月別アーカイブ: 2006年6月

水無月17日目

 名古屋に滞在中。我が蔵書とご対面し,あれこれ選びながらダンボール箱に詰め込む。どうも箱が足らないようだ。全部持ち出したいが,そうもいかないので悩ましい。
 機会があったら提出してくださいとお願いされていた書類があったので,2ヶ月しか経っていないが前の職場に出かけた。特に連絡もしないでふらっと顔を見せたので,皆さん,ちょっとびっくりしながら迎えてくれた。それから,自分の職場であったパソコン教室や情報メディアセンターに寄って,なぜか残務?処理。長い出張から帰ってきただけみたい,と言われる。結局,夕食を食べに行くことになって,あれやこれやと近況報告をして時間を過ごした。皆さん,それぞれ頑張られていた。
 たった2ヶ月だけども,最寄りのビデオレンタル店はつぶれて空き家になり,愛地球博で賑わった駅は新しい商業ビルの建設が始まっていた。昔は開放的な憩いスペースを中心にそれを取り囲むように背の低い2階建て店舗が並ぶ施設だったのだが,今回のビルはあまり開放的な感じがしない完成予想図。愛地球博とかいってさんざん環境の大事さをアピールしていたのに,行事が終わるとすぐ忘れてしまう。もうちょっと考えて欲しいものである。
 それにしても時間の経過がはやい。

水無月15日目

 これから名古屋に出かけて蔵書や衣服を取ってこようと思う。上京してそろそろ2ヶ月。もともとの目的である大学院受験準備も出願時期が近づいてきた。勉学や研究の方面もいろんな方々に出会う機会を得て,取り組みを進めているところだ。
 居場所を変えただけで,直面するものはだいぶ異なる。田舎でのほほんと教員生活をしていた頃は,日々が職場の仕事で終わっていたし,外界と触れずに過ごすことも出来た。ある意味で安泰だったのである。けれども,大学淘汰の時代だ。ますます増える校務や雑務に押しつぶされて,研究職としての自分が雲散霧消してもなお安泰といえるのか。後先考えず飛び出した。
 自分に課した目標はこんな感じだ。1) 基礎基本を落ち着いてやり直そう, 2) 最先端の成果に触れて学ぼう,である。温故知新というから,この2つはわりと相反せず取り組めそうな気がしたのだ。というか,実際にやって来てみたら「俺って,どうしてこんなにも基礎やってこなかったのか」と凹むこと多いのだけど…。それでも,そういうことに気がついて取り組めることに感謝。
 今日も天気がすぐれない。はやく移動しよう。

ことだま by 栗原一貴さん

 6月14日,東京大学大学総合教育研究センター主催のシンポジウムに出席した。センター10周年記念と,マイクロソフト先進教育環境寄附研究部門(MEET)の開設を記念したものだった。
 「大学教育の情報化,そのフロントライン」と題されたシンポジウムは,大学教育のIT化やタブレットPCを活用した教育の取り組みといった最新の事例が紹介され,大変刺激的なものであった。間もなく毎日新聞Webなどで当日の様子も紹介されると思うが,もっとこうした内容が広く知られて欲しいと思う。
 この日,とても素晴らしいソフトと出会った。東京大学大学院で様々な画像処理ソフトを研究開発されている五十嵐健夫氏と栗原一貴氏の研究成果である。特に栗原さんの「ことだま」というソフトウェアは,学校の教室でパソコン画面を模造紙かホワイトボードとして扱えるシンプルなソフトウェアである。非常にいろいろなバージョンがあるみたいだが,千葉県総合教育センターとの共同研究の一環として「ことだまレクチャー」という名でソフトが公開されている。
 正式には「ペンベースプレゼンテーションソフト」なのだそうだが,様々に詰め込んだ機能が,教育現場での実地使用でことごとく却下されて,非常に絞られた機能が残ったのだという。このソフトがユニークなのは,スライドの一枚一枚を「視点」の位置や構図として捉える点にある。つまり巨大な模造紙の上に必要な絵や文字を適当に貼り付けて,その部分部分を拡大したり視点を変えたりして構図決めて写真を撮るように切り出したものがスライドになっていく感じなのだ。そのことによって,パワーポイントのような一枚一枚が完結したスライドを順番に見せていくという構造とは異なり,広大な模造紙領域を自在に活用できる余地が編集時にも発表時にも生まれるというメリットがある。これを「スマートスライド」と名付けていた。
 もちろんこのソフトの特徴はそれだけではなくて,その描画システムとか,ナビゲーションのシステムとか,栗原さんと五十嵐さんの研究成果がふんだんに活かされている。インターネットエクスプローラーで閲覧している画面から,ドラッグアンドドロップで画像を貼り付けて,自由にペンで書き込みが出来たりするだけでも魅力的である。本来はパワーポイント・ファイルの読み込み機能などもあるらしいのだが,権利の関係上省かれているらしい。その辺はちょっと残念だが,今後商品化されれば必需品ソフトの一本になるかも知れない。ちなみにWindowsソフト。模造紙みたいに使えるシンプルなソフトをお捜しの皆さんは,ぜひお試しあれ。

ユビキタスの未来は

 私たちの生活が少しずつ便利になってきたのは,それを支える技術の進歩や改善が積み重ねられてきたからだ。電話機や電球の発明に始まり,ラジオ,テレビ,自動車,飛行機などが世界を変えた。その後もパソコン,インターネット,そして携帯電話がさらに私たちの生活様式を変えたことは誰も否定しないだろう。
 トーマス・フリードマン『フラット化する世界』の下巻(第6章)出だしには,著者のこんな考えが記されている。彼は止めることの出来ない世界のフラット化を最大限利用するにはどうすればいいのかという問いに「適切な知識と技倆と発想と努力する気持ちがあれば,ものにできるいい仕事が山ほどある」と答える。その一方で,「仕事は楽ではない」とも述べるのだ。
 フリードマンはグローバリゼーションを1.0から3.0に段階分けしたかと思うと,1.0では「国が,グローバルに栄える方法か,最低でも生き残る途だけは考えなければならなかった」とし,2.0では企業がそれを考えなければならなくなり,いよいよ3.0に至って個人が考えなければならなくなってきたことを指摘する。「それには科学技術の技倆だけではなく,かなりの精神的柔軟性と,努力する気持ち,変化に対する心構えがなければならない。」
 今夜はユビキタス技術の最新動向を触れる機会を得た。それは空間にQRコードをちりばめたり,小さなコンピュータを埋め込むことに始まって,いかに環境(システム)がユーザーの変化を読み取ってニーズに応えていくかという技術の集積である。それによって私たちの生活する空間は,より使い勝手を増し,私たちが豊かな生活を送ることに注力することを助けると期待されている。
 しかし,現在も横たわるユビキタス研究分野における応用側面の課題は,これらの技術を応用すべき対象の決定打を得られていないということのようだ。もしユビキタス技術を使えば,家や事務所の空間に埋め込まれた環境制御コンピュータが,個人の持っているIDカード(少しSFチックに描けば,体内に埋め込んだIDチップ)を識別して,個人個人に合わせた環境条件のセッティングをしてくれるようになったりする。少し太っている暑がりのお父さんなら部屋のクーラーが強めにかかるとか,昨日中断した仕事の続きをするためにパソコンが自動的にファイルを開くとか,街中で知人の所在を調べることが出来るとか。便利そうな応用は枚挙にいとまがない。けれども,「便利そう」なものが「いつも使う」ものになるとは限らない。
 今夜の勉強会で見えてきたのは,ユビキタス技術の前途に立ちはだかる壁が,「環境としてのユビキタス技術」に至るまでの「道具としてのユビキタス技術」段階におけるデザインにありそうだということ。フリードマン氏がグローバリゼーションに付けたバージョンを借りれば,3.0(環境)へ至る前の2.0(道具)の難しさをユビキタス技術はまだ真正面から直面していないのだと思う。仮に2.0をくぐり抜けて3.0へと飛躍したとき,今度はいよいよユーザー側がその難しさに直面する点はグローバリゼーションの場合と似ているような気もする。なぜなら,ユビキタス技術は,環境を全て技術的にフラット化するものだからだ。
 そうなると,私たちがユビキタス技術もしくはその隣接研究に対して期待すべきことは何なのか?ユビキタス技術が描き出す近未来の日常生活イメージは誤解や余計な不安を抱かせるばかりだから,ちょっと横に置いといて,もっと現実的な「道具として」,私たちの生活世界へとすり合せていくことを考えないといけないような気もする。道具として必要なことは何か。
  ・使途を限定しない(目的)
  ・機能が明確である(内容)
  ・使用が簡単で柔軟性がある(方法)
  ・壊れないこと(品質)
  ・使用を選択できる(選択)
 思いつくのはこんな感じだ。環境としての技術(3.0)を目指すユビキタス研究にとって悩ましいのは,使用の選択が発生してしまう道具としての技術(2.0)の段階をどのように克服するかということだと思う。ユビキタス技術を使う選択と使わない選択が同居する生活空間を人々が納得するようにデザインできるかどうか。もっと具体的に書くと,少し太った暑がりなお父さんにとってユビキタス対応クーラーのある部屋とない部屋の差異は納得できるのか。本社オフィスはユビキタス対応で仕事の自動レジューム機能があるが,支社オフィスへ行ったら古いデスクとノートパソコンしかない場面をうまく接合できるのか,といったことである。
 現実的には全ての環境を一気に変えることが出来ない以上,そのような長い長い過渡期におけるユビキタス技術が人々を納得させた上に,日常的に使ってもらえるものとなるには,技術革新とはかなり違った努力が必要だろう。宿題をもらった感じだ。
 その努力の一つとして,学校教育環境にユビキタス技術を導入するという入り口は,悪くない発想だと思う。というよりも,学校教育にとっては「環境としてのユビキタス技術」ではなく,「道具としてのユビキタス技術」の方が相性がいいかも知れない。もしかしたら,そこに「学習のための負荷」と「環境への適従」との拮抗点があるのかも知れないからだ。たとえば,今夜の勉強会でも,システムをシミュレーションの道具(教具)として使用することで,知識やノウハウの伝達に役立ててはどうかというアイデアがあった。このことから考えても,ユビキタス技術は中途半端なパソコンよりももっと柔軟な教育ツールを提供してくれる基盤技術としての役割を期待されているようにも思うのだ。
 さて,何十年後になるかわからない未来。私たちの子孫は,いずれユビキタス環境3.0の構築を達成した世界に生活していることだろう。そんな時代の人たちが,どんな心理状況にあって,どんな思考を展開するのか,残念ながら私たちは体験することが出来ない。拙い想像力を展開して,明るいシナリオと暗いシナリオを描くことはかろうじてできるのかも知れないが,それをするために私たちが今この時代に何を選択しているのかを考慮しないわけにはいかない。大文字の話になってしまうが,エネルギー問題一つとっても深刻だといわれているにもかかわらず,全てが電気を必要とするテクノロジーで構成される環境を構築して,それを持続的に維持可能なのかどうなのか,それすら私には想像もつかない。
 私の実家には,1960年代物のソニー製小型白黒テレビがあった。そのテレビは1979年くらいまで,食卓の上に置かれて使用していた記憶がある。今は行方不明だけれども,たぶん見つけ出せば今でもテレビ放送を受信することが出来るはずだ。それが2011年からアナログ地上波が停波することで,すべてのアナログテレビでテレビ放送を見ることが出来なくなる。
 それが少し不安なのである。道具に必要なのは「シンプルであること」だと思うのである。アナログテレビがラジオキットみたいに簡単に作れるわけじゃないとしても,デジタルテレビの複雑さ(技術の高度さ)に依存しきってしまうのは,いざというときに問題を引き起こすのではないかと不安なのである。まあ,その「いざというとき」って何だよって話もあるし,アナログ放送の立て替えとして「ワンセグ放送」があるという指摘もあるから,不安は漠然としたものに過ぎないかも知れない。
 ただ,少なくとも「持続可能性」の観点から考えれば,アナログ放送技術は持続を諦めるという選択を実行しようとしているのであり,そのような選択をなんの疑いも無しに迎えようとしつつある私たちの大雑把な選択眼に不安を覚えるのは確かである。ユビキタス技術導入に際してもいつかはそんなフェーズが訪れるのだろうか。そのとき私はまだ生きているのだろうか。

諸外国からのイメージ

 ニューヨークタイムズWebの教育欄をダラァ〜と眺めていたら,日本発の記事があった。「Japan’s Conservatives Push Prewar ‘Virtues’ in Schools」という見出し。「学校で戦前の徳目を推す日本の保守」といった意味である。
 内容は東京杉並区で始まった教員養成塾「杉並師範館」の様子を書き出しに,日本の教育基本法改正の議論や東京都の動き,教科書採択などを通して日本の教育行政動向を紹介している。
 こういう記事が世界的に読まれて,日本の教育というのがどんな風に思われるのか,ちょっと気にかかる。「戦前戦後(prewar/postwar)」というキーワードが飛び出してくるあたり,日本の教育界って教育的取り組みよりも政治思想が好きなんだと思われているのかどうなのか。Web記事についている写真がまたそういう雰囲気を醸し出しているから不思議だ。
 イメージという点でいうなら,文部科学省の立ち位置も見方によってはかなり変わってしまう。義務教育費国庫負担金削減の問題でいえば,それを維持しようとする文科省は「現場への影響力保持」とか「官僚の既得権益確保」にこだわっているように描かれるのがマスコミ報道の常であったし,世論にもそういう見方は多い。ところが,『世界』7月号に苅谷剛彦氏が書いている全体構図のようなものを考えていくと,文科省はこれまで整備してきた「学校教育の条件」を死守しようとかなり頑張ってくれていると見えなくもないのである。慣れてない上に切り札もない状態で政治的駆け引きの場に突然引き込まれてしまった文科省について,その要領の悪さに落胆はするけれども,一方では同情したくなってしまう。
 いまのところ,日本の教育に関する確固としたシナリオはどこにも存在していないように思う。それだけに現状がどうなのか,今後どうなるのかについて,確かなものを伝えることが困難である。だから,NYT記事のようなものが諸外国に紹介されると,それは一つのシーンを描いたものとして全く間違いではないのだけれど,それが日本の教育界全体のトーンというわけでもないと思うのである。そこのところが,ちょっと気になってしまった。

水無月10日目

 今日は大学見学に出かけた。たくさんの人たちと一緒にたくさんの説明を聞いて,学問や研究の面白さのようなものに触れられたのは楽しかった。どんな形になろうと,そうした最先端の取り組みに関われるように精進していきたい。
 TOEFLの得点キャンセルの件は,(有料なのが玉に瑕だが)復活を申し込むことにした。TOEFL Servicesに国際ファックス。近くにフェデックス・キンコーズがあって助かった。普通のコンビニでは国際ファックスが出来ないから…。とにかく,こちらも今後頑張ろう。
 前の職場の大学案内を取り寄せた。在職中に職員さんたちがつくっていたものなので成果を見たかった。9年間ご厄介になっている間にも大学案内のパンフレットというのは様々に変化したことを覚えているが,今回はここ数年と比べるとコンパクトになって,別に小冊子がつくようにアレンジされた。昔も似たようなアレンジがあったので,懐かしい感じ。幾人かの教え子や卒業したOGも登場していて,そういう点でも懐かしい気分を味わった。私もある意味,卒業生か。
 書店で『フラット化する世界』を見つけた。書名は聞いていたが,どんな本だろうと思ってパラパラと。お金が無いけど,下巻だけ買ったので,読んでからまた感想を書こう。フラット化自体の発想は目新しいものではないけれど,こうやって世界的なジャーナリストが膨大な取材の上に描くと話題になるんだな。ちなみにその本の隣り,未来学者トフラー氏の新著『富の未来』っていうのがあった。こっちも話題になるんだろうか。本の帯を見ると,今までのアイデアを全部ぶち込んだ感じになっているけど,新しいのかな?

水無月9日目

 今日は雨。再度TOEFLテストを受験した。勉強した分だけ自信があったのに,得点に進歩がなかった。あんまりショックだったので得点をキャンセルしたが,キャンセルしたからといって再受験は認めてないので「意味ないですよ」と後で言われた。じゃ,なんでキャンセルなんて仕組みがあるんじゃ!と思ったが,自分の進歩のなさを他人に八つ当たりしても仕方ないので,寂しく帰ってきた。
 帰宅したら前回のTOEFLテストの成績表が届いている。どうしてこうやって物事は束でやってくるのかわからないが,とにかく「いきなり受験」の結果が返ってきていた。準備して受験しても,準備なく受験した得点とあんまり変わらないというんだから,テスト精度の高さが安定しているというか,なんというか…。とにかく気を取り直して,今日からは英語文献にじっくり取り組む方法で小さい積み重ねしていこう。前向きが私の取り柄だし(脳天気の間違いか?)。
 
 やっとTOEFLも(次回からテスト方式が変わる予定)一段落したので,ギアチェンジ。持ってきていない文献を運び出す準備のためにも,久しぶりに名古屋へ戻ろうかと思う。やはり自分の蔵書が揃わないと研究とか勉強とか不便でしようがない。原稿依頼もあったし,夏の集中講義の準備もあるし,あれやこれや…。毎日があっという間に過ぎるのは,歳のせい?,毎日充実しているせい?とにかく頑張ることがあるのは有り難いことだ。さて,今夜も研究会に行って頑張りますか。

見えない世界を見る

 企画助言の仕事を終えて,ご一緒している先生と渋谷で昼食を取った。それからNHKまで連れて行ってもらって,スタジオパークを見学した。国会中継のために「スタジオパークからこんにちは」の放送はなかったが,おかげで入場者も多くなく,のんびりと見学できた。スタジオでは,「功名が辻」と「おかあさんといっしょ」の収録が行なわれていた。でも仲間由紀恵を直接見ることは出来なかった,残念。
 かつてはNHKで働きたいと思ったことがあった。漠然とテレビ局で働きたいという思いでしかなかったので,アナウンサーとかカメラマンとか,仕事の種類関係なくいろいろやってみたかった。現在の実情がどうあれ,かつてNHKの番組は,僕らを楽しませてくれたし,様々なものを画面を通して見せてくれる仕事に憧れさえ抱いたのである。
 スタジオパークに展示されたラジオとテレビの歴史と,NHKアーカイブスから選ばれた主な放送番組の歴史を振り返ると,ほんの少しだけ,当時の憧れを思い出す。何故だろうと考えてみると,そこに映る人の存在を想うからではないかと気づいた。さらにいえば,画面に映ってはいないけれども,その画面から伝わる作り手の気持ちのようなものを感じるからではないか。
 昔に比べれば,番組の映像技術も演出技法も高度化し,過去の番組映像は古くさく感じるのも確かである。そうやって(限られた範囲だけれども)過去と現在を比較できる立場にいる人間として抱く感情は,特別なものかも知れず,それが普遍化できるわけではないかも知れないが,「見せ方が上手くなった分,感じさせるものが貧しくなった」という気がしないでもないのである。
 何もかもを「見える化」して明示していくことは,伝達においては必要不可欠なのかも知れないが,「見えない世界を見る」ための能力の育成方法としては限界を持っているようにも思うのだ。というよりも,「やりすぎ」なのかも知れない。
(追記:20060608)—
 こう書いてみたものの,本心とはずれているようにも思う。私だって見せ方上手なリッチコンテンツ大好きだからだ。要するに,私の感受性が弱まってしまったか,あまりに重厚な画面づくりに意識がいきすぎて,本来画面から読み取るべき内容を読み取れないか,作り手の気持ちや心意気を感じとることが出来なくなってきたか。あるいは,作り手の方もそうした見せ方の技術的なところにエネルギーを注ぎすぎてしまうアンバランスな状態にあるのではないか,といった根拠のない危惧なのだと思う。
 少し違う例で考えるとすれば,教科書の分量に関する議論で考えることが出来る。見せることにこだわって,デザインを改善し,分量を制限し,全体的に取っ付きやすさを増した教科書。しかし一方で,分量の少なさが知識の少なさを招き,より深い学習や複雑な問題からの距離を大きくしてしまったとも指摘される。学校教育で触れさせる学習情報の絶対的な量が貧しくなったために,子どもの理解の多様性を封じ込めているのではないかとも考えられている。
 結局,一つで全てを満たすことは出来ないのだから,組み合わせの選択肢を用意して活用する環境や条件をつくるしかない。とはいえ,選択という環境条件は,選択主体の芯をどうするかという,とっても大きな問題を掘り起こしてしまうのだけど。

 その文脈において,どう解釈していけばよいのか,まだ考えらしい考えもないのだが,ここのところ911テロの周辺を描いた映画が登場している。「United 93」はハイジャックされた飛行機の出来事をドキュメント風に扱った映画だと聞いている。あの事件を映画で扱うのはまだ早すぎるのではないかという議論も起こったそうだが,事件の記憶を風化させてはならないという遺族たちの思いに後押しされているとも聞く。最近になってもう一つ出てきたのが,ハリウッド的にアレンジされたと思える映画「World Trade Center」である。オリバー・ストーンとニコラス・ケイジが組んだ実話映画化作品。予告編を見るだけで少し感傷的になるのは,これが実話だからなのか,ハリウッドによる映画化のせいなのか,正直戸惑いを感じる。たぶん後者なんだろう。だから,またこの映画に関しても議論が巻き起こるかも知れないし,それでも事件当日に勇敢にも現場に立ち向かっていった警察や消防士たちの活躍という実話のもとで,映画の結末次第では,もしかしたら何かまた違った影響を与えるかも知れない。
 カリキュラムを考えるということは,世界を考え,見えない世界を見ようとする行為のことである。そのことは(大文字過ぎるとしても),すでにわかっていることなのだ。それを実際の私たちの生活に据えようとする(桁を下げるとか,ブレークダウンするとか,言い方は何でも結構だが…)とき,どんな実際行為として具体化し,そのための環境をどのように構成していくのか。そのことについて,想像力を働かさなければならない。

プレイバック19981226

1998/12/26 Sat.
[知ること]((情報の存在性))
 量子力学の世界にはEPRパラドックスという問題が存在している。どんな問題かを説明するかは厄介なので省略するが、量子の世界における情報伝達の不可思議を扱った問題だといえる。
 ところで、私たち教育を考える人間はしばしば「知ること」について思いを巡らす。知識論なんて議論もあるし、認知心理学という賑やかな研究分野もあって追いかけきれないが、もっと素朴に「知る」ということを考えてみると、先の量子力学のEPRパラドックスにも似た不思議な世界と妙に共通する感覚にとらわれる。
 たとえばこんな場面を思い描いてみてほしい。ある人が自分との約束を守らなかった。こちらとしては不快な気分になっている。ところが後で事情を聞くとどうにも仕方のない理由があったことを知り、不快感が和らいだという経験。私たちの心理というのは、情報を「知っている」か「知らない」かで瞬間的に変化してしまことは、たぶん皆さんも経験があるはずである。
 知っておけばよかったこと、それと同時に、知らなければよかったこと、そのようなものが世の中に混在し、私たちの生活を様々に彩る。それにしても何かを知ってしまったために起こりうる急激な変化というものは、かくも不思議な現象である。本当のところ「知る」とは何者なのだろうか。ある情報の存在を認めることが、自己の存在を大転換させる、そのダイナミックな働きに私たちは身を任せている。

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クレーン撮影

 無理にメディア教育とひっかけたいわけではなくて,私自身の欲求として「クレーン撮影」がしてみたいのである。男の子は機械ものに興味を持ちやすいが,その後,それがどんな発展をするかはそれぞれだ。私の場合,カセットレコーダとか,ビデオとか,そういうものに興味を持ったので,おのずと表現活動への関心が強くなった。
 それで,いわゆるカメラワークみたいなものにも興味を持つのだけれど,とにかくなめらかなカメラ移動をする映像に引き込まれる傾向があって,その最たるものがクレーン撮影というわけである。
 いやなんというか,肩で風を切って歩くファッションモデルの姿をスーッとクレーンカメラで追いかけていく映像を見ると,そのカメラワークにぞくぞくしてしまう(なんか変か?)。あるいは,気持ちの良い空撮も見ていてうっとりしてしまう。
 クレーンではなく,カメラマンが身につけてカメラを支える器具があり(名前まだ知らない),これはカメラマンの動きの振動が直接カメラに伝わらないようなしくみになっているものなのだが,もし家庭用ビデオカメラに使えるものがあったら欲しいくらいだ。
 実は先月,主要携帯電話会社の人々の話を聞く機会を得て,いまどきの子ども向け携帯の動向を勉強した。最近の子ども達は,携帯のムービー機能を使って,短い短編映画を撮影する遊びもしているらしい。そんな話を聞いて,「あ,それは俺がかつてナショナルのカセットテープレコーダー「スナッピー」で友達と音だけドラマを野外ロケしながら吹き込んだ遊びの現代版だな」と思ったのである。いつの世も子ども達は身近なメディアを面白がって遊びに使おうとしている点で変わらないのだなと思ったのである。
 で,おじさんになった私は,性懲りもなくハイビジョンビデオカメラで映画撮影できないものかと夢想していたりする。もっとも今となっては機材も何もかも無いけれど…。