地下鉄とバスで通勤をしていると,いろいろな人たちとすれ違う。何の因果か女子学生ばかりいる職場環境に身を置いているため,他の世代や業種等の人たちと接触する機会は,通勤途中くらい。ぼんやりと眺めながら,あれこれ想像をめぐらしてみたりする。
同期とか,同僚とか,そういうものの存在があったとしたら,もう少し楽に生きていくことが出来るのだろうか。時々そんな風に思うことがある。男同士が仕事や趣味について会話している様子を見ると,羨ましく思う。同期の男女の同僚が仲良くおしゃべりする様子を見ると,和気あいあいとした職場の様子を思い描いてみたりする。上司がいて,部下がいて,厳しいながらも組織として仕事をする人たちの共同体について,あれこれ想像をめぐらしてみるのだ。
ただ僕は,事務仕事が得意なタイプではないので,会社員として仕事をするのは向かないだろう。羨ましい反面,自分のペースで仕事をさせてもらえることに感謝もしている。もっとも最近ではあまり許されなくなったけれども‥‥。
男女の同期や同世代が一緒に仕事をするような職業に就いていたら,出会いも広がって,今頃は結婚して家庭でも持っていたのだろうかと空想してみることもある。職場には同期も同世代もいないし,異性に対する関係距離の徹底確保は職業病にも近いから,たまにそんなことを考えてしまうのだ。
地下鉄に乗る。自分とは向かいの座席に,若い女性が座った。キレイな人だなとか,着ている洋服のセンスがいいなとかの感想を持つのはごく自然なこと。ただ,どこかで見たことがあるという既視感が次にやってくる。いつも乗り合わせているのだろうか。記憶をたどりながら行き着くところは,教え子のひとりに似ているんだという結論。その教え子自身?いや違う。目元はそっくりだけど,背丈が違うとか。そもそも私の生活圏に教え子が紛れ込むのはまれ。
それがたまの一度や二度なら微笑ましい既視感である。似ている人がいるもんだなぁで笑って済ますところだ。しかし,これがいろんな人に対して起こるから厄介である。年齢も問わない。あの教え子が歳をとるとこんな感じのおばさんになるのかなとか。この女の子は大きくなったら,誰かみたいになるのかなとか。誰も彼もに既視感を抱いてしまうのである。
こういうのは不幸ではないとしても,幸の薄い日常のような気がする。つまり,ある種の緊張状態が持続しているからだ。そして幻想を抱ける余裕もない。既視感が連れてくる記憶の方が先に立ってしまうためだ。
今日見た人は,昔好きだった女性に似ていた。あれから彼女はどうしているだろうか。僕がもっと寛容で隙間をそのままに付き合える性格の人間だったなら,別の道筋もあったのかも知れない。ただ,そんなことをぼんやりと考えてみても,結局は,自分がそんな風にはなり得ない,別の道筋を選ぶわけもないという事実の発見にも行き着く。望むべくして今を歩んでいるのだと思う。
既視感はいろんなエピソードを脳裏に連れてくる。それが忘却のかなたに消えていくまでは。