缶詰め仕事が一段落したので,書店でぶらぶらしていたら,苅谷剛彦・増田ユリヤ『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(講談社現代新書2006.11/740円+税)が平積みされていた。よせばいいのに買ってしまった。
増田ユリヤ氏が上梓した『総合的な学習〜その可能性と限界〜』(オクムラ書店)という本に対して好感を抱いた記憶があるし,苅谷剛彦氏は教育社会学者として様々に活躍されているので,この2人の本なら読んでみるかと思った。
ぱらぱらと斜め読みしかしてないが,対談部分はやっぱりあんまりシャープな内容ではない。それに対談部分の合間に差し込まれた補稿の字体を変えてしまっているのは,あんまり読みやすくない。どっちかというとそちらに大事なことがいろいろ書いてあるはずだし,両氏の本領も発揮されているはずなのに,読みにくい。
最近思うのだが,このパソコン編集のご時世になって,書籍編集者というのは本当に手を抜くようになったと思う。レイアウトやフォントに凝れるようになったせいか,基本的な文字組レベルにおける努力をほとんどしなくなったといっていい。昔はもっと文章の区切れと頁の区切れを意識していたのではないか。それと図版の扱いも良い場合と悪い場合が極端になっている。
たとえば,苅谷剛彦氏も「国家予算と義務教育費の伸び率」というグラフを掲げて,教育予算や条件整備に関する具体的な策を出さないままに教育改革が推進されている問題を指摘している。このグラフのレイアウト処理の仕方の中途半端さといったらない。こんなエクセル出力グラフからそのまんま描き起こして,ろくなデザイン編集もせずに掲載するなんて,商業出版としては恥ずかしい限りである(それが新書の限界だと言ってくれるな。そんなことは百も承知であえて事例として書いているのである)。
グラフ自体は1955年を基準(1.00)として,そこからの予算伸び率を図にしていて大変興味深い。私がつくった減り続ける教育予算グラフ(1)(2)が1997年からだけしかないのに比べれば,昭和30年からの経過が見られて素晴らしい。そしてこのグラフからわかることは,恐ろしいことにあの臨時教育審議会が設置されてからというもの,日本の義務教育費の伸び率は停滞しているということ。教育の自由化というのは,教育予算の値切りだったということがはっきりわかる。
(ちなみに子ども1人あたりの教育費の伸びが上昇しているのだけど,たぶんこれは子供の頭数が減っていったことによる上昇ではないかと思う。義務教育費が伸びてないのにそっちが伸びるとしたら,そう考えるほか無かろう。)
とにかく,本作りにしても教育環境作りにしたも,大いなる手抜きが展開してしまった昨今。時間の長さは変わらないのに,仕事や勉強などしなければならないことは増えて,それぞれに使える時間が短くなってしまったのだから,合理化効率化という名の手抜きも起こるのは,容易に想像できる事態である。
街を歩いていると,若い兄ちゃんたちが「カラオケしませんか」と声をかけまくっている。ナンパじゃなくて,カラオケ店の営業である。街ゆく人たちに「カラオケしませんか」「カラオケどうですか」と声をかけ続け,潜在的な客を獲得しようとする努力。なるほど,普通に歩いているカップルやグループも,そう声をかけられたら,自分では気づかなかった「唄いたいな」という欲求に気づいて,唄いたくなるかもしれない。でも,そうやって引っ張り出された欲求は,本当にそのときすべき欲求だったのだろうか。
教育予算の伸び悩みや減少は,すなわち私たちが教育に費やす時間の減少であるかもしれない。子ども達は,国が整備した学校教育から逃れて,塾へ行くだろうし,習い事に行って時間を過ごすだろう。そういう意味で,子ども1人あたりの教育費が変わらない。けれども比喩的にはなるが,国全体として教育に捧げている時間というものが,量的な意味でも質的な意味でも,どんどん減っているのではないだろうか。そんな風に思えたりする。