教育学や教育研究の分野が,世間に正当に評価されたり,活かされていないのが本当だとすれば,本来それが埋めるはずのスペースには何かあてがわれているのだろう。そんなスペースはそもそもこの国にないのか,それとも無視できるくらいに小さいのか,あるいは学問よりも有用な何かが活躍しているのだろうか。
そんなことを改めて思いながら,書店に立ち寄った。インターネットは,情報の欠片を見つけるには無限定な空間で都合がいいときもあるが,社会の姿を捉えるには外枠が曖昧すぎて役立たない。こんなときには昔も今も書店が一番である。
あらためて,学参(学習参考書など)や児童書の集まるコーナーをじっくりと探検してみた。いやはや,たとえばお受験一つとってみても,目がくらむような種類の図書が並んでいる。
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本来,私くらいの年齢になると子どもの一人や二人いても(もちろんいなくても)不思議ではない。世間の同世代お父さんお母さんは子どもの将来を考える場面を多々持つのだろう。ちなみに私の身近にもそういう方々が結構居る。
子どもを持ち,子育てに励むその先には,避けては通れない学校教育の問題がある。いざ自分の子どもの学校を吟味するときに,必要な知識や情報とは何か。それは実のところ,教育学や教育研究ではないのだろう。そう感じたら,少しばかり憂鬱になった。欲しがられていないにもかかわらず生き残るのは,並大抵の努力じゃ済まないなと。
学参の棚には,幼稚園から小学校,そして中学・高校と,それぞれの受験に対応した「受験情報本」がズラッと並んでいる。把握できないほどではないとしても,初めて見る者は選ぶのに困ってしまうくらいある。
奥さんにそそのかされ,自分の娘の小学校受験を考えなくてはならなくなった父親のつもりで,あれこれ受験本を眺め,一冊買うことにした。具体的な学校紹介や願書の書式が収録されたような図鑑形式のものもたくさんあったが,とりあえずは小学校受験にかんする基本的な知識を得るための解説書を購入した。
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仕事でいろんな方々とご一緒するときに,その方々が自分の子どもを事例にした話をすることがある。そういうときには,その内容を凄く注意深く聞いている。具体例が気になるのは確かだが,どちらかというと身近な事例をどの程度の距離感で捉えているのかが気になっていたりする。
ものを考えるときに,あんまりそのものと近すぎると困ってしまうからである。お世話になっている人を批判することが難しいのと同じで,距離は適当に確保しないと割り切りがつかない。
(自分自身のことはどこまでも答えが出ないし,他人とある程度の距離を取ろうとするのは,そんな直感が働いているせいかもしれない。)
この調子なら,当分は独り身で通せると思うが,人生何があるか分からないものである。もし仮に奥さんが出来て,子どもが出来たら,私は自分の子どもの教育問題に直接介入して,実践的に取組まなくてはならないことになる。ただでさえ,教育研究の無力感みたいなものを感じているにもかかわらず,結局私もまた,受験情報本こそ最大の助言者として教えを請うようになるのだろうか。
そこで,少しずつとはいえ,仮想的にそのようなジレンマに陥って,対処方法を考えてみようかと思ったのである。別に受験に役立つ教育学を開発しようというわけではない(でも市場的ニーズはあるかも知れない。家庭での「教え方」みたいな本や雑誌は,相当数出ている。下世話な話,いつかは「家庭教育らくがき」なんてブログをつくって,書籍化ねらいで文章を綴ってみるのもいいかもしれない。印税印税,はっはっはっ,ま無理だろうけど)。
個人的に,教育学や教育研究と学校教育や受験に身をさらす人間として,どう折り合いを付けていくのかを疑似体験しておくのは,悪いことではないと思うのである。
そうすると,結構増えてきた若いお父さんお母さん研究者の人たちと共通の話題で話が出来て,のけ者にされずに済みそうだから(そういう理由かよ,おい)。
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実のところ,日本教育学会でも,こういう表出の仕方ではないけれども,教育の「個人化」による教育学の危機あるいは失敗といった問題意識があちこちに噴出していた。おそらく,それの最たるものが初日の公開シンポジウムだったのではないかと思うが,まあ,それには参加していないので推測に過ぎない。
本来は国家およびその社会の成因としての国民を育成する「社会的な営み」であった教育が,どんどん「個人的な営み」へと変わっていったのは,その国が成熟した証でもある。そして結果的に,そのことが社会の教育基盤を崩しつつあるというのもありがちな近代成熟社会の病といえる。
立て替えとしてか,あるいは補完としてか,e-learningやOCWといった新たな潮流も見え隠れしているものの,それが崩れつつある部分に届いているかといわれると,心許ない。
受験を云々出来るのは,まだ教育基盤が崩れていない層(あるいは領域や地域)でのお話だろう。多くの人々は,受験の声を聞きつつも,ごく普通に公立学校に通うことに関わる人々であり,崩れつつある教育基盤の渦中にいる人たちである。そうした渦の中で,自分の子どもの教育問題を考えるとき,どんな風景が広がっているのか。少しでもその視野を共有できたらと思うのである。