問わず語り

 夏休みに入った。皆さんよりも一足先である。もちろん,毎年恒例の嘆きを許してもらうなら,通常授業がないというだけで,校務は続いているし,授業時間が空いた分だけ会議が入る。学生達も暇ではない。補講や特別授業はもとより,就職活動,実習などで慌ただしい。そして私たちも実習の指導訪問で学生達を追いかけ回さなければならない。部やサークル活動も普段より活発になると,それの応援を要請されることもある。中学や高校の部活指導の方がはるかに大変なのは言うまでもないけれど。
 それでも,他のスケジュールが割り込む余地と同等に,自分自身が研究や勉強に時間を割くチャンスや余地も増えるのは確かなこと。私も(少々闇雲に)あれこれ手を出しながら,再度自己投資をしているといったところだ。その過程で得るものを早く駄文として残したい思いでいっぱいだが,実のところ,それが以前ほど容易くなくなっている現実にも戸惑うのである。一体どうしたというのか。


 研究テンションをかなり低下させざるを得なかった,この2〜3年間,私は自身が依存する組織そのものの維持や存立を担う場の一つに身を埋めていた。学生募集と大学入試の現場。昨今,この現場の事情は多く語られるようになったから,ご承知の方も多いとは思う。私たちにすれば,お給料の源確保であると同時に,教育者(また資格付与機関)として育てる人材の原石を掘り当てる仕事である。そして,大学生き残りがかかっているという闘いの最前線であるがゆえに,世間の動向や業界の情報が交錯する場でもある。
 そこで語られていた自分たちの未来は,そう明るいものではなかった。それまで考えもしなかった政治的力学の自分周辺への影響ぶりに幻惑もした。そして何より,自分よりも長く生きてきているはずの人々の,了見の狭さや不甲斐なさ,平然と行なわれる他者への悪口雑言がストレートに見え始めたことはショックであった。もちろん,それが自分自身の写し鏡であることに思い至るのに,それほど時間もかからなかった。
 自由闊達に考えを述べ合うことは大事だと思う。疑問に思う事柄を表明することも必要だ。特に研究という仕事は,批判的態度を下敷きにしながら,納得のいく自己主張や議論展開をしていくことが求められる。前提場面と表現手法に依るが,悪口や憎まれ口を書くのも想定範囲内というのが学問世界である。
 しかし,現実はそれほど生やさしくもない。まさにゴシップの世界なのだ。そこに発言の責任やフォローはないし,前向きな行動や活動に結びつくことさえない。自身の右手に持っているものと左手に持っているものが,まったく相反することもざらである。その正当性をもっともらしく信じ込み語らなくてはならない。
 仕事に矛盾はつきものだ。自分を偽るくらいの芸当は持ち合わせている。けれども,横で他人事のように高みの見物をしている連中は何様なのだ。教員として雇われている私よりも,職場の行く末を案じる必要があるのはその人達ではなかろうか。そんな他者への不信に始まって,とうとう自分自身さえ信じられなくなっていく。
 この2〜3年間がもたらしたのは,自由闊達な語りをすることへの自制のようなものかも知れない。たとえば,新刊書の斜め読みをもって本を紹介してみたり,内容を斬ってみようということができなくなってきた。勘が鈍ったとも言えるが,それより悪口雑言する自分を忌み嫌うからかも知れない。それをして読者から何を言われるかわからないという怖さも出てきたのだろう。ああ,引きこもりが始まったのだろうか。
 いま,手当たり次第にいろんなことに関わろうとしているのは,酸いも甘いも踏まえながら,もう一度,自分なりのスタイルを再確立したいからだ。自分自身で七転八倒して掴みなおせれば,たとえ馬鹿にされても笑われても気にしない。自信を持って真っ向勝負に挑めばそれでいいから。
 しばらくの間,留守をしている隙に,すっかり手持ちの「確信」を失ってしまった。少しずつ拾い直さないと。その過程をここにうまく記録できるといいのだが,まだまだその余裕がないのだと思う。