遠く眺めること

 大学院生となり,慌ただしい毎日を送っていた。自分の研究を仕切り直しするために歩み出したとはいえ,学生としての学業も課題も多いので,教育界隈の話題や読みたい文献資料なども腰据えて追えていない。長らく皆勤していたカリキュラム学会の大会も,今年は近くで行なわれていたにもかかわらずお休みした。二兎は追えないものであるなぁ…。
 たまりたまった日本教育新聞を久し振りに眺めると,教育界は忙しく動いているのがわかるが,同時にそこで展開している論理の,世間からの遊離具合も感じられるようになる。

 NBonlineに掲載された広田照幸氏の「教育も,教育改革もけしからん」は連載が完結したのか,夏休みに入ったからなのか,8月の新しい記事更新は途絶えている。しかし,掲載された分に対する世間(日経BP社出版物を好む層とも言える)からのコメント反応は,論考への賛意もあるが,かなりの割合で異論を唱えるものがあり,教育をテーマにしたネット記事としては賛否を交えた大変興味深い展開となっている。
 それだけに,その反応を踏まえた論考続編の準備が必要になったと思われ,きっとこのお休みの間に準備しているのだと予想される。担当編集者である齋藤哲也氏の威勢のよい前口上から本人を信じるなら,きっと大リベンジを用意してくれているはずだ。そういう意味で,広田氏の教育言説への挑戦に新たな地平が広がったとも言える。広田氏をネットに引っ張り出した以上,齋藤氏にはそれなりの成果を上げることが求められるわけで,それでお金もらってるなら「教育らくがき」みたいに「難しい問題である」なんて結論で終わらせるアマチャンなことは許されるはずがない(と発破かけてみる)。意地悪はさておき,少なくとも居酒屋社長のコラムには勝ってほしいものだ。

 ちくまWebに連載中である苅谷剛彦氏の「この国の教育にいま,起きていること」も毎月楽しみにしている記事である(どうして両方のコラムタイトルに読点が入っているのだろう,流行りかな?)。このコラムの面白いところは,苅谷氏の問題関心あるいは怒りの程度がページ数に如実に表れていることである。
第1回 教育バッシングの思わざる効果(3ページ)
第2回 未履修問題から何を学ぶか(5ページ)
第3回 参院選に利用される教育再生会議(4ページ)
第4回 教育委員会制度のどこが問題なのか?(4ページ)
第5回 教育政策の路線変更と全国学力テストの意味(6ページ)
第6回 免許更新制と教員受難のパラドクス(9ページ)
第7回 選挙の目玉になりそこねた、教育再生会議第二次報告(6ページ)
第8回 政治と教育(3ページ)
第9回 参議院選挙以後の教育政策——教育振興基本計画(3ページ)
 本来,3ページ程度の連載コラムとして始まったのだが,徐々にボルテージが上がって,第6回には9ページにわたる文章(まあ引用とか多かったんだけどね)を書くまでに至るが,選挙だの政治だのに関わるテーマとなると勢いが消えてしまったかのように元に戻ってしまった。
 ページ数変化が面白いと書いたが,きっとこれはそれにまつわる文章を書く立場になった人間にしかわからない,「やっぱりそうだよねぇ」的な共感から来る面白味かも知れない。要するにこの手の話題は「注視する」とか以外に書きようがないのである。だって,真面目にやってない人たちのことを書くようなものだよ,真面目に書けるわけ無いじゃん。
 文句たれるなら延々と愚痴はこぼせるけれど,それが建設的でないことくらい,普通の人はわかる。だから教育言説は難しい。文句を建設的なものに変えるには,それなりの「言語力」が必要になってくる(by 中央教育審議会)。
 政治と教育…。教育が政治主題として取り上げられることは必要なことだった。しかし,政治舞台で教育を取り上げようとする人間がどんな人間なのかを知ったとき,私たちは大きなため息をつく他なかった。教育は人なり。あらためてこの言葉の意味を重く受け止める次第なのである。

 そんな人を育てることが大事だと考えて取組まれているはずの「教員免許更新制」。その説明会が行なわれた。ニュース報道によれば,「教員免許の更新講習は「双方向評価」」(朝日新聞)とか「10年研修と一元化せず」(日本教育新聞)とか考えられているらしい。
 制度設計する人間の心理として,システムの耐性を高めるための様々な予防線や機能・規則を盛り込みたくなるのは理解できる。そもそもそうしないと客観的「評価」が出来ないと言うだろうし,客観的評価ができないと,制度としての評価が出来ず,アカウンタビリティが果たせないことになる。そういう制度設計手法に乗っ取っている以上,こういうデザインになるのは当たり前である。
 問題は,説明会に集まった大学や教育委員会が,どれだけ「行間読み」して,違法ではなく「脱法」できるか,またその余地をどれだけ残してあるか,ということなのである。(野暮な説明だと思うが,「違法」と「脱法」は意図していることが違うので同列に考えないでいたたきたい,気に入らないなら「抜け道探し」と読み替えていただいて結構である)
 ところが,説明会で事前に集めた質問が,約700件! 地方分権の時代にお上に対して700件も質問が飛ぶのである。こんな依存体質で,行間を読むような芸当が出来るわけがない。700件も行間を潰したかもしれないと思うとゾッとする。事前確認せずにやって,後で注意や警告を文部科学省から食らうのが嫌という発想なのだろうが,それがもう中央依存体質なのである。
 そもそも注意や警告といった事態が起こったときに何とかするのが「政治」であり,それぞれの地方で選出した政治家の存在意義も,そういうところで力を発揮して,果敢な地方の挑戦と威圧的な中央の支配との折り合いやバランスをつけるべきなのである。そういう有機的な関係性を築かないから,「政治と教育」という話題について失語症になるのも当然といわざるを得ない。
 本来,大学や地方自治団体という「行間読み」や「脱法」のプロ集団であるべきところが,こんなことでどうするのか?原典にあたるとか,第一次資料にあたるとか,張本人に聞くとか等が,研究や調査において重要であることは認めるが,解釈まで他人に頼っていたら,いったい自分のオリジナリティをどこで発揮するつもりなのだろう。
 そういう考え方が「ライブドア」のような事件を起こしたという反論もおありかも知れないが,そうした事例による反論だけで現場を絞め殺す規制の乱立やがんじがらめの制度デザインを許すことの方がよっぽど乱暴である。
 最近ヴィゴツキーづいているので,その道具主義的方法に当てはめて考えたら,どう解釈できるだろうと想像してみたりする。「行間読み」というのは,内言による思考過程によって編み出されるものだとすれば,そのような思考を可能せしめる内言へと転化する外言の行為として,説明会のやりとりがあったのか。しかし,そう考えると,700件もの質問が内言化されたとして,それら豊富な内言によって展開した思考過程によって編み出されるものが有るのか無いのか。ここでは700もの内言が実のところ自由な思考を妨げる効果をもってしまうという風に想定している。けれども,場合によっては700もの内言を踏まえ,それを乗り越えた思考のもとで高次の創造性を発揮することも可能なはずである。
 そうなるとハードルは700もの質問で高められてしまったが,それらを踏まえた素晴らしい教員免許更新講習が創造されることを期待できなくもない。もしも,私たちが国づくりのためのあるべき姿の設計を目指すというのであれば,まさにその難関を乗り越えて取組んでいかなくてはならないのだと思う。
 もっとも私みたいな能力のない者は,難関を「くぐり抜けて」取組んでいくほうが性に合っているのだけど,本当にこの国の大学や教育委員会の皆様は,志が高くていらっしゃる。いいんですよ,どっちでも,私,気にしませんから。

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