「見て見ぬふり」をすることについて,昨今の私たちはあまり良いイメージを持っていない。「問題や悪事を黙って見過ごす」というような風だろうか。見て見ぬふりは,どこか後ろめたさを連れてくるのかも知れない。
ただ,私たちはこの言葉や態度の持つ上品な側面について,もっと焦点を当てるべきではないかと思う。それは「細かいことは大目に見る」とか,「相手の試行錯誤や七転八倒を余裕を持って受け止め,むしろ大局に心を馳せて場を包む」とか,「知っていることを隠して,知らぬふりをすることで生まれる出来事を楽しむユーモア」といったニュアンスのものだ。
ところが,私たちは目まぐるしい情報過多社会のなかで,こうした余裕を維持しづらくなっているのではないかと思う。特に,知的好奇心や欲求,情報消費の文脈において,「知ったことを知らずに振る舞う」ことは難しい。たとえば私がこうして駄文を書き続けている(この行為自体も別角度で論じられなければならない問題だが‥‥)中で,バランスを欠いた不適切な内容が続くようになったとき,それを知った人々は,「見て見ぬふり」をすることは出来ないのではないか。
実は,私立小学校における通知表改ざん問題などの記事を見ていて,こうした「見て見ぬふり」の問題が頭に浮かんだ。もちろんそれが事件自体の本質ではないものの‥‥。
「雑記」カテゴリーアーカイブ
年賀状準備
2年連続で年賀状を出しそびれ,皆さんとご無沙汰をしていた。ちょうど職場の入試業務に関わるのと重なっている点にやり切れなさを感じるが,まあ,何をか言わんや。とにかく今回は年賀状を出さなくてはと思い,鋭意準備中なのである。
書棚整理
予定のない週末は久しぶりだ。スーツを買いに出掛けた。量販店に行くのもいいが,近くに低価格を実現した紳士服店があって前から利用したいと考えていたので,この機会に訪れてみることにした。「洋服倉庫」というのがその店なのだが,なかなか対応も品物も予想外に良かったので,スーツ2着を気持ちよく購入した。これで着回しがまた楽になるので嬉しい。それから実家に寄って父親と夕食。
今日は朝から倉庫のような書斎をひっくり返して,書棚の整理を始めることにした。勉強や研究が滞っている理由のひとつには,整理がおぼつかず機能性を失った書斎に問題があるように思った。思いつきで調べる際に資料そのものを探し出すのに一苦労なのである。にもかかわらず,文献資料は買い足されて山積みにされるので,どんどん悪化している。そこで年末掃除の意味も込めて,いよいよ書斎部屋をいじることにした。
まずカーペットの上に積み上げられた本や雑誌,資料やチラシなどを全部書斎から出す。必然的に他の部屋がとんでもない状態になるが仕方ない。それから書斎にあったインターネットサーバを他の部屋へ移す。少しでも場所を確保するためだ。そして掃除機をかける。今度は書棚の本を取り出す。重要な文献,ほとんど使わず場所だけ消費していた文献,頻繁に使いそうな文献などを分けて,分野別に整理し直すことにする。これは今日だけでは終わらない。可動式の棚を動かして少しでも収納の効率を上げてみる。
結局,本棚から文献資料を取り出しひっくり返したところで今日一日は時間オーバー。今後,少しずつ書斎を再構築するほかない。さて,これを機に研究モードへ戻れたら狙い通りなのだが‥‥。
がんばれシュレッダー
年内の入試業務も一段落し,イベント事も一通り済んで,平常運転状態か。それでも公開授業への参観や業者との面会,年末の会議などはしっかり入っている。ここにきて,授業の進度が中途半端になっていたことの修正に追われる。自転車操業とはこれいかに。
「古い書類を溜め込んでいると運気が悪くなる」と聞かされた。研究室や事務仕事の場所を眺めたら,書類の山。そうか,これが不運の原因なのかと思い至り,思い切って処分することにした。個人情報の扱いが厳しくなってきたこともあるので,書類はなるべくシュレッダーにかけて捨てることにする。いやはや,簡易シュレッダーはフル回転だ。そのうち煙が出て燃えだしてしまうのではないかと思うくらいに働かせる。なにしろ,ここ数年の書類が所狭しと隠されてきたのである。それをひっくり返して処分しようというのだから,隙間の時間では終わらない。こりゃ半月仕事になりそう。シュレッダーが壊れないことを祈るしかない。
最近ではCDやフロッピーディスクをかけることのできるシュレッダーも販売されている。もちろんその場合は破片を不燃ゴミとして出す必要がある。それにしても,オフィスへのコンピュータ導入は,資源の節約にも貢献するかと思われた時期もあったが,確実に資源の浪費を招いていることがわかる。情報教育の学習の中でも,このことを真正面から扱わなければ‥‥。
today1202
あれこれ慌ただしく立ち回っているうちに師走となった。もう笑うほかなかろう。本当に何にも研究関連活動を満足にしないまま2004年は過ぎ去ろうとしている。かといって職場の仕事はどうだったろう。チャレンジには障害がつきものだが,かなり泥まみれになりながら,エレガントにこなしたとは言えそうにない。
教育らくがきにしても駄文書きさえままならずといったところ。しかし,これに関してはこのサイトの役目が徐々に終わろうとしていることにも関係している。教育関連のいろいろな研究者から発信される情報も多くなったし,そちらの方が刺激的だからだ。たとえば学習環境デザインを研究している中原淳氏の日記は,とても興味深い。その他にも充実したサイトがたくさんある。あれこれ駄文を綴ってきた教育らくがきがひっそり幕を閉じるには悪くない。まあ,それはそれとして時の流れに身を任せて‥‥。
昨日は職場で学生音楽祭。それから週末には入試募集のためのオープンキャンパス。その次の日には顧問をしている児童文化研究部の定期公演など,関わらなければならないイベント事は多い。今年の私は,大学世界におけるある種の顧客サービスにどっぷり浸かりながら,目まぐるしい組織の変革業務の場でもまれ,ささやかな喜びをたよりに走り抜けようとしている。
たまに元気がないと後ろ向きな思考も展開するけれど,基本的に開き直り屋さん。来年度になればまたいくつかの役職も卒業できるだろうから(特に入試募集委員は卒業だぁ!),またチャレンジを続けたい。
頭痛
付き合いで飲み過ぎたせいもあるが,せっかくの土曜日は頭痛と共に過ごしている。駄文を書く時間的な余裕も珍しくあるというのに,正直なところ,難しい話は頭痛に拍車をかけるので,今回もお休みである。長いこと学術的な話題については考えを深められずに来ているので,その部分に関しては気持ち的にも落ち込んでいるのが正直なところ。一度軌道を外れると,元に戻るためにどこから手を付ければいいのか見えなくなってしまいがちだが,いままさにそんな状況なのである。
ただ,おそらくそういう状況は,自分の思考や行動を狭い範囲に閉じこめているせいではないかと考えている。じっくり本を読んだり考え事をすることにもまして,あれこれ刺激を受けることも大事なのだ。ここしばらくは,そのためなら転職もやむ無しかと考えたりしていたが,少し違った形で新しいことに取り組める可能性も出てきたので,動き出そうと思っている。きっと皆さん,ビックリすることだと思う。それについてはいずれ触れてみたい。
イベントラジオ
土曜日・日曜日に,職場で大学祭があった。大学祭といえば主役は学生であるから,キャンパスを提供して任せてしまえばいいようなものだが,そこは小規模な学校なので,ゼミの出展などして教職員も一緒に盛り上げるのが伝統になっている。
今年,私の担当するゼミではラジオ番組づくりをだらだらとやっているのだが,大学祭では特設ブースを構え,FM電波を使ったイベントラジオ放送に取り組んでみることにした。インターネットラジオだと編集作業や公開作業が面倒で,録音したものをなかなか公開できないでいたのだが,ラジオの生放送ならばその場限りなので取り組みやすい。むしろそのための下準備が大変といったところか。
番組を担当する学生達には,自分たちの番組進行について計画を立てさせるとして,私の方はラジオ放送に使用するための機材とシステム作りを担当した。実験的な試みゆえに大学からの資金は一切使わず,ほとんど自腹。もちろん大学にある備品をちょこちょこ利用しながら,素人考えで簡易放送設備を整えていった。足りないマイクやミキサー,ケーブル類を購入して用意。電波送信機(FMトランスミッタ)もないので,新たに購入する必要があったが,これがくせ者で,実は個人が手に入れられる範疇の手軽な商品が無いのだ。
FMトランスミッタが入手できないと,単なるPAでしかなくなり,ステージから大音量でしゃべったり音楽を流しているだけになる。今回はそれだけでなく限られた範囲だけとはいえ放送することが目標だったので,FMトランスミッタ探しは重要だったのである。
考えなくても
だいぶ長いこと駄文を書かずに日々を過ごしてしまった。入試業務に関わっていると,この時期は現在進行中の入試の準備もさることながら来年度のための準備も進んでいて,拘束される機会も増えてしまう。自分が長をやっている部署に関しては,来年度の事業計画と予算要求を組み立てなくてはならない。教育について考えない日々をわりとあっさりと過ごしてしまった。
大学で授業を持つ者にとって,各人が週に何時間(何コマ)の授業を受け持っているのかは気になる事柄である。ただ,この話題をする際,各人の拠り所とする「多い」「少ない」の基準はほとんどバラバラで,万人の共感を得ることは難しい。私の職場は週7コマが基本とされているが,「そんなもんだよね」とうなずいてくれる私学経験者がいるかと思えば,「そりゃひどい。研究なんて出来ないだろう」と的確な指摘はしてくれるものの,そんな条件に身をゆだねているこちらを哀れむというより軽蔑するかのようなニュアンスのこもった唸りをつけ加える。かと思えば「そりゃまだましだね」とうらやましい視線を向けながらため息をつく人もいる。
いつものことながら,自分が苦労をしているのか,楽をしているのか,いまいちよくわからない。私にしてみると,個別の仕事が1つの目標にフォーカスされていれば,切り替えのロスが軽減される分もう少しパフォーマンスよく働けるような気もするだけに,いまいち自分の仕事がうまくいっているという感触が得られない。一方で,これだけ同時並行しながらも週に9コマの授業をこなしている自分を誉めても罰は当たらないという気もする。いや,正直,ろくに授業準備が出来ていないから,申し訳ない気持ちの方が強いけれど。
明日も朝から晩まで慌ただしい日々だ。
today1025
日常の慌ただしさならいつものことだが,先週は研究大会だ,台風だ,地震だと,なにかと賑やかで息つく暇もない日々だった。本日は非常勤担当講義を済ませたところ。ようやく平常運転か。けれども,来年度の事業計画と予算組みに頭をひねらないといけないし,予定もあれこれ。
関西方面で教員にまつわるニュースが賑やかか。スーパー教師の採用や高校段階における教員養成など。教員免許制が中教審に諮問されたこともあり,議論が沸きそうだ。ところで教員養成課程のある学部大学の統廃合はどうなっちゃったんだろう。
天職の転職
鬱積した夏の最中,転職を考えていた。学問との結婚を決意した大学時代よりも遥か前から,夢はあったのだ。それを夢のままにするのか,あるいはここで一念発起してみるかは,時の流れに身を任せという感じでもあった。そう,心は昔から浮気していたのである。
ただ,教育世界に関わる仕事が天職だと思っている。どのような分野であれ,そこに「教育」の気配があれば,私にとってそれが活躍の場だと思っている。だから「天職の転職」もありかなと思う。
慌ただしい秋が始まり,私はいつもの日常に身を沈めている。それ自体は(どんなに世間から滑稽に見られようとも)自分の仕事として全うするだけ。ただ,この調子だと私のプライベートは完璧に雲散霧消化する上,結婚したと思っていたはずの学問とも愛の言葉を交わす暇がなくなって,気がついた時には荷物がなくなっているに違いない(すでにもう居なかったりして)。
一本の電話は,私をどこかへ連れて行くことになるのだろうか。