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Steve Jobs卒業式スピーチ

 この頃は本当に教育から遠回りしていて,教育をめぐる駄文を書き留められていない。研究の話もどこへやら。こんな調子では,いいように使われて沈みゆくだけの大学サラリーマンで終わりかねない。もちろん大衆化した高等教育を支えるのは,そういう層なのだから胸を張ればいいのだが,問題はそれに遠く及ばない世間知らずで勉強不足な自分自身なのである。
 もうちょっとずるくて賢ければ,毎日も要領よく過ごせるのだが,ご存知の通り,物事を理解するのにも,動き出すのにも時間のかかる人間なので‥‥。お盆前に,同僚の先生から補助金の取り方や考え方の要領を教えてもらう機会があって,そこでようやく「宝くじのつもりで」という意味が腑に落ちたくらいに,ある意味じゃ馬鹿正直すぎて,みすみすチャンスを逃していた自分に腹が立ったくらいである。孤軍奮闘スタイルでしかやれてこなかったツケが,ここにきて露見しているというわけだ。

 とはいえ,後ろ向きに考え込んでみても何も解決しない。とにかく,前に進まなくては。そんな自分を励ますのに良いスピーチ原稿があるのでここでご紹介。ご存知,Apple社CEO兼ピクサー・アニメーションスタジオ社CEOであるスティーブ・ジョブズ氏が,スタンフォード大学の卒業式に招かれて講演を行なったときのものだ。

 スタンフォード大学 ‘You’ve got to find what you love,’ Jobs says (Audio)

 日本語訳をした人がいて,その内容が出回っている。翻訳したオリジナルページ。も悪くないが,ここでは別のブログに転載されたものへのリンクを張ることにしたい。「Steve Jobs@スタンフォード大学祝賀スピーチ」(DeSight@higherground)。

 Steve Jobs氏の歩みを本などで追いかけてみると,歳をとる事による人間の変化というものに思いを巡らさずにはいられない。出来る事に限りがあることはわかっているけれども,やれる事は何でもして,頑張らなければと思う。

Apple快進撃

パーソナルコンピュータには,基本ソフトの違いでいくつか種類がある。種類の違いによって起こる問題は,ワープロソフトやゲームソフトのような応用ソフトを基本ソフト毎に対応させ用意しなければならないことだ。つまり,基本ソフトを飛び越えて同じ応用ソフトを動作させることができない。
 さらには,同じ会社が作った基本ソフトでも,古いものと新しいものでは,動かせる応用ソフトが異なってしまうこともある。買ったパソコンや基本ソフトの会社ブランドを気にするだけでなく,その買った時期やバージョン(版)を気にする必要さえある。

 回りくどいお話から始まっているが,ここのところApple社(アップル・コンピュータ社)の快進撃が続いている。ご存知の通り,この会社はいまや音楽再生プレーヤー「iPod」の会社として有名で,先日も待ちに待ったiTunes Music Storeが日本でもサービス開始され,インターネット上での音楽配信(販売)が本格的になってきたのである。
 そしてこの会社は,いくつか種類のあるパーソナルコンピュータの中でも,ひときわ異彩を放ち歴史を作ってきた機種「マッキントッシュ」ことマック(Mac)を作った会社としても有名である。

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夏の花火

 蚊取り線香と飲食物をコンビニで買い,職場に戻る。夕刻からの花火大会を職場から眺めるためだ。規模の大きさから県内でも有名な花火大会。見晴らしのいい丘の上の職場なので,存分に堪能することができる。
 学内工事に立ち会うため休日出勤。街中,今夜の花火大会を観ようと賑やかだというのに,こちらは寝ても覚めても仕事のことだらけ。精神衛生上よくないので,特権活用してみたりする。いつもの窓から見える夜景に花火が浮かび上がるのは,また神秘的だ。
 最初のうちはテンションも高いが,次第に,夏の悲しき独り花火である現実が襲う。感想を言い合う相手が居ないというのも,こういうイベントの類いで一番厄介な問題だ。仕方ないので,2カ所であがる花火にセリフをつけて,一人芝居・独白モードへと突入。精神衛生上,最悪の展開を見ながら,花火は夜空に舞い散るのであった。それもまた,夏の夜の夢。

情報機器への依存

 ハードディスクの異常が発生し、我がパソコンは修理中。以前からハードディスクのアクセス音が怪しかったので、データのバックアップについては対処できている。むしろ問題は修理中の立て替え機がないこと。
 いつでもどこでも自分のパソコンにデータ入れたり、取り出したりするような使い方をしていただけに、それができないととても不便だ。行く先々のMacに外付けハードディスクを付けて起動するのはいいが、移動すれば作業過程が中断されてしまうので、いつもの調子で仕事が難しい。メールへの反応も遅れがちだ。
 ようやく家で過ごす時間もできたので、居間にあったデスクトップパソコンを書斎に移動して、なんとか環境を整えているところ。ソフトウェアのインストール環境が異なるので、それを調整するのに時間がかかる。そのあと、修理から返ってきたら、環境の再構築のこともあるから、完全構築する訳にもいかない(たとえばソフトウェアライセンスのこともあるし)。とても面倒だ。
 来週から担当する集中講義が始まるというのに、本当にタイミングが悪い。もう一台、新しいノートパソコンを買ってしまおうかと思ってしまったが、そんなお金もないので、我慢我慢。

問わず語り

 夏休みに入った。皆さんよりも一足先である。もちろん,毎年恒例の嘆きを許してもらうなら,通常授業がないというだけで,校務は続いているし,授業時間が空いた分だけ会議が入る。学生達も暇ではない。補講や特別授業はもとより,就職活動,実習などで慌ただしい。そして私たちも実習の指導訪問で学生達を追いかけ回さなければならない。部やサークル活動も普段より活発になると,それの応援を要請されることもある。中学や高校の部活指導の方がはるかに大変なのは言うまでもないけれど。
 それでも,他のスケジュールが割り込む余地と同等に,自分自身が研究や勉強に時間を割くチャンスや余地も増えるのは確かなこと。私も(少々闇雲に)あれこれ手を出しながら,再度自己投資をしているといったところだ。その過程で得るものを早く駄文として残したい思いでいっぱいだが,実のところ,それが以前ほど容易くなくなっている現実にも戸惑うのである。一体どうしたというのか。

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日々はジェットコースター

 今年から職場の学年歴が変わって,7月10日から夏期休業に入る。その直前の慌ただしさもあるし,思い立ったことを短期間で具現化する必要性もあって,本当にこの数週間はめまぐるしい日々が過ぎる。ちなみに明日は保護者懇談会。気が抜けない。
 高校英語の再入門を始めたり,研究計画の内容をひねり出すために思索したり,職場で担当している案件の業者対応をしてみたり,保護者懇談会の準備や学生対応したり,ある意味賑やかに過ごしている。

 教職専門職大学院の名称を「教職大学院」にするよう答申するらしい。一方,規制改革・民間開放推進会議が教職大学院に対して「新たな参入障壁になる」という懸念を表明している。
 総務省の情報フロンティア研究会は報告書をまとめて,その48頁あたりにこんなことを書いている。

「(前略)具体的には、ブログやSNSの仕組みを学校に導入することを提案する。学校の中でセキュアなネットワークを整備した上で、児童・生徒が自らのアカウントを持ち、実名でブログやSNSを用いて他の児童・生徒と交流することでネットワークへの親近感を養うとともに、ネット上での誹謗中傷やプライバシー侵害等に対する実地的な安全の守り方も同時並行的に学ぶことが重要である。」

 学ぶことが多すぎて困ってしまう。学校外だと野放し状態で心配だから,とりあえず学校の範疇に入れてしまいましょうかという風にも見える。もはや学校が責任を負えるキャパシティ(そんなものがあるかどうかも怪しいが)を超えている。

 義務教育費国庫負担金の一般財源化問題に関する審議は平行線。中間報告は両論併記だそうだ。とりあえず地方団体の代表が頑張った痕跡を残して,最終答申で苦々しく堅持の答申に持ち込むらしい。

 ネット利用の平均時間が新聞閲覧の平均時間を少し上回ったのだという。私は少なくとも新聞をとっていないので,比較するまでもなくネット利用ばかりだが,眺めて終わることも多くなったような‥‥。とにかく,ネット利用は少なめにしなくては。

文献屋さんの身体性

 古巣の大学図書館に出掛けた。ジャーナル(論文雑誌)の中身を読みたいと思ったからだ。久し振りに利用したので,館内のパソコン環境などが変化していた。自動貸出機なるものまで登場している。蔵書検索端末を操作して目的の論文を探すが,肝心の雑誌は教育学部の図書分室に保管されていて,土曜日に閲覧が出来ない。
 ただ,目的のジャーナルは「電子ジャーナル」も発行していて,端末上でPDFとして読むことが出来る。大学図書館は購読契約しているから,館内なら無料で見られるというわけだ。読めないと話にならないので,PDFファイルを表示させて,画面上で眺めていた。
 しかし,不慣れな英文の電子ジャーナルを画面で読み続けると疲れる。単語がわからないと,自分のパソコンなら辞書ソフトで即座に調べられるのに,図書館のパソコンにはそれがない。学外への持ち出しはおそらく禁じているだろうから,家でゆっくりというわけにもいかない。慣れない状態で読んでいたら,閉館時間がやってきて,目の前のパソコンが自動終了。ええええ‥‥。

 文献屋は本を読めばいいと思われているかも知れないが,実は身体を使わないとダメなのである。ダメという意味は,「歩かないと図書館に行けない」とか「夜遅くまで読書する体力」とか,そういう皮肉っぽいものではない。まあ,もちろん移動も体力も必要だが,文献屋は本という物理的実体との格闘に関わる身体的な行為のすべてを駆使することによって,まともな思考が働く。
 パソコン上で調べものをして,そのままワープロ・ウィンドウにコピー&ペーストして加工するような作業は,成果の量産には好都合なのかも知れないが,思索には役立たない。だから私は,図書館にパソコンを持ち込まない。大学ノートとペンを持参して,ひたすら書き写したり,メモるようにしている。もちろん,その後パソコンに入力する場合は二度手間になるが,二度目の手間にも思考の俎上に乗せることが出来るため,より注意深く情報に当たれるのである。二度目にミスが入り込む余地と比べても,総じて見れば繰り返し思考できることのメリットの方が大きい。
 もちろん,これは一人きりで仕事をこなそうとする寂しい文献屋の古くさくて非効率的なスタイルだし,私個人のスタイルなので,万人に通用するものではない。昨今は,共同研究を通して互いに思考を切磋琢磨し合うようになってきたし,効率的な研究成果の創造が求められているため,こういうスタイルは嘲笑か非難の対象にさえなりつつあることは了解している。

 それでも,私は皆さんにノートとペンを手に取っていただき,思索の時間を過ごしながらメモをとることをおすすめしたい。ときに文献資料を漁って,頁と頁の間を行き来する動作をまじえ,膨大な情報を削ぎ落としたり,凝縮する作業に挑むことになるだろう。そこに私たちの身体性が関わっているのであれば,それがある種のバランサーの役目を果たすのだと思う。

デジャヴ

 地下鉄とバスで通勤をしていると,いろいろな人たちとすれ違う。何の因果か女子学生ばかりいる職場環境に身を置いているため,他の世代や業種等の人たちと接触する機会は,通勤途中くらい。ぼんやりと眺めながら,あれこれ想像をめぐらしてみたりする。
 同期とか,同僚とか,そういうものの存在があったとしたら,もう少し楽に生きていくことが出来るのだろうか。時々そんな風に思うことがある。男同士が仕事や趣味について会話している様子を見ると,羨ましく思う。同期の男女の同僚が仲良くおしゃべりする様子を見ると,和気あいあいとした職場の様子を思い描いてみたりする。上司がいて,部下がいて,厳しいながらも組織として仕事をする人たちの共同体について,あれこれ想像をめぐらしてみるのだ。
 ただ僕は,事務仕事が得意なタイプではないので,会社員として仕事をするのは向かないだろう。羨ましい反面,自分のペースで仕事をさせてもらえることに感謝もしている。もっとも最近ではあまり許されなくなったけれども‥‥。
 男女の同期や同世代が一緒に仕事をするような職業に就いていたら,出会いも広がって,今頃は結婚して家庭でも持っていたのだろうかと空想してみることもある。職場には同期も同世代もいないし,異性に対する関係距離の徹底確保は職業病にも近いから,たまにそんなことを考えてしまうのだ。
 地下鉄に乗る。自分とは向かいの座席に,若い女性が座った。キレイな人だなとか,着ている洋服のセンスがいいなとかの感想を持つのはごく自然なこと。ただ,どこかで見たことがあるという既視感が次にやってくる。いつも乗り合わせているのだろうか。記憶をたどりながら行き着くところは,教え子のひとりに似ているんだという結論。その教え子自身?いや違う。目元はそっくりだけど,背丈が違うとか。そもそも私の生活圏に教え子が紛れ込むのはまれ。
 それがたまの一度や二度なら微笑ましい既視感である。似ている人がいるもんだなぁで笑って済ますところだ。しかし,これがいろんな人に対して起こるから厄介である。年齢も問わない。あの教え子が歳をとるとこんな感じのおばさんになるのかなとか。この女の子は大きくなったら,誰かみたいになるのかなとか。誰も彼もに既視感を抱いてしまうのである。
 こういうのは不幸ではないとしても,幸の薄い日常のような気がする。つまり,ある種の緊張状態が持続しているからだ。そして幻想を抱ける余裕もない。既視感が連れてくる記憶の方が先に立ってしまうためだ。
 今日見た人は,昔好きだった女性に似ていた。あれから彼女はどうしているだろうか。僕がもっと寛容で隙間をそのままに付き合える性格の人間だったなら,別の道筋もあったのかも知れない。ただ,そんなことをぼんやりと考えてみても,結局は,自分がそんな風にはなり得ない,別の道筋を選ぶわけもないという事実の発見にも行き着く。望むべくして今を歩んでいるのだと思う。
 既視感はいろんなエピソードを脳裏に連れてくる。それが忘却のかなたに消えていくまでは。

文献貧乏

 学会発表や研究会参加など,今年度に入ってから思い出したかのようにあれこれ研究活動の再起動をかけている。少々乱暴な振る舞いなのかも知れないが,そうでなければずるずると堕ちていくことになりかねない。なにより,新たな勉学の刺激は本来心地いいものである。その感覚を思い出すためにも立ち回らなければ。
 新しいことを勉強するには,それなりの出費も覚悟しなければならない。ここ数ヶ月は,手当たり次第に書籍を買い込んでいる。そのために家計は火の車。夏のボーナスでチャラになるのをひたすら待つ状態だ。扶養家族がいないのは唯一の救いか。
 ところで研究者には,研究費なるものがどこからか支給されるとお聞き及びの方々もいると思う。確かにそういうものが支給されるのであるが,ほとんど多くの場合,雀の涙のような金額で,1回出張に出掛けたりするだけで使い果たすという研究者も多い。そこで力のある研究者は,外部の機関が提供している研究補助金を獲得することで賄うのである。
 私は,所属している職場からいくらか研究費を支給してもらえる環境にある。その点では幸せなのだが,実は,購入する文献はほとんど自腹で購入していて,研究費を使っていない。いろいろ事情はあるのだが,文献資料を手元に置いて有効活用するためには,自らの所有物にするのが一番シンプルなのである。自分の行動範囲に適当な図書館施設がない場合は,特にそうだ。
 文献貧乏の日々。それでも積まれている書籍から受ける知的刺激は何物にも代え難い。そのような恒常的な知的刺激によって醸成したとき,様々な発想がもたらされる。でもお腹空いた,夕飯つくろう。

かわいいねぇ

 日テレの「NNNドキュメント’05」を観た。「赤ちゃんと語ろ」というテーマ。一人の助産師さんの活躍を通して出産そして育児に突入するお母さんたちと赤ちゃんの様子を追う。

 子育てノイローゼについては,話題になってからかなり時間がたっており十分知られているはず。けれども,辛さを理性でわかっていても,実際に当事者になるとやはり子育てはストレスを連れてくるようだ。なにより,子どもの接し方をアドバイスしてくれる身近な人の存在を欠いている現代社会。登場した助産師さんが主催する親と子の教室に参加するとかのコミュニケーション活動をしなければ,閉鎖空間に赤ちゃんと二人きり,精神的にも息詰まる。そんな世界に向けて,今後の保育士は子育ての支援を積極展開しなければならない。私の職場は,その職業の養成を担っているが,ますます頑張らなければ。

 いや,それにしても,子どもたちの笑顔のナントかわゆいことか。この子たちのために我が仕事があるというなら,それは幸せというものだ。教え子たちよ,私の代わりに現場で頑張れよ!