見て見ぬふり‥‥

 「見て見ぬふり」をすることについて,昨今の私たちはあまり良いイメージを持っていない。「問題や悪事を黙って見過ごす」というような風だろうか。見て見ぬふりは,どこか後ろめたさを連れてくるのかも知れない。
 ただ,私たちはこの言葉や態度の持つ上品な側面について,もっと焦点を当てるべきではないかと思う。それは「細かいことは大目に見る」とか,「相手の試行錯誤や七転八倒を余裕を持って受け止め,むしろ大局に心を馳せて場を包む」とか,「知っていることを隠して,知らぬふりをすることで生まれる出来事を楽しむユーモア」といったニュアンスのものだ。
 ところが,私たちは目まぐるしい情報過多社会のなかで,こうした余裕を維持しづらくなっているのではないかと思う。特に,知的好奇心や欲求,情報消費の文脈において,「知ったことを知らずに振る舞う」ことは難しい。たとえば私がこうして駄文を書き続けている(この行為自体も別角度で論じられなければならない問題だが‥‥)中で,バランスを欠いた不適切な内容が続くようになったとき,それを知った人々は,「見て見ぬふり」をすることは出来ないのではないか。
 実は,私立小学校における通知表改ざん問題などの記事を見ていて,こうした「見て見ぬふり」の問題が頭に浮かんだ。もちろんそれが事件自体の本質ではないものの‥‥。


 情報倫理の話題でも知られているように,私たちはもはや「無知」であることが許されなくなっている。,コンピュータやインターネットを利用する人口が爆発的に増え,何かしらの事務仕事に関わる人々のほとんどが,セキュリティ問題や個人情報保護の動きに配慮しなければならなくなっているのはご存知の通りだ。セキュリティについて知らぬことは,許されるどころか責任を追及されてしまう。
 それはコンピュータを扱うかどうかにかかわらない日常生活の範囲にも及びつつある。コンピュータセキュリティの世界ほど結果がシビアでない分,脅迫的でないとしても,知らないことで不利益を被ることは多いし,それを救ってくれる配慮も減りつつある。「自業自得」社会の側面がより強化されつつある。
 「見て見ぬふり」から受けるイメージに二面性があるのは,そのふりに続く自分の態度の取り方に2通りあるからだろう。一つは,見ぬふりをしたまま相手を突き放してしまうこと。もう一つが,見ぬふりをしつつも相手との関係を維持し前進させようとするもの。自業自得社会が前者を軸にしていることは明らかだろう。あるいは後者の場合でも,その関係性が希薄なまま損得で物事を進めようとすれば,それはまた自業自得を別の形で利用した態度だろう。
 今回の私立小学校での事件は,暴行事件と通知表改ざん事件がセットになっているが,教員と児童と保護者の関係の希薄さが透けて見える点で昨今の現場を象徴しているのかも知れない。そして私たちは,掘り返されていく学校教育現場における「現場的判断」という名の日々の行為について,これからどう向き合うつもりでいるのか,問われているともいえる。
 私たちは適切な形で「見て見ぬふり」を活かすことが出来ないものだろうか。自業自得社会のなかで,不信をベースに物事を進めていくと,窮屈になりすぎてしょうがない。信頼できる(リライアブルな)関係を築く術(信頼してもらう自己研鑽と信頼できる相手をつくり出す相手に対するスキルなど)を身につけていくことが必要だと思う。これって学ぶべき事柄のひとつ?