夏休みの帰省中。古巣の同僚の皆さんや卒業した教え子と日帰り旅行をした。それは,2つの物語のその後を垣間見ることになった旅行だった。そして,ほろ苦くも幸せな物語である。
一つ目の物語は,かつての教え子たち三人の友情についてである。留学生だった学生と保育士となった学生二人は,もともと所属学科が違っていた。こういう場合,友達になる機会がなくて,それぞれバラバラに学生生活を過ごして卒業していくものだ。そんな彼女たちが出会うことになったのは,私が担当したパソコン市民講座を手伝う学生アシスタントの募集に応募したことがきっかけである。
それ以来,彼女たちは学生生活を共に過ごし,卒業後もゆっくりとしたペースながら連絡を取り合う友達である。留学生の彼女は,母国に帰国したのだが,こうして年に一回,日本に訪れて友達と会うわけだ。そして今回は,私も小旅行にお供する機会を得たというわけである。
正直に告白すれば,このエピソードを私自身はすっかり忘れていたのである。もちろん教え子たちのことは忘れていないが,そういえば,この子たちが出会ったきっかけは私の講座だったのだ。そして今日,あらためて彼女たちの口から「先生には感謝しています」と言われて,私の錆びついた記憶テープは急速に巻き戻った。
インタラクションの少ない私生活が,学年歴を周回する9年間の記憶をデジャヴュの断続として曖昧にし,大事な記憶を置き忘れてしまうことに,言い知れぬ不安を感じた。同時に教え子に対して申し訳ない気持ちが膨らむ。
けれども一方で,学生たちに感謝されている自分がいる。誰かが言った「先生,まさに教師冥利に尽きますね。」私はうなずく以外になかった。自分の仕事が生み出したとされる良き友情関係とその後の交流について,こうして再び間近で確認ができるなんて有り難い。
二つ目の物語は,かつての職場で一緒に働いてきた同僚との道筋についてである。私が職場で過ごした9年間のうち,彼と仕事をしたのは6年になる。
私たちが活発に協働し始めたのは,私が学生委員で,彼が学生課に所属してからの仕事だった。教員と職員という立場ではあったものの,山積していた課題に手をつけるため,仕事の段取りのところから相談して,お互い経験を積み重ねる関係を築いていった。
その後,私たちは共に入試募集の業務に関わる。当時,そこに集った人々の巡り合わせは特別なものがあった。各人各様で,安易な合意は得られそうもない人々であったが,各人の強力な個性にはビジョンに対する「前向きな姿勢と理解」というものが共通して備わっていた。見ているビジョンは違って,衝突も多かったし,無茶も多かったが,内にこもらず,外を向いての仕事は,面白くないはずがない。私たちは,そこでさらに視野を広げたし,スキルも磨いた。
そんな仕事を通して,私たちは内にある宝物を強く意識した。何よりも「学生たち」の存在ほど有り難いものはない。私たちの仕事は,直接的にも間接的にも学生たちのためにあり,そしてそれが私たちのためにもあった。
それから私は,入試募集業務を離れて,情報メディアセンターの業務に専念した。これも学生たちの勉学環境や学生生活の幅が広がることを企図した仕事だった。だから私たちは,担当する業務は違えど,私たちにとっての宝に資するために心血を注ぎ,前進してきた。もちろん,そこには多くの人たちからの支援があった。
けれども,私は退職届を出すことになる。
久しぶりに会った彼と,しばし二人の道筋を振り返る。古巣にとどまって歩む道もあったのかも知れない。自身の構え方次第で,引き続き前向きな仕事を続けられたかも知れない。
けれどもまた,組織は一人や二人だけで成り立っているわけでないことも事実だ。ある時には,みんなの力が必要なこともたくさんあるのである。そんな力が発揮されなかった。私が離れることになったのは,そういう状況の中での出来事に過ぎない。一方,組織は新たな駒探しを淡々と繰り返すだけである。
幸い,私たちの「前向きな姿勢と理解」には変わりがなかった。しばらくは充電期間のようなものだ。あとは実行あるのみ。同じ職場で働くことはなくなってしまったが,縁があればまた会える。私たちにも私たちなりの物語が続いていた。
さてと,私が自意識過剰気味にこんな風な物語や駄文を書き続けているのは,書くことによって私自身が前進するためである。文字としてとどまった経験とは別に,私の現実の世界は次の章へと替わり展開しつつある。それを気持ちよく推し進めるためにも,書き出しておかなければならない。さあ,まだまだ先は長い。