文献屋さんの身体性

 古巣の大学図書館に出掛けた。ジャーナル(論文雑誌)の中身を読みたいと思ったからだ。久し振りに利用したので,館内のパソコン環境などが変化していた。自動貸出機なるものまで登場している。蔵書検索端末を操作して目的の論文を探すが,肝心の雑誌は教育学部の図書分室に保管されていて,土曜日に閲覧が出来ない。
 ただ,目的のジャーナルは「電子ジャーナル」も発行していて,端末上でPDFとして読むことが出来る。大学図書館は購読契約しているから,館内なら無料で見られるというわけだ。読めないと話にならないので,PDFファイルを表示させて,画面上で眺めていた。
 しかし,不慣れな英文の電子ジャーナルを画面で読み続けると疲れる。単語がわからないと,自分のパソコンなら辞書ソフトで即座に調べられるのに,図書館のパソコンにはそれがない。学外への持ち出しはおそらく禁じているだろうから,家でゆっくりというわけにもいかない。慣れない状態で読んでいたら,閉館時間がやってきて,目の前のパソコンが自動終了。ええええ‥‥。

 文献屋は本を読めばいいと思われているかも知れないが,実は身体を使わないとダメなのである。ダメという意味は,「歩かないと図書館に行けない」とか「夜遅くまで読書する体力」とか,そういう皮肉っぽいものではない。まあ,もちろん移動も体力も必要だが,文献屋は本という物理的実体との格闘に関わる身体的な行為のすべてを駆使することによって,まともな思考が働く。
 パソコン上で調べものをして,そのままワープロ・ウィンドウにコピー&ペーストして加工するような作業は,成果の量産には好都合なのかも知れないが,思索には役立たない。だから私は,図書館にパソコンを持ち込まない。大学ノートとペンを持参して,ひたすら書き写したり,メモるようにしている。もちろん,その後パソコンに入力する場合は二度手間になるが,二度目の手間にも思考の俎上に乗せることが出来るため,より注意深く情報に当たれるのである。二度目にミスが入り込む余地と比べても,総じて見れば繰り返し思考できることのメリットの方が大きい。
 もちろん,これは一人きりで仕事をこなそうとする寂しい文献屋の古くさくて非効率的なスタイルだし,私個人のスタイルなので,万人に通用するものではない。昨今は,共同研究を通して互いに思考を切磋琢磨し合うようになってきたし,効率的な研究成果の創造が求められているため,こういうスタイルは嘲笑か非難の対象にさえなりつつあることは了解している。

 それでも,私は皆さんにノートとペンを手に取っていただき,思索の時間を過ごしながらメモをとることをおすすめしたい。ときに文献資料を漁って,頁と頁の間を行き来する動作をまじえ,膨大な情報を削ぎ落としたり,凝縮する作業に挑むことになるだろう。そこに私たちの身体性が関わっているのであれば,それがある種のバランサーの役目を果たすのだと思う。