企業と付き合う

 東京に出てきて,自分を取り巻く状況で変ったことはいろいろある。分かりやすいところでは,いくつかの企業とお仕事をするようになったことである。その事には,メリットもあれば,デメリットもある。今のところ深刻なデメリットはない。むしろ今後の教育世界を考えれば,教育のことを考えてくれる企業と関係することは,とても大事なことだと思う。

 「教育或いは学校は,企業と関係を関係を持たない」ことが定常状態か理想だと考えられている節が,社会通念みたいなところにある。組織目的の違いもあって相容れない部分は多いし,日本の様々な法律が「特定の」何かのためにする活動やら何やらを禁じていることもあって,学校が営利を目的とする私企業と距離を置いているのは確かである。
 けれども現実に,教育や学校は深く社会に根ざしているがゆえに,企業との関係を古くから維持してきたことは明白である。私立学校の中には,その設立から企業が深く関わっているものもある。公立学校も対価を払い,教科書や学校の備品は一般の私企業から供給してもらっている。それぞれの家庭は,必要と判断して自費で私塾に子どもを通わせているところもあろう。
 もし教育に企業が関わらないのであれば,私たちは今日普通に運営している教育活動を実現することはできない。まずはその大前提について再認識をしたい。

 その上で,なぜ私たちは,企業が教育の領域に関わることに一瞬の抵抗感や違和感を抱くのだろう。その心性は,どんな事柄を原因として成り立っているのだろう。
 教育に対し企業が関わることが必須であるのに,そのことに戸惑いを感じるとしたら,それは実際の「関わり方とその目的」に何かしら不安を感じるからかも知れない。適正に関わる分には問題とならないのに,場合によって不安を抱くとすれば,それは教育の本来的な目的から外れた「関わり方」や「関わりの目的」の可能性を心配するからではないだろうか。
 そもそも企業が活動するフィールドは資本主義原理を基盤としている。企業活動の目的は,株式会社の場合であれば,利益を上げて出資者に配当することである。もちろん単に念じていてもお金は入ってこないため,企業は活動の目的やら内容を明確化して,それに従って実際の経済活動することを通して利益を上げる必要がある。
 企業の経済活動は,特定の株主や社員の利益を目的とした「営利」活動と見なされる。一方,たとえば義務教育であれば,全ての国民が無償で等しく受ける権利を持つものという「非営利・平等」さが前提とされている。教育の世界では「特定の誰かが得をしちゃいけない」という理念が根強いわけである。このことが,教育における企業との関係性を遠く隔てる元凶になっている。
 けれども,教育も企業も社会の構成主体である以上,関係を持たないわけにはいかない。そもそも営利活動と非営利・平等とが共存できないわけではない。両者の目的が互いに脅かされない限りにおいて,組織形態の違いを超えた連携はむしろ妥当な社会活動として奨励されるべきである。それが私たちの住む「社会」という場である。今日,企業の社会貢献活動が重要視されているのも,その事を再認識した現れである。
 そのような共存において「互いの目的が阻害されない」ためにも,教育の側は企業の活動を幅広く観察しかつ注意深く吟味し,適切なサジェスチョンを与える術を持つべきである。また企業側も教育活動の本質を理解した上で,教育そのものに不利益が生じないよう活動を律する倫理を持たなくてはならない。
 そのような緊張関係のもとで初めて,教育と企業の連携という言葉は意味を持ちうるし,それぞれの不安や抵抗感を取り除くことが可能になるのだと考えられる。

 前職で複数業者とやりとりをする仕事をしたことがある。業者とのつきあい方は難しい。だから,緊張感を持って臨まなければならないと心掛けていた。もちろん緩急はあったにしても,相手の提案内容に対しては別案の可能性を問いかけたり,こちらも勉強して業者の知らない情報を提供することで,お互いにダレないようにした思い出がある。

 先般行なわれた全国学力・学習状況調査に2つの業者が関わったことは,ここでもご紹介した。私はそれを糾弾するために紹介したわけではない。そこに2つの企業が関わっていることを知っておくことが大事だと思ったからである。それはそれらの企業に対して緊張感を持ってもらうためであるとともに,私たち自身が緊張感を持つために大事だと思うからである。
 今回の例だけをとって,私企業に個人情報が流れるという懸念を大きく取り上げ問題にしようとしているところもある。その取り上げ方はある意味で悪くない。互いに緊張感を持つための一つの方途になるからだ。けれども,この取り上げ方はミスディレクションを起こしてしまう意味で悪く働く。こうした企業が教育に大きく貢献している真っ当な部分を,まったく見ないまま評価を下し,そのくせサジェスチョンも対案も出さず,何もしない「ダラけた」態度に荷担するからである。
 「20世紀まではそうした態度でも通用した」と譲るにしても,今日は21世紀である。山積みの問題が悪影響を顕在化させ,世代間での利益格差も顕著になってきた時代において,こういうダラけた態度はもっとも害多きものである。
 だからこそ教育に関わる人間は,短絡的な思考に陥ることなく,自分自身の手足や頭を使って物事を見極めていく努力を怠ってはならないのである。

 私が企業の方々と仕事をするようになって,得たメリットは企業側の努力が見えるようになったことである。そこで展開するジレンマについても知るようになった。もちろん「そりゃ違うでしょ」と感じる瞬間が無い訳じゃなく,それは職業柄当然なので,それも含めて教育の目的に沿うようサジェストしていくことが私の役目だと思う。
 一方のデメリットは,駄文を書くときに配慮すべき事柄が増えたかなということである。好き勝手に書き続けている駄文であり,場合によっては過激なときもあるが,いくらかは配慮しながら書いてきたつもりである。それが,知り得た事柄について今まで以上に配慮しながら書くようになったのかも知れない。あんまり変ってないかも知れ無いけど…。
 いずれにしても,私がお会いしている方々は,それぞれが真っ当に努力し,企業活動を通して教育に貢献しようとされている。その個々人に対して,私は私なりに緊張感を持って接することが求められているのだなと考えて関わっている。
 それゆえに私自身は,自分が必要とされなくなれば関係を終わらせることについて異論はないし,仮に直接的に仕事をしなくなっても,間接的には社会の構成員の仲間として連携していくことは変らないと思っている。
 だからこそ,緊張感は絶えず持っていたいし,今後も自分のできる範囲のことで誠実に付き合えればと思うのである。まあ,振られたら傷心旅行にでも出かければいいさ。