月別アーカイブ: 2009年6月

東京出張

 今日は東京出張。朝も早くから自転車をこいで駅に向かい、空港バスに乗って朝一の飛行機で羽田に飛んだ。

 実は前日から頭痛が発生し、あちこち体もだるくなっていたのだが、せっかくの東京出張をキャンセルしたくはない。終業時刻を見計らってすぐさま帰宅し、明るいうちからベッドに潜り込んで休んだ。おかげで体のだるさは無事解消。後は勢いで出掛けることにした。

 午前午後と会議を行ない。その後は東京大学にお邪魔した。学会の論文誌をコピーしたかったので、何食わぬ顔して古巣の研究室で作業。後輩たちや先生とも再会できた。みんな元気そうでよかった。スタッフ室にも顔を出して挨拶した。

 調子にのって予定外の論文もたんまりコピーしてしまった。さすがにそのまま帰れないので、こっそりコピー代を忍ばせて失礼することにした。

 それから宿に荷物を置いて、向かった先は池袋。行くところは一カ所しかない。ジュンク堂池袋本店である。目星をつけていた本と店頭で見つけた本を予算オーバーになるほど買い漁った。徳島じゃ手に入り難いものだと思うとついカゴに入れちゃって…。

 さて、明日もお仕事である。終わったらそのまま逆方向に徳島へ。もう少しゆっくり滞在したいけど、まあまた次のチャンスに。

200Q

 『1Q84』を読んでいる。2冊目の後半部分にさしかかり,物語を楽しむ時間も残り僅かとなってきた。仕事が終わって帰宅してからチビチビ読んでいるので,進みが遅いのだけど…。

 テレビやネットでは,空前の売れ行きというニュースが流れている。本の内容についてネタバレするようなニュースがないのは幸いである。その代わり,みんなが何を考えて『1Q84』を読んでいるのかも分からない。まあ,小説というのは自分が楽しめればそれでよいのであるから,他人の評価は差し当たり意味はない。

 物語世界が照らし出す現実世界の記憶。

 教育というフィールドに関わる以上,望むと望まざるとに関わらず,私たちは搦め捕られている。

勉強会勉強会

勉強会カンファレンス2009
http://atnd.org/events/718

「学ぶ習慣が付きチーム力がアップした」,勉強会をテーマにしたカンファレンス開催
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20090608/331459/

 IT関連が中心みたいだが勉強会を催す人たちの勉強会が行なわれた。ワークショップのワークショップや,NPO活動のためのNPO活動とか,そういうメタ的な活動も多くなってきたなぁ。

文化振興

「アニメの殿堂」ほど正しい予算の使い方はない
http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT12000008062009

 なるほど,そういう考え方もあるか。どんなことでもやるなら徹底的にしっかりやっていけばいいのかも知れない。何かに安住するのではなくて,常に模索していくことでしか,こういう取り組みは生きてこないんだろうと思う。

 持続…,そのことに価値がある世界になっているということかな。

知的なS

 私が書きものをすると,とても批判的・好戦的になっているらしく,誰かのことを批判しているんじゃないかとか,結果として貶めるために書いているんじゃないかと受け取られやすい。

 それは仕事に対してもそうらしく,いちいち物事の根底を考えたりするものだから,一緒に仕事がし難いらしいのだ。だから,どこかにお呼ばれしても,大概は長続きしない関係になる。こちらは迷惑かけるのが嫌だし,言われないけど,たぶん周りは迷惑しているのだと思う。

 このもともとの原因は,自分に対して安心を抱かないことからきている。

 私は日本生まれの日本育ちだから,日本の学校教育に支えられてここまで生きてきた。その点では,他の人たちと変わらない。しかし,私の家系は日本人ではないし,国籍も途中までは日本ではなかった。その点では,他の人たちと違っていた。

 20,30年前の日本は,いまほど国際色豊かな国ではなかったし,少し変わったものに対して奇異の目を向けやすい社会だった。その中で,少し変わった名前で生活していれば,いらぬ自意識も生まれやすかったのである。

 いつしか私は,そのことをネガティブに考えるよりも,ポジティブに使いはじめて,いまに至っている。

 人よりも納得するスピードが遅いなら,遅い分だけしっかり考えよう。

 問題がないと思っている部分に,本当に問題が無いかどうか考えよう。

 自分や他人が,特定の主張をすることによって得るのは何か考えよう。

 本当はポテンシャルがあるのに,それがないと考えてしまってないか。

 次代の人たちにとってよかれと思っていることは,本当によいことか。

 etc..

 このブログで様々な駄文を書いたり,論文や原稿を書いたりするときにも,常にそのことは考えるし,他人が何かを論じているときにも,何かが進行しているときにも,常にそのことを考えている。

 その思考を休んだ途端,私は怠惰な人間なので,落とし穴にはまるんじゃないかと不安だからである。

 そして,私は少し大人げないところもあるので,そのことをわりとストレートに出してしまうことが多い。私の指導教官になった人達は,みんなそのことを分かっておられて,誰もが「りんくん,気をつけなさい」とたしなめてくれる。

 基本的に,生身の私は友好的だし,ご一緒にお仕事する人達のことを(人間的に)好きになるタイプなので,そんなに悪いキャラクターではないと自分でも思う。

 それでも,私の場合,好きになった相手のために槍投げたり,ムチをも振るう覚悟を持ちやすいので(逆にそれほどでもない人には愛想笑いで済ますことが多いかも…),どうしてもちゃぶ台ひっくり返しちゃうことになる。知的なSなのかも知れない。なんかちょっといやらしいわ〜。

 私は,自分が年老いていくことで,自身が丸くなっていくだろうということを予感したりする。そうすると怖いのは,自分が若いときに身に付けた経験則みたいなものを判断基準にして,物事を済ませていくようになること。

 そうなることを避ける努力も必要かも知れないが,きっと避けられないだろうから,今のうち自分自身や周りの物事を疑うだけ疑っておきたいと思う。

 そうすることが,何かしら次代の人達に示せる自分なりの在り方なのかなと考えている。それは少なくとも反面教師としてあり得ると思うし,あるいは物事を考える姿勢の別の選択肢としてあれたらいい,そう願うのだ。

なんの助けにもならない

11歳で大学を卒業したアメリカの天才少年 「テレビゲームは時間の無駄」
http://gs.inside-games.jp/news/190/19075.html

 うむ,君のように堂々とこう言えるのも一つの生き方だと思う。こういう姿勢を認め合える空気を日本でもつくりたい。つまりは,そうでない生き方だってあるということにも寛大でありたい。もちろん教育関係者として何かを助けることを志向したいのは当然だけどね。

35歳の現実

 NHKスペシャルで5月6日に放送(6月6日深夜に再放送)された「あすの日本〜35歳を救え」(番組内容)で行なわれた35歳1万人アンケートの集計グラフを見つけた。

35歳1万人アンケート集計結果
http://www.nhk.or.jp/asupro/koyou/koyou_07.html

 こういう背景があると,今まで以上に「安心・安全」を希求する行動原理が強まるのではないか。本当のところ,そのことをしっかりと捉まえて展開している教育研究は多くないし,全体の共通認識としても十分とは言えないだろう。

 学校教育の現場に対する厳しいまなざしは,玉石混交したまなざしではあるとはいえ,こうした現実に直面した社会から発せられていたのだということを,今一度,教育現場に関わる私たちは肝に銘じなくてはならない。

 

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安心と信頼

 今回のインフルエンザ発生に対する日本と諸外国の一般市民の態度(街でマスクをするしない等の対応の様子)の違いは,山岸俊男氏の著作で語られている「安心社会と信頼社会」の話が実際の形として表われたのではないかと思えます。

 山岸氏が言うことをかなり雑なまま部分的に取り出せば,日本社会というのは「集団主義的に行動することが有利だと考える行動原理の個人」が集まった集団主義的な仕組みをもった社会だとされます。一方で,アメリカ社会などは普遍主義的な社会の仕組みと行動原理による社会だといいます。

 つまり,日本人はもともと個人主義的で,安心を確保するために集団主義的な行動を選択しているにすぎないというのです。そのため,アメリカ社会と比べると他者への信頼度が低いという結果もあるそうです。

 こうした社会心理学の知見を,もう少し前面に出して物事を論じられないかなと,いろいろ考えを巡らせていたのですが,なかなか良い事例と結び付けられずにいました。

 今回のインフルエンザに対する反応も,良い例とはいえないかも知れませんが,ひとまずの安心を確保したいがためにマスクを買いに走る利己的行動から集団主義的現象を起こした日本人に対して,そもそも普通のインフルエンザと変わらないじゃんと普遍的な見地から考えてほとんどマスクをしなかった海外の人々の行動という風に眺めると,山岸氏の主張を適用できるような気がします。

 海外へ行ったら誰もマスクをつけておらず,恥ずかしいから(損だから)マスクを外してしまう日本人という話題も,そんな行動原理を裏付けるかのようなお話です。

 実は,この問題を情報モラルの分野で考えたらどうなるだろうかと,ずっとこね繰り回していたのです。

 もし私たちが安心を確保することを最優先に考える個人主義的な行動原理を温存したまま情報モラルを教えたら,そのような情報モラル教育は,本当に機能し得るのかどうか。

 つまり,この調子のままだと,表面的な分かりやすい「安心」もしくは「安全」の確保を満たした途端,私たちの情報モラルは停止を引き起こして,その先にあるワナに対して対応できなくなるのではないか。

 もしそうだとしたら,実は,日本人に特有の行動原理を踏まえた形での情報モラル教育というものが必要なのではないか。私はそういう風に考えているのです。

 事実,様々な調査で明らかになっているのは,子どもたちの信頼基準の狭さや浅さにあります。

 「友達がやっているから」「周りがそうだから」「兄弟に教えてもらった」など,子どもたちの言葉を拾うと,とりあえず安心や安全を保障してくれる存在が登場すると,それが信頼に足るのかどうかの問いは省かれて出てきません。

 このような行動あるいは思考原理の日本人に対して,どのように情報モラルを効果的に学ばせるのか。そのための教育内容と方法,つまりカリキュラムを考えることが重要になります。

 私も調査にお手伝いさせていただいた「子どものICT利用実態調査」の報告書が出ました。そこで,デジタルネイティブなどのキーワードを使って学校教育がとるべき対応を書きました。

 私にしては珍しく,携帯電話などの情報機器がもっと学校に入って教育が展開しなければならないといった「イケイケ・ドンドン」的な原稿ですが,その先で考えたかったことは,日本人特有の情報モラル教育の問題なのです。

 ある程度の限度を設定した上で,もっと情報機器や情報環境が学校に入り込まないと,学校という場所で情報モラルを扱うということは,たぶん変な乖離を抱えたままになります。とりあえず形はやっているんだけど,いまいち子どもたちの実感がついてこないという風なことが続くでしょう。

 とはいえ,そう指摘する私自身も,この問題をどう解決すべきかは暗中模索をしている段階です。まずは,もう一度私たち自身や子どもたち自身を知ることから始めなくてはならないだろうなと考え,調べものをしているところです。

山岸俊男(1998)『信頼の構造』東京大学出版会
山岸俊男(1999)『安心社会から信頼社会へ』中公新書
山岸俊男(2002)『心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想』日本経済新聞社
山岸俊男(2008)『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』集英社
Benesse教育研究開発センター(2009)『子どものICT利用実態調査・報告書

水無月五日 – 溜まった仕事

 梅雨が近づき,肌寒い日。毎授業に書かせるコメント用紙を照らし合わせながら,出席の確認を行なう。それから,来週の東京出張のための仕事に取り掛かる。隙間時間に興味のある資料や文献を読んだりするが,まとめて時間を確保するのは,やはりなかなか大変である。

 学生達に書いてもらうコメント用紙の確認。この仕事に関わってから,ずっと続けている。だから10年くらいのスパンで見ていることになるが,文章を書くことを苦手とする学生が増えているように思う。

 もちろん,受け持った大学・学部も違えば,学生個々人の違いもあるから,一概に言えることでは無い。けれども,コメントの分量が少なくなってきたり,漢字の間違いや表記回避の頻度増加などに直面することが多くなったと感じる。

 それとは別に,コメント用紙を書く授業終わり頃にのこのこやって来て,出席したふりをしてくれる学生も居る。休んだらどう?とも思うが,結局,最初から出席したくなるような授業を提供していない,こちらの力不足のせいだろう。そう思うと,コメント用紙を確認する作業も辛いものだ。

 (漢字の問題については,来週火曜日のクローブアップ現代が取り上げるようだ)

 来週金曜は,ある仕事で東京出張。久し振りに飛行機に乗って羽田に飛ぶ。ほぼ仕事で埋まるスケジュールなのだが,一泊できるので,夕方は東京散歩でもしよう。

 その出張のためにいろんな自作学習ソフトウェアを見ているのだが,とてもバラエティに富んでいる。Webサイトによるコンテンツ作品から開発ツールを使ったインタラクティブな作品まで。それぞれの目的と達成具合を理解したうえで,一通りプレゼンテーションするのが私の仕事だ。

 自分でもプログラミングがしたくなるのだが,なかなか簡単にはいかない。とりあえずアプリケーション開発の材料集めはしているが,どうなることやら。

 さて,仕事の続きを…。

水無月二日

 研究室の建物は,空調が中央管理方式。六月の衣替えシーズンになっても「冷房」には切り替わってくれないので,換気による室温調整が必要になる。

 研究室は扉や窓を閉めると密閉状態になる設計で,夜暗くなる頃に虫が入ってくるのを避けるために閉め切った後は,換気システムのお世話になるしかなかった。

 この換気システム。ダイキン製の立派なシステムなのだが,とりあえず手元で「自動換気モード」「全熱交換換気モード」「普通換気モード」というモード切り替えと風の強弱くらいは設定できる。

 正直なところ,モードの違いがよく分からず,熱のこもった蒸し暑い研究室を何とかするために「全ての熱を交換してくれるモードでいいかな?」と全熱交換換気モードを選んで過ごす日もあった。(時々気分で自動にしたり普通にしたりする。)

 しかし,熱が交換されるどころか,むしろ暖かくなっている気もしてきた。

 う〜む,パソコン機器とかの熱源が多いから,仕方ないのか?

 自分も暑がりだから,自分のせいか…。

 とか,いろいろ考えていた。

 しかし,六月に入って,さすがに耐えられなくなり,「いったい全熱交換換気ってなんじゃ?」と疑問を持ち始めた。それで調べてみることにした。

 その結果,大変な勘違いをしていたことがわかった。

 なんと「全熱交換換気≒室温維持換気」だった。

 ははは…。道理で暑いわけだ。

 どうも,空調と連動して室温と外温の換気による急激な温度変化を抑え,エコ空調するという代物らしい。またしても「空調管理システム」絡みである。まったく…,道具がしゃしゃり出すぎだ。

 しかもモードのネーミングがどうかしている。熱交換するのは,部屋の熱と外の熱かと思ったら,換気の際にすれ違う室内排気の熱と外吸気の熱のこと。要するにせっかく追い出した熱をご丁寧に部屋に返してくれるのである。

 教訓:背後技術のネーミングをユーザー向け機能名に使ってくれるな