オズの出版社

 旅支度を進めながら,今月発売の月刊誌を眺める。『世界』11月号には「徹底討論・脳科学は教育を変えるか」と題し,ジャーナリスト司会で脳科学周辺の専門家3人による討論が掲載されている。
 昨今,教育議論に脳科学の成果を参照したものが多く見受けられるようになった。そうでなくても昔から「左脳だ,右脳だ」と学習について脳のメカニズムを引用して語る教育論は馴染みが深いが,最新脳科学によってさらに教育方法の裏付けが得られるのではないかという期待が高まっている。
 この風潮で有名なのは一時期「多重知能」(もしくは多元的知能)として注目され流行もしたハワード・ガードナー氏の理論である。ちなみに彼はその著書で,多重知能理論が学校教育の基本的な課題の触媒としてはたらくような教育場面を大事にすると記している。要するにそれは,理論を根拠としてでなくきっかけとして使って欲しいと断わっているのだ。
 当事者の思いもむなしく,現実には脳科学が学習にまつわる謎を解き明かし,より効果的な学習の方法を提示してくれると思いこんでいる人たちがいる。徹底討論では,そのような誤解が発生する理由の一つとして,脳科学の研究手法の問題を取り上げ,そこに登場する「作業仮説」があたかも実証済みの事象として取り扱われてしまうことを指摘。そのような誤解を生むのは,そうした科学研究に関する一般向けの教育が足りない(またこれか!)ことを挙げている。そしてもちろん,「脳科学的な実証」を売り文句にした出版ビジネスの弊害を憂慮し警鐘を鳴らしている。


 『論座』11月号は,「「教科書」のカラクリ教えます。」という座談会記事。司会は東大の苅谷剛彦氏である。教育研究者の私たちにすれば,ある程度既知の事柄であるから,それほど驚愕的な内容でもないし,ボーゼンともしないが,たぶんそうやって麻痺した感覚で放っていることの方がよほど驚愕呆然とした事実なのかも知れない。
 皆さんにしてみれば教科書に関わる問題系を何とかせねばと思われるのかも知れないし,苅谷氏が「驚愕」とか「ボーゼン」とかの言葉で,とりあえず表現して問題化しようとする戦略の効果として,そういうムーブメントが起こるのも悪くはないと思う。歴史教科書を題材に教科書問題に絡む記事や新書が登場してきているから,学力問題や教育財政問題と共に議論を盛り上げる良い時期かも知れない。
 ただ,結局ある種のルーチン思考に陥るというのなら,馬鹿の一つ覚えで恐縮だが,「情報伝達」という観点でこの問題の将来像を議論するという(これもまたある種決まり切った)ルーチン思考に陥った方が,まだ前向きである。私にしてみれば,もはや旧来の教科書出版はかつての魔力を維持できていないし,そもそも印刷出版は出版物の乱発とインターネットの普及によって明らかに権威性を剥奪されつつある。教育の情報化にまだ時間がかかるから,その間は延命できるとしても,ビジネスモデルや扱う内容を転換しなければ,教育出版社が数十年後に健全な状態で生き残ることはあり得ない。
 すでにご存知のようにインターネット上には『ウィキブックス』と称したオンライン上のオープンな参考書・教科書作成のプロジェクトが進行している。これに関連する記事はこれ(CNET記事「Wiki、教科書業界に宣戦布告–新プロジェクト「Wikibooks」を立ち上げ」)。
 まず,日本に馴染まないプロジェクトであろう。現時点でこれを鼻で笑う人がいても,それは自然な反応だろう。日本の出版社は,日本人が紙に綺麗にレイアウトされ印刷されて権威づけられた印刷「物」を好むことをよく知っている。だからこうした電子情報だけの教科書の登場に対して(特に教育出版社は)何ら危機感を覚えない。
 けれども,この電子参考書の情報を取り出して,綺麗にレイアウトし,オンデマンドで印刷製本することが気軽にできるようになったら?そういうビジネスを本格的に展開する事業を私がベンチャーで立ち上げたら?サービスの利用は簡単だ。Web上で,情報を選択して注文するだけでいい。専門の情報デザイナーが紙面にレイアウトを施し,見本をPDFで見せる。必要があれば修正をして,あとはオンデマンド印刷された参考書が宅急便で届くのである。
 こういうシナリオもある。教職大学院や教員養成課程の大半の内容を教員養成からカリキュラムコーディネイター養成に大胆に切り替える。つまり,教師の卵一人ひとりが情報デザインの資質を身につけ,『ウィキブックス』のようなコンテンツから得られた教育内容を素材として,自分たちの教科書・参考書制作そしてそれを利用した授業の設計をできるようにする。もちろん実際には授業実践者とカリキュラムコーディネイターは別々の人が担当するが,お互いがそのような素養を持っていれば,仕事の連携もしやすい。
 もちろん,これらのシナリオは,かなりたくさんの問題を閑却して描いている。もしあなたがお望みなら,『論座』に登場した覆面座談者たちが,もっとドロドロした政治とお金の絡み事があることを語るだろうし,それゆえにバラ色理想未来は,私が生きているうちに訪れないこともはっきりしている。
 教育の情報化が十分に達成されていない時分から懸念を表明するのもどうかとは思うが,やがてインターネットから学校現場に取り込む情報に何らかの制限や統制がかけられるようになる時代がくるだろう。著作権の問題で,教材として使える素材に制限がかかるなんてのは序の口である。いずれ,どこの誰先生がつくったプリントに問題があるとか,授業の中で紹介した市販本や情報に問題があるとか,授業で偏向した内容を扱っただの,各地で問題化されて報道されるようになる。 こういう事態をどのように回避すべきかを真剣に考えるならば,教職大学院も教員養成課程も,もっと違う発想のもとに再構築されなければならないし,教育に関わる人々の情報リテラシーや情報デザインのスキルがもっと高められていかなくてはならない。そうしないと,教育を取り巻く世間一般のまなざしを変えることは難しい。
 さて,それに関連するヒントをアメリカ出張から得られるだろうか。そろそろ旅支度に戻らなければ‥‥。(追記:『世界』11月号の「中国の教科書制度と歴史教科書」はこの問題を考えるのにも興味深い。実は韓国でも国定教科書ではないと聞いていたので,どうやらもっとアジア隣国の本当の姿を知る必要があるようだ。アメリカ行っている場合じゃないかな。)