教育」カテゴリーアーカイブ

おかえりなさい

 教育関連の記者でもあったフリーライターの斎藤氏による「教育ニュース観察日記」が2ヶ月ぶりに更新再開。復活始めから教員免許更新制に関する様々な情報を提供してくださっている。さすが取材のプロである。
 どうも文部科学省は,教員養成系大学・学部に対して影響力を強めようとしている印象。「在り方懇」騒動や教員養成GPといった流れの上に,さらなる締め付けをねらっているようにも見える。なんか教育学部っていうと不祥事も多くなってきたからね,そういうことに対する厳しいお灸据えかな。
 教育フォルダのホストサーバーがダウンしている模様。そのうち復旧すると思う。

カリキュラムデザイン-04

 集中講義最終日。今年もあっという間に終わった。ダラダラと講義をし続けるスタイルは,しゃべる方も聴く方も疲れがたまってしまうので,毎日なにかしらワークを取り入れて,物事が構成・構築される楽しさや難しさを体感してもらった。
 外部の非常勤講師が担当する,夏休みの集中講義で,どこか片隅でひっそりと開設されているような枠だから,自由に授業構成させてもらえていると思う。もちろん「お遊びが過ぎる」と眉をひそめられるのかも知れないが,たった4日間の授業が学生達に何かしらの知的インパクトを与えるには,それなりにトリッキーな授業展開があってもよいだろう。その代わり,私が語る教育のお話は,(ここの教育駄文でお馴染みの)それなりにシビアなものである。ときどき自分は若い芽を摘んでいるんじゃないかと不安になるが,それを乗り換える気概をもって教職に望んでほしいと願う。

 1930年代や40年代のカリキュラムデベロップメント運動が,カリキュラムプランニングとカリキュラムデザインに分岐していったという歴史は,カリキュラム研究の幅広さを象徴している。それは「工学的接近」と「羅生門的接近」という言葉にも対応していて,両者の往還をどのように実現していくのかはいまだもって大きな問題である。私もまた,私なりの方法を見つけてこの問題に切り込むことになるのだと思う。
 学生達が現場に立つとき,この大きな問題は,日常の中の教育実践という問題として立ち現れる。そのとき手助けになるものは,ある程度はチェックリストの類かも知れないが,そこのもう一歩奥で,私たち自身の身体性や歴史性が控えていることになるのだと考える。そこへほんの少しだけでもくさびを打つことが出来れば…,私が担当する集中講義「カリキュラムデザイン」はそんな思いに立脚している。
 それが教育者としての私の立場だけれども,研究者としてはあんまりよろしくない考えなのが玉に瑕である。あ〜。

 今年の受講生も頑張って取り組めていたと思う。ただ,反応が控えめな子達が多かったので,授業途中の私の不安は結構大きかった。あんまり面白くなかったかなと反省していると,コメント用紙では「とても面白かった」と書いてあったりする。もう少し丁寧に学生の様子を見ないといけないなぁと思った。
 さてと,今年の出稼ぎもこれで終わり。どこか別の非常勤を加えてやってみるのも悪くないなと思った。それより大学院での研究と次の定職探しを真剣に考えた方がよさそうか。とにかく,再び東京へ。

カリキュラムデザイン-03

 集中講義3日目。今回の集中講義は,新しい要素を入れたこともあって,従来までの内容を絞ったものとなっている。その分,評価規準や指導案の作成について繰り返し触れるようにした。
 しかし,指導案はともかく,評価規準について考えるところまでくると,授業や評価を受けた経験しかない学生達が教師の立場に立って考えることは,なかなか難しい。すでに何かしらの実習経験のある学生もいるが,やはり,どんな風に授業構成すればいいかは,パッとは思いつかないものだ。
 私自身,現場経験があるわけでも無し,学校を訪問する機会に参観する授業やあれこれの文献資料から構成した知識や認識がたまって,ようやく解説しているのだから,その難しさは百も承知である。

 「カリキュラムデザイン」という科目は,「教育課程の意義及び編成の方法」という教職科目にあたる。(この科目名を付けたのは私じゃないが,偶然とはいえ,意義深いこの名が付けられていることに敬意を表する。でも来年度は「カリキュラム論」になるんだって,少し寂しい。まあ,担当依頼があるかどうか,わかんないけど…)
 歴史的経緯や制度的な解説,学術議論の紹介など出来るし,得意とするところだけれど,昨年あたりからは,指導案の作成作業を通して周辺知識を吸収してもらうアプローチをとっている。そのためにも,まずは授業がどんな要素で成立するのかを少しでも感じ取ってもらうために,この講義自体にあれこれ教育技術を取り込まなくてはならない。
 普通の一斉授業はもちろん,グループ活動(ジグソーメソッド)と発表,ハンドアウト,ワークシート,コメント交換,スライド,ビデオ視聴,授業支援システム,メーリングリスト,調べ学習,発問,板書などなど。授業を構成する様々な手段があると知ることで,少しでも指導案へのイメージを膨らませてもらおうという魂胆である。
 毎週の平常講義ならゆっくり一つ一つ意識させながら見せられるが,集中講義の4日間でやると,一つ一つが十分に意識されないかも知れない。そういう弱点はあれど,とにかくやってみせている。
 空手の型を学んでいるようなもので,この授業内容が現場で役立つ実践的指導力の育成につながっているのかどうなのかを問われると,直接性があることを示すのは難しい。空手の実戦で型どおり戦っている人がいないのと同じである。だから現場経験を持つ実践家教員が指導すると,型の破り方を学べることが期待されているのかも知れないが,それも本人が実際に経験しないことには,単なる貼り付け型知識になってしまう点は変らない。まあ,やってみるしかないということか。

 台風は日本海に抜けた。いまは雨が降っている。前途洋々な若い人達の相手をしながら,ふと自分自身を振り返ると,なんて無茶な道のりを歩んでいるのだろうと思うことがある。
 他人には浮気性だと説明した方が分かりやすいのでそういうことにしているが,本当のところそんなんじゃないのだ。納得のいく核心を掴んでみたくて追いかけ追いかけしていたら,こんなところに来てしまったという感じである。けれども,核心という名の青い鳥は,そもそも傍にいたかも知れないわけで…,なんとも寓話的な心境である。
 この集中講義が終わり,お盆前に取組むことになっているワークショップの実践が終わると,ちょっとだけ息がつける(はずである)。春からず〜っと駆け抜けてきて,物事に追いつくのが精一杯の状態が続いた。その上,自分のすべきことが出来ていないのだから悩む。何とかしたい。

カリキュラムデザイン-02

 集中講義2日目。新しい内容を取り込もうと,いろいろ試してみるが,その部分は初めてということもあって据わりの悪い状態になっていたりする。今朝もそういう感じになってしまったので,自分の中では不満足な気持ちを抱いた。
 学生に対してはそれっぽく説明して見せるが,それでも内容の繋がりの荒さは学生の授業理解に如実に反映されるもので,「難しかった」という感想は(昨日とは打って変わって)そういうことなのだと真摯に受け止めなければならない。

 教育評価の代表選手として「絶対評価」「相対評価」「到達度評価」「ポートフォリオ評価」を取り上げて,それぞれの特徴や問題点など解説した。学生達の反応は,私からすると意外だった。比べてみて「相対評価がいい」と表明してくれた学生が少なからずいたのである。
 ご存知のように,平成13年度に小学校などの評定が相対評価から絶対評価に変った。相対評価では各評定に人数配分があって,実際にクラス全員が総じて成績が良くても,評定上は「1」や「2」のつく子ども達が生じてしまう。そのせいで,学期を超えた評定の貸し借りみたいなヘンテコな事態も起こっていた。それを是正するのも含めて絶対評価へと変った経緯がある。
 ところが,学生達の中には「先生が正しく評価してくれるか不安」「客観的に判断するのが難しい」という絶対評価の問題点を理由に「相対評価の方がいい」と考える意見があったのである。とても興味深い反応だった。
 これは絶対評価に変った経緯を知らないというだけでなく,評価の難しさを考えたり感じたりした上での意見なのだろう。評価規準表などの取組みは,この問題を乗り越えるための地道な努力であるが,そのようなものに接して考えれば考えるほど,難しさを痛感するのだと思う。

 それにしても夏の暑さは私たちのスタミナをどんどん奪っていく。使用している教室は新しい校舎にあるのだが,空調システムが中央管理方式になっていて,個別の教室で調節ができない(こういう使い難いシステムを解決するのが技術というものなのに,21世紀になっても何も改善されていない…)。みんな疲れがたまってしまった。
 台風が近づきつつあり天気が心配だが,残り2日間も頑張っていこう。

カリキュラムデザイン-01

 出稼ぎ(?)集中講義「カリキュラムデザイン」が始まる。4日間でわ〜っとカリキュラムのことを勉強したり,指導案をつくってみたりするので,最後みんなで達成感を味わえる。毎年,楽しく授業させてもらっている。
 最初のうちは受講生も20人前後で,夏の暑い最中に講義したり受けたりしなきゃならない者同士,アットホームに授業を展開していたが,年々受講生が増えて,今年は50名になった。嬉しい気もするが,これがなかなか大変である。100名相手のときよりはマシとはいえ,50名の娘達相手は,これ結構エネルギー消耗する。

 扱う内容が毎年大きく変るわけではないので,定番のお話と最新情報の追加を繰り返すぐらい。今年は前日まで受講していた三宅なほみ先生のジグソーメソッドを取り入れて,さっそく授業論の資料を読んでもらう活動をしてみた。
 しかし,普段から文献資料を読んでいる大学院生の授業と,資料なんて読み慣れていない大学生では,やはり反応は異なっていた。「むずかしい〜」らしい。まあ,これくらいの学生達はとりあえず印象論で第一声を発するので,サクッとその反応は無視して^_^;共有活動を続けさせる。早々に飽きて雑談も始まるが,まあ,そういうこともあるでしょ。気にしないで巡回しながら様子をうかがう。
 グループを組み替える段になると,観念したのか,自分ひとりで責任を持って発表する必要があるので,みんな必死に資料を読み直しながら発表。グループによって程度の差はあれ,それぞれの発表を踏まえた議論も始まっていた。
 やはり課題はある程度難しいぐらいでやらせたのは良かったのだと思う。それにバラバラになって一人で説明しなければならないという状況は,全員に主体的な関わりを求めることになる点でよい。ジグソーメソッドのメリットだろう。
 もっとも大学生にはあまりに慣れない活動だったらしく,私たちが感じた「あっという間の時間経過」については誰一人として感想がなかった。シャッフルして普段話せない人達と話せたことなどに好感した人が多かった。

 名古屋に置いてあったプリンタが故障していたらしく,印刷できないというトラブルに見舞われて,明日以降もどうしようかと悩み中。ずっと未使用だったのがいけなかったのかも知れない。ああ,予想外。
 大学の先生として教える唯一残されたお仕事なので,この4日間は全力疾走である。もっとも,この集中講義も担当させてもらえるのは今年で最後かも知れない。毎年この時期にはある来年度の継続の問い合わせがまだないし,あちこち専任教員で担当するような風潮にもなってきたから,そろそろ…。悔いの無いように頑張ろうと思う。

子どもとセキュリティ

 ITproの週末スペシャル「学校裏サイト,ワンクリック詐欺 — 子どもとネットセキュリティの問題を考える」は,改めて子どもを取り巻くネット環境について考えるのによい材料となるように思う。
 情報モラルやケータイモラル教育の必要性だとか,親や企業の責任だとか,日本の先進性だとか,いろいろ論者によって切り口様々だが,あらためてこの時代の教育が背負い込んだ厄介さにため息をつかざるを得ない。

じゃぶじゃぶデジカメ活用

20070726_digicame夏は教員研修の季節である。私もご縁があってセミナーをお手伝いする。今回は「これならできる!普段着の活用 〜じゃぶじゃぶ使おう デジカメ活用術〜」でデジカメのうんちくを担当した。
 教育関係者には,デジカメマニアのごとく,とてもデジカメに詳しい人達が多い。また,もともと銀塩カメラの時代から写真に凝っていたという人達も少なくない。
 一方で,デジカメがまったく分からないという人々は当然いるし,学校現場での活用となると,実際はどうすればよいのか迷う人達もたくさん居る。
 そういう方々に,あらためてデジカメってどんなもの?というレベルからご紹介するのが私の役目。もっともデジカメは細かいうんちくを掘り返せば一日中でも語れるだけに,どの辺の基礎までを扱うべきかは悩ましかった。なにしろデジカメ一つでNHK趣味講座が出来上がるほどである。それを10分で扱うとなると駆け足にならざるを得なかった。
 ただ,現場の先生方が発表する活用実践事例を合わせて聞くと,なんだか自分でも授業でデジカメを使いたくなる気持ちが持てる良い催しだったと思う。またデジカメについて話す機会があれば,今度はじっくりと語ってみたい。

BBC Jamが一時停止

 3月にはそうなっていたのにいままで気がつかなかった…。英国のBBCが提供していたオンラインのインタラクティブ学習サービスである「BBC Jam」が3月から一時停止をしていた。
 どうもBBCの事業見直しの過程で,BBC Jamも議論の対象になったようだ。詳細を理解している暇がないので,勝手な想像なのだが,BBC Jamの事業における透明性か,学習サービスの無料提供が民間に与える不利益かについて疑問が呈されたのかも知れない。
 国営放送としての難しい立場といったところなのだろうか。日本の公共放送も難しい立場に立たされているのは似てるのかも知れない。テレビの時代が終わるというのは,こういう難しさが表出していることからも,本当のことなのかも知れない。

けしからん

 広田照幸氏がインターネットに登場。こうした論考や記事が少しずつとはいえオンラインで読める時代がやってきたのだなぁと感慨深い。「いまさら遅いっ!けしからん!」と言わず,気鋭の先生方のお話を聴きますか。
NB online「広田教授の教育も,教育改革もけしからん
 ちなみに,苅谷剛彦氏のコラムも別のところで連載中である。
webちくま「この国の教育にいま,起きていること
 情報教育の分野に強い堀田達也氏のインタビュー記事も最近公開された。
ニコニコ45分「堀田先生インタビュー

 毎日新聞社の「教育」記事ページは,いろんなコラムや連載記事が読めるので人気があるが,この秋にマイクロソフトとの提携が解消される様子。新しいサイトに刷新される可能性が強い。
 過去の記事は,そのまま移行して読めると予想しているが,何があるのかわからないのがインターネットの世界。情報はいとも簡単に消失するので,保存しておきたい記事は,今のうち確認しておこう。

道徳ってなんだ?

 情報モラルに関する議論を考えるとき,対である日常モラルについても考えるべきなのだが,これを閑却してしまうことが多い。つまり道徳の授業をイメージして,了解したような感覚に浸って済ましてしまうのだ。
 Yahoo!ニュースの意識調査「日本の教育が最初に取り戻すべきものは?」は,誰が答えているのか母集団がわからないという欠点はあるものの,世間の考えの一端を覗ける。学力やゆとり,教師の指導力などの選択肢の中,現時点で一位は「道徳」だという。
 道徳を取り戻す?それはなんだろう。

 このような意識調査アンケートで「道徳」を選んだ人たちの心理を想像してみると,いつの世にも嘆かわしく取り上げられるモラル低下や一般常識に対する無知,人々の横暴さに対する懸念を抱いているのではないか。
 しかし,こういうものは日本の教育が取り戻すべきものなのか?と改めて問われたら,私はその具体的な取り戻し方や戻したときの様子を想像し難い。今以上に道徳的な教育とは何なのだろう。

 たぶん人々が求めているのは,「道徳」的であるというよりも「謙虚」であることみたいなものではないだろうか。他者の尊重は,道徳のお題目の一つではあるが,それを意識的にも無意識的にも実践できるようになるには,どうしたらよいだろう。まさか,従来の道徳授業を拡充したり,なんとかノートの配布で事足りると思っている人はいまい。
 直接的な解答にはならないかもしれないが,「道徳」をいったん捨てる必要があるかもしれない。そのかわりに「哲学」を深めてみてはどうだろう。物事に対する畏敬の念や自己への懐疑などは,日本の教育で暗黙に学ぶような事柄であった。それを哲学という形式知として触れさせてみるなら,教育に繰り込む方法は見えやすい。

 そうなったらなったで,教育に取り戻すべきものは?という問いに対して「教師の指導力」と答えたくなる衝動は,ますます増えていくということになるかもしれない。
 教師の指導力ってなんだ?そういう安易なキーワードに対する問い掛けができるかどうか。それが哲学だし,やはりこの国には,そういう素養を深める動きがまだ弱い。