今回のインフルエンザ発生に対する日本と諸外国の一般市民の態度(街でマスクをするしない等の対応の様子)の違いは,山岸俊男氏の著作で語られている「安心社会と信頼社会」の話が実際の形として表われたのではないかと思えます。
山岸氏が言うことをかなり雑なまま部分的に取り出せば,日本社会というのは「集団主義的に行動することが有利だと考える行動原理の個人」が集まった集団主義的な仕組みをもった社会だとされます。一方で,アメリカ社会などは普遍主義的な社会の仕組みと行動原理による社会だといいます。
つまり,日本人はもともと個人主義的で,安心を確保するために集団主義的な行動を選択しているにすぎないというのです。そのため,アメリカ社会と比べると他者への信頼度が低いという結果もあるそうです。
こうした社会心理学の知見を,もう少し前面に出して物事を論じられないかなと,いろいろ考えを巡らせていたのですが,なかなか良い事例と結び付けられずにいました。
今回のインフルエンザに対する反応も,良い例とはいえないかも知れませんが,ひとまずの安心を確保したいがためにマスクを買いに走る利己的行動から集団主義的現象を起こした日本人に対して,そもそも普通のインフルエンザと変わらないじゃんと普遍的な見地から考えてほとんどマスクをしなかった海外の人々の行動という風に眺めると,山岸氏の主張を適用できるような気がします。
海外へ行ったら誰もマスクをつけておらず,恥ずかしいから(損だから)マスクを外してしまう日本人という話題も,そんな行動原理を裏付けるかのようなお話です。
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実は,この問題を情報モラルの分野で考えたらどうなるだろうかと,ずっとこね繰り回していたのです。
もし私たちが安心を確保することを最優先に考える個人主義的な行動原理を温存したまま情報モラルを教えたら,そのような情報モラル教育は,本当に機能し得るのかどうか。
つまり,この調子のままだと,表面的な分かりやすい「安心」もしくは「安全」の確保を満たした途端,私たちの情報モラルは停止を引き起こして,その先にあるワナに対して対応できなくなるのではないか。
もしそうだとしたら,実は,日本人に特有の行動原理を踏まえた形での情報モラル教育というものが必要なのではないか。私はそういう風に考えているのです。
事実,様々な調査で明らかになっているのは,子どもたちの信頼基準の狭さや浅さにあります。
「友達がやっているから」「周りがそうだから」「兄弟に教えてもらった」など,子どもたちの言葉を拾うと,とりあえず安心や安全を保障してくれる存在が登場すると,それが信頼に足るのかどうかの問いは省かれて出てきません。
このような行動あるいは思考原理の日本人に対して,どのように情報モラルを効果的に学ばせるのか。そのための教育内容と方法,つまりカリキュラムを考えることが重要になります。
私も調査にお手伝いさせていただいた「子どものICT利用実態調査」の報告書が出ました。そこで,デジタルネイティブなどのキーワードを使って学校教育がとるべき対応を書きました。
私にしては珍しく,携帯電話などの情報機器がもっと学校に入って教育が展開しなければならないといった「イケイケ・ドンドン」的な原稿ですが,その先で考えたかったことは,日本人特有の情報モラル教育の問題なのです。
ある程度の限度を設定した上で,もっと情報機器や情報環境が学校に入り込まないと,学校という場所で情報モラルを扱うということは,たぶん変な乖離を抱えたままになります。とりあえず形はやっているんだけど,いまいち子どもたちの実感がついてこないという風なことが続くでしょう。
とはいえ,そう指摘する私自身も,この問題をどう解決すべきかは暗中模索をしている段階です。まずは,もう一度私たち自身や子どもたち自身を知ることから始めなくてはならないだろうなと考え,調べものをしているところです。
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山岸俊男(1998)『信頼の構造』東京大学出版会
山岸俊男(1999)『安心社会から信頼社会へ』中公新書
山岸俊男(2002)『心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想』日本経済新聞社
山岸俊男(2008)『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』集英社
Benesse教育研究開発センター(2009)『子どものICT利用実態調査・報告書』