社会保障としての教育

 最近はテレビ東京系列の「ワールド・ビジネス・サテライト(WBS)」くらいしかテレビを見てない。それも録画して翌朝に見るスタイルになっている。ワイドショー化している他のニュース番組を数本見るくらいなら,これ一本で十分だ。

 昨夜は社会保障制度の話が特集されていて「税制の転換点だ」という意見も出されていた。若い現役世代よりも高齢世代に対して手厚い保障体系となっている現状は,配分見直しを議論するなどしていかなければ,日本全体がGMと同じように破綻する危険があるというわけだ。

 少し前には「財政的幼児虐待」という言葉も紹介されたことがある。ローレンス・J・コトリコフとスコット・バーンズが著した『破産する未来』(日本経済新聞社2005:原著2004)で用いられた言葉であるが,日本もこのままでは財政的国民虐待という皮肉な言い換えも冗談では済まされない状況なのかもしれない。

 もちろん日本の税制は,それなりの考えと経緯があって成立している。消費税率を考えてみても,ギリギリのところで国家財政を動かしているのはこの国らしさでもある(残念ながら国のお金の使い方は賢くないけれども…)。

 たとえば昨今話題であったフィンランドは,消費税率が20%前後(消費物によって違う)であり,所得税率も20〜30%(低いわけではなく日本と同程度)という水準である。考えようによってフィンランドでは,国がかなりせしめている。しかし,その分,手厚い社会保障,医療・教育環境の提供をしているので,人々は安心して社会生活できるとされている。ご存知のようにPISA国際学力調査で世界のトップになったのも,この国であった。

 いきなり北欧諸国のような豊かな福祉国家へと転換できるわけではないから,まずは日本という国が破綻しない程度まで現状にふさわしい制度調整を図ることが急務なのだろう。少なくとも育児世帯や低所得者層に対する本腰の保障がなされてしかるべきだ。そのための税制改革の可能性は間近に迫っている。

 ただ,だとするならば,その後,日本という国は再び現状に見合うギリギリラインで国を維持する形でいくのか,それとも北欧諸国のようなあり方を目指すのか,そういう選択に関する議論を始めておくことは大事だろう。

 その際に,社会保障としての教育について,保障意義や内容を明確に提示できるかどうかは,大きく問われてくる。たとえば,保育所の役割に地域への育児アドバイスやサービスの提供といった子育て支援が加えられて久しい。同様なことは,小中学校にも強く要請されてくることになるだろう(管轄省庁が違うからといって油断はできない)。

 果たして,現状の教育職員にそのような地域学習支援のような専門性があるのか,あるいはそのような事業を行うだけの制度的なリソースがあるのかどうか。様々な問題が考えられる。しかし,だからこそ,税制の抜本的な見直しを議論するのと連動して,どのような条件整備を前提としてそれが可能であるのか,議論を深めておく必要がある。

 もし,義務教育段階の学校に地域学習支援という役割が加えられるとしたら,教員養成のみならず,教員を対象とした大学院,教職大学院,教員免許更新講習に対する捉え方に大きな変更を迫ることにもなる。

 日本の教育職員は,グローバル社会の中にある日本という国で生きていく私たちの学習に,生涯伴奏してくれる存在となり得るのかどうか。そして国は,そのための条件整備を実現できるのか,そのための制度に変われるのか。

 教育の世界から見たとき,そのことが大きく問われるのではないかと考える。


ローレンス・コトリコフ/スコット・バーンズ著『破産する未来』(日本経済新聞社2005:原著2004)