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ゴアが大統領だったら…

 映画「不都合な真実」(原題:An Inconvenient Truth )が秋に公開される。地球温暖化の深刻な現実を扱ったこの映画自体は,また時期が来たらご紹介したいとは思う。とりあえずは予告編などで興味を持っていただきたい。
 今回ご紹介したいのは,この映画のプロモーションのため,出演者であるアル・ゴア元副大統領がサタデー・ナイト・ライブ(SNL)に出演していたこと。その映像がアル・ゴア氏のブログに掲載されている。しゃべっていることは何度か聞いてジワジワと分かってくるので,私にはスルメのように美味しい映像である。
 SNLは米国の長寿コメディ・バラエティ生番組である。私たちが知るコメディ系映画俳優の何人もこの番組の出身者で,出演者を変えながら番組自体は一つの伝統的な「枠」(「わく」)として残り続けているわけである。
 私自身SNL大好きなのだが,残念ながらビデオを借りて見るとかはしていない程度の浅学ファンである。それでもSNLが好きなのは,この番組が日本も含めた他のバラエティ番組に大きな影響を与えていて,視聴者としてその空気を間接的に味わっていることもある。それに何かの機会にSNLを見るたび,その何だか分からない楽しげな番組の雰囲気が「いまは眉をひそめる時間じゃない,楽しむ時間だぜ」とはっきりメッセージを送っていて,見ていて気持ちいいのである(つまり彼ら彼女らはショウを見せるエンターテイナーに徹している)。
 そんなわけで,かつて大統領を目指し,いまは熱心な環境問題の啓蒙家であるアル・ゴア氏さえ,この番組に登場し,過激なパロディを演じても,その枠の中なら「ショウほど楽しいものはない」と許せてしまうのである。ちなみにゴア氏ご本人も,もともと冗談好きみたいだ。映画予告編でもそうした一面が垣間見られる。
 まあ,日本には本当の政治をショウにしちゃった強者がいるので,あえて日本で同じことをする必要はないと思う。その辺,日本人はいろんな枠を壊しすぎちゃったのかなと思う。おかげで得たものもあれば,失ったものも多いけれど。
 NHK「英語でしゃべらナイト」の京都スペシャルを見て思ったのは,日本人から「粋」(「いき」)が無くなっていること。確かに京都と他都市じゃ文化が違うのかも知れないが,それでも大なり小なり日本文化には「粋」があったと思うのだ(だから番組は「Do Kyoto」というキャッチフレーズで締めていた)。
 というわけで日本は「枠を壊して粋が無くなる」という奇麗な結論が出たところで,お開き。

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羽田での再会

 W先輩が出張先から東京経由で帰路につくらしく,久しぶりに会わないかと連絡をいただいた。私が上京してからは初めてになる。職の有無が逆になったりして,人生の変遷というのは面白い。
 近況を報告し,まもなく大学院試験が始まることを伝える。いつもの通り,励ましとアドバイスをもらう。かつての大学院での経験についてもお話が及ぶ。大学院教育の世界にもあれこれ事情があって,大学院毎に気質や雰囲気に違いがある。もちろん基本的には,大学院生本人の努力がものを言うことには変わりない。けれども実際には,院生内に後輩への指導文化はあるのか,共同研究をする伝統はあるのか,放任型か管理型か等といった大学院風土が大きな影響をもたらす。
 ここで恥ずかしげもなく駄文を書き続けているのをご覧になって分かるように,私は十分な訓練を受けたタイプとは言えない。そのことをW先輩も繰り返し指摘してくれる。いろいろ事情もあって師匠が不在がちだったことをいいことに,私も自己流で好き勝手に本を読んでいただけで終わった2年間の大学院生活だった(もっともそのこと自体は感謝しているし,よい経験だったと信じている)。
 そんなわけでW先輩も,私が大学院に入り直そうとすることには賛成。年齢的にはギリギリだろうと懸念される事柄や困難はズバズバと指摘されたが,それも心配しているからこそのエールである。批判されるのは慣れているが,褒められるのには慣れていないので,これくらいがちょうどいいのである。
(余計なことを書くと,他者の批判や問いにセンシティブになるべきかどうかの問題は難しい。悩み多き人生に慣れているかどうかという人間性も関係するためだ。むしろ怖いのは,自己批判や問いの無限後退へと陥ることだと思う。もっとも,最近の人たちは悩まなさすぎにも見える。そう思えるときは,もっとセンシティブになれよと言いたくなる。ああ,浅はかな私,やっぱり研究者に向かんのだろうか ^_^; )
 東京の街についてや住み方アドバイス,短大や大学経営の世間話をしながら東京モノレールに揺られて,東京駅まで先輩を送る。「けど,おまえは運がいい方だよ」と言われ,素直に同意した。自分で職を辞して勝手に上京したのに,こうして忙しく活動できるのはラッキーである。
 もっとじっくり本を読んだ方がいい,いずれ海外へ勉強しに行った方がいい,とすべきことは多い。正直なところ,慌ただしさにかまけて,基本的な勉学努力を怠っていることも事実である。欲張りな割りには力の無い自分をどこかで調整しなければならないのだが,まあ,悪あがきをするしかないとも思う。
 東京駅にてW先輩と待ち合わせている人物を探す。話の感じから高齢の男性を思い描いていたのだが,実際に現れたのは先輩と同じ世代の女性だった。そこでバトンタッチ。年内にまたお会いする約束をして先輩と別れた。
 それから銀座の伊東屋に初めて出かけた。東京で一番大きい文具店は「伊東屋」らしい。時季外れだが手帳を新しく購入したかったからである。前途多難,暗中模索な私自身の先行きを少しでも見通し明るくするためだ。これについてはまた改めて熱く語ってみよう。

ああそうか

 以前の駄文に,自分の「楽しそうな話っぷり」に関して褒められたことを書いた。シンポジウム登壇での発表や,集中講義での講話の様子についてである。
 ちなみに,他の先輩同輩諸氏のブログを見ると,ご自分の授業について,方法だけでなく,内容の理解しやすさも評価された,なんてことが書かれている。「内容はともかく」とか書いている自分が恥ずかしいもんだが,わたくしの授業はボディブローのようにじわじわ効いてくるのが特徴なので…という言い訳は置いといて,これに関しては精進精進。
 それで,「楽しそうな話っぷり」はどこからやってきたのかという由来について,そのモデルが母親であることは分かっていたのだが,もう一人について(前回の駄文を書いて)ハタと気がついた。
 元NHKアナウンサーの鈴木健二氏である。彼の「クイズ面白ゼミナール」における名司会(教授)ぶりは,とにかく「楽しそうな話っぷり」そのものであり,ウィキペディアでも触れられているアドリブ癖も,大いに楽しかった。
 あの少々ワンマンでありながら嬉しそうにしゃべる様子が「ああ,物事を説明するというのはこういうことなのだな」と幼心に焼き付いたのかも知れない。とにかく「クイズ面白ゼミナール」は(当時)面白かったのである。
 (そういえば,後番組「クイズ百点満点」の大塚範一氏も好印象だった。とにかく「クイズ面白ゼミナール」「クイズ百点満点」そして,NHKアナではないけど古舘伊知郎氏の「クイズ日本人の質問」に続くあの頃は,NHKクイズ番組史における黄金時代だと思う。もっと古い黄金期もあるとは思うけど…。)
 って書いてたら,以前このネタ書いたことがあったんじゃないかと思い出した。そうだそうだ。でも「楽しそうな話っぷり」に関しては,今回初めて確認したことだ。
 小芝居っぽさをあえて嫌みに感じないで楽しむというスタンス。きわめて80年代っぽい方法で,たぶん今だと好き嫌いが別れると思う。それだけに相手の寛容さに左右されがちだが,そこら辺の関係性を結ぶことも教師としての資質の一つである。と精神論に逃げて,この話は終わり。

お盆をすぎて

 モヤッとした日々を過ごす。終戦の日前後は,毎年疎いなりに歴史のことを気にするのだが,今年は世間の空気に乗っかって歴史の本を眺めている。
 劉・三谷・楊『国境を越える歴史認識 日中対話の試み』(東京大学出版会2006.5/2800円+税)には興味を抱いた。日中韓の歴史認識に関する対話や共同研究の試みは,国や民間のいろんなグループが展開している。その成果も文献として上梓されているが,どれも芳しい受け止められ方をしていない。その中で,本書が提供するのは,成果というよりも過程の提示である。21世紀に入り,各国の歴史研究環境も前進し,一次資料の開示も進みつつある。一方で,当時を生きてなお存命している人たちも少なくなりつつある。まさにその時期に,歴史から得た内容をもって対話するというよりも,歴史に対する方法を土台とした理性的な対話によって,互いの歴史認識を高めていこうとするスタンスが,本書から感じられる(ってまだ読めてないんだけど…)。
 教育内容とは何なのか。これに関する文献資料を見た記憶がある。単なる「内容」と「教育内容」に関して,原理的な考察をしたものだった。教育内容として使用する意図のもと事前に用意する内容以外にも,そのような意図のない内容も文脈に組み入れることによって教育内容たる場合があることを,あれこれ論じていた(と思う)。誰あろう藤岡信勝氏が書いた論考だ。最近はすっかり歴史教科書の人になっていらっしゃるけれど。
 最近,シリアスゲームに関する最新動向を聞いたのだが,シリアスゲームの定義はまさに文脈依存型のものだった。何か特定の形式や条件を満たしたものがシリアスゲームというわけではなく,想定している文脈にゲームが当てはめられれば,それをシリアスゲームと呼び得るようなのだ。
 だから,「内容」や「対象」よりも,「方法」あるいは「視角」のようなものが重要なのかと感ずる。カリキュラム研究においても,この予感はかなり以前からあった。少しずれるが「メディアはメッセージ」という有名なマクルーハンの言葉も,どこかで通底している気もする。
 ナントカ劇場のおかげで,日本のマスコミの滑稽な正体がかなり明るみになった。(さらにずれるとは思うが)マジックミラー越しに置かれた鏡を見ているようなものだった。つまり,日本人が見ていたもの(メッセージ)は,マスコミ(メディア)そのものだったし,それはマジックミラー越しの私たち自身でもあったわけだ(そういうニュアンス)。
 それゆえに私たちが足りなかったのは,方法と視角のレパートリーではなかったか。一人一人の方法と視角そのものもなかったかも知れないし,それを発揮する場もなかったかも知れないし,発揮すべき場があった場合には発揮すべきものがなかったのかも知れない。だから諸外国の人々には,何を考えているのか分からなかったともいえる。
 若い世代にとって,歴史認識方法や視角に関するよいロールプレイモデルが提示されていなかったことは,さらに不透明度を上げたのではないかと思う。日本には歴史という知的プラットフォームを使って世代間のコミュニケーションや関係を構築する機会がほとんどないように思う。私が歴史に疎いせいでそう思うのかも知れないが。
 歴史の文脈でそう考えたとき,別に歴史のことだけに限らず,学校教育で知識を学ぶのはなぜなのか?という問い掛けに対して,コミュニケーションにおける共通のプラットフォームづくりであると答えることは意味あることではないかと思っている。プラットフォームづくりを保証するのが「カリキュラム」の仕事の一つである。
 この頃思うのだ,当時は歴史がほとんど分かってなかったのに楽しかった「クイズ・面白ゼミナール」の歴史クイズを,歴史が少し見えてきた今,もう一度見てみたいなぁと。
 東京では落雷停電,事故大停電など大変みたいだったが,名古屋にいたので体験できず。そのあと東京に戻ってみたが,特に変化なし。台風もたくさんやってきている(「台風前線」が面白い)。さて,宿題を片づけなくては…。

物語の章替え

 夏休みの帰省中。古巣の同僚の皆さんや卒業した教え子と日帰り旅行をした。それは,2つの物語のその後を垣間見ることになった旅行だった。そして,ほろ苦くも幸せな物語である。
 一つ目の物語は,かつての教え子たち三人の友情についてである。留学生だった学生と保育士となった学生二人は,もともと所属学科が違っていた。こういう場合,友達になる機会がなくて,それぞれバラバラに学生生活を過ごして卒業していくものだ。そんな彼女たちが出会うことになったのは,私が担当したパソコン市民講座を手伝う学生アシスタントの募集に応募したことがきっかけである。
 それ以来,彼女たちは学生生活を共に過ごし,卒業後もゆっくりとしたペースながら連絡を取り合う友達である。留学生の彼女は,母国に帰国したのだが,こうして年に一回,日本に訪れて友達と会うわけだ。そして今回は,私も小旅行にお供する機会を得たというわけである。
 正直に告白すれば,このエピソードを私自身はすっかり忘れていたのである。もちろん教え子たちのことは忘れていないが,そういえば,この子たちが出会ったきっかけは私の講座だったのだ。そして今日,あらためて彼女たちの口から「先生には感謝しています」と言われて,私の錆びついた記憶テープは急速に巻き戻った。
 インタラクションの少ない私生活が,学年歴を周回する9年間の記憶をデジャヴュの断続として曖昧にし,大事な記憶を置き忘れてしまうことに,言い知れぬ不安を感じた。同時に教え子に対して申し訳ない気持ちが膨らむ。
 けれども一方で,学生たちに感謝されている自分がいる。誰かが言った「先生,まさに教師冥利に尽きますね。」私はうなずく以外になかった。自分の仕事が生み出したとされる良き友情関係とその後の交流について,こうして再び間近で確認ができるなんて有り難い。

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MacOS X10.5の教育利用で嬉しいポイント

 新しいMacOS X10.5英語)は来春発売予定。今回公開された機能の中で注目すべきはネットワーク対応のSpotlight検索とTime Machineという名のファイル復元(自動バックアップ)のようだ。付属アプリケーションの進化としては,MailにおけるHTMLメール作成機能の充実とiChatのコラボレーション機能の追加が挙げられる。
1) Spotlight検索のネットワーク対応
 学校や職場の共有ファイルサーバーには,たくさんの書類ファイルやデータが保存されているものである。従来まで,こうした共有ファイルサーバーに保存されていたファイルを検索するのは困難だった。
 できて「ファイル名」や「ファイルの種類」を検索できる程度。しかもネットワーク経由でマウントしたディスクを検索するため,極端に時間がかかって使い物にならなかった。
 Spotlight検索は,MacOS Xにおけるシステムレベルの検索機能として,ローカルディスク内のファイルやデータを名前から内容までを対象として高速検索する機能。これがネットワーク対応になった。
 つまり,共有ファイルサーバ上のファイルやデータも,名前だけでなく内容も含めて高速検索できるようになったのである。これで,どれだけ前に作った文書でも,探したいキーワードが中身で使われているファイルを探し出すことができる。
 教育工学系で,ブログとかWikiを使って指導案や校務文書を登録して整理するという取り組みがあるが,これでそういう回りくどい努力が吹っ飛んでしまう。サーバー上の指導案等を検索したいなら,MacOS Xでファイルサーバー立てて,MacOS XでSpotlight検索すれば,実務上はあっという間にアクセスできるのである。ああ,こりゃ一大事だ。
2) Time Machine(タイムマシン)
 これは自動バックアップ機能と復元機能である。ファイルやデータのバックアップは重要であるとは啓蒙されても,実際にバックアップ作業をしている人たちは少ない。いろいろ仕事も忙しいからだ。
 そんなわけで,システムが自動的にバックアップする機能を付けるというのは,自然な発想だ。特に目新しい機能ではない。タイムマシンという機能は,ファイルが作成されたり,変更されるたびに,その変更部分(差分)を記録していく。そして必要なときにタイムホールを呼び出して,過去にさかのぼることができ,復元が可能というもの。
 要するに消去しても完全に消しているわけではないし,逆に言えば,ハードディスクを消費する機能とも言える。おそらく使用するかしないかスイッチを入切できると思うが,ハードディスクの容量さえたっぷりあれば,アップルらしいユーモアのあるインターフェイスを使ってファイルやデータの復元ができるというわけである。
 まあ,子どもたちがいろいろ削除したり変更してしまうファイルやデータを復元できたり,過去にさかのぼって古いバージョンと比較できたりするのは,なかなか便利かも知れない。
3) MailのHTMLメール作成機能
 この頃は,HTMLメールによって奇麗にレイアウトされた業者からのダイレクトメールも多くなった。そうした自由なレイアウトの奇麗なメールを個人が作成して送信するツールはなかなかなかった。
 Webサイト作成ソフトiWebの成果を活かして,それを組み込んだのが新しい版のメールソフトMailである。HTMLメールの送信や受信には,まだ抵抗を感じる人々も多いが,そろそろ高度なレイアウトのメールを可能にする環境は整ってもいいかも知れない。
 子どもたちが自由気ままにレイアウトしたメールを送信する場合,最初から文面全体をグラフィックソフトで画像を作成して,それを貼り付けるか,簡易HTMLエディタである程度自由度が犠牲になった文面で我慢するしかなかった。
 システム標準のメールソフトで,ここまで簡単に自由度の高いレイアウトメールを作成できるというのは,表現力を重視する学校現場にとって,かなり魅力的である。
4) iChatのコラボレーション機能追加
 ビデオチャットソフトとしては独自路線を行くiChatは,他のソフトとの互換性という面では劣勢。しかし,MacOS標準のビデオチャットソフトとして,今度の版では,コラボレーション機能が追加されている。
 通信相手のコンピュータ画面を共有し,会話をしながら同じ画面を操作できるというコラボレーション機能は,コンピュータのサポートや共同でのファイル作成に役立ちそうだ。また,これまで対話型のチャットが前提だったが,プレゼンテーション型のチャットもできるようになり,写真アルバムのスライドショーを大きく見せながら子画面でビデオチャットすることもできるようだ。
 こうした機能によって,学校間交流の際の活用がより便利になった。他のビデオチャットソフトと比べても,iChatのビデオ画面はクオリティが高く,従来から学校間交流などで大きく映し出したい用途に向いていた。そのうえに,相手に見せたい写真スライドを見せながら会話ができるという機能は,有り難いはずである。
 その他にも,来春発売予定のMacOS Xには新機能がいっぱい有るようだが,その全貌が完全に明らかになるのは,来年正月のApple Expoまでお預けのようだ。

Macの前進

 BEATセミナーの懇親会の席,アップルのマッキントッシュの話題で盛り上がった。出版界,デザイン教育界,米国在住経験者といった面々が居て,誰もがマック経験者。さらにNECのPC-9801シリーズの話題も飛び出して,楽しかった。
 シェアを反映してか,「教育の情報化」の諸々の前提もWindows(Win)中心に語られてしまうことが多い。もっとも一昔前に比べるとOS対立の構図は鳴りを潜め,MacとWinは「操作が違う」という程度の認識に収まりつつある。Macが風前の灯であった頃を思えば,シェアの圧倒的差はどうあれ,これからもMacが残り続けるだろうという安心のある今は,愛用者にとって有り難い状況である。
 ぼちぼちと教育利用を主眼においたマック情報ブログの更新をしたいと思っている。ソフトウェアの豊富さもWinが圧倒的であるとはいえ,Macにも使いでがありかつエレガントなソフトがたくさんある。そういうものを紹介していくことも大事なので。そうすれば,プラットフォームとしてのMacが,どれだけ安心できるものなのかも理解してもらえる。それはセキュリティとかそういう話というわけではなく,プログラミング基盤としての安定を主に意味している。
 ちなみに8日未明に,新しいMacOS Xが公開される。すでにOSとしては一定のレベルに達しているので,使いやすさや機能の進化が注目されている。また,Winとの相互利用に関しても何かしら進展が予想されている。
 願わくは,もっとハードウェアのラインナップを充実化して欲しいものだが,まあ,その辺は気長に待つしかないか。とにかく新製品にわくわくしている今日この頃だ。

アフィリエイト

 できるだけ商売っ気を出さないことをモットーにしていた「教育らくがき」も,次第に毒されてきたというか,少しでも生活費の足しができないものかという貧乏根性を恥ずかしく思わなくなったというか。とうとう「アフィリエイト」なるものに挑戦をしてみることにした。
 そんなわけでブログの右下に,見慣れない(あるいは他所で見慣れた)バナーが付くようになった。こういうものを不快に思う皆さんには大変申し訳ない。一つの試みとして,ご寛容願えればと思う。
 駄文中のリンクは,出版元へと繋ぐことを基本としているので,amazonの該当ページをご紹介する場合は別途それを明示したリンクを貼り付ける予定である。知らないうちに紹介料が払われるしくみもアフィリエイトの特質とはいえ(まあ購入に結びつかなければ意味はないと思うが),その辺はなるべく利用者のが選択できるように配慮したいというのが,いまのところの気分である。
 おっと,しかしながら,「教育らくがき書庫」でのリンクを経由した場合にはアフィリエイト扱いになるので,ご理解の上,ご活用願えればと思う。
 もっとも,前職で近所でお店を開いている商魂たくましいおばちゃんに「先生は優しすぎるから商売に向かないね」とにこやかに断言されたことがある。そんなこともないと思うんだけど,まあそうかも知れない。

いまは遠き長野を想う

 大学の学部時代を長野県で過ごした。浪人を経て,一念発起した受験に合格してからの縁。青春時代を過ごした場所として思い入れはあるし,友人たちが活躍する土地という意味でも,大事な場所である。
 長野知事選挙が行なわれた。田中康夫氏が再選されなかったことが,全国的なニュースで流れて,ようやく選挙自体を知ることになった。思い入れのある土地とはいえ,県民でない以上,選挙の結果(県民の選択)について云々することは難しい。けれども,当選した村井仁氏の田中県政の全面否定発言を伝え聞くと,また旧世代のこうした発想が,長野をうたた寝させてしまうのかという気持ちになる。高齢も多い県だからそちらの方が気持ちいいのかも知れないが…。
 田中氏が再選すべきだったかどうかは,よくわからない。それでも地方からの国づくりという流れの中で,田中県政は確実に注目されていたし,困難が多いからこそ頑張って欲しいという気持ちであった。それなりの成果も挙げていたと思っていたのだが,さてどうだったのか。
 田中知事が誕生するときに支持していた人々について書かれている。今回,唯一支持を続けているのが平安堂の平野会長だという。私が大学時代にアルバイトしていたのが「平安堂」書店。この書店抜きにしては私の大学時代の読書環境はあり得なかったし,書物への想いを育てることはできなかった。稼いだバイト代のほとんどを社員割引を活用しながら本の購入に当てた時代が懐かしい。
 アルバイトとはいえ,旧長野店という旗艦店で働いた経験は,サービス業の奥深さを知るのに大きく役立った。私が接客業やマーケティングに関心を持っているのも,その時の経験がきっかけである。
 そんな平安堂の平野会長が支持姿勢を堅持されていると聞き,少しホッとした気持ちになった。「簡単に人を信じてはいけないが、信じたら貫き通す」と熱弁されたそうである。私もそうだと思う。

葉月5日目

 8月1日の情報教育セミナーでは,参加している研究会で開発しているWebベースの携帯モラル教材について紹介した。直前の打ち合わせで,パネルディスカッション登壇者の発表内容調整を行なえたおかげで,開発経緯・方針と教材そのものの紹介に撤することができた。
 もっとも質疑応答パートでは相変わらずの調子だったらしく,あとで「楽しそうな話しっぷり」だったと声をかけていただいた。落ち着きが足りなかったかなと自己採点していたのだが,むしろ全体の雰囲気に抑揚がついた感じになって良かったのかも知れない。それというのも他の登壇者の皆さんの安心感のある発表のおかげ。
 セミナーが終わって名古屋へ。次の日から「カリキュラムデザイン」という科目名の集中講義を3日間行なう。今年は新しい校舎が建ったというので,確認のためにも初日は早めに出かけた。
 今年の受講生は50名弱。昨年度は30名程度だったし,4日間だったから結構アットホームに展開した。今年度は人数が増えて,期間は3日間に減ったから,ちょっと勝手が違う。とはいえ,私も職業教育者の端くれなので,これくらいの変化で怖じ気づくわけにはいかない。きっちり仕事させていただくことにする。
 もっとも講義は朝から夕方までの長丁場。私はしゃべり続けることができるとしても,それを聞く学生たちがノックアウトされてしまっては元も子もないので,休憩時間や終了時間を融通したり,授業展開もワークを入れたりして,それなりに工夫する。少々雑談も交えながら,カリキュラムデザインの世界を縦横無尽に語り倒しつつ,同時に評価規準表や学習指導案の作成作業も並行させて,なんとか3日間が終了した。
 不思議なことに,授業に対するコメントの多くが「講義は難しくて理解できてないですが,先生の話は楽しかったです」という風に書いている。どうやら,話している内容はともかくとして,本当に「楽しそうな話しっぷり」らしい。本人としては,緻密にやるべきところを端折って手を抜いた感覚があって,いまいち納得していないのに…。
 けれども最近は,もうちょっと他者の評価を素直に受け取ってもいいのかなと思い始めている。自己評価しても無限後退に陥ってしまい,生産的でなくなってしまうから,少しは肩の力でも抜こう。
 とにかく,今回もよい教え子に恵まれて3日間の講義を過ごすことができた。こんな幸せなことはない。講義の中身は,またいつの日か社会に出てから思い出してくれたら,それでいい。
 集中講義が終わったその足で,岡崎へ。前の職場の教え子が夏祭りの踊りに参加しているというので,様子を見に行くことにした。大勢の市民の皆さんが見物しているところを小走りに,残り時間わずかのところで踊る学生の一団を発見。担任をしていた学生5人と再会したり,教職員の皆さんとも久しぶりに会えた。みんな元気そうだった。
 そして,翌朝は東京へ。東京大学BEATセミナーに参加する。昨年,人材育成をテーマにした回で予告されていた人材開発向けのゲーム教材が紹介されるというので,実物を見たかった。
 今回のBEATセミナーは「座ったままでは帰さん」ということで,参加者がグループを組んでディスカッションをするという趣向が取り入れられた。そのまま周りの席の人たちとグループになるかなと思ってたら,「りんさん,りんさん」と呼ばれた。「はい,なんでしょう」と聞いたら,「りんさんはアソシエイツなんだから,関係者は抜けてください」と言われてしまった。そうだ,関係者に入ってたんだ。思わず苦笑い。
 懇親会では今回初めて参加した皆さんと楽しく歓談した。常連として(というか,もはや関係者として)初参加の皆さんのお話をお伺いしたり,つながりを盛り上げるのも大事な役目になるのかなと思うようになってきた。いずれにしても,異業種の皆さんのお話をに耳を傾けるのは,とても勉強になる。有り難いことである。