新しいカリキュラム研究している方募集

 カリキュラム学会第16回大会(2005)の最後は,2つの課題研究だった。一つは「目標に準拠した評価の課題」。もう一つは「新しいカリキュラム研究の模索と展望」というテーマ。評価の方も興味があったが,それは録音してもらうことにして,新しいカリキュラム研究の方を聞くことにした。

 司会者と登壇者は,それぞれ実力派の若手研究者。そして指定討論者は我が師匠でもある安彦忠彦先生。いつもよりはフレッシュなメンバーによって,どんな新しい課題が提示されるだろうと,わくわくしながら聞いていた。けれど,わくわくは次第にもやもやに変わり,最後にはフラストレーションで終わった。いまから,ちょっと乱暴で勝手なことを書くけれど,どうかお許し願いたい。みんな,よき先輩方ばっかりだから,こんな形で取り上げるのはアンフェアでとても失礼だと思うけど。


 それぞれの登壇者の発表は,しっかりとした内容だし,課題研究全体の進行も乱れなく終わった。これが自由研究の部会であれば,何も問題ないと思える。でもテーマは「新しいカリキュラム研究の模索と展望」のはずではなかったか。趣旨文だけでも引用する。

「カリキュラムのとらえかたについては、現在ではそれが内容的に普遍妥当なものではなく、さまざまな問題性を隠していることが指摘されてきた。しかし、まだその問題性について十分な吟味がなされているとは言えない。そこで、今後の研究の方向の一つとして、カリキュラムが学習者に育てる認識能力が、どのような問題的性格をもっているかを、認識に対する最近の哲学・思想的観点からの再吟味、歴史的観点からの再吟味、文化的観点からの再吟味、の三つの面から、若手の研究者に示してもらうこととした。これによって、これまで認識形成の役割をもっていたカリキュラムの本質の理解が一層深まることを企図している。」

 趣旨文通り,3つの発表は「哲学・思想」「歴史」「文化」という観点からそれぞれ発表されていた。でもそれぞれの再吟味から,何か新たなカリキュラム研究の展望が見えたかというと,心許ない。
 では,フロアからどんな質問が出たかというと,11年前に行なわれ,記録が本にもなった伝説の課題研究「ポストモダンとカリキュラム」(正確には「現代カリキュラム研究におけるポストモダンの意味を問う」)との関係だった。ポリティックスが議論で扱われたという点で,11年前の課題研究と,今回の課題研究とは,とても似ているからだ。
 どんな進展が11年であったのだろうか。説明はこんな感じだった。当時は,理論的にポストモダンという概念が論じられ始めたところであり,「モダンからポストモダン」という段階だった。しかし11年後,教育の現実を解釈したり読み解くために,ポストモダンでも十分ではなくなった。一部ではポストモダンからモダンへと螺旋回帰している様相も見られる。カリキュラム研究としてポストモダン以降(ポスト・ポストモダン?)を提示できるかどうかが今の段階,ということらしい。
 これを聞いて,少し悩んだ。そうなのかな。よく分からない。でも仮にそうだとしても,ポストモダン以降の片鱗か何かは,残念ながら今回の課題研究内では出てこなかったように思う。3人の登壇者はいずれも誠実な方々なので,下手な気休めは言わなかった。それは正しいと思う。実際,新しい要素はそう簡単には出てこない。
 残り時間はなかったが,発言しようと思った。手を挙げてみた。でも私の斜め前に柴田義松先生が手を挙げていた。さすがに柴田先生を差し置いて発言できない。これは,ポリティックスじゃありません。心からの敬いです。
 柴田先生は,カタカナ議論はさておき,海外の研究が日本の教育の現実に届くものだろうか,という問いかけをされた。もう少し言葉を継ぎ足すか,届くようにしないと学会に来てくれる現場の先生たち実践家の皆さんには難しいのではないか。というような旨の発言をされた。もっともだと思う。安彦先生もその点は十分承知している上でこんな内容を述べられた。
 確かに日本の教育や教室発で,このような問題に取り組む研究者がいるなら,それが一番いい。しかし,今のところ,このような問題意識で蓄積があるのは諸外国の成果である。今はそれを受け取る段階。日本でこういう研究をしている人はほとんどいない。日本で誰かこういう研究をしている人は挙げられますか?誰かいますか?
 実は「日本にいない」って言い切られて,私は「え〜っ」って顔をした。そうしたら「誰かいますか?」って,突っ込まれた感じになった。ううむ,たしかに名前はすぐに挙げられないが,でも「いない」ってのは言いすぎじゃないかな。
 もともとこの課題研究の企画は,若手の研究者に登壇してもらって,今後のカリキュラム研究を担う人々に改めて課題と展望を示してもらおうという先輩研究者の皆さんの願いから始まったと安彦先生は説明する。その企画趣旨は素晴らしいと思う。実際,登壇された若手研究者は素晴らしい先輩方ばかり。
 けれども,「新しい」と銘打ったわりには,どれも10年前に議論できそうな内容でもあった。「理論や概念のような抽象的な議論ではなく,具体的な事例を通した研究成果の発表なのだ。10年の時間経過には意味がある」と反論されるかもしれない。でも私には,今回のテーマにおいて,そういう研究方法的な進展や意義みたいなものはあんまり関係ないと思う。事例がある分だけ,議論が矮小化されたようにさえ思う。11年前の伝説の課題研究が刺激的で,いまだに参照されるのは,縛られない議論の広がりが保たれていたからだと思う。
 それに11年経って,いまだに「新しいカリキュラム研究」がポリティックスくらいだなんて,依然として重大な問題なのは認めるけれど,いったい私たちはどんな11年を過ごしたというのだろう。
 私も研究を始めた頃,教育の政治性やポリティックスという言葉を興味深く受け止めたし,いまでも関心は高い。でも,気持ち的には「もういいです」なのだ。私がポリティックスの問題や議論の興味関心から抜け出し,どこへ引越ししようかと思ったか。それはご存知のように「情報」だった。でも,それはパソコンとか教育工学とかが「今どきっぽい」からだけではない。
 ポリティックスやポストモダンの議論を勉強してある程度理解できるようになったり,あるいは他の教育研究テーマでも理解が深まっていったとき,今度は「それが世の中に広く認知共有されていない」という事実が重くのしかかってきたのだ。たとえば「カリキュラム」という用語一つ,その語の広がりについて十分知られていない。私たち,学会や研究界に長居している人間にとっては自明の事柄でも,新たに学会入会した人々,現場の先生や大学院生,一般の人には,「あらためて説明しなければならない」という現実がある。質疑応答の場面では,自明の事柄だと思われたことについて質問が出て,発表者がたじろぐなんて風景もちらほら。
 要するに,「学術情報がぜんぜん広まってない」という「情報」の問題に移行しなければならないと思ったのである。研究世界と教育現場が,お互いに情報伝達や交換しやすい関係にならないと,カリキュラム研究ばかりが新しくなっても意味がない。もし日本の教育や教室に根ざした形の「新しいカリキュラム研究」をしている人が「いない」というならば,そういう研究世界と教育現場との情報疎通の無さこそが問題だったのではないかと思うのである。それはフロアで発言された現場の先生の質問や発言が,実質的には何も「新しい」のために活かされなかったことからもわかる。
 だから,もしも今回の課題研究が,11年前の続編を目指しているというならば,残念ながら続編にはならなかった。本当に「新しい」ものを模索しようとしたならば,それも達成されなかった。若手研究者達の活躍はあったけれども,逆にテーマに縛られた形になって活き活きとした議論展開にはならなかった。もちろん,こんなこと,わざと書いている。
 本当に「新しい」ことを模索したいなら,大学院生たちを登壇させるべきである。彼/彼女たちの方がよっぽど刺激的な問題意識のもとで議論を展開してくれる。それは同時に,若手を活躍させる機会にもなる。辺りを見回してみて欲しい。大学院生達はどこへ行ったのだろう。30代40代ではなく,20代の若手を引きつけられないとしたら,学術界はどうなってしまうのだろう。
 私は,もっともっと若い人達を表舞台に出して,現場の先生たちと引き合わせてあげたりすることが先輩として後輩達に為すべきことだと思う。11年前の伝説を想起させてしまうような企画に「新しさ」はない。
 だから今回のテーマ名は「深みのあるカリキュラム研究の模索と展望」がピッタリだった。それなら「温故知新」という言葉を持ち出しても生きてくる。でも,それにしたって,私はフラストレーションいっぱいだったのだ。確実に私たちは井の中の蛙になりつつあると。
 というわけで,「新しいカリキュラム研究」をしている方,大募集しています。日本にだって,こういう研究している自分たちがいるってことを教えてください。気長にいつでもお待ちしています。

新しいカリキュラム研究している方募集」への2件のフィードバック

  1. 田中清一

     連日の電子ゴミ的な書き込みを失礼します。
     学会あるいは研究会の「高齢化」で「若手離れ」という減少は、教育現場でも見られます。いわゆる教員の自主的な研修団体(長野県でいえば、各地区教育会が後援する「同好会」等)への若手の加入は減少を続けています。
     信州社会科教育研究会は、創立から50年を数える長野県屈指の教育研修団体ですが、ここ10年で私よりも若い世代の教員の参加者は、ちっとも増えません。若くはない世代に属しつつある私たちが「永遠の若手」となりつつあります。女性の先生方の参加も皆無に近いです(他の教科の研究会はわかりませんが)。
     モダン世代とポストモダン世代の世代間ギャップが、既成の研修団体の衰退を招来しているともいえるのかもしれません。が、「温故知新」ではありませんが、スマートな生き様もかっこいいかもしれませんが、私はりんさんも以前に書いておられましたが、泥縄のような学びぶり、迂遠ともいえるアプローチ、むだなのものと見えるものの集積などなど、こういったものとの格闘の中でしか「わたし」は成長し得ないし、新たなものなるものも姿を見せないのではないか、とも思います。

  2. りん

     清一くん,いつもありがと。いろんな視点を加えてもらえて助かります。
    義務教育に関する意識調査をプリントして眺めてみようとしています。
    それに絡めて,いろいろ書いてみますね。

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