投稿者「rin」のアーカイブ

卯月2日目

 書きかけの原稿を読み直しながら,ぐちゃぐちゃになっていた資料を整理していた。それだけで一日終わった。ああ。原稿にはまだたくさん追記が必要なのに,書いた分の修正に留まってしまった。明日には書き足してけりをつけたい。
 道徳的な態度の評価という問題について書いている途中だったのだが,結局のところ,この問題は単純な到達度の測定といった短絡的評価観ではどうにもならず,授業改善やカリキュラム評価を巻き込む形で議論するしかないというのが大方の論法になっているようである。これにeラーニングの要素が加味するともう少しややこしくなってくる。
 と大まかに記憶を取り戻しウォーミングアップしたところで,タイムアウト。睡眠はちゃんととらないと。続きは明日。

卯月1日目

 4月になりました。平成18年度のスタート。私にとっても新たなスタートの日となりました。まずは今後の大まかなスケジュールを確認して,これから数ヶ月の過ごし方を計画しないといけません。
 3日の週には,自宅の仕事部屋を根本的に整理して,研究資料を再確認。10日の週に,東京へ出かけて部屋探しをして,そのまま東京生活を暫定スタート。17日の週には,ぼちぼち仕事の体制を整えつつ,研究打合せや出張に出かけ,24日の週には,本格的に東京生活に移行できるように動こうと思う。実際にはもっと短縮されると思うけれども,とりあえずの目処。
 教育フォルダ(教育らくがき)のWebページも少しデザインの見直しをしたい。プロフィールも修正しないと。毎回チェックしていた皆様,お待たせしました。そろそろポッドキャスティングも再開します。

いつか通る道-7

 この日がやってきた。9年間お世話になった職場を離れることになる。朝の辞令交付式に出席して,依願免職辞令を受け取った。それから最後の引継ぎ仕事をいつも通り夕方過ぎまで取り組み,最後のご挨拶をして,いつも通りに職場の正門を後にした。
 何かを誰かのせいにするのではなく,何かを誰かのおかげですることに転換していきたい。そのためには自分の中の現状満足や他人まかせする誘惑と闘わないといけない。そんな闘いが今日に繋がったのだと思う。慣れ親しんだ職場を離れたいという私のわがままを理解して,快く送り出してくれる職場の皆さんに,あらためて感謝。だからこそ,これから歩む道筋も誠心誠意をもって努力していくことで恩返ししたい。
 人生を考えるとき,必ず思い浮かべる本がある。マイク・ハーナッキー著『成功の扉』。成功本としてはシンプルな内容だが,人生のターニング・ポイントを考えるには十分な力を持っている。著者曰く,
 何かを成し遂げようとするには,
   必要なことはすべて
  進んで実行する自発的な態度が必要である。
 このような態度で事に臨むことによって,私たちは様々な困難を乗り越えられるし,実のところ困難自体が雲散霧消してしまうというわけだ。ところが,少しでも何か理由をつけたり誰かのせいにしたりして「必要なこと」を「実行する自発的な態度」をゆるめたり省略しようとすると,途端にこの成功法則は効力を失うのである。だから筆者は,最後にゲーテの言葉を引用してみせる。
 実行できること,夢見ることができることは
 何でも実際にやってみることだ。
 大胆さのなかにこそ天才,力,魔力が宿る。
 これでピンとこないなら,WBCで活躍したイチローの生き様を思い浮かべてみてもいい。彼にはビシッと目標があり,それに向けてすべての言動がある。その迷いのなさこそ,彼を天才たらしめているのだろう。彼ほどシャープにできないにしても,私たちだって同じように目標へ取り組む自発的な態度をとるチャンスは平等に与えられているのだ。目指さない理由はない。
 この3年間で,職場に対して残すべき仕事に取り組んだ。それが私の置きみやげ。職場に残ってやりたい事柄はもっとたくさんあるには違いないものの,それが私のやりたいことの全てではない。だからこそ自分なりに目標地点を決めて,そして飛び出すことにした。もちろんこれは「結果的に」というお話し。実際には,ごく自然な流れのなかで起こった出来事。誰もがいつか通る道。

科研報告会

 短大教員として最後の大仕事である科研の報告会に出席。担当した学習ツールの紹介と秋に出かけたアメリカ学校視察の様子を合わせて報告した。本当は参考文献の部分訳出しようと取りかかっていたけれど,時間切れでした。
 拙い発表内容ではあったけれど,それが想像力を喚起した面もあって,なかなか興味深い議論をいただけた。今後もう少し成立過程を洗い直して,違ったアレンジを加えられないかどうか模索することになりそう。面白くなりそうだ。
 懇親会は笑いの絶えないひとときを過ごす。こうしたグループに迎えられて活動する経験が少なかっただけに,研究にしても交流にしても得るものは多い。声をかけていただいたことに報いるためにも頑張らなければ。
 翌日,是非とも会いたい赤ちゃんがいたので,そのお宅へ行く予定のある先生について行くことにした。いやはや噂通り,かわいい男の子であった。仕事の話をしている横で,勝手に赤ちゃんと接しようとして頑張っていた。自分は,どうも学部時代の小学校教員を目指した気質が抜けないようである。保育・幼児教育の学科が職場だったしね。
 とにかく,今回の報告会への出張は,4月からの目標と元気をもらえた出張だった。感謝感謝。

いつか通る道-6

 東京出張から帰って,少し宿題をして,月曜日は職場で片付け。とうとう研究室を明け渡さないといけない。これから大阪出張とそのための準備があるため,月曜日の内に溶解処理すべき紙ゴミをまとめて,ゴミ出しは誰かにお願いせねば。そんなわけで片付け作業をしていたら,火曜日の夜中3時になってしまった。
 9年間分の書類や物品は,忘れていた様々な人々や出来事の記憶をよみがえらせる。とはいえ,どれも過去の記憶。前に向かって歩まなければならない。さて,早く帰って寝ないと‥‥。

弥生22日目

 あれこれ慌ただしく動いているうちに,もう下旬。
15日パソコン撤去作業,16日出張準備あれこれ,17日高校模擬授業,18日卒業式,19日福井出張,20日書類処理などと賑やかにやっている。頭の片隅では来週の報告会準備や途中かけの原稿執筆がのろのろマルチタスクで進行しているが,研究室を空っぽにする力仕事も残っていて,まだまだ落ち着けそうにない。
 長崎のH先生から知人の結婚式の知らせ。返信したけれど届いてないかな。H先生,またメールします。それから,相互リンクのお願いメールもいただいた。ありがとうございます。少し落ち着いたらしますので,少し待ってくださいね。リンク集の見直しをしなきゃいけないなぁ‥‥。
 やっと携帯電話を機種変更した。ドコモPHSサービス終了に伴う割引クーポン券とポイントを合わせて,安価に変更した。本当は,ウィルコムにキャリア変更したいくらいだが,番号ポータビリティサービスがまだなので仕方ない。携帯電話のモラル教材づくりに関わっていることもあってドコモFOMAに切り替えてみたが,こりゃ考えなければならないことたくさんありそうだ。それから,やはり電磁波の強さが手からも伝わってくる。長時間持っていると,指がパンパンになる感覚が増してくるなぁ。PHSのウィルコムもすでに電磁波の微弱性を売りにしているくらいである。この差は大きい。
 それから,ようやく電子辞書も購入した。こちらは十数年ぶりに機種変更したことになる。いやはや,電子辞書に関しては,また教育らくがき書庫の方で取り上げたい。あっちも更新滞っているが,少しずつ更新したい。

消費は教育を豊かにできるのか

 教育界隈では,教員の資質向上が最も注目を集めているのかも知れないが,一般社会では家庭教育を市場のトレンドとして持ち出そうとしている。一番わかりやすい兆候は家庭教育関係の雑誌が立て続けに創刊されていることである。
 小学館『エデュー』は試行期間を経て,とうとう月刊化した。『日経Kids+』も順調のようだ。朝日新聞社も触手を伸ばし始めたようで,いつものようにAERAの臨時増刊の形で『AERA with Kids』を発売した。
 この辺の雑誌は,教育らくがき書庫であらためて比較分析するとして,この動きをどう考えたらいいだろう。一つには,子育て・マタニティという先行モデルの後追いであると考えることもできる。すでに赤ちゃんや幼児の教育に関する雑誌の方は満開状態で,マタニティ市場との連動を前提として一つの世界を成り立たせている。そうした乳・幼児の子育てを経た親が次の段階として継続して読む雑誌を用意するのは自然な発想であるし,そのことによって先行モデルを継承することが意図されている。
 二つ目には,気がつけばそのようなセグメントの情報提供手段がすっぽり空いていて,かつニーズが高まってきたこと。義務教育段階の子ども達に関する情報を定期的に得る手段は従来までほとんどなかった。学校の出来事は子どもや保護者同士のネットワークから得るのが大半だったろうし,塾に関することも地域の評判がメインである。学習指導要領が変わるとか,日本の学力が低下しているとかの情報は,テレビや新聞で取り上げられるのを聞くだけ。子ども達を取り巻く環境がどうなっているのかを考えたりするメディアはありそうでなかったのである。しかし,公立学校の危機とか,子ども絡みの事件も多発し,子どもの教育や生活という問題は,注目すべき主題となった。それを扱うメディアのニーズも高まってきたのである。
 その他にも,「親」の世代交代といった変化も絡むし,それゆえライフスタイルを気にするベースができてLOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability)というものへの注目も無関係ではない。そうやって考えていくと新雑誌たちが詰め込む情報はバラエティに富むといえそうだ。
 宗教的なベースによって安心感を得られたり,教育の在り方を考えることができる諸外国とは違って,日本はどこか曖昧だ。教育基本法の改正話を再びぶり返そうとする動きもあるようだが,結局何も議論できていないし,それが人々の意識のベースになり得るとも思えない。すると,日本人にとっては消費に結びつくムーブメントによって物事を進めていった方が性に合っているということなのだろうか。消費やマーケティングによって感動さえも演出できるご時世である。教育を「サービス」と言わずに「ニーズを満たすもの」に仕立て上げられるとすれば,日本にいる私たちはそれ以上の何を求めるのだろうか。

弥生13日目

 確定申告しに税務署へ出かけた。昨年の申告書や確定申告テンプレートなど利用しながら自宅で申告書を完成させるので,税務署へは提出だけでいい。なら郵送でもよさそうだが,手渡しの方が安心できるので,わざわざ公共交通機関で出かけた。
 雪が降っていてびっくり。案の定,税務署には車が列をなしていた。地下鉄の駅から少し歩くことになるが,やはり公共交通機関が正解だ。確定申告のために設置された臨時のプレハブには,たくさんの人が申告書作成コーナーの端末を待っていたり,税務署の人たちにアドバイスをもらうためにごったがえしていた。それを横目で見ながら,2階の提出窓口へと直行して申告完了。すぐさま来た道を引き返して自宅へ。そのまま荷物を持ち替えて職場へ出勤した。
 「お金の教育」が話題に取り上げられる機会も多いが,こういう税金のお話しや会社のしくみ等,簿記の初歩的な知識を身につけることは今まで以上に必要だと思う。私自身,こうやって退職することになって初めて,自分の知識の薄さを痛感する。興味はあっても日常の仕事が慌ただしくて手をつけられなかった株式投資や経済活動に,いよいよ挑戦することになりそうだ。学術研究・勉強をしながら,同時に稼ぐ手だても考えなくては‥‥。

いつか通る道-5

 最近になって『退職前後の手続きまるわかり』という本を買った。仕事を辞めることがどんなことなのか,こういう本をあらかじめ読んで知っておくべきとは思うが,幸か不幸か読む機会もなくここまで来た。とにかく「健康保険」「年金」「雇用保険」「税金」について手続きをしなければならない。
 税金は,確定申告の締め切り日も近いので,その手続きと共に諸々を考えなければならない。健康保険は悩みどころか。国民健康保険に加入するか,それとも現在のものを任意継続するか。掛金を比較しないと‥‥。年金はこりゃもう国民年金へ。そして雇用保険に関しては,失業給付を得るならそのための手続きをしなければならない。ただハローワークで休職しないと失業にならないのが厄介だな。
 口述試験で「いままで何やってきたんですか?」と不躾な質問を投げかけられて,そのあまりに投げやりな質問態度に思わず「教員ですが‥‥」と返した。けれどもその質問はある意味で的を射ていた。私の9年間の大学教員生活は,一体何をやっていたのだろうと自問したくなるからだ。善かれと思ってしてきた仕事は数々あれど,それが開花している手応えは薄い。総花式にやろうとしすぎたことにも問題があるのだろうけれど‥‥。
 それでも,ここ数年は,仕事にケリをつけられるように努力してきた。あと1年残ればもっと仕上げられることもたくさんあるが,あと1年,あと1年とやってきて5年経ったのである。本当に切り替えたいなら,今のタイミングしかない。あと1年残ったら,ずっと残ることになる気がするから。
 職場の先輩教員から「これから大変だぞ。なにしろ,りんさん,やさしすぎるから」と言われた。いつもやさしくできたら,どんなにいいだろう。私はやさしくなんかない。ただ自分に甘いだけ。それに自分で嫌気がさして,たまに無謀なだけである。

統計の検定

 とある研究フォーラムの報告駄文を書きながら,「ああ統計ってややこしい」と思った。でも正しくは「統計っていい加減だなぁ」。仮説の設定の仕方にもよるわけだが,これ,何でもかんでも有意水準が低いってなったら,あんまり意味がないんだもん。
 アンケートを集計し,その結果を分析する。これは雑誌記事なんかでよくある内容だ。ものによっては,質問同士を掛け合わせて,2つの要素(因子)の間に関連があるかないかを分析するものもある。そういうときに出てくるのが「検定」。つまり複数の因子同士が本当に関連があるのかどうか,その仮説をテストすることだ。
 検定という名前が付いているが,やっていることは「確率」計算。ところが,計算できる確率は「関連がある」って仮説の方ではなくて,「関連がない」という反対の仮説だけなのだ。これが摩訶不思議に思えるところかも知れないが,とにかく私たちにできることは,「関連がない可能性はこれくらいの確率」って事だけなのである。その確率と連動する水準のことを「有意水準」といって,この水準が低ければ低いほど,本来の仮説の方の可能性が高まる(かもしれない)という考え方なのだ。
 おわかりのように,どんなに反対の仮説の確率が低くたって,本来の仮説の確率を明言できないのだから,実は結構いい加減なのだ。たとえば,「どう考えてもあの女性は僕に気がないはずがない」ということが明確になったとしよう。だって会うと笑顔を返してくれるし,時間があればよくおしゃべりをするし,映画に誘えば一緒に出かけてくれるし。確かに「気がない」という可能性は低いように思える。だからといって「あの女性は僕が好きなんだ」ということには絶対ならないのである。
 ま,少々仮説の立て方が酷いのだが,つまりは仮説の立て方次第で検定が役立つこともあるし,下手な仮説の立て方をすると検定にほとんど意味がないことにもなる。
 統計の話題は,書庫で文献紹介しながらまた取り上げてみよう。