ほったらかしにしているからに他ならない。
 要するに今回の財政制度等審議会・配付資料は,そういう現政権の最優先課題のハリボテぶりを示す証左であり,教育再生云々の議論が目くらまし,ミスディレクションに使われていることを再確認させる。
 改めて,お金に始まりお金に終わることが世間の常識だと痛感する。

 財務省主計局の言い分は,金勘定の上ではなるほど精緻で理屈に合う話ではあるが,教育論的には極めて横暴な議論である。たとえば苅谷剛彦氏が提示した「標準法の世界とパーヘッド世界」(関連駄文)に関する議論を考えてみても,一人当たりの教育予算や教員数が数値上増加したからといって,全国隅々に存在する公教育を(たとえ減らすにしても)維持し,かつ充実させることは簡単なことではない。その「真の問題」とやらの難しさを,彼らは(書いていながら)分かっちゃいないのである(だって,それが仕事じゃないし…)。
 役人は,自分の思いや考えで文章や資料を作成はしない。だから,こういう資料が配付され公表されるというのは,それがこの国の方向性として合意を得ているからである。
 あなたが,この財務省の資料を見たり,この資料にもとづく新聞記事を見て「財務省って酷いなぁ」と思ったとしても,それは感想のレベルとしてはよいとしても,本気でそんなことを考えたりしてはいけない。
 文教予算,つまり教育予算にお金を回さないのは,私たち国民がそう認めてきたからであり,総理大臣以下,閣僚や政治家たちを通して,官僚にそうさせてきたからである。
 もしもそれを変えたければ,私たちは基本に戻って望ましいと思う選択をする他ない。