ここしばらく,英国出張後の整理をかねて,イギリスの教育制度について復習していた。かなり昔に学んだ知識は,目まぐるしいイギリス教育改革のおかげで,すっかり役立たずになっていた。
幸い,英国のオンラインリソースは充実しているので,最新情報はWebを通じてあれこれ入手できる。けれども,昔の知識からのすりあわせをしながら理解するとなると,英語だけでは少々辛い。日本語の文献をあれこれ漁って,付き合わせながら一個一個流れを押えていかないと…。日本語訳も人によってまちまちだし。
イギリス教育に関する日本語文献としては,基本的に文部科学省の「諸外国の教育の動き」シリーズが頼りになる。それ以外だと,最近書店で見かけたのが,清田夏代『現代イギリスの教育行政改革』(勁草書房2005.10)とかあったが,これは教育行政バリバリの専門書で,教育制度を知るにはあまり手軽じゃない。読み物的なら,小林章夫『教育とは −イギリスの学校からまなぶ』(NTT出版2005.8)とか,佐貫浩『イギリスの教育改革と日本』(高文研2002.8)あたりが手頃だろう。あとは教育関係の大学テキストなどに世界の教育比較として一章割り当てられているものがある。
ただ,今年に入っても教育改革の動きは慌ただしく,11歳と14歳で受けている各ステージ最終テストの受験時期をずらすことができる仕組みを試そうとしたり,義務教育の対象年齢を18歳に引き上げるため動き出したとか,ここ数日では新たな共通カリキュラムの試案が公開されたりしている。印刷文献だと,どうしてもこういう動きに追いつけきれない。私なんか,もう頭痛の連続である。
こんなイギリスの教育を眺めていると変な既視感がつきまとう。ん?そうか,今の日本の教育改革はこの慌ただしさを真似ようとしているのか。ブレア政権が教育を政策の最優先事項にしたことも,地方教育当局(LEA)を縮小して国家介入を強めたことも,ナショナル・カリキュラムとナショナル・テストによる国家による目標管理体制なども,いまの安倍政権下で展開しているあれこれにリンクが張れそうである。もっともその下手な焼き直しが各方面から批判を浴びているけれども…。
イギリスの教育を理解するには,イギリスの政治を大雑把でも把握しておく必要がある。1979〜1997年の保守党政権期を経て,1997年から今日に至る労働党ブレア政権の流れ。そしてイギリスの伝統などを考えると,単純に制度の仕組みだけを捉えて善し悪しを論じることができないことが分かる。そういう意味では,私自身もいくつかの駄文に反省を加えなくてはならない。
梶間みどり氏が『教育の比較社会学』(学文社2004.1)に書いたイギリス教育改革に関する論考は,次のように3つの転換をイギリス国家に見ている。第1が,かつての「福祉国家」から「自立型国家」への転換。第2が,「官僚主導型の行政経営」から「受益者主導型の行政経営や政策の重点化」。そして第3が,「評価国家」への転換である。
このことによって何がどうなっているのか。前出文献で佐貫氏が書いているのは,次のようなことである。教育価値を国家が評価主体としてコントロールすることによって目標管理システムが国家的な規模で展開しているが,一方で,個別学校や教師への統制的な命令が必要とはされていない,と(199頁要約)。
つまり佐貫氏は,イギリスの国家介入は,評価管理であり,統制管理ではないということ。ゆえに,国家介入によって,学校現場の自由が制限されることは,日本と比較すれば少ないというのである。
これは逆に言えば,評価をもとに自由を有効活用できなければ,仕組み自体が破綻することを意味している。そのための支援も合わせて措置されていることも重要なのだが,イギリスでこの仕組みが妥当なのは,もともと国民の意識が高いという文化的な背景が大きく貢献しているように思う。もし仕組みを日本に持ち込んだとしても,これだけの政治的問題や役所の不祥事を何もせずに忘却のもと放置できる国では,導入すら難しいのだろう。
ブレア氏が英国首相就任の前年である1996年労働党大会の演説で,政策の優先課題3つを「エデュケーション,エデュケーション,エデュケーション」としたことは,あまりに有名。教育改革の荒っぽさはあるが,その効果は現れてきている。そして何よりも,教育予算を増加させ続けてきた。対GDP比においても就任当初から数年は減少していたが,2000年以降はこちらも増加の一途である。
もちろん,最終的な問題は予算の「使い方」あるいは「使わせ方」である。日本の教育予算が少ないことは,どこかの失言政治家が存在すること以上に世界の恥である。百歩といわず千歩も万歩も譲ったとして,少ない教育予算をやりくりすることは仕方ないことだと信じ込んだとしても,それを効果的に使うことに関して,日本は下手くそである。
教育委員会制度の抜本的見直しが,これに関する一つの適切な解法なのかどうかは,もう少し議論の行方を見なければならない。だけれども,そんな手にさえ可能性をみたいと思う心理を抱くのは,あまりに変わらなさすぎる日本の教育にうんざりしているせいなのかも知れない。願わくは,そんな感情ベースの判断はしたくはないけれども。