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最悪のチェックインnwa ((米国渡航記02))

 成田である。直前になってパソコンの不調を発見したので、システム入れ替えなんかしてたら、あっという間に時間が経過してしまった。正直眠たい。
 それでも旅立ちのときには、気持ちくらいは明るく元気にいきたいものである。そう思って成田へやってきたのに、最悪なチェックインからスタートした。
 ずらっと並ぶe-chekinマシンとは裏腹に、実際に受付をする場所は限定されていた。しかも、困ったことに、複数の係員が列の整理をするので、「あっちに並んでください」「こちらへどうぞ」「次の方、こちらへお並びください」と何のルールもなく並び替えさせられる。
 じっとしていた方が早かったりすると、もうこちらも堪忍袋の緒が切れそうだ。いったいこれはなんなのか?もう順番がやっと回ってきたときには、無口になっちゃったよ、私。
 そんなサービスのイロハも理解していない航空会社にあたってしまい、なんか憂鬱な旅の始まりである。さてと、そろそろ搭乗のタイミングだ。

また荷造り ((米国渡航記01))

 帰国したと思ったら,また出国準備。2007年,英国,豪州と続いた出張の締めくくりは米国である。今回はオレゴン州ポートランドで行なわれるインテル社のCurriculum Round Table (CRT)という会議に出席するためだ。
 とある調査研究のお手伝いが縁でインテル社の教育支援プログラムに関わることになった。ご存知,インテル社は世界的なコンピュータのチップ製造メーカーである。その企業の社会貢献活動の一つが「教育支援プログラム」である。これも全世界的な規模で展開している一大事業だ。いくつか支援内容があるが,主に教員研修支援が今回のテーマ。
 その世界各国で展開している教育支援プログラムに関する国際大会の一つがCRTである。何をするのかというと,世界各国の関係者が集まって,情報交換したり,最新情報を得たりすることが目的らしい。
 また改めて(営業マンになったつもりで)インテル教育支援プログラムのご紹介をしていきたいと思う。今後,教員研修が重視されるとともに,より多様な研修を必要とする時代において,民間が様々な形で提供する研修プログラムを利用することが求められるのは確実。そのためにも私企業と教育界との意思疎通が円滑に進むように努力をしなければならない。そのお手伝いをするのも,大事なお仕事だと考える。

 そしていつもの荷造り。さすがに3度目だから荷造りのコツは掴んできたように思う。問題は部屋の掃除がまるきり出来てないことか。ヒドい状態のまま部屋を空けるのが悲しい。
 さてと,今夜も夜更かしである。

弥生1日目

 いよいよ3月。年度最後の月となった。ここ数日ぼーっと彷徨い続けたので,ここらでシャキッとし直さないといけない。放電しきったんだから,ちゃんと充電しないとね。
 さて今月は,米国出張を皮切りに,大学院入学手続きと合宿,年度末のあれこれセミナーに参加するといった予定になっている。
 また海外渡航…,最近の落ち着きのなさはこれが原因かぁ。この先数年分を先取りしちゃった感がある。今回はインテル社の教育支援事業に関連した出張。きっと,あれこれ秘密事項ルールがあると思うので,参加するセミナーの内容をリアルタイムにお届けすることは難しいかも知れない。
 でも,報告を書くことが出張の条件なので,いずれ皆さんにも内容をお伝えできるはずである。え?最近,あちこちに魂を売りすぎてないかって?ミイラ取りがミイラになっちゃう危険はよく分かっているけれど,私はこんな性格であるから大丈夫。たぶん誰にとっても手に余るんじゃないかな。

 卒業する教え子達の卒業パーティー(謝恩会)があったようだ。卒業式の前に開催するのが世間的に珍しいか。さっそく写真が公開されていた。ちょうど受け持っていたクラスの娘達が写っている。まあ,どの娘もキレイにめかして…,2年間よく頑張りました。
 同窓会から会報に載せる原稿を頼まれた。卒業生達に向けて近況報告。感傷的かつユーモアのある文章に仕上げる。もっとも,自分のユーモアセンスには懐疑的なので,ウケるのか全く不明。とにかく元気でやっていることさえ風の噂程度に伝われば,それでよしとしよう。

 打ち合わせに出かけたついでに,教科書の下巻を物色して買おうかと思い,神田の三省堂に寄った。以前置いてあった場所に向かったが,ない。場所移動したかなとあちこち見て回るが,ない。仕方ないので店員さんに聞いた。
 「あの,教科書ってどこか移動になりました?」
 「(ぶっきらぼうに)教科書は販売停止期間に入ったので,現在はお取り扱いしておりません。」
 がーん…そうかぁ,販売停止期間になっちゃったかぁ…,欲しかったのに。
 って「販売停止期間ってなんだぁ?」とお思いの方もいるだろう。説明しよう!,販売停止期間というのは,別にそういう正式な呼び方がある訳じゃないし,絶対買えない訳じゃない。
 ちょうど新学期が近いこともあって,新年度から使う教科書を確保することを優先するために,一般書店販売を自粛している期間のことなのである。
 でも,別に教科書コーナーまで撤去しなくてもいいのにね。在庫だけでも出しといてよ。この辺は申し合わせが出来ているのかも知れない。何しろ教科書は長いこと特別扱いされてきたので…。昨年,公正取引委員会が「教科書業における特定の不公正な取引方法」(教科書特殊指定)を廃止しようとしたら,業界から結構なリアクションが返ってきたことからもそれがわかる。
 ま,とにかく三省堂では買えなかった。

 ぼーっとしすぎて,またまた宿題がたまってしまった。さて頑張らないと。

東京で迎える

 そのたび憶えていようと思うのだけれど,自分が過去どこで誕生日を迎えたかは,意外と憶えていないものである。先日,東京に出てきて初めて誕生日を迎えた。
 何の変哲もない一日。確定申告の書類作成のために,散らばった源泉徴収票等を探し集めていた。歳の数値は増えたのに,申告の数値は減っている現実は,滑稽なドラマを演じているようにも思えた。
 国税庁のサイトにある確定申告書の作成サービスを利用して計算をチェックする。せっかくだからPDFで出力されたものをそのまま利用することにしよう。今年も収入があるなら,来年,電子申告に挑戦してみよう。

 そうやって家の中に閉じこもって夕方。このまま誕生日が終わるのも寂しいので出かけることにした。書店に寄ってみるが,こんな日に限って刺激を受ける本も雑誌も見あたらない。
 それでも時間だけは過ぎて夜。そろそろ家路につこうとするが,夕食をどうしようかと思う。自炊するか…。ぼんやりそう思いながら家に向かうが,途中で思いつく。「そうか,今日は祝いの日だ。世界のやまちゃんへ行こう」
 珍しく酒を飲みに行くことにした。生ビールと幻の手羽先二人前とトマトスライス。ただひたすら手羽先に食らいついていた。たまに昔のことを思い出したりした。そして今後のことを考えてみたりした。けれども,これから何がどうなるかなんて,まるきり分からなかった。

 教育学部を受験するため高校の内申書をもらいに,今は亡き高校の恩師に会いに行ったとき,先生はこんな風なことを言った。「お金と女には気をつけなさい。教員はこの2つに気をつけないといけない」
 短期大学の教員になったときは焦った。この2つがワッと押し寄せてくるのだから…。幸い,どっちとも距離は遠かった。むしろ気をつけるとしたら自分自身の浅はかさだった。
 その証拠に依願退職をした。任期でも何でもないのに自分から飛び出した。このご時世で,あんまり賢い選択ではないな。冷静沈着な人間であったなら,もう少しマシな異なる方法を選択するものである。かくして私は冷静沈着ではなかったのだ。恩師が「自分自身に気をつけろ」と付け加えていたなら…。(注:ここ笑うポイント)

 手羽先を食べる私の向かい,衝立(ついたて)越しの席に男女がやって来た。顔は見えないが手元は見えるという衝立の向こうで注文が始まり,しばらくして二人ともタバコを吸い始めた。なんてこった,せっかくの手羽先三昧の雰囲気が,一発で台無しじゃないか。
 タバコの害についてのビデオ教材編集に関わったことを思い出した。タバコは百害あって一利無し。そう昔から教えられているにもかかわらず,なぜ人々は平然とタバコを吸うのだろうか。
 でもそれは,私が祝い事に手羽先を食べたいと思う気持ちと,どこが違うというのだろう。手羽先ばかりの夕食が健康的でないのは明らかである。それでも手羽先三昧を欲したのは私ではないか。
 吹けば飛ぶような人のモラル。それが私たちの現実。だからこそ,徒労にも思えるかも知れないが,モラル教育を繰り返し繰り返し続けていく必要があるとも言える。けれども,それを担うことはますます難しい時代にもなった。

 もうじき大学院が始まる。案ずるより産むが易しかも知れない。内田樹氏も書いていた。教育や研究は,これから得るものが分からないからこそ成立するものだと(ん?そんな風には書いてないか?)。
 きっと「分かっていなければならない」という強迫観念に翻弄されているのかも知れない。少なくとも教員として過ごしてきた日々は,そう振る舞うことが求められていた。
 いまから「分からないです。だから調査・研究するんです」と素直に思えるようになれるかどうかが,私の課題なのかも知れない。初心,忘れるべからず。

 生ビールと手羽先を一つずつおかわりした。向かいの男女もタバコはやめて食事を楽しんでいる。そう,こんな感じでいい。とりあえず,今夜はこんな感じで過ごせればいい。
 きっと目まぐるしい未来がやってくる。そのとき,私は思い出すだろう。東京で初めて迎えた誕生日,生ビールと幻の手羽先とトマトスライスを食べて過ごした時間のことを。今までの出来事とこれからの出来事の狭間で漂うことの出来た,何の変哲もない一夜のこと。懐かしく思い出すのだろう。

時代はずれで

 先日,研究会後の懇親会で若き教育学学徒とやりとりする機会があった。私より何倍もスマート(賢い)人達だから,そうした人達が活躍するのをアシストできるくらいに私も頑張りたいと考えている。もっとも,アシストする方がよっぽど難しいかも知れないが…。
 彼らと話して驚いたことがある。ある意味,ピュアなんだな。人生に疲れていないというか。理想と現実となら,まだ理想だけを見続けても,躊躇いが起こらないというか…。
 それは教育を語ろうとする人々には,多かれ少なかれ潜在するのかも知れない。私だって,結構一途である(何に?)。
 それでも私の場合,駄文を書くフェーズや思索に入り込むと,批判だけする自分も登場させるし,深読みする自分も現れるし,細かな心情を想像しようとする自分も呼び出すし,奇想天外でマッドな発想をする自分も試みたりする。
 あんまり登場人物が多くなりすぎて,ごちゃごちゃしているものだから,普段の私は,静かに微笑んで周囲の意見を聞く「聞き役に徹する」ことにしている。たまに考え事して聞き逃しちゃってるけど,ははは…。

 情報教育というのは,世間で扱われる「情報」一般について様々学ぶ領域である。ところが,教育現場では,情報教育というと「パソコンを使わせる授業」であると想像されがちである。まるっきり間違いではないが,正しくもない,というのが情報教育分野でのメインストリームである。
 要するに「周回遅れ的な認識」が依然存在しているということである。教育の世界には,結構この「周回遅れ」というのがあったりする。学習指導要領の改訂スパンが長かった時代もあるので,その名残みたいなものだ。

 近日中に記事がWeb公開されるが,「FACTA」誌3月号に「パソコンを見放す20代「下流」携帯族」という記事が掲載された(ちなみにFACTA誌は年間購読の直販雑誌だが,いくつかの書店には置いてある)。
 この記事は,調査会社ネットレイティングスが昨年公表した「ウェブ利用者の年齢構成」リサーチに基づいて,「第二デジタル・デバイドの出現」について解説を試みた記事である。要するに2000年から2006年の6年間で,PCからウェブを利用する20代が右肩下がりで減少しているというのである。
 この調査結果をもとに,記事は「PCイリテラシー(文盲)層」の増加が社会常識に大きな断層を生じさせる可能性を憂うのである。もちろん,こうしたネガティブ論調の記事には一定の距離を置くリテラシーが私たちに求められる。それでも,当該リサーチの世代構成比グラフの変化について考えることは興味深い思索である。

 当該調査において6年間,「19歳以下」というカテゴリーは一定の構成比を保っており,その他の世代カテゴリーも細かい増減はあれ,際立った変化は示していない。「20歳代」だけが顕著に減少している。
 こう考えると,19歳以下が保たれているのは,学校教育で「パソコンを使わせる授業」が周回遅れで残っていることが貢献しているのかも知れない。そうした環境から解き放たれた若者は,携帯で事足れりとPCを捨てるのかも知れない。
 そこから30代になると,仕事上の必要性が発生して比率が増すのかどうか。残念ながら6年間という調査スパンのデータではそこまで推論を延長することは出来ない。もし今後の調査で30代の比率も緩やかに減少していくとしたら,憂うべき事態が進行していることを本気で考えなければならないかも知れない。

 同記事は,先月話題になったアップル社のiPhoneというスマートフォン(高性能携帯電話)について触れ,今後ますます携帯電話や端末で事足れりという状況が来ることを示唆している。
 情報教育分野の一部では「携帯電話の教育利用」や「携帯モラル」について取り組んでいるものの,周回遅れの教育現場にとってはまだ先の話といったところもある。
 ただ,もしかしたらこの周回遅れ的な現実が,若者のPC離れを食い止めることになるやも知れない。教員向けの校務用パソコンの配布が周回遅れで遅くなったおかげでVistaから始められた(XPからのアップグレード問題で悩まなくてよかった)のと同じで,「情報教育でパソコンを使わなきゃ!」という周回遅れ的な現場対応が奏功するやも知れない。

 同じく年間購読型雑誌で「フォーサイト」誌がある。こちらの3月号にはノーベル賞受賞で知られる小柴昌俊氏のインタビューが掲載されている。からかい半分とはいえ,「「ゆとり教育」なんて,教育学者が頭の中で考えただけの,馬鹿げたことだ。」と述べたことは極めて遺憾だ。
 こうやって教育学に携わる者の存在を貶める言葉を「ノーベル賞学者」がメディアに掲載させることを許すのだから,どうかしている。同じ「ノーベル賞学者」がやっている教育ナンチャラ会議の迷走ぶりについて,何かお言葉はないものかね。いい加減にして欲しいものである。
 若き学徒達は,こういう貶めについて,まだまだウブである。一方私たちは,次第に鈍感になったり,立場上文句は言わない大人の対応をするようになっていく。ったく,どうなってんだろう。

 ごめんね,時代はずれで。

教育改革関係図2007

 「教師の専門性・育成に関する勉強会」に出席してきた。この分野を専門とする若手研究者の皆さんの報告を聞いて,ディスカッションをした。

 私なりの議論は別に駄文を書くとして,研究会ではこの問題の緊急性とともに,あまりの領域の広さと現状における様々な困難を改めて確認することになった。懇親会の場でも,この問題を論じる難しさや限界について議論が交わされていた。

 もちろん各自の前向きな取り組みについても触れられていた。それに教師問題に関心を持つ若手が集まったことで,今後この問題について一緒に何かできるのではないかという機運も芽生えそうである。

 さて,連日断片的に流れてくる教育改革に関するニュースに振り回されて,どうも全体像が見えにくくなっているように思う。そもそも教育に関する基本情報が世間に十分浸透していない状態で,どこの誰それが何か言ったことが報道されても,それが全体の中でどういう位置づけになるのか,理解できるわけがない。

 教師問題の難しさが,世間一般の教育組織への理解が乏しいためであることは明白である。「教育委員会」ひとつとっても,その言葉に含まれている摩訶不思議な体系を理解している市民は少ない。


Stakeholders2007

 というわけで,まことに力不足ながら,教育らくがき版「教育改革関係図2007」を作成し,リスクは承知でご紹介してみたい。なお,予めお断りしておくが,物事は常に変化するゆえ,この図の賞味期間は短い。また私自身,理解が深まれば図を修正することになるので,その点を念頭に置いて参照されたい。

 この関係図で注目すべき箇所は,以前の駄文にも記したように,「文部科学省」「都道府県市町村首長」「都道府県教育委員会事務局」「市町村教育委員会事務局」の四者がそれぞれ持つ権能である。

 このことによって派生しているのは,義務教育(小中学校)における教員や学校長の雇用と学校の設置が,都道府県と市町村に分離しているという事態。こうした形が,場合によっては幸せな状況を生んでいない可能性があるということである。

 それから教育再生会議の周辺についても,ややこしさが見えてくる。縦割りによる省庁間の溝が,細かいところで敵対関係を生んだり,場合によっては利害を利用し合ったりしていて,なんとも国民には分かりにくい。17人の委員がピーチクパーチク叫んでいるのを隠れ蓑にして,官僚がうまいことやっている感じでもある。

 まだ中途半端な図なので,意図をうまく表せていないものもあれば,誤解を生む部分もたくさんあると思う。

 「子ども」が周囲から隔離されて置いてきぼりになっていることを表した部分に,「企業」からの消費者育成を線で伸ばしてある。皮肉を込めた面もあるし,学校教育などがいろいろ後手に回っている間,消費社会から様々影響を受けて育っている事実を込めたつもりでもある。

 教員人事の部分については,簡略している。非常勤講師なども登場していいだろうし,むしろいまはそれが大きな問題になっている。この図からは,教員が都道府県の「県費負担職員」として位置づけられており,市町村にとってはよそ者感があることを読み取っていただくことを期待している。

 それから「教育委員会」と「教育委員会事務局」という夫婦がいて,実のところ家庭内別居しているということを理解してもらうことも大事だろう。首長(この図では都道府県の知事レベルと市町村の長レベルを一緒にまとめてしまった。図の簡略化のためである)が任命できるのは「教育委員会」の教育委員だけ。「教育委員会事務局」は独立している。

 というわけで,この図の利用は,利用者本人の責任においてご自由に。作成者である私にとっては未完成な図なので,正確性についても利用によるトラブルなどについても責任は持てる段階ではないのであしからず。

日豪と教育 ((豪州渡航記10))

 海外視察へ出かけるデメリットがあるとすれば「海外かぶれ」になりがちなこと。国の成り立ちも思想も全く異なる国の社会を表面的に眺めたら,そりゃ隣の花は赤く見えてしまうものである。
 海外渡航を記録した駄文を読み返すたび,その自分の浅はかさを痛感するのだ。だから罰として,そのまま恥をさらしておくことも教育らくがきの役目である。ここをお読みの皆さんは,私がどんなに浅はかか先刻ご承知だと思うけれど,とにかく常に「ほんとか?」と疑いながら,こっそりお楽しみいただければと思う。まあ,知ったかぶりして情報提供するのもこのサイトの役目であるから。

 今年は日豪が通商を開始してから50年にあたる年だという。オーストラリアといえば海と大地の国みたいなイメージがあり,観光はもちろんワーキングホリデーに出かける人も多いといった印象が強い。日本の英会話学校の外国人講師にはオーストラリア人が多いということもなんとなく聞いたことがある。
 そんな豪州は,日本の約20倍という国土に,約2000万人の人口というバランスの国である。国土の8割ほどが乾燥地帯だが,資源や食糧は豊富なことと自国の人口が少ないことから,多くを海外輸出に回せるらしい。
 というわけで,日本や中国など資源を必要としている国にとって,豪州は頼りになる通商相手国なのである。いま日豪間では,自由貿易協定や経済連携協定の締結を目指しており,さらに安全保障面での関係強化についても共同声明を計画している。豪州は日本やアジアにとって,ますます重要な国になるというわけだ。

 豪州は深刻な教員不足に悩んでいる。少なくとも西豪州の教育訓練省は,広報紙「SCHOOL MATTERS」の最新号に掲載されたA/Director General(肩書きの全体像を確認しようと思ったんだが,事務局系の組織図が見つけられなかったので「A/」の意味が不確かである。Acting Director Generalではないかと推察される。差し詰め「執行統括教育長」みたいな感じか…)の挨拶文で,教員定員を埋められなかったことが述べられている。そんな状況の中,子ども達が新学期をスムーズに始められるよう現場の先生方が尽力したことに感銘したとある。
 先日の駄文にも書いたように,西豪州は喉から手が出るほど教員が欲しい。現地通訳として私たちを助けてくれた日本人のヤスミさんも,学校で日本語を教えている先生である。とにかくなり手が少なくて困っているらしい。シドニーやメルボルンといった東側で人口の集中している街は状況が異なるのかも知れない。州をまたげば違う現実があることも珍しくはないから。

 実はオーストラリアに対してもう一つ抱いていたイメージに「遠隔教育の盛んな国」というものがあった。人口に対して広大な土地であるから,さぞやインターネット上に様々なコンテンツが用意されているだろうと思い描いていたのである。
 ところが,英国ほどにはコンテンツがわんさと用意されているという空気が感じられなかったし,学校内での活用の様子もほとんど見られなかった。つまり第一に,豪州はもともと英語圏なので,ローカルな話題は別にして,豪州独自にコンテンツを用意しなくても英国や米国のコンテンツを利用することができること。第二に,学校内での利活用が見られなかったのは,そもそも英国のようにはICTが普通教室に入ってきていないという日本と似た状況にあること。こうした現実があったように思う。
 それから,遠隔教育そのものはしっかりと営まれているようだ。対応の仕方はこれも各州で異なっている。たとえば,二宮皓 編著『世界の学校』(学事出版2006.4/2500円+税)でオーストラリアを分担執筆した笹森健氏は,ニューサウスウェールズ州やクィーンズランド州といった東側のメジャーな州を取り上げており,遠隔教育についてもクィーンズランド州の「遠隔教育ブリスベンセンター」の事例を紹介している。
 ウエスタンオーストラリア(WA),つまり西豪州は,Schools of Isolated and Distance Education (SIDE)という学校をつくって運営するという形を取っているようだ。遠隔授業としてCentraというオンライン学習プラットフォームを活用したインタラクティブ授業も行なっている様子。興味のある人はWebサイトを探索するといい。

 あらためて,海外視察というものは,ストレスフルなものでもあるとも感じた。他国の事情を見ることで,自分自身が見えてくる。すると「何やってるんだろう,自分…」という境地になりがちなのである。
 もちろん視察先から学ぶべきことはたくさんある。そして,話を深く聞き出していけば,その国が抱える独自の問題も見えてきて,(いつものセリフ)「物事そう簡単ではない」ということが分かったりもする。
 結局,自分自身が「どう生きたい」のか。最後にはその選択にかかっている,としか言えなくなっている。その上で,既存の枠組みを踏まえて,あるいは隙間を突いて,現実を変えていくことになる。問題は,日本でそのためのコンセンサスがまったく形成されていない点にある。そのための「場の形成」さえ,官僚慣行と政治の壁に阻まれて形成しづらいのは事実である。
 豪州にしても英国にしても,そもそも多様な人々の集まりであるという点が合意形成への努力に繋がっているのだろう。Public Relations (PR)に対する理解の深さにも表れている。多様なパブリックに向けたリレーションの仕方に努力が払われたわけである。
 一方,日本も歴史的には複数民族国家であるはずなのだが,早くから識字率が高く,江戸における手習塾の普及の高さなども功を奏してリレーションし易いパブリックが生まれた。効率という点でこれほど素晴らしい状態もないが,問題はリレーションへの努力に注意が払われないままに来てしまったこと。
 現在の日本は,パブリックは多様化したうえ意識水準は低下。リレーションするための努力も上がったわけでもない。結局,そこに個人情報保護の暴走とか,企業の不祥事隠しとか,言語意識の粗雑な政治家とか,マスコミの放送内容虚偽とかの問題が起こってくるのである。要するに日本全国,知的足腰がガタガタなのである。

 安彦忠彦先生が「教育課程の見直しに参加して」という連載をこの3月号まで「現代教育科学」誌で執筆されていた。今まさに展開している中教審の教育課程部会での作業を研究者委員としての立場から報告されている興味深い連載である。その論調は普段の安彦先生のものとは異なり,かなりジャーナリスティックというか,政治と向かい合って苦しむ様を描いていた点で驚きのものだった。
 規制緩和と地方分権。これが日本の現在の方向性である。そう考えると豪州の状況と似たようになるとも思える。ところが,肝心の地方には様々な問題が存在し,「教育」に対するエネルギーやリソースの注ぎ方にはすでに大きな格差が存在する。まだまだ国が手を入れなければならない箇所が多く残ってしまっているのである。
 規制緩和と地方分権。これを少しばかり逆行して,それぞれの地方が教育についてしっかりとエネルギーとリソースを注ぐ体制ができるまで国が手を入れられるようにするのか,それとも地方の底力を信じて国が関わることを禁ずるのか。ソフトランディングとハードランディングのどちらが日本という国にとってよいのか,もっと議論を深めなければならない。
 ただ,いずれにしても教育現場に関わる者には,信念と努力を伴った柔軟性が求められる。もっと広い視野で自分自身の教育実践を構築し展開しなければならないと思う。次代の子どもたちは,本当の意味で世界を股にかけて動き回る時代を生きていくのである。そう考えたとき,日本の教育あるいは教師を取り巻いている縛りは,あまりに狭いことは明らかなのである。そして,その縛りを乗り越えていく力を現場の先生達はすでに持っている。それもまた明らかなことなのだ。
 一人一人の教師は,もっと自信を持っていい。そしてもっと努力できる環境を手に入れるべきである。いずれはその場所が日本でも豪州でもありうる時代になる。教師もまた世界を股にかけるはずなんだ。

教員のICT活用指導力チェックリスト

 文部科学省の新着情報メールは毎日たくさんのリンクを届けてくれる。こんなにたくさんの情報発信をしているのだから,もっと整理しないとあとから探すの大変である。でも便利なので有り難い。

 2/19新着情報に「教員のICT活用指導力のチェックリストの公表」が紹介されていた。「教員のICT活用指導力の基準の具体化・明確化に関する検討会」というところで昨年から検討されていたものの成果である。

 チェックリストは小学校版と中学校・高等学校版の2種類。どちらもA4一枚のシンプルなチェックリストである。

 リストは大まかに次の5つの能力(2つの活用能力と3つの指導能力)についてチェックするようになっている。

A. 教師のICT活用能力
B. ICTを活用して指導する能力
C. 生徒のICT活用を指導する能力
D. 情報モラルの指導能力
E. 校務でのICT活用能力

 ICT活用指導力チェックリストとしてはシンプルでよいのではないだろうか。一枚ペラでまとまったのがよいと思う。もっとシンプルにすることがチェックリストにとっては大事だが,あとはデザインでうまく処理すればいい。

 そういう意味では,ワードでつくりました的なレイアウトデザイン・センスに問題があるということかも知れない。時間ができたら,もう少しキレイにデザインし直してあげることにしよう。

 大事なのは「やってみたい!」と思わせることである。それが見てくれでなんとかできるなら,努力しない手はない。日本のお役所仕事の詰めの甘さは,そういうデザインセンスなんだな。印刷物にしても,プロジェクトにしても。 

帰国 ((豪州渡航記09))

 学校視察についての記録がまとまらずエントリー公開する前に帰国のときと相成った。この一週間あちこちの学校を視察したおかげで,西オーストラリア州の教育について,細部は別にして,大雑把なところは見えてきた。
 メディア・スタディに関する視察という趣旨に添って,現地での視察をコーディネイトしていただいたのは,西オーストラリアでメディア・スタディの神様と呼ばれているJan McMahonさんと,共著などでJanさんと一緒に仕事をしているEdith Cowan Univ.のJulie Keaneさんのお二人。
 明るく優しいお二人による配慮の行き届いたコーディネイトのおかげで,大変充実した視察を行なうことができた。
 西オーストラリアのカリキュラム・カウンシルでメディア・スタディのカリキュラムについて作業をしたほどの大御所なのに,とてもフレンドリーに接してくれたことは印象深い。私の下手な英語が通じたように錯覚したのも,終始こちらにレベルを合わせてくれた皆さんのおかげだろう。

 ところで,オーストラリアに上陸したのは今回が初めて。首都はキャンベラで,有名なシドニーやメルボルンといった都市もほとんど東側に位置している。そこにはこれっぽっちも寄らず,始めてたどり着いたのがパースという街だ。
 西オーストラリア州は,砂漠も含めてオーストラリアの西側をがっぷりと占めている大きな州である。主要な都市は南にあるパースと北にあるシャークベイで,その他にもさらに北にブルームとかカナナラという都市があるようだ。
 季節は夏。ところが,私たちの滞在中は天候が悪く(なんだ,いつものパターンか?),水不足が心配されるほど降らなかった雨が降る始末。どうも東京に出てきてからというもの,行く先々で雨に見舞われるようになってしまった。雨男の烙印を押されかねない状況だ,とほほ。
 もっともそんな天気も週末まで。最後の方にはオーストラリアの夏らしい夏の日がやってきて,久し振りに大量の紫外線を浴びた。暑くて出していた肩が日差しを浴びてひりひりである。
 街中は時間帯によっては人混みもあったりして,アメリカなどの街角の雰囲気と変わらないが,キングス・パークという公園からのパースの眺めや住宅地域に突如現れたりする公園などの景色は,息をのむ美しさである。
 こういう住環境に一時は住んでみたいと思う。賑やかさが足りない面もあるので,ずっと住むとなると寂しいかも知れないけど。

 パース空港を午後5時前に飛び立ち,乗り継ぎのシンガポールので約5時間。それから数時間待ち,午前12時前に成田へ出発。半日かけての移動で,21日朝に日本に帰国することになる。

Mac大活躍 ((豪州渡航記06))

 参観しているのがメディアの授業ということもあって,視察した学校にはアップル社のMacパソコンがごく当たり前に整備されている。同行したMac好きの先生方は大喜びである。
 かくいう私も教育界でのコアなMacファンである。正確にはAppleファンであるから,Macに限らずApple関連は大いに関心がある。

 メディア・スタディでは映像作品などを制作するため,その道具としてMacが用いられる。もちろんWinPCも利用されているのでご安心を。
 西オーストラリアのメディアの先生達は,誰もが口を揃えて「映像編集などをするときにはMacがいい」という。プロフェッショナルな映像編集をする場合にはアドビ・プレミアを使うことが多いらしく,そのときはどうしてもWinPCになる。それと公立学校は予算の絡みもあってWinPCのみの場合も多いが,私立学校の場合は必ずメディア・スタディ用にMacが導入されていた。
 すでにご紹介したポッドキャトを制作している小学校では,もちろんMacを使っている。

 これはMacに用意されている「iLife」というアプリケーション・スイート(セット)がメディア制作物に適しているためである。
 映像編集の「iMovie」と「iDVD」,音声楽曲編集の「GarageBand」,お馴染みの無料音楽プレーヤー「iTunes」も仲間である。そして写真アルバムソフトの「iPhoto」,ホームページ編集ソフト「iWeb」といった構成だ。
 プロ用の映像ソフトとしては「Final Cut」があり,放送業界で高い支持を得ている。アドビ社の「プレミア」というソフトは現在WinPC用しかないが,次期バージョンではMac版が復活するらしい。
 そしてご存知のようにMacにはこれらを支える基本ソフト「Mac OS X」があり,その使いやすさや堅牢性はあちこちで語られているとおりである。最近出たWindows Vistaと同等以上の機能でありながら,より安定しており,安心して使えるというわけである。
 この辺は半分営業トークみたいなものなので,割り引いていただいても構わないが,少なくとも私はそう評価している。

 海外の教育市場では,昔からApple社の存在感が強く,しばらく市場シェアが低迷していた時代にはWinPCが教育市場を席巻してしまったときもあったが,そんな中でもApple好きな先生や学校は残っている。これも他に倣うというよりは,自分たちで何が必要かを見極めた上で教育ツールを選択している諸外国ならではの結果であろう。
 まあ日本の教育界のMac無知度は,『NEW教育とコンピュータ』誌の視野の狭さを見れば一目瞭然(NEW誌は一刻も早くMac関係のための記事ページを毎月確保すべきである。部数に貢献するはずだ。なんならボランティア執筆してあげるし…)。そんなメディアとしては多様性も自己批判のへったくれもない状態の雑誌が情報教育の主要雑誌なのだから,私は端で見ていて悲しいのである。
 (教育分野でパソコン雑誌を発行する苦労は,現れては消えた雑誌達を見てきたからよく分かってる!「Pasotea」という野心的な雑誌を出していた気概だって知ってる。知ってるからこそ,苦言を呈してるんだ。あの時の気概はどこへ行ったのかってこと!学研の偉い方々!もう一度,この時期だからこそチャンスをつくって欲しいものである。教育の情報化の時代にもかかわらず,教育の情報化を語る雑誌がほとんど無いんだぜ。ほんとにもう。)
 (追記:あっ,5月号から値下げって書いてある。やっぱり高いってわかってたな。それとも発行部数増えたのかな。CD-ROM削減だけでそこまで安くはならないだろうし。まずは一歩前進…)

 というわけで,Mac大好き教育関係者の声を勝手に代弁してみました。