投稿者「rin」のアーカイブ

iPhoneを学校へ

iPhoneあしながプロジェクト(仮名)
http://rinlab.justblog.jp/blog/2009/06/iphone-ba31.html

 iPhoneの教育利用の可能性については,iPodが登場してその教育利用が注目されている延長線上で,誰もが認識していたことだし,このブログでもたまに取り上げていた。

 しかし,いくら使い方次第でiPhoneが教育利用に有望なデバイスだと言っても,モノがないことには始まらない。私たちの期待や研究の可能性は,いつも機器整備のところで足をすくわれてしまう。

 スポンサーを探して資金提供を受ければ,教育研究用に新しいiPhoneを複数台購入することができるかもしれない。しかし,それを実現するのはなかなか難しい。

 仮に資金提供を受けられたとすると,どうしても成果を出さなくてはならず,もっと気楽に活用する雰囲気が生まれない。どこまでも特別扱いである。

 もちろん自分にできることは小さな試みでしかないが,何かこの状況を打開する明るいムーブメントを生み出せないだろうか。そう考え続けていた。

 それで,iPhone3GSという新モデルが登場したのを機に,前モデルのiPhone3G無印のおふるを持つことになる人々に向けて,教育利用に提供してもらえないかという呼びかけを始めることにした。

 もちろんおふるのiPhone3G無印を手放す人はそう多くはないだろうし,提供するくらいなら売ってお金にした方が良いと考える人が多いかもしれない。

 それでも,中には教育利用に関心を持ってくれる人がいるかもしれない。それに,完全に手放すのではなく,自分のiPhone3G無印を子どもたちのもとに里子に出すというか,それを通じて「あしなが兄さん/姉さん」として教育に貢献するという活動に参加してもらう形なら,その可能性を検討してくれるかもしれない。

 これまでの携帯電話のおふるは,メーカーも機種もばらばらで,通信も赤外線くらいしか生き残らず,集めて学校提供するうま味はほとんどなかった。

 ところが,iPhone3G無印なら,最新のiPhone OS 3.0が動かせて,どれも形や操作性が同じ。カメラと無線LAN機能が生き残っているから,それだけでも十分メリットがある。必要があれば,ソフト開発して提供もできる。

 そんなiPhone3G無印が,iPhone3GSの登場でおふるになる可能性が出てきたのである。この機会を逃してはいけない。

 というわけで,「iPhoneあしながプロジェクト(仮名)」を立ち上げるべく,動き出すことにした。

 まずは40〜50台を集めて,一つのパッケージをつくることを目標としている。

 もちろん,学校に貸し出すということは,そう簡単なことではない。お役所が管轄している組織である以上,校長先生,教育委員会,教育長といった方々へのやりとりも覚悟をしなければならない。

 でも,新しいことをするということは,そういう苦労があって当然である。

 そして,何よりも仲間を募らなければならない。それも研究者や現場の先生方だけでなく,一般のユーザーを巻き込むこと。そのことが意味しているのは,教育の世界に新しいネットワークを作ること。

 iPhoneあしながプロジェクトは,単にiPhoneを学校へ持ち込もうというだけでなく,新しい教育の「つながり」や「きずな」を作り出してみたいという願いも含んだもの。

 まあ,小難しい部分は少し置いといて…,iPhoneの一ユーザーとして,取り組んでみようと思う。

いしかわ子ども総合条例改正

小中生に持たせない 県議会委、条例改正案を可決(毎日.jp)
http://mainichi.jp/area/ishikawa/news/20090626ddlk17010628000c.html

小中学生のケータイ所持禁止 石川県条例案に異論(J-CAST)
http://www.j-cast.com/2009/06/26043914.html

小中学生の携帯電話を一律規制–石川県の条例案に陳情書(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/net/news/cnet/20090624-OYT8T00767.htm

石川県議会最新情報
http://www.pref.ishikawa.jp/gikai/index22.html

議会議案第1号「いしかわ子ども総合条例の一部を改正する条例(案)」(PDF)
http://www.pref.ishikawa.jp/gikai/gif/kodomojorei.pdf

いしかわ子ども総合条例(現行)
http://www.pref.ishikawa.jp/reiki/reiki_honbun/i1011162001.html

 このニュースで伝えられている事柄について,どのように理解すべきなのかは,まだ慎重を期さなければならない。石川県議会は最新の議事録をまだ公開していないし,ネット安全モラル学会も立ち上がったばかりの学会で陳情内容について自身のサイトで公式情報を公開できていないので(6/27現在),それぞれが何を狙ったものであるのかがわからない。

 石川県議会が公開している「改正案」を読むと,なるほど確かに「携帯電話端末等を持たせないよう努めるものとする」という文言が記載されている。

 ただし,これがマスコミ報道による「一律規制」というニュアンスと同等なのかは,議会の見解がわからない以上,単純な批判をすることができない。

 一方,ネット安全モラル学会の陳情内容が,条例改正案に対して,真っ向否定しているのか,あるいは教育施策とのセットで決議しなければならないことを提言しているのかもわからない。あるいは,マスコミ報道の影響による「一律規制」という流れ発生に抗すべく,パフォーマンスとして「異議あり」とのろしを上げたのかもしれない(それ自体は悪いことではない)。

 判断材料不足の中で推測によって物事を言うとすれば,現状の教育条件整備水準に照らして,このような時間稼ぎともいえる条例を選択せざるを得ないことも理解できる。

 問題は条例にも記されているように「保護者,地域団体,学校関係者その他の青少年の健全育成に携わる者は,相互に連携して,携帯電話端末等の適切な利用に関する取組の促進に努めるものとする」ことができるかどうかである。

 そうであれば,(売り出し中の)ネット安全モラル学会のアプローチは,陳情というよりも最新のネット安全モラル教育プログラムの優先的提供によって石川県とタッグを組む方が良かったのではないかと思うし,そういう戦略的な働きかけを他の諸学会やプロジェクトも打ち出していくことがこれから大事なのかもしれない。

 地方自治における「首長」「議会」「教育委員会」という三すくみ構成を打破していくために,「学術研究」がどのように関わっていくべきか,どう関わることで持続的な関係を築くことができるのか。この夏秋に聞こえてくる様々な議論の行方が楽しみである。

社会保障としての教育

 最近はテレビ東京系列の「ワールド・ビジネス・サテライト(WBS)」くらいしかテレビを見てない。それも録画して翌朝に見るスタイルになっている。ワイドショー化している他のニュース番組を数本見るくらいなら,これ一本で十分だ。

 昨夜は社会保障制度の話が特集されていて「税制の転換点だ」という意見も出されていた。若い現役世代よりも高齢世代に対して手厚い保障体系となっている現状は,配分見直しを議論するなどしていかなければ,日本全体がGMと同じように破綻する危険があるというわけだ。

 少し前には「財政的幼児虐待」という言葉も紹介されたことがある。ローレンス・J・コトリコフとスコット・バーンズが著した『破産する未来』(日本経済新聞社2005:原著2004)で用いられた言葉であるが,日本もこのままでは財政的国民虐待という皮肉な言い換えも冗談では済まされない状況なのかもしれない。

 もちろん日本の税制は,それなりの考えと経緯があって成立している。消費税率を考えてみても,ギリギリのところで国家財政を動かしているのはこの国らしさでもある(残念ながら国のお金の使い方は賢くないけれども…)。

 たとえば昨今話題であったフィンランドは,消費税率が20%前後(消費物によって違う)であり,所得税率も20〜30%(低いわけではなく日本と同程度)という水準である。考えようによってフィンランドでは,国がかなりせしめている。しかし,その分,手厚い社会保障,医療・教育環境の提供をしているので,人々は安心して社会生活できるとされている。ご存知のようにPISA国際学力調査で世界のトップになったのも,この国であった。

 いきなり北欧諸国のような豊かな福祉国家へと転換できるわけではないから,まずは日本という国が破綻しない程度まで現状にふさわしい制度調整を図ることが急務なのだろう。少なくとも育児世帯や低所得者層に対する本腰の保障がなされてしかるべきだ。そのための税制改革の可能性は間近に迫っている。

 ただ,だとするならば,その後,日本という国は再び現状に見合うギリギリラインで国を維持する形でいくのか,それとも北欧諸国のようなあり方を目指すのか,そういう選択に関する議論を始めておくことは大事だろう。

 その際に,社会保障としての教育について,保障意義や内容を明確に提示できるかどうかは,大きく問われてくる。たとえば,保育所の役割に地域への育児アドバイスやサービスの提供といった子育て支援が加えられて久しい。同様なことは,小中学校にも強く要請されてくることになるだろう(管轄省庁が違うからといって油断はできない)。

 果たして,現状の教育職員にそのような地域学習支援のような専門性があるのか,あるいはそのような事業を行うだけの制度的なリソースがあるのかどうか。様々な問題が考えられる。しかし,だからこそ,税制の抜本的な見直しを議論するのと連動して,どのような条件整備を前提としてそれが可能であるのか,議論を深めておく必要がある。

 もし,義務教育段階の学校に地域学習支援という役割が加えられるとしたら,教員養成のみならず,教員を対象とした大学院,教職大学院,教員免許更新講習に対する捉え方に大きな変更を迫ることにもなる。

 日本の教育職員は,グローバル社会の中にある日本という国で生きていく私たちの学習に,生涯伴奏してくれる存在となり得るのかどうか。そして国は,そのための条件整備を実現できるのか,そのための制度に変われるのか。

 教育の世界から見たとき,そのことが大きく問われるのではないかと考える。


ローレンス・コトリコフ/スコット・バーンズ著『破産する未来』(日本経済新聞社2005:原著2004)

水無月二三日

 梅雨らしい雨が降り,早朝の通勤もおっくうになりがち。自転車通勤は,天候の影響を受けやすい(体力的にもそうだが,荷物や服装の状態にも影響が及ぶ)ので,エコだし健康的だとは思うが,こんな時期は辛い。高校時代は,雨の日も風の日も毎日一時間の自転車通学を行き帰りしていたのだから,我ながら感心してしまう。

 ちょっとした手違いが重なって,導入が延び延びになっていた研究室のプリンタがやってきた。普通ならレーザープリンタという選択なのかもしれないが,あれこれ考えてジェルジェットプリンタを注文した。レーザープリンタ独特の動作音とトナーの粉を研究室に持ち込みたくなかったのと,消費電力や印刷などのコストがある程度安い点を評価した結果だった。

 レーザープリンタ・クオリティは期待できないが,ネット上の電子文書を印刷して読むためには十分である。事務用機器としての信頼性も,信用できる会社(つまりリコーのこと)だと思う。とにかくこれで思う存分資料印刷できる。

 一週間は,本当に「光陰矢の如し」に過ぎていく。仕事の道具立てはほぼ整ったはずなのだが,時間ばかりはこぼれ落ちるように消えてなくなってしまうから,気をつけないといけない。

 本日は教授会。省エネについて,部屋の空調(冷房)を使いすぎないようにと厳しいお言葉。朝から夜中まで研究室に在室するような人間には,耳の痛いお話しだ。
 もっとも,きつい冷房にあたってエアコン風邪になるのは嫌いなので,なるべく団扇と扇風機で過ごすように工夫しよう。熱を持ちがちな電子機器には冷却対策も施さないとなぁ…。

【教師が研究を志す日】02

 私は研究に対して「見える世界を見る研究」と「見えない世界を見る研究」という大きな括りを持っています。前回は,前者を実践研究,後者を学術研究に対応させて表現しました。

 この場合の,見える見えないの差異に,明確な定義があるわけではないのですが,行動や現象として可視的なものを「見える」と考えて,背後にある概念や原理のような隠れたものを「見えない」と位置付けることを基点としたいと思います。

 ただし,このことによって両者に明確な違いが生じます。それぞれの世界を見るための「言葉」がどうしても異なってくるのです。異なる程度は場合場面によって様々なので,容易に相互理解できる場合もあれば,かなり翻訳をしなければならない場合もあり得ます。

 そして,実践研究と学術研究の決定的な違いは,研究成果の積み上げられる「場所」に他なりません。そのことも,両者の言葉の違いを必然としているのです。

 研究が積み上げられる場所とは,どこのことなのか。

 実践研究は,実践の現場(学校など)に研究成果が積まれていくと考えられます。

 一方,学術研究は,学術の現場(学会など)に研究成果が積み上げられていくのです。

 それぞれの現場には,それぞれ積み上げられてきた「歴史」があり,それが両者の違いの大きな部分を占めているといっても過言ではありません。

 研究は,必ずしも実践研究と学術研究との二つに分けられるわけではありません。立場や考え方によって分け方には様々あることでしょう。

 しかし,「言葉」「(成果の返される)場所」「(その場所の)歴史」といったものが,研究の性格を大きく決定づけていることは間違いありません。

 そして,ある日現場で普段の実践研究(授業研究など)とは違う研究を志すということは,それはいつもと違う「言葉」で,いつもと違う「場所」に向けられた,長く積み上げられてきた「歴史」に基づいて行なう研究の世界と関わり始めようとすることでもあります。

 そのことは,見知らぬ異国で滞在することにも似ています。私たちが異国で滞在する仕方も,単に旅路の通過点として触れるのか,ツアーの旅行者として見て回るのか,短期留学をするため訪れるのか,長期間に渡ってその国で生活するのか,あるいは骨を埋めるのか,様々です。

 次回は,旅先の振る舞い方をモチーフとして,研究世界への触れ方を考えたいと思います。

僕らは海を越えられるのか

 イラン大統領選挙結果に対する人々の抗議デモは流血の惨事へと化している。手を伸ばして数クリックすれば,悲惨な映像を直接見ることもできる。その数クリックは近いようで遠く,遠いようで近い。

 一方で,自分の足下さえ不安を覚える非正規待遇の教育職員によって支えられた教育現場に,数クリックで世界へ漕ぎ出せてしまうような時代の生き方を引き受けさせるのは,本当に現実的といえるのか。

 あるいは鉄の玉が飛んでこない限りにおいて,それはどこまでも遠い世界の話なのだろうか。あるいは,みんな覚悟ができていて,承知の上で対話をしているだけというのか。

 私にはいまだに,周りの人々がどんな納得をしてあれこれを認識しているのか,よくわからない。そのうち,「それは取るに足らない問題なのだ」と認識したほうが賢いやり方のだと振る舞ったほうが,少なくともこの日本で生きていくには妥当な方法なのだと,私も信じたほうがいいのかなと思えてくる。

 とりあえず出来るところから…,そこからしかないじゃん。その言葉の意味をよくわかっているつもりだけれど,その言葉を聞くたびに,見ザル聞かザルの猿たちの姿が重なって仕方がない。

 もう一度,心の声を聞き直さなくてはならない。

私が在るということ

 しばらくの間,最後の部分を残して,読む時間を確保できていなかった。今日,仕事を終えてから一気に読み切った。最後の章は,久し振りに声を出し朗読しながら味わった。『1Q84』は,静かに幕を閉じた。

 内田樹氏のブログにある評論(記憶離脱)も読み,なるほどこういう捉え方や思索の広げ方があるのだなと感心したりする。自分の現実を重ねすぎても,息苦しくなるだけなのでほどほどにした方がよいが,先急ぐことばかりしている自分の生き方を考え直した方がいいとも感じた。

 「物語」は教育あるいは学習に文脈においても重要視されている概念である。鳶野氏(2003)は,筋立てて物語ることが「理解する」際にも強く働くとして,こんな風に書いている。

「出来事を理解するとは,出来事を,その発端と展開と収束の全過程を見通す筋立てのもとに,有意味なまとまりとして捉えることだといえる。」(4頁)

 しかし一方で,物語ることによる出来事の「意味付け」だとか「筋立て」ということに依拠するような在り方は,物語としての整合性や一貫性に縛られて,それにそぐわない別の意味付けを閉ざしてしまう可能性も孕む。

 教育の文脈においては,リオタールの指摘した「大きな物語」の終焉と「小さな物語」の復権のようなことが繰り返し語られるが,このことについても鳶野は

「物語論的視点からの教育学的人間研究にとっての,教育における大きな物語への批判的眼差しはの射程は,物語の「大・小」の問題を突き抜けて,全体を見通した筋立てのものに出来事を意味づけるという「物語ること」それ自体が内包する問題領域へと進みはいらねばならない。」(20頁)

 と指摘して,あえて慣れ親しい「語り方」や「聴き方」から決別して,教育を物語ることの不思議さに目覚め続けることを示唆するのである。

 村上春樹という作家をかかえ,様々な物語を見通すにも適した日本という国にいることは,とても幸せなことと思う。ところが,一方で,その豊かさは情報や物語の過多という側面において,たくさんの不自由も運んでくる。

 そして,日本の子どもの考える力の低下(クローブアップ現代)や,世界における図書や教育環境の不十分な地域の存在(アンビリーバボー)といった現実,「国営マンガ喫茶」と揶揄された国立メディア芸術総合センター(仮)構想(各種ニュース)などから,考えさせられる事柄はいろいろある。

 おそらく,高速回転しているこの時代において,私たちはブレーキを必要としている。自分自身の思考をゆっくりと回すためには,ある程度の摩擦が必要なのだ。豊富な情報と物語によって,整合性のよいパーツがすぐに揃ってしまうようなことではなく,不整合なものをどれだけ確保できるか。

 私が在ることの意味をそういうところに見出して,自身を鼓舞していくしかない。


鳶野克己(2003)「物語ることの内と外」(矢野智司,鳶野克己 編『物語の臨界』世織書房2003.3)

水無月一六日

 メインイベントだった東京出張が終わると,ふつ〜の日々。いつものように授業の準備や実践に追われている。たぶん,それでも暇な部類に入ると思うのだが,週に6種類の授業をやりくりするのは,私にとって少々疲れる。読みたい本もプログラミングしてみたいネタも山ほどあるというのに…。他の人達のポテンシャルの高さにいつも感心してしまう。

 梅雨だというのに「雨が降らないねぇ」と学生と雑談していたら,お昼頃に雷鳴と土砂降りの雨。もっとも30分ほどで終わってしまった。あとは気持ちの良い天気となった。

 いくつか注文していた物品の決裁が下りて,ぼちぼち届き始める。ネット上の論文などを印刷するためのプリンタも金曜日には届くそうだ。やっとまともな出力環境が確保できる。家庭用では心許なかったから…。

 今宵は授業準備で煮詰まる。ふ〜む,最近の文献も読み込めてないし,資料の準備には時間が足りないぞ。参ったな。どの辺で線引きしようか…。

徳島帰宅

 昨晩は御茶ノ水に宿を取った。行きたいところへの利便を考えると,そこに選択が落ち着いたのである。午前中は交通博物館の跡地の横を歩いて,秋葉原のヨドバシカメラで気になっていたものをチェックし,旅行ケースを買い求めた。

 今回の出張にはパソコンを持っていかず,iPhoneのみ。まあ,今回の出張内容であれば,自分のパソコンは必要ないので,それでも十分だった。店頭には先日発表されたばかりの新しいMacノートブックがすでに展示してある。新しい13インチのMacBook Proが狙い目であるが,出張中に見ていることもあって,やはり最軽量のMacBook Airに惹かれる。だいぶ値段も下がってきたのだから,いよいよ手に入れる時期がきたのかも知れない。

 午後はお仕事。迎賓館近くのビルで学習ソフト・コンクールの審査会だった。私は実際にソフトを操作してプレゼンテーションする係である。わりと好きなお仕事だ。

 事前準備中にアメリカ在住の妹からiPhoneのIM(インスタント・メッセージ)ソフトにメッセージが入った。急きょ,リアルタイムで日米チャットの開始。「お兄ちゃん,本買いすぎ」と海を越えてダメ出しをもらう。それぐらいしか楽しみないんだから,許してちょうだいよ。

 妹とのチャットはiPhone話でしばし盛りがって,とりあえず向こうが就寝前なので,おやすみコールでお開きとなった。いやはや,iPhoneを持っていると世界の距離感が変わってしまう。

 審査会の会議は,いつものようにあれこれ議論を交わして,今年なりの審査結果を出すことが出来た。開発ツールがリッチになってきたことで個人でも凝ったソフトがつくれる一方で,小粒ながらも授業のために心を込めてつくったソフトとの間に見えてきた開きのようなものをどうするのか。何度も審査原点に立ち返りながら議論を重ねることが毎年続く。

 会議が終わって,飛行機に間に合うように帰る時間が迫っていたので,ご挨拶もそこそこに電車乗り継いで,途中お土産も買いつつ,羽田に向かう。久し振りに携帯電話の電子マネーで駅の改札をピッピッと通過。これのおかげでもたつかずに移動できるから,有り難い話である。飛行機も携帯電話のタッチ・アンド・ゴーである。

 徳島に向かう夕方フライトは,右手に夕日色の雲海に浮かぶ富士山を眺めることが出来て幻想的。フライト・アテンダントさん達の笑顔に癒されながら,束の間の東京出張が終わった。

 徳島に着いて,預けていた自転車を返してもらい,最後は自転車で帰路につく。最後が様にならないなぁ…と少し悔しく思うが,まあ,これが自分らしいオチかなと納得して,今日一日を終えるのであった。明日は洗濯日だ。