小さな世界の中で

 人間の知的活動の構造をプラットフォーム・メタファで表現することがある。基礎基本能力によるプラットフォームが形成されており,その上で様々な知的活動(アプリケーション)が動かされているという構図である。

 こういう階層構造的捉え方は単純すぎるので,もう少し動的な部分も加味するためネットワーク・メタファを導入することもあるだろう。メタファの合わせ技を使って,複雑な状況を説明することがしやすくなるかも知れない。

 もし学校教育をプラットフォーム・メタファで考えたとしたら,僕には,アプリケーションにあたる教育内容やカリキュラムにはある程度注目も集まるし,10年毎にバージョンアップしてきた歴史もあるし,動きがあるように思えるのだけども,プラットフォームにあたる部分について,ほとんど代わり映えがしていないように思えてならない。

 さながらWindowsのバージョンアップのように意味もなく更新料を払っている感覚に近い。いつになったら64bit版を主流にするの?みたいな話である。アプリケーション側としては,肥大化するデータの処理のため64bit対応ソフトに変化を迫られているというのに,プラットフォームがいつまでたっても32bit版の遺産を捨てきれずに大胆に変われていないのである。それでいて動かそうとするアプリケーションもデータも,どんどん肥大化していく。

 Windows7になると喜ぶのは結構だが,じゃあ32bit版インストールする?64bit版インストールする?どっち?って選択する段になって,「やっぱり資産があるから32bit版かな」という選択が働いたら,64bit版は何なんだろう?
 

 僕はときどき,教育研究の様々な示唆が,現場の先生方の「本当のポテンシャル」を見失って引き出さず,結果として従来と同じところにエネルギーを注がせ続けて,可能性を摘んでいるんじゃないかと不安になることがある

 確かに日本の学校現場における授業研究を始めとする校内研究の伝統と蓄積は,今日にも引き継がれている部分は大きいし,そうした日本の教師の実直さのおかげで,困難な情勢の中でも日本の学校教育が維持されている。日本の先生方は優秀だと思う。

 一方,海外の教師には,恐ろしいほどムラがあるのかも知れない。国によって,地域によって,学校によって,そして個人個人によって,それぞれ違う考え方で動いている(ように私には見受けられる)。でもそのことを承知の上で,もう少し言及するなら,海外で教師になる人々の多くが大学院を修了するようになっている点は,日本と大きく違っている。(おかげで先生のなり手が見つからず授業が行えない事態が発生しているところもある。)

 日本は,世界でも先駆けて学士教員という水準を実現した国であった。そのことが日本の教育を支えてきたことには違いない。ところが,気がつけば世界はその日本を見習い追い越して,とっくの昔に修士教員の水準へと引き上げた。日本は,自らつくり出したプラットフォームが頑強すぎて?,いまだ変えられずにいる。

 もちろん大学院もつくらせたし,教職大学院も導入した,教員免許更新講習なんてサービスパックまでリリースしたが,どれもこれも根本を変えるものとはなっていない。
 当時の教員養成系関係者を震え上がらせた「在り方懇」は,あるいは変わる機会だったのかも知れないが,若い大学教員には「何ですかそれ?」の昔話になってしまった。あなた達がGPとか呼んでいるものの前段にそういうものがあったんですよ。まあ,使徒襲来みたいな話です。
 

 教師学という領域に関連する論文を編んだ『成長する教師』(1998)という本と,レッスンスタディという角度から教師の学習を扱った『授業の研究 教師の学習』(2008)という新旧2冊は,確かにどちらも学校教育のプラットフォームである教師の仕事について注目した専門書なのだが,世界に対する開かれ方にかなりの違いがあるとも言える。

 この2冊の間には,10年という年月の隔たりしかないように思えるが,インターネットやケータイの普及,世紀の越境と戦争,地球規模の環境問題の顕在化などを経ているとも言える。これらの変化をただの「流行」であると考えるのか「不易」を見直す深刻な課題であると考えるかで,2冊に対する評価はかなり変わってくることになる。

 前者の本が,わりと従来の伝統的な教師世界を対象としてぐりぐりとプラットフォームを論じたのだとすれば,後者の本は,海外で受容された日本の授業研究である「レッスンスタディ」を経由させてプラットフォームを論じたものといえる。もちろん二者択一の話ではない。日本の学校現場におけるプラットフォームの議論を,後者の議論空間にも対応できるように発展させることが重要ではないか?という問いかけである。
 

 大変貧弱な例え話で言うならば,新聞社のことを思い浮かべるとして,日本の五大新聞社(日経,毎日,朝日,読売,産経)やスポーツ紙,地方のローカル紙を思い浮かべるだけでなく,ニューヨーク・タイムズとか,ワシントン・ポストとか,ウォール・ストリート・ジャーナルとか,(倒産しちゃった)シカゴ・トリビューンとか,ピープルとか,ル・モンドとか,ガーディアンとか,インディペンデントとか,そういう世界の新聞のことも思い浮かぶくらいに世界に開かれているのかどうかということである(読めるとか読めないとか,そんなの関係ない)。

 それともこれは,ちょっと世の中の目立つところを見聞きして分かったことが嬉しくて,バカの一つ覚えみたいに「世界ってのは広いんだぜ,おまえも世界に出てみろよ」と自慢話をしている青二才の戯言レベルの問題意識なんだろうか。(例え話だとしても)世界の新聞紙の名前が言えたところで,何が変わるって言うんだ,バカ。

 もしも,私がバカなだけなら,心配することもないなら,それが一番いい。ただ,私には,そのことが「32bit版を使うのが現実的だから64bit版なんか使わない」という選択に似ているように思えるだけである。それでいいならそれでいい。

 フルタイムの大学教員に戻って数ヶ月。早くも半期を終えようとしている。このペースにもう一度慣れるのに,ずいぶん体力的なエネルギーを消費している。こりゃ困った。

 さて,私は受け持った学生たちのポテンシャルを引き出せたのだろうか。そのことが大いに問題だ。私自身が自転車操業だったから,もしかしたら,もっと深められたことも深めきれなかったのかも知れない。私のハイペースに慣れてくれたところで授業が終わってしまうという問題もあるかも知れない。

 すべてを一気にバージョンアップできるとは,もちろん思っていない。今まで高校で50分授業のペースに慣れた大学1年生たちには,90分ノンストップ授業はビックリだろう。専門用語で語られる講義の内容を,先生が理解しているように学生が理解できることもあり得ない。時間をかけてじっくりと付き合わなければならないのはどの学校段階でも同じ。プラットフォームが徐々にバージョンアップしていくのを見守らなければならない。

 これは先生という立場の人たちにとっても同じ。だからこそ,先生たちがどうしたらちゃんとバージョンアップできるのか,もっと真剣に考えなければならないのだけれども,みんながみんな忙しさに浮き足立っていて,結局は従来の範疇を繰り返し先鋭化しているだけに終わっているんじゃないか。そのことが心配なだけである。