知的なS

 私が書きものをすると,とても批判的・好戦的になっているらしく,誰かのことを批判しているんじゃないかとか,結果として貶めるために書いているんじゃないかと受け取られやすい。

 それは仕事に対してもそうらしく,いちいち物事の根底を考えたりするものだから,一緒に仕事がし難いらしいのだ。だから,どこかにお呼ばれしても,大概は長続きしない関係になる。こちらは迷惑かけるのが嫌だし,言われないけど,たぶん周りは迷惑しているのだと思う。

 このもともとの原因は,自分に対して安心を抱かないことからきている。

 私は日本生まれの日本育ちだから,日本の学校教育に支えられてここまで生きてきた。その点では,他の人たちと変わらない。しかし,私の家系は日本人ではないし,国籍も途中までは日本ではなかった。その点では,他の人たちと違っていた。

 20,30年前の日本は,いまほど国際色豊かな国ではなかったし,少し変わったものに対して奇異の目を向けやすい社会だった。その中で,少し変わった名前で生活していれば,いらぬ自意識も生まれやすかったのである。

 いつしか私は,そのことをネガティブに考えるよりも,ポジティブに使いはじめて,いまに至っている。

 人よりも納得するスピードが遅いなら,遅い分だけしっかり考えよう。

 問題がないと思っている部分に,本当に問題が無いかどうか考えよう。

 自分や他人が,特定の主張をすることによって得るのは何か考えよう。

 本当はポテンシャルがあるのに,それがないと考えてしまってないか。

 次代の人たちにとってよかれと思っていることは,本当によいことか。

 etc..

 このブログで様々な駄文を書いたり,論文や原稿を書いたりするときにも,常にそのことは考えるし,他人が何かを論じているときにも,何かが進行しているときにも,常にそのことを考えている。

 その思考を休んだ途端,私は怠惰な人間なので,落とし穴にはまるんじゃないかと不安だからである。

 そして,私は少し大人げないところもあるので,そのことをわりとストレートに出してしまうことが多い。私の指導教官になった人達は,みんなそのことを分かっておられて,誰もが「りんくん,気をつけなさい」とたしなめてくれる。

 基本的に,生身の私は友好的だし,ご一緒にお仕事する人達のことを(人間的に)好きになるタイプなので,そんなに悪いキャラクターではないと自分でも思う。

 それでも,私の場合,好きになった相手のために槍投げたり,ムチをも振るう覚悟を持ちやすいので(逆にそれほどでもない人には愛想笑いで済ますことが多いかも…),どうしてもちゃぶ台ひっくり返しちゃうことになる。知的なSなのかも知れない。なんかちょっといやらしいわ〜。

 私は,自分が年老いていくことで,自身が丸くなっていくだろうということを予感したりする。そうすると怖いのは,自分が若いときに身に付けた経験則みたいなものを判断基準にして,物事を済ませていくようになること。

 そうなることを避ける努力も必要かも知れないが,きっと避けられないだろうから,今のうち自分自身や周りの物事を疑うだけ疑っておきたいと思う。

 そうすることが,何かしら次代の人達に示せる自分なりの在り方なのかなと考えている。それは少なくとも反面教師としてあり得ると思うし,あるいは物事を考える姿勢の別の選択肢としてあれたらいい,そう願うのだ。