ドキュメンタリー映画監督マイケル・ムーア氏の最新作「シッコ(SiCKO)」をレイトショーで観た。「考えさせられる映画だった」という月並みな言葉は横に置いて,どんな風に考えさせられたのかを書くべきなのだろう。
ムーア監督は,これは「私たち(米国人)とはどんな存在なのか?」という問いかけをするための映画だ,と何かのインタビューで答えていた。そして本人も言っているが,それは米国人に限る必要のない問いである。
私は「プロフェッショナルとして就労するとは何なのか?」という問いかけをしている映画にも見えた。或いは単純素朴に,どんな風に働いて生きていくことを望んでいるのか?,という問いにも思える。
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私はいま,3本くらいの「私」を同時進行に走らせている。「社会人としての私」「学生としての私」「バカな浪費者としての私」である。実際のところ,シチュエーションによって,これらを混ぜて使い分ける。皆さんには幾様にも見えるだろう。
どれも本当と嘘の私が存在し,都合次第で使い分ける。私はこれについて大変卑怯だと認識した上で,そのまま自分を許している。私が口だけなのは,そういう自分への甘やかしがあるからだ。
ただし,それと引替えに,私は良い意味でも悪い意味でも徹底的に「教育的」であることにのみ,この身を捧げることにした。私の意識の中で,それを自分自身に対する免罪符として。だから私は善意を語りもすれば,悪意に満ちた皮肉をまき散らす。「教育的」であるという名の下に,私は自分を使い分け,ああでもないこうでもないと「教育的」な振りをするのである。
けれども,何故そんなことになったのだろう。私にだって,ストレートに教育に貢献するための入口が幾つも用意されていたし,実際,そのうちの一つに身をゆだね,9年間も短大教育の現場で奉仕したはずではないか。
なぜ私はいま教育現場で働いていない?
なぜ私は地位や収入を捨てて,大学院生なんぞに戻った?
なぜ私は人に冷や水掛けるような駄文を書き続けている?
なぜ私は自分に善くしてくれている人たちを,最後のところでは信用していない?
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なぜ?を掘り下げて,一体何が自分にそうさせているのかを考え続けてきた。ムーア監督の映画っぽいって?残念ながら彼の映画に巡り会うよりも前から,人生の大半掛けて考え続けていることだから,映画に感化されたってわけじゃない。たまたま作品に出会って,波長が合っただけである。
いろんな物事に原因を押しつけられるような気もする。あんな経験こんな経験。傷つけ傷ついたこと,裏切ったことも裏切られたことも,一度や二度じゃないから,そりゃ人格形成には大きく影響している。
出会った人々も千差万別。どんな悪党だって,過去を振り返る時点にまで来れば,感謝の念さえ抱く。人がいいって?そりゃどうも。調子がいいな?そりゃそうだ。
そして分かった。「矛盾だらけの世の中を生きていくためには,自分自身が矛盾に満ちていることが一番楽である」ということが。だから,すべての「なぜ?」への答えが,「それを自分が望んでいるから」あるいは「必要としているから」だ,ということに私は「すでに」辿り着いていた。
だから私は,いくつもの自分を走らせることで,事態を混沌とさせることに甘んじている。そして,そんな自分を受け容れてくれそうな場所が「教育」という世界ぐらいにしかなかったのである。
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「こんないつまでたってもモラトリアムな野郎が蔓延っているから教育が良くならないのだ」と誰かがお考えなら,それは一つの見識だと思うが,私にしてみると,大して考えてもいないそんな感想論に,失望感すら抱く。
もちろん私は天才ではないし,学力的に優秀とは言い難い。なぜいまだにペラペラと英語がしゃべれないのか,腹立たしく思うことすらある。研究者としての業績も,褒められたものじゃないだろう。
それでも周りに対して誠実に対応してきたし,身を粉にして働いたこともある。私の周りって言うと結局は教育分野でしかないから,教育に対しても人一倍は気を遣って努力してきたと思う。そう,能力が無い分,達成度が低かったとしても私だって教育のプロフェッショナルとして存在していた。
なのに「教育」に携わる者として,束の間の満足感を除けば,どんどんどんどん「教育」に対する人々の意識が衰退している現実に打ちのめされることが増えていった。個人的なレベルの事柄もそうだったが,国全体の雰囲気についても「教育」を印象論・感想論に閉じこめ,教育研究や志ある研究者をないがしろにし続けていることにもうんざりした。
「プロフェッショナルがプロフェッショナルとして生きていくことが叶えられない」なんて,そんな国はどうかしている。気がつけば,声の大きいアマチュアがこの国の教育を云々して影響力を持っていたりする。(追記20070829:まあ,「そういうアンタが一番アマチュアだ」という指摘はもっともである。でも,当然ここではそういう次元の話をしているわけじゃない。)
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マイケル・ムーア監督の「シッコ」は米国の医療保険制度をテーマとして扱うために,その比較対象としてカナダとイギリスとフランスの保険制度やサービスを取材し,なぜWhy?を連発する。
すると話は医療に留まらず,教育の保証にも及び,それらの国の人々が送っている生活の様子を見せていく。さらに,現地に移り住んでいる(監督にとって同郷の)米国人たちにもインタビューし,米国との生活の違いを語らせている。
映画における現実の切り取り方に異論はあるかも知れない。それでも,そこには「医者は医者としての使命を果たす生き方」が叶えられ,「教師は教師としての使命を十全に発揮できる生き方」が支えられ,「人が人として生きる喜び」を保証する社会があるという事実について,間違った解釈は入っていないと思われた。
だから私たちにとって,「たとえ困難があろうと自分が選択した道を安心して生きられる」ということが何よりも大事なのではないかと,映画は訴えているようにも思えるのである。この場合の「安心して」というのは,「困難に立ち向かう」のに必要なバックアップを受けられることだと私は考える。
ところが日本は,米国を真似て,あるいは他国を見るときにも米国の用意した色眼鏡を掛けて,どんどん「安心して困難に立ち向かえない」国になろうとしてきた。結果的には,財政的な浪費が過ぎて,元に戻りたくても戻れないところまで来てしまっている。
そんなとてもきわどい状態にある世の中で,教育に関しても丁寧な取組みが必要となっているのに,教育基本法改正?教育再生?教員免許更新制?耐震化や教職員増員計画で予算倍増?
発しているメッセージが無茶苦茶で,誰一人として納得のいく説明が出来ない。プロフェッショナルとしての仕事はどこにあるのだろう。あるいは現場にいる無数のプロフェッショナルを支えるという発想はどこにあるのだろう。
これは「困難」なんかじゃない。「安心」が脅かされているだけである。見せかけの困難は,私たちが本来的に生きることを遠ざけてしまう。
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それにしても,なぜ日本がそのような国になってきたのか?
私は自分自身について出した結論と同じように解釈している。それは,日本の人々がそう望んだからだと。もっと正確に書けば「合成の誤謬」ということなのだと思っているが,いずれにしても,この国はそういうものを修正しようとする手段に乏しいことを許している時点で,そうなのだと思う。
たぶん,どんな現場も,今できることを誠意を持って真面目にやろうとするだろう。困難に立ち向かうプロフェッショナルとして生きるために,来る日も来る日も努力を続ける。そうやって,この国を支えている。
けれども,それは本来的なのだろうか。その困難は,本当の困難?他国が直面もせずに悩みもしない事柄に,なぜこんなにも大きなエネルギーを割く?誰かが選択の仕方さえ変えれば済むこともあるはずなのに。なぜ,それを問題にしない?
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私は,人々の「割り切り」に敬意を表する。
「現実的であれ。」私自身,何度だって念じた。
問い続けているだけでは何も産めやしない。どこかで現実的になって,現実解を出さなくてはならない。それは妥協の連続だ。だから私自身,下手な妥協を繰り返してきた。もっとエレガントに妥協できればと思う。
けれども同時に,私は,人々の「割り切り」を疎ましく思う。
その割り切りは,何かを覆い隠したり,見ないことだったりする。ときにその割り切りがこちらに向けられたりすれば,喪失感を抱いてしまうだろう。最後のところで,人は分かり合えないのかも知れないが,その事が頻発すれば,生きる意味にも関わる重大な問題を引き起こしかねない。
「シッコ」のラストは,そのさじ加減をどこに置くべきかについて,ムーア監督なりの描き方がなされている。それだけでいいの?というさらなる問いかけもあろうが,一つの作品が描く一つの結論としてはそれでいいのだろう。
このさじ加減問題について適切な距離を取りづらい私は,様々な「私」を同時進行で走らせることによって,それを潜り抜けようとしているわけである。
ご存知のようにマイケル・ムーア作品は,内容や情報の取り上げ方や扱い方について問題視されるため,常に「鵜呑みにするな」という言葉と共に紹介される。どんな制度や仕組みにも長所短所があるわけで,描き方次第でどのようにも印象を変えられる。それゆえ,この映画にもある種の割り切りがあり,そして見る側には,割り切りで見るか,割り切らずにより問題に直接触れていくかを迫るのかも知れない。
とにかく,見て考える価値のある映画だ。