義務教育意識調査2005

 中央教育審議会の義務教育特別部会というグループが18日と19日の2日間にかけて,合宿審議した。その場で報告されたのが,「義務教育に関する意識調査[速報]」だという。
 小学4〜6年生
 中学1〜3年生
 小学1年生〜中学3年生までの保護者
 学校評議員
 小中学校教員
 都道府県市町村の教育長
 都道府県市町村の首長
という7種類の対象者に義務教育の様々な事柄について質問紙調査したものである。実施したのは平成17年3月もしくは4月まで。総合的な学習の時間に関する受け止め方などを質問した点で大変注目されている。実際,マスコミ報道のネタとしては垂涎の的だろう。データとしては基本推計表を参照すれば,ある程度の数値がわかる。それをもとに「わかりやすく」まとめた速報が今回提示されたわけである。
 これをさらに,いろんな条件を交わらせながら詳しく分析する作業によって,「わかりやすく」したために犠牲になった「よりまとも」な解釈を得ることができるというわけである。それが10月を予定している最終報告書というわけだ。
 なので,今回の速報に関する報道内容は,「まずは全部疑ってかかる」というのが大事である。

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新しいカリキュラム研究している方募集

 カリキュラム学会第16回大会(2005)の最後は,2つの課題研究だった。一つは「目標に準拠した評価の課題」。もう一つは「新しいカリキュラム研究の模索と展望」というテーマ。評価の方も興味があったが,それは録音してもらうことにして,新しいカリキュラム研究の方を聞くことにした。

 司会者と登壇者は,それぞれ実力派の若手研究者。そして指定討論者は我が師匠でもある安彦忠彦先生。いつもよりはフレッシュなメンバーによって,どんな新しい課題が提示されるだろうと,わくわくしながら聞いていた。けれど,わくわくは次第にもやもやに変わり,最後にはフラストレーションで終わった。いまから,ちょっと乱暴で勝手なことを書くけれど,どうかお許し願いたい。みんな,よき先輩方ばっかりだから,こんな形で取り上げるのはアンフェアでとても失礼だと思うけど。

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学会で起こったこと

 カリキュラム学会関連のことを箇条書き駄文で‥‥。

○学会発表した。不満足な結果。次回の出直し発表で,何かしら片を付けようと誓う。
○大会運営の難しさを痛感。
 →学会大会用webサイト構築ができるシステム「exMeeting」なんてつくったらどうだろう。
 →液晶プロジェクタのセッティングって,どうしてこんなに厄介なんだろう。EPSONのバカ。
 →学会大会を国際学会みたいに一週間くらいのロングバージョンでやってみたいと思った。(無理?)
○いろいろなに人たちに出会った。
 →[よのなか]科の藤原和博先生がゲストだったので,懇親会でおしゃべりした。内容は別の駄文で。
 →奥様大学院生に,また出会った。最近,奥様大学院生が大流行なのか,おしゃべりする機会が多い。
 →もちろん,いつも学会でお世話になっている皆さんとも再会できて,とても嬉しかった。
○懇親会の演目「大太鼓」は,お腹にひびく迫力だった。
○新しい学会長が決まった。頑張ってください!
○最後の課題研究は,フラストレーションがたまってしまった。惜しくも質問できなかった‥‥。

 学会大会というものを,構想し直した方がいいように思う。とても真面目に運営されているという点で,カリキュラム学会は信頼できるところだ。でも大会運営は,「人が集う,とはどういうことか」をもっと硬軟合わせて考えた上で内容を組み上げないと「真面目にそつなく終わりました」だけでは,魅力に欠けると思う。事実,下の世代の学会大会参加状況や関わり方は,とてもお寒い状況だ。もちろん,担当校の負担を考えると心苦しい指摘だけれど‥‥。

先輩先生方に見守られて

 6月18,19日の両日,東京学芸大学にてカリキュラム学会が行なわれた。私も学会発表申込みをしたので,準備をし,発表に臨んだ。自己評価は,40点だと思う。半分もとれてない。プレゼンは,研究の位置づけを丁寧に説明しようという気持ちが強すぎて前置きが長くなってしまったし,発表内容も欲張りすぎて傍目からは情報の羅列になってしまった。前もってわかっていたような初歩的失敗をしたので,半分の点数もあげられない。職業研究者がこういうことやってはいけない(悪い見本)。
 先輩研究者の先生方から,暖かくも厳しいコメントをいただいた。「この内容だと,本3冊書ける」という言葉は,内容を絞りきれてないことを指摘している。「大風呂敷を広げすぎて,勉強したことを並べましたで終わっている」というのは,返す言葉がありません。
 ただ,いろいろな不満のある発表だったけれども,内容は興味深いといわれたし,「もったいない」という言葉ももらった。もっと削ぎ落とした形で提示できる切り口を,はやく何かと結びつけて見つけ出さないといけない。来年以降は,それが第一課題だ。

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りんさん通販生活歴0.3年。

 昨日「アリナミンEX」を服用してみた。ビタミン剤なんて,ニキビに悩んでいるときに飲むイメージが強くて,CMで眼精疲労や筋肉の疲れに効くなんて宣伝していても「魔法の薬じゃあるまいし」と半分バカにしていた。それに,よくドラマなんかで,万能薬だと思って飲んだらただのビタミン剤だったという設定が出てくるが,まさにそのイメージで,ビタミン剤って効果がないと思っていたのである。
 しかし,このところの慢性的な疲労感は,学会発表準備にも支障をきたしていたし,そのうち何とかなるだろうと放置して数ヶ月。なんともなっていない事態を重く見て,とうとう薬の力を借りることを決意した。なんか危ない雰囲気^_^;

 というわけで,昨日と今朝,食後に服用してみた。いや,びっくりである。気分がハイになって‥‥というのは冗談。変化は通勤で乗る電車やバスの車内で確認できた。あまり眠たくないのである。今までだと座席に座ってしばらくすると「ストーン」と眠りに落ちてしまうことがほとんどだったのが,それが無いのである。もちろん眠ることは出来るが,「ストーン」と落ちるようなことがない。「これが薬の効果かぁ」と一人で感心していた。もっと早く決意していれば‥‥。いや,疲れた皆さん,お試しあれ。

 で,そんなビタミン剤の効き目を実感する前に,おお,これこそは私の集中力を呼び起こしてくれる!と思って注文したものが届いた。

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保育所実習訪問

 今日は朝からあちこちの保育所を訪問してきた。30分区切りで次の園,次の園,そのまた次の園と‥‥,全部で9園にお邪魔した。毎回,この手の出来事を駄文に書くときには「子どもたちと関われるので楽しい」と書いているが,今回も相変わらず。学生達も一週間ほど経過して,だいぶ子どもたちと仲良くなっているようだった。
 全国的にも待機児ゼロが目指されていることはご承知の通りだが,それを現状で律儀にやっていくと,どうしても施設的にも人的資源的にも限界がある。お会いした保育士さん達は口に出して言いはしなかったけれども,とても厳しい状況の中で仕事をしている。といっても,同じ市町村でも少し場所が変われば環境も違う。一つの保育所に250名もの子どもたちを預かり活気あふれるところもあれば,80名くらいの子どもたちがのんびりとした周辺環境で穏やかに過ごす保育所もある。一概にどうこう言えないのも確かだ。
 ただ,それぞれの具体的な条件がどうあれ,次代の子どもたちをしっかりと預かるという仕事に必要な労力は,私たちが思う以上に大変なのだ。子どもと一対一の息の詰まる関係で子育てに悩むお母さん達の存在は徐々に知られるようになり,理解も得られ始めているように思う。それが一対二〇(1:20)とかの関係になったら少しは楽‥‥なんてわけがない。時間が限られているし,他人の子どもさんだからという点を加味しても,やっぱり大変だ。
 と,保育士さん達の心配をしている場合ではないか。自分の仕事のことを進めないと。いよいよ切羽詰まってきた。本当は学会発表が終わってから保育所周りしたいのだが,スケジュール的に辛いので。さて,頑張るか。

中山文科相問題

 あまり詳しく書いている余裕はないが,中山成彬・文部科学相の発言が繰り返し物議を醸している件。スクール・ミーティングといった発言の場所や機会が増えたことなども要因となって,不必要な発言をしてしまいがちなのかな,とは察するが,それにしても確かに大臣として自分の発言にもっと注意を払うべきであるとも思う。
 だから,インターネット上でもあちこちで,中山文科相の問題が取り上げられているし,辞任要求についても動きがある。うちのブログの一部も中山文科相に関する検索に引っかかるようだ。
 あともう一回くらい大きめの地雷を踏んだら,文科相辞任が現実になるかも知れない。もっとも内閣は別のことで大忙しだから,それが済むまでは無視されて過ぎちゃうような気もする。とにかく,中山文科相は発言に気をつけて欲しいものだ。こうなってみて,如何に遠山敦子・前文科相が(地味で評判今ひとつだったけど)堅実な人だったかがわかってくる。やはり男は女よりも幼いということなのか。

マンデリン

 その珈琲店に訪れるのは何年ぶりになるだろうか。小さな店内のカウンターに座り,新しくなったメニューを眺めてみる。お店の雰囲気は何も変わっていない。居心地の良さから,本やパソコンを持ち込んで居座っている人たちもいる。私も以前は,よくここで研究のための読書や思索をしたものだった。
 学会発表の準備もまだほとんど出来ていないのに,のんびりと時間を過ごしてみた。ここで出会った彼女は今頃どうしているだろうか。性懲りもなく記憶が立ちのぼってくる。そういえば,その頃通ったのも土曜日の夕刻だった。
 お店の女の子に,注文を告げると,僕はノートを広げて考え事をした。しばらくして,珈琲が出てくる。いつも彼女に注文していた「マンデリン」。前より少しほろ苦くなった,なんてことは言わない。ただ,幸せなデジャヴだけを期待しながら時を過ごした。

文献屋さんの身体性

 古巣の大学図書館に出掛けた。ジャーナル(論文雑誌)の中身を読みたいと思ったからだ。久し振りに利用したので,館内のパソコン環境などが変化していた。自動貸出機なるものまで登場している。蔵書検索端末を操作して目的の論文を探すが,肝心の雑誌は教育学部の図書分室に保管されていて,土曜日に閲覧が出来ない。
 ただ,目的のジャーナルは「電子ジャーナル」も発行していて,端末上でPDFとして読むことが出来る。大学図書館は購読契約しているから,館内なら無料で見られるというわけだ。読めないと話にならないので,PDFファイルを表示させて,画面上で眺めていた。
 しかし,不慣れな英文の電子ジャーナルを画面で読み続けると疲れる。単語がわからないと,自分のパソコンなら辞書ソフトで即座に調べられるのに,図書館のパソコンにはそれがない。学外への持ち出しはおそらく禁じているだろうから,家でゆっくりというわけにもいかない。慣れない状態で読んでいたら,閉館時間がやってきて,目の前のパソコンが自動終了。ええええ‥‥。

 文献屋は本を読めばいいと思われているかも知れないが,実は身体を使わないとダメなのである。ダメという意味は,「歩かないと図書館に行けない」とか「夜遅くまで読書する体力」とか,そういう皮肉っぽいものではない。まあ,もちろん移動も体力も必要だが,文献屋は本という物理的実体との格闘に関わる身体的な行為のすべてを駆使することによって,まともな思考が働く。
 パソコン上で調べものをして,そのままワープロ・ウィンドウにコピー&ペーストして加工するような作業は,成果の量産には好都合なのかも知れないが,思索には役立たない。だから私は,図書館にパソコンを持ち込まない。大学ノートとペンを持参して,ひたすら書き写したり,メモるようにしている。もちろん,その後パソコンに入力する場合は二度手間になるが,二度目の手間にも思考の俎上に乗せることが出来るため,より注意深く情報に当たれるのである。二度目にミスが入り込む余地と比べても,総じて見れば繰り返し思考できることのメリットの方が大きい。
 もちろん,これは一人きりで仕事をこなそうとする寂しい文献屋の古くさくて非効率的なスタイルだし,私個人のスタイルなので,万人に通用するものではない。昨今は,共同研究を通して互いに思考を切磋琢磨し合うようになってきたし,効率的な研究成果の創造が求められているため,こういうスタイルは嘲笑か非難の対象にさえなりつつあることは了解している。

 それでも,私は皆さんにノートとペンを手に取っていただき,思索の時間を過ごしながらメモをとることをおすすめしたい。ときに文献資料を漁って,頁と頁の間を行き来する動作をまじえ,膨大な情報を削ぎ落としたり,凝縮する作業に挑むことになるだろう。そこに私たちの身体性が関わっているのであれば,それがある種のバランサーの役目を果たすのだと思う。

教員を取り巻く現状への理解を

 最近は他の人たちの教育関連ブログを楽しんでばかりで,自分の駄文書きが滞っていることをちょっと反省。ただ,いよいよ「教育らくがき」終焉の時代が来たのかも知れず,このままフェードアウトするがいいのかも知れない。

 「YOの戯れ言」さんの「専門職大学院構想(また意味のない形の提案)」エントリー(投稿記事)を見た。読売新聞の記事を紹介されているので,私も読んだ。

教師力向上へ、専門大学院
[解説]中教審の議論迷走
 教職専門職大学院についての記事と,義務教育費国庫負担金問題に関する記事で,どちらも6月7日付けの記事。

 教職専門職大学院については,私も「教職専門職大学院」と「アン・リーバーマン女史」のエントリーで駄文を書いたが,そういう懸念はまったく閑却されて構想がまとめられたようだ。
 佐藤学氏が『論座』2005年2月号と『現代思想』2005年4月号に寄せた論考で,教職専門職大学院を導入しようとする進行中の議論に対して特大の危機を表明したにもかかわらず,なんら対論を示さないまま「相変わらずの調子」で進んでいる。

 義務教育国庫負担金の問題に関しても,記事では「「財政再建に迫られる国の負担金制度と、改革が必要な地方交付税制度のどちらが安定的か」という水掛け論になる可能性もある」として,いかにも悩ましいジレンマがあるように表現している。
 しかし,「e-Japan戦略」における「教育の情報化」に関して,地方は明らかに国策を理解できないまま,せっかくの予算措置を不意にしている現実がここ数年続いている。とうとう最後の2005年度になって,教育分野だけは達成度が著しく低いという体たらく状態から,いかに駆け込みで達成率を上げるかという情けない議論が展開しているのである。
 これだけ取り上げても,ごまんとある地方自治体の基礎体力がそれぞれバラバラで,「信用して任せてくれよ」という言葉を信じられるところと信じられないところがあることは明白。それなのに議論に決着を付けられないのは,みんな面子で仕事しているからである。退場世代は,ここまできてもまだ次代に禍根を残そうというのだろうか。

 現実には,退場世代が本当に退場する時がやってきたとき,教員の人手不足は深刻で,さらには教員給与にかかる総額も退職金のおかげで右肩上がりの膨大なものとなる。「人がいないから人を雇いたいけど,人を雇うためのお金が足りないから,どうしよう‥‥」という時代が来る。そんなときに,教職専門職大学院という新たな教員養成コストがかかる機関をつくり,さらにそこを出て現場で活躍する人たちには無い袖を振って給与を優遇しましょう,と中教審のワーキング・グループの人たちは言っているのである。
 幼稚園児でも「おかしい」とわかる理屈を,有識者たちがまとめているのである。こういう大人の恥になるような,つまり,子どもたちに示しのつかない非教育的な活動を,どうか止めていただきたい。

 このZAKZAKの記事は,地方公務員法で禁止されていたアルバイトを「した」という悪気がある出来事だったのか,あるいは「させてしまった」という教育現場の仕方のない現状での出来事として考えるべきなのか。真実はどちらだと思われるだろうか。
 新幹線の車内誌でもある『WEDGE』2005年6月号の記事「進む教員の高齢化/教育現場は疲れ果てている」は,教員を取り巻く現状についてコンパクトにまとめている。記事の最後を結ぶ文章は,「教員は「聖職」ではあるが,学校は「聖域」ではない時代に入ったようだ」となっている。なかなかうまいが,聖域ではない場所に聖職者が宿り続けることもないし,教職は聖職だが,教員一人一人は生身の人間だ。だから高齢化の問題を議論しているのだろう。

 そうそう,もう一つだけ。夜回り先生・水谷修氏について,水谷氏の存在をどう捉えるのが一番いいのか,いろいろ考えていたが,すでに明快な答えを出していた論者がいた。諏訪哲二氏は『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ/740円+税)で,はっきりと「夜回り先生は「教師」ではない」と明言してくれていた。その考えの真意は,本を読んで確認して欲しい。

 教員を取り巻く現状を踏まえようとする努力を怠ってはいけないと思う。