月別アーカイブ: 2005年5月

日本OpenCourseWare

 大学の講義にかかわるシラバスや講義レジュメ,講義内容などの情報を無料で公開するOpenCourseWare。これは米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)で公開されたMIT OpenCourseWareとして有名だが,日本でも複数の大学で公開されることになった。
 2005年5月13日に日本OCW連絡会が発足したようだ。当初は,大阪大学,京都大学,慶應義塾大学,東京工業大学,東京大学,早稲田大学の6大学で構成。各大学すべての授業が対象ではないにしても,すでにこれまでの蓄積をOCWの規格にデザインした形で公開がスタートしている。
 複数の大学が連絡会という形をとりながらスタートしたということにいい意味で驚きを感じた。任せる人に任せれば,日本でもこういった動きを起こせるのかと希望が持てるという意味でもグッドニュースだ。「MITをお手本に」というあたりが,いかにも日本的であるし,だからこそその強みが発揮されたとも言えるし,なかなか興味深い。
 こういったOCWのような素晴らしい試みを賞賛しつつ,一方で,比べものにならないほど低レベルな「教育らくがきFiles」を本サイトも頑張っていこうと思う。そっちが50人なら,こっちは1人だ。負けんかんね。

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平井堅

 平井堅が,歌手生活10周年を迎えたのだという。「僕らの音楽」という番組で,三谷幸喜と対談をしていた。二人とも愉快なキャラクターなので,その対談もなかなか面白かった。僕も平井堅のデビューシングルを三谷幸喜脚本のドラマ「王様のレストラン」で知った一人なので,なんとなくその番組を見つけることができて嬉しかった。
 有名な話だが,平井堅はデビューから5年は売れない時代を過ごしている。デビュー曲「Precious Junk」はドラマにもマッチし,そのポップさがよかったが,絶対的な人気を勝ち取るのは5年後にリリースした「楽園」から。だから僕も「Precious Junk」は好きだったし,平井堅も好きだったが,特に追いかけていたわけでもなかった。でも周りが騒ぎ出すと,「え〜今頃?」なんて勝手に思ったものだ。
 最近ではアカペラで挑戦した「キミはともだち」が好きである。彼のバラードは確かに素晴らしいが,やはり彼のポップセンスもきらりと光るものがある。曲によってバランスが様々なのだが,「キミはともだち」は好みのバランスなのである。
 とにかく平井堅の「Precious Junk」も懐かしいが,三谷幸喜の「王様のレストラン」も傑作ドラマ。DVDはもちろん買ったが,そういえば妹に貸して戻ってきてないか。また時間ができたら見てみよう。

眠気が気になる

 今日は自宅で研究日を過ごしていた。学会発表準備は暗中模索という感じであるが,なんだか体調も暗中模索という感じなのだ。連休中の昼夜逆転と閉じこもり生活がひびいているのか,どうも日中の眠気が酷い。文献が読めないくらいだ。
 不安なのは,睡眠時無呼吸症候群の疑いがあるんではないかということ。そこまでではなくとも,浅い眠りの睡眠しかとれていないのではないかということだ。実際,生活リズムも無茶苦茶だし‥‥。今夜あたり,いびきをかいているかどうか,録音でもしてチェックしてみようと思う。あまり人からいびきを指摘されたことはないが,どうだろう。独り暮らしは,この辺が分かり難い。
 さてと,明日は朝から夕方まで授業。頑張るか。

小さな違いで大違い

 最近,本格的にRSSリーダーを利用し始めた。察しのいい方は,MacOSX10.4の標準ブラウザがRSS対応したのがきっかけだなと思われるかも知れない。確かに本腰入れたのはそれもきっかけだが,遠いご近所巡りをしたのも一因である。
 ところでRSSリーダーとは何かをご存知ない方もいるかも知れない。ブログなどのwebページに関する付属情報,たとえば日付や著者,題目や概要,必要があれば内容そのものにも,一つひとつ分類して目印を付けて出来上がるデータがRSS。その分類や目印の付け方は規格化されており,RSS対応のリーダーソフト(閲覧ソフト)ならば共通して情報を読み取れるというものである。
 ん?それはwebページをつくる「HTML言語」と「ウェブブラウザ」のこと?と少し囓った方なら思われるかも知れない。実際,このブログにしても,Yahoo!のページにしても,asahi.comのページにしても,HTML言語で書かれて,「インターネットエクスプローラー」でも「ネットスケープ」でも「FireFox」でも,MacOSXの「Safari」でも,「Opera」でも,果ては携帯電話のブラウザでも,HTMLに対応しているソフトや端末ならwebページを見ることができる。それと同じことではないだろうか。
 まあ,同じ根っこを持っているので考え方は似ている。ただ,こういうお話は大概,細かい違いが大きな違いだ。HTMLは,事実上,人が見るwebページのためのものになっている。そのため,HTMLの使い方は,結構いい加減だ。
 一方,RSSは,ソフトや機械が読み取ることを前提にしている。だから,目印の付け方にはルールがあり,どんな目印を付けるかを一度決めたら,繰り返してそのルールに従うことが大事になってくる。そうしないと機械的に処理できないからだ。
 で,前置きが相変わらず長いが,あらためてRSSリーダーをセッティングして,あちこち見て回ったブログを登録したのだ。そうすると何ができるかというと,ニュース速報みたいにブログの更新を自動的にチェックできるようになる。かなり不便だ。ん?そういう感想はおかしいって?実際,一度使ってみて止めたのは,不便だと思ったからだ。そして改めて使ってみて,不便だと思った。
 でも,それでもRSSリーダーを使い続けてみようと思ったのである。

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今日この頃

 そんなわけで,締め切り間近の学会発表要旨原稿をまとめなければならないところ。それでも,今日は天気がよかったので,付属幼稚園まで修理から戻ってきたパソコンを届けに出掛けた。
 付属幼稚園は3つあり,それぞれにパソコンを貸し出している。そのサポートをするのが私のいる部署の仕事。つまり私の仕事。故障があったり,何か要望があれば可能な限り飛んでいくわけだ。けれども,付属幼稚園はどれも離れた場所にあり,今回出掛けたところは歩くには遠い。車で行ければ一番いいが,あいにく通勤は電車にしているので肝心の足がないのである。
 こんな時は,バイク通いをしているとある課長さんに「バイク貸してください」と頼むのだが,今日は午後から出張に出掛けたみたいで借りられなかった。そこで,陽気もいいから,自転車で出掛けることにした。たまにはそんな,ゆったりとした時間感覚で仕事をしても罰は当らない。締め切りは待ってくれないけど‥‥。

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教育らくがきFiles更新

 思いつき企画「教育らくがきFiles」はちまちま更新しています。20050507更新のお知らせです。
教育らくがきFiles FileNo.002 「学力問題周辺文献資料不完全リスト」
教育らくがきFiles FileNo.001 「学力」
 以上。未完のまま,次回のNo.003は考え中。

遠いご近所さん

 研究のウォーミングアップは,その主題の文献資料を通して空気にぼんやり触れていくことから始まる。常日頃から主題に対する意識が細々とでも続いていればそんな必要もないのだが,日々の慌ただしさが容赦なく意識をぶった切ってくれる。

 考えてみれば,教育にかかわるインターネットリソースは急激に増えている。教育にかかわるウェブログもあるだろうに,ご近所散策に出掛ける機会をあまり持ってこなかった。あちこちのポータルサイトがブログ・サービスを用意しているし,登録ブログをカテゴライズしている。ちょっと教育とか学校とか,研究や大学世界のジャンルを覗いてみることにした。
 ははは‥‥,なんか凄いな。知らないうちに周りみんなビルが建っていたという感じだ。しかもみんなコメントやトラックバックを使って相互にやりとり活発である。内容も硬軟取り合わせて,おいおいそんなことまで書いて大丈夫?と思うものもある。あんまり人のこと言えないか‥‥。とにかく「こっそり派」の私からすると,賑やかなご近所さんたちにビックリである。

 ま,ゴーイング・マイ・ウェイ。9年の歳月を経て,まだ変わらぬ調子で続けられているのも,皆さんに「こっそり」お付き合いいただいているおかげなのだと繰り返し肝に銘じて,いつもの通り頑張るか。

教育を曖昧化する

 「教育は不可能である」ということが,いまだに口をついて出てくるような常識にならないのはどうしてだろうか。こんなにも学問的なツールを使って教育の深層が浮かび上がり,教育の困難性については理解を得られているようにも見えて,「不可能なんだ」と深くうなずくまでに至らないのは不思議なことだ。
 けれども実は,同じような構図にある話が,他のところにもある。私たちの社会生活の在り方。資源の浪費を前提とした私たちの消費生活そのものが,この地球環境や社会の持続性を考えたときに「不可能なこと」であるにもかかわらず,私たちはそうした認識を日頃意識することはない。そうした精神構造のもとでは,「教育の不可能性」を前提とすることが困難なのかも知れない。

 一時期の教育言説において,「幻想」という言葉が大いにもてはやされた。70年代から80年代にかけて,私たちの社会に深く根付いた「学校教育」を解体するような動きが盛り上がる中で,それを幻想と呼んだのである。それは,もう少し手前の時代に位置する様々な闘争の事件や社会風潮の影響も色濃く,何かしらの解放を求める時代の空気に突き動かされた言説現象だったのかも知れない。
 けれども,豊かな社会が訪れて,その先にあるものを必要としたとき,結局誰もそれを示し得ず,誰もが裏では幻想に寄り添ったのは疑いようもない事実だ。かつて人々に学校教育を受けてもらうために導入された「学歴」というニンジンが,時代は変わっても腐ることなくそこにある(あって欲しい)と人々は期待を寄せたのである。

 一度愛想を尽かした連れ合いと,別れてからそのありがたみを知ってもう一度よりを戻そうとすることのぎこちなさを,私たちはよく分かっているのではないか。それでもその関係がうまくいくためには,あえて「幻想」を抱くこと以外にどんな方法があるだろう。一つひとつの細かな不満に対して,一つひとつを許していくような道のりが立派なのか。あるいは自分の気性を丸くし,細かな一つひとつについては気がつかない振りをしてやり過ごす方が心穏やかなのか。それは映画『マトリクス』でモーフィアスから差し出された錠剤を選ぶのにも似ているのか。

 内田樹氏は,師弟関係を「美しい誤解に基づく」と表現し,恋愛にも似ていると表した。つまり一種の幻想だ。他の人から見ればどうしようもない相手だとしても,恋をした当人にとって相手はナンバーワンであり,そう幻想するからこそ恋が成り立つ。つまり細かな部分部分を曖昧化とすることでもある。
 一方,宮台真司氏は,現実を覆い隠すようなタイプの幻想アプローチではなく,「世界の未規定性」を拾い出すことによる幻想世界の提示に可能性を示唆する。底が見えたかのようなこの世の中にも,まだ底知れぬ可能性を期待できる次元が残されていたと「思う」ことが出来れば,立ち向かう意欲を駆り立てられるのだろう。
 広田照幸氏が,教育の不信と依存が極端な形で併存している現実を描くのも,二つの事象の紐帯に,教育の持つ曖昧さや未規定性が織り込まれている故なのだろう。両極端な事象を記述するのは,氏が誠実な社会学者だからに他ならない。それはもう一人,社会学者として名の知られた苅谷剛彦氏にしても同じことである。故大村はま先生に寄り添い「教える」ことの魅力を唱えたことと,データに基づく学校教育の実態把握や教育行財政の在り方への言及という両極。その狭間におけるストラグル(もがき)を広田氏のように書いて見せることはあまりしないという点に違いはあるものの,両極の間に教育の方途があることを予感させる態度であるには違いない。

 そういう意味では,まさに広田氏にしても苅谷氏にしても宮台氏にしても,彼ら社会学者がもっとも教育的な態度を(結果的に)とっていると言えるのかも知れない。私たちにとって,社会学という学問は,精巧なツールを用いながらも暴き出そうとする深層の曖昧さを全面に押し出している点で,きわめて教育的なのかも知れない。もっとも,示される成果に夢は少ないけれど‥‥。

 江戸時代の万年時計を再現するプロジェクトで,万年時計を解体・解析した高度な技術を駆使した後,新たに組み立てるための技術には苦心したそうだ。結果的には,工作機械のみでは通用せず,手作業が必要だったのだという。
 教育の解体が始まって今日まで。解体のしすぎで,組み立てが困難になっているのだろうか。教育社会学が分析してきた世界を,組み立ててくれるのは教育工学だろうか。最終的には教師個人個人の手作業が必要となるのだろうか。
 そのとき,教師たちは教育に恋していられるのだろうか。学校に幻想を抱けるのだろうか。それとも現実と幻の狭間に位置するオブラートの役目を担うのだろうか。それは甘く苦い道筋なのだろうか。問いかけばかりが続く。

点検よろしく

 自己点検評価報告の草稿が出来上がった。関係者にメールして見てもらうことにする。もう一つ,職場の創立40周年記念誌の原稿があるけど,それ後回しでいいや。それにしても,そんな草稿を作るのにゴールデンウィークの大半使っちゃったのか。ああ,悔しい。くそぉ,今夜からは研究に使ってやる。すっかり昼夜逆転生活だ。
 でも,昨日は両親に誘われて公園散策に行くことになったのだが,なぜか名古屋で元気な栄の新スポットをめぐる散策に切り替わってしまった。栄の街に観覧車をつくってしまったサンシャインというスポットと,名古屋三越が新しくつくったラシックというショッピングスポットだ。あちこちで馬鹿にされているように,名古屋は万博のもあわせて,観覧車乱造ブーム。その単純発想が地元民としては許せないが,サンシャイン自体が若い女性をターゲットにしたお店と小洒落た飲食店舗とラーメン横町を合体させた安直スポット。気が向いたら行ってもいいかなという感じだ。
 一方ラシックは,名古屋三越が松坂屋に対抗してつくった新しい小売り館。ヨーロピアン風シックな建築デザインは,上品さを出すのには成功していると思う。ただ,栄の街は世代や客層がぐちゃぐちゃなところなので,実際の雰囲気はまた異なってしまう。それでも,旭屋書店が本格的に名古屋地区に参戦してきたのは歓迎すべき出来事だ。
 これは項を改めて論じたい話題だが,この大阪で知られている旭屋書店の登場によって,ようやく大型書店が一通り揃ったのが名古屋という街である。正直,遅すぎる。もしも10年,15年早くに大型書店が名古屋に出そろっていたら,私は絶対そのどれかに就職していたと思うね。もちろん,大型書店と言われるものがない土地にいらっしゃる方々には「なにを贅沢な」と思われてしまうだろう。確かに,ある意味で恵まれていると思う。昨今はインターネットブックストアも馴染みになってきたが,さてと,この話題はもったいないのでとっておいて,もう一度書き直そう。とりあえず,晩飯を‥‥。

自己点検しながら

 のんきなゴールデンウイークを送る一方で,職場の自己点検・評価報告書の原稿をちょこちょこ書いている。書いているとつまらないのでOSの新機能いじったりしてるんだけど‥‥。とにかく休日も派手さはないが,じわじわ仕事。きゃ〜。(壊れかけている自分)

 皆様はもう忘れてしまったかも知れないが,この国は平成13年に教育改革六法案なるものを通し,平成14年には学校教育法などが一部改正された。その中で,大学は「教育研究水準の向上に資するため,(中略)自ら点検及び評価を行い,この結果を公表するものとする」という定めが加えられたのである。そしてそれとともに「認証評価機関」という第三者機関の評価を受けなければならないということになった。要するに報告書を作成した上で,嘘偽りがないかどうかをチェックし保証するわけだ。(こんな答申がある)

 日頃のちっぽけな取り組みを積み重ねて筋道立てて説明をするというのは,なかなかどうして難しい。研究は自分の世界だからそれらしく描けるとしても,教育は相手あってのもの。「どうして,そうされたんですか?」と質問されて,「相手が望んでいたから」「いや何でも有りです」「もはや,四の五の言っているご時世ではありませんので」と答えて許してくれるならいざ知らず,どんなポリシーでやっているのか突き詰めて問われても,貢献できることを目標に固定観念に囚われず努力するのみ,と書きたいのが本音だ。
 私が担当しているのは「情報」関係の部分だ。大学の情報機器設備にはどんなものがあって,どうなっているのか,それらを教育研究の水準維持向上のためにどう利用活用しているのか。情報メディアセンターという組織がどんな仕事をしているのか。そういう事柄を説明する。後日,評価員の方々がやって来たときに,その報告書をもとに監査することになる。
 書くことがないわけではない。ただ,過去の雑事や実績をちまちま書くのは性に合わないらしい。しかも休日にする仕事じゃないなぁ。かといって平日に出来る仕事でもないなぁ。‥‥そういう職場です。僕も船曳先生のように個人秘書雇うかな。