しばらくの間,最後の部分を残して,読む時間を確保できていなかった。今日,仕事を終えてから一気に読み切った。最後の章は,久し振りに声を出し朗読しながら味わった。『1Q84』は,静かに幕を閉じた。
内田樹氏のブログにある評論(記憶と離脱)も読み,なるほどこういう捉え方や思索の広げ方があるのだなと感心したりする。自分の現実を重ねすぎても,息苦しくなるだけなのでほどほどにした方がよいが,先急ぐことばかりしている自分の生き方を考え直した方がいいとも感じた。
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「物語」は教育あるいは学習に文脈においても重要視されている概念である。鳶野氏(2003)は,筋立てて物語ることが「理解する」際にも強く働くとして,こんな風に書いている。
「出来事を理解するとは,出来事を,その発端と展開と収束の全過程を見通す筋立てのもとに,有意味なまとまりとして捉えることだといえる。」(4頁)
しかし一方で,物語ることによる出来事の「意味付け」だとか「筋立て」ということに依拠するような在り方は,物語としての整合性や一貫性に縛られて,それにそぐわない別の意味付けを閉ざしてしまう可能性も孕む。
教育の文脈においては,リオタールの指摘した「大きな物語」の終焉と「小さな物語」の復権のようなことが繰り返し語られるが,このことについても鳶野は
「物語論的視点からの教育学的人間研究にとっての,教育における大きな物語への批判的眼差しはの射程は,物語の「大・小」の問題を突き抜けて,全体を見通した筋立てのものに出来事を意味づけるという「物語ること」それ自体が内包する問題領域へと進みはいらねばならない。」(20頁)
と指摘して,あえて慣れ親しい「語り方」や「聴き方」から決別して,教育を物語ることの不思議さに目覚め続けることを示唆するのである。
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村上春樹という作家をかかえ,様々な物語を見通すにも適した日本という国にいることは,とても幸せなことと思う。ところが,一方で,その豊かさは情報や物語の過多という側面において,たくさんの不自由も運んでくる。
そして,日本の子どもの考える力の低下(クローブアップ現代)や,世界における図書や教育環境の不十分な地域の存在(アンビリーバボー)といった現実,「国営マンガ喫茶」と揶揄された国立メディア芸術総合センター(仮)構想(各種ニュース)などから,考えさせられる事柄はいろいろある。
おそらく,高速回転しているこの時代において,私たちはブレーキを必要としている。自分自身の思考をゆっくりと回すためには,ある程度の摩擦が必要なのだ。豊富な情報と物語によって,整合性のよいパーツがすぐに揃ってしまうようなことではなく,不整合なものをどれだけ確保できるか。
私が在ることの意味をそういうところに見出して,自身を鼓舞していくしかない。
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鳶野克己(2003)「物語ることの内と外」(矢野智司,鳶野克己 編『物語の臨界』世織書房2003.3)