実家で取っている朝日新聞夕刊に「ゼロ・トレランス」をテーマとした3人の見識者私論が掲載された。リンクからウィキペディアの解説をご覧になれば概要が掴めると思うが,要するに徹底した管理と規則違反に対する懲罰の姿勢を貫くことを基本とした指導方式のことである。ドラマ「女王の教室」の風景は,戯画化したゼロトレランス方式の模様なのかも知れない。もちろん冗談である。
教員組織が意識を共有したうえで一体となり,首尾一貫した指導方針に則って足並みをそろえるということが,今のご時世難しくなっている。それを上意下達によって蘇らせようとした試みを「ゼロ・トレランス方式」と呼ぶわけだが,銃や麻薬に蝕まれる危機に直面しているアメリカで試みられたそれを,日本の文脈に引き寄せたとき,また受け入れられ方も異なるのだろう。
「頑固じじいや業突ばばあがいなくなったことが世間の秩序を乱した」と唄ったのはさだまさしだったが,価値観を相対化したり多様化するのに長けていること自体は誇ってもよいことだと思う。ところが,その広がりに追いつくどころか,すっかり取り残されてしまったのが少し前の日本の学校だったし,おかげで同時代に対峙できる教育指導の理念を現場で醸成させる機会を逸してしまったのであるから,いまや宿題の分量を決めるのにも保護者の顔色をうかがう始末だ。親の方が教師に対してよっぽど「ゼロ・トレランス(不寛容)」なのである。
さてと,なんだかんだと名古屋に長居している。ダンボール6箱の書籍を郵便局まで運んで,東京に送る。本ばっかりに頼っても仕方ないが,本に拠らないのも困った話で,少なくとも独り者の話し相手としては必要不可欠なのである。明日戻ろう。
「教育」カテゴリーアーカイブ
ことだま by 栗原一貴さん
6月14日,東京大学大学総合教育研究センター主催のシンポジウムに出席した。センター10周年記念と,マイクロソフト先進教育環境寄附研究部門(MEET)の開設を記念したものだった。
「大学教育の情報化,そのフロントライン」と題されたシンポジウムは,大学教育のIT化やタブレットPCを活用した教育の取り組みといった最新の事例が紹介され,大変刺激的なものであった。間もなく毎日新聞Webなどで当日の様子も紹介されると思うが,もっとこうした内容が広く知られて欲しいと思う。
この日,とても素晴らしいソフトと出会った。東京大学大学院で様々な画像処理ソフトを研究開発されている五十嵐健夫氏と栗原一貴氏の研究成果である。特に栗原さんの「ことだま」というソフトウェアは,学校の教室でパソコン画面を模造紙かホワイトボードとして扱えるシンプルなソフトウェアである。非常にいろいろなバージョンがあるみたいだが,千葉県総合教育センターとの共同研究の一環として「ことだまレクチャー」という名でソフトが公開されている。
正式には「ペンベースプレゼンテーションソフト」なのだそうだが,様々に詰め込んだ機能が,教育現場での実地使用でことごとく却下されて,非常に絞られた機能が残ったのだという。このソフトがユニークなのは,スライドの一枚一枚を「視点」の位置や構図として捉える点にある。つまり巨大な模造紙の上に必要な絵や文字を適当に貼り付けて,その部分部分を拡大したり視点を変えたりして構図決めて写真を撮るように切り出したものがスライドになっていく感じなのだ。そのことによって,パワーポイントのような一枚一枚が完結したスライドを順番に見せていくという構造とは異なり,広大な模造紙領域を自在に活用できる余地が編集時にも発表時にも生まれるというメリットがある。これを「スマートスライド」と名付けていた。
もちろんこのソフトの特徴はそれだけではなくて,その描画システムとか,ナビゲーションのシステムとか,栗原さんと五十嵐さんの研究成果がふんだんに活かされている。インターネットエクスプローラーで閲覧している画面から,ドラッグアンドドロップで画像を貼り付けて,自由にペンで書き込みが出来たりするだけでも魅力的である。本来はパワーポイント・ファイルの読み込み機能などもあるらしいのだが,権利の関係上省かれているらしい。その辺はちょっと残念だが,今後商品化されれば必需品ソフトの一本になるかも知れない。ちなみにWindowsソフト。模造紙みたいに使えるシンプルなソフトをお捜しの皆さんは,ぜひお試しあれ。
諸外国からのイメージ
ニューヨークタイムズWebの教育欄をダラァ〜と眺めていたら,日本発の記事があった。「Japan’s Conservatives Push Prewar ‘Virtues’ in Schools」という見出し。「学校で戦前の徳目を推す日本の保守」といった意味である。
内容は東京杉並区で始まった教員養成塾「杉並師範館」の様子を書き出しに,日本の教育基本法改正の議論や東京都の動き,教科書採択などを通して日本の教育行政動向を紹介している。
こういう記事が世界的に読まれて,日本の教育というのがどんな風に思われるのか,ちょっと気にかかる。「戦前戦後(prewar/postwar)」というキーワードが飛び出してくるあたり,日本の教育界って教育的取り組みよりも政治思想が好きなんだと思われているのかどうなのか。Web記事についている写真がまたそういう雰囲気を醸し出しているから不思議だ。
イメージという点でいうなら,文部科学省の立ち位置も見方によってはかなり変わってしまう。義務教育費国庫負担金削減の問題でいえば,それを維持しようとする文科省は「現場への影響力保持」とか「官僚の既得権益確保」にこだわっているように描かれるのがマスコミ報道の常であったし,世論にもそういう見方は多い。ところが,『世界』7月号に苅谷剛彦氏が書いている全体構図のようなものを考えていくと,文科省はこれまで整備してきた「学校教育の条件」を死守しようとかなり頑張ってくれていると見えなくもないのである。慣れてない上に切り札もない状態で政治的駆け引きの場に突然引き込まれてしまった文科省について,その要領の悪さに落胆はするけれども,一方では同情したくなってしまう。
いまのところ,日本の教育に関する確固としたシナリオはどこにも存在していないように思う。それだけに現状がどうなのか,今後どうなるのかについて,確かなものを伝えることが困難である。だから,NYT記事のようなものが諸外国に紹介されると,それは一つのシーンを描いたものとして全く間違いではないのだけれど,それが日本の教育界全体のトーンというわけでもないと思うのである。そこのところが,ちょっと気になってしまった。
NEW EDUCATION EXPO 2006
東京臨海副都心(つまりお台場)にある東京ファッションタウンビルで行なわれた「NEW EDUCATION EXPO 2006 in 東京」に出かけた。これまでも東京や大阪や名古屋で行なわれていたが,いつも都合が悪かったので,今回初参加である。
会期が3日もあるし,どのセミナーも関心があるのだが,さすがに全日出席するのは大変。というわけで,2日目の基調講演を目当てに出かけることにした。午前中は企業各社の展示を軽く眺めてみた。人が少なかったこともあって,あちこちからパンフレットを差し出されて大変である。あのね,売り込みたい気持ちは伝わってくるのだけど,ゆっくり眺める余裕を与えないと素通りされることも理解しようね。ずらっと並んでいる説明員の視線を浴び続けるこちらは,思った以上に気恥ずかしいのだから。
EXPOという名前から,私なんかはだだっ広い場所を想像していたのだが,実際にはわりとコンパクトにまとまった会場だった。もちろんそれでもこうした催事としては規模の大きい方だと思うけれど。
午後になれば会場はかなり賑やかになってくる。スーツ姿が多いが,カジュアルなクールビズ風の人たちもいる。スーツの場合,靴下の色が白ならば教育関係者,黒系ならば企業か行政関係者が多いということも見えてくる。夕方あたりになると若い世代のラフな格好の入場者もちらほら見かけた。
今回,次の講演を聴くことが出来た。
山西潤一氏 「これからの「教育の情報化」に必要なこと」
坂元昂氏 「世界の「教育の情報化」緊急レポート」
鳥居泰彦氏 「世界と日本の教育改革」
山西先生は日本教育工学協会の会長で,2005年までの取り組みとポスト2005における課題を丁寧に解説された。目新しい内容とはいえないとしても,地道に説いていかなければならない部分の話だったと思う。山日先生曰く,教育の情報化という目標達成のために私たちは「授業モデルの蓄積と共有」「発達段階に合わせた能力形成プログラムの開発」「校務処理の改善意識」に取り組んでいかなければならない。思うに,これは教育の基本に徹するということであり,新しい時代にふさわしい教育の姿を再考しようということなのだろう。
日本教育工学振興会会長の坂元先生は面白かった。実は,動く坂元先生を初めて見たのである。流行りの映画を見ていないと同じ調子で,なかなか遭遇する機会がなかったのだが,今回初めて講演をお聞きして,その人柄の面白さにすっかりやられてしまった。なるほど,大物は独特なウィットをお持ちである。その一方で,なるほど日本の教育工学界隈が行政に対して強引さが無いのは,皆さんお上品だからだなとあらためて理解した次第である。つまり,地方の議員や公務員の人たちに坂元先生たちみたいな人たちが口にする上品かつ痛烈な皮肉が理解できないか通じないんだなということである。
坂元先生の講演は,英国やアメリカの話を中心として,諸外国の情報化の前進ぶりを報告して,いかに日本の情報化が足踏みしているかを浮き彫りにしていた。けれども決して「日本が遅れている」と先生は言わないのである。そして最後に日本の取り組みを紹介して,「世界中を学校に」という学校概念の変革の夢を描いたあと,「やりゃできる」と聴衆を激励するのである。終始明るい口調で,海外の事例を嬉々として紹介されている様子から,日本の現状を嘆くとかの空気は全く感じられない。
けれども,講演の内容をよくよく考えてみると,「興味深い講演でした」と他人事のように言えない。なにしろ「お金も力もあるのに,やってないのはあなた達ですよ」と坂元先生は問いかけているのである。ああ…。
鳥居先生は,中央教育審議会の会長。日本の教育改革について,その中心にいる人物である。講演の内容は,世界の教育行政の動向を紹介して,義務教育費国庫負担の顛末,教育基本法改正に関する本当の争点など。これも他人事では済まないのだが,興味深いないようであった。長くなりそうだからあらためて書こう。
TOEFL
TOEFLを受験することにした。TOEFLといえば留学予定者が受験することで有名な英語試験のことである。長らくその名は聞いていたものの,縁遠きものとして追いやっていたが,とうとう取り組む時期がきたとは…。
毎度,何の準備もしないで「ぶっつけ本番」というのが我ながら呆れるが,思い立ったものは仕様がない。試験について調べて,申し込みをし,受験勉強をしている次第である。ちょっと泣きそうである。
TOEFLは世界のあちこちで受験できる。そして時代に沿うように試験方式や内容も進化し多様化している。それを象徴するのが,ペーパーテスト(PBT),コンピュータテスト(CBT)という2つの試験方法だ。いまや指定の試験会場に設置されているコンピュータの画面上で試験を受験するコンピュータテスト方式が主流だが,世界の様々な条件に対応するためにペーパーテスト方式も残されている。この2つは方式だけでなく点数計算法も異なるのだが,比較のための換算方法があるといった風なのである。
で,実はTOEFLはここ数年でさらに進化をしており,次世代コンピュータテスト(iBT)というものへ移行している。次世代方式では,スピーキングの試験が新たに導入されるとして注目を集めている。試験実施国によってiBTへの移行時期は異なるが,いよいよ日本も2006年6月に開始するようだ。
って,来月じゃんか,おい。ということは今月でCBTが終わって,来月からはiBTしか受験できないということになる。なんか「共通一次試験」から「センター試験」に変わるみたいな話だが(なつかし〜),TOEFLの変化は大きい。
受験手続き自体はとても簡単。コンピュータテスト会場施設は大都市に用意されている(でも名古屋にはなかった)ので,最寄りの会場の試験日程の中から都合のよい日を予約すればいい。そのままクレジットカード決済で試験の申し込み手続きが完了する。140ドル也。試験日程は,ほぼ毎日。さすがは世界規模で多数の受験者をさばく試験である。ただし,同じ人は毎月1回ずつしか受験できない。同月内に複数回の受験は認められていない。
ちなみに,ペーパーテストはあらかじめ日程が決まっているので確認する必要がある。もっとも,余程の理由がない限りは,コンピュータテストで受験するのが当たり前になっているようだ。
申し込みの簡便さの一方で,試験の内容はなかなか手強い。4時間の試験時間に,「リスニング」「文法」「英作文」「英文読解」の問題をこなす。iBTになると文法が「スピーキング」に置き換わる(文法は英作文などでカバーする)。ほぼ満遍なく英語の力が試されるということになる。それから出題形式に慣れる必要があるだろう。初めての人は,そういうところにも気をつける必要がある。なにしろ時間制限内に,コンピュータ操作を求められるのだから,使い方に勘違いがあると点数にも響く。なにしろ問題進行は一方通行がほとんど。後戻りで修正が難しい。
たぶん,目も当てられない点数になろうかとは思うが,新たな試みはまだまだ続く。
公立塾
ちょっとびっくりなニュースが読売新聞Webから。「文科相、無料“公立塾”を正式表明」だという。この「正式に表明」という文言は,本当のことなのか,それとも読売新聞らしい,いつものつんのめり報道表現によるものなのか。
格差に関して敏感に反応した結果と好意的に受け止めるとしても,この捻れた取り組みは,また物議を醸しそうだ。
教育基本法改正案の性急さ
最近,勉強してないから教育関連の駄文を書くのが滞っているというのもあるが,もう一つは,教育を語ると浅はかな政治の話にすぐさま直結してしまうので,うんざりした気分になるからだ。
私がぶらぶらしていた,その同じ東京で,議論らしきものを進めて教育基本法を改正する段取りをつけた政治家達がいる。改正案の中身に関する議論の不十分さもさることながら,相変わらずプロセスが身勝手で,これが国民的な議論の結果だというなら「嘘つき」と緒川たまきに言ってもらいたいからなのかと邪推したくもなる。
現行法は前文と11の条項から構成されている。確かに長い年月が経っているし,この時代に照らしてみれば違和感もあるかも知れない。あらためてどんな条項が並んでいるのか駆け足で確認しよう。
[現行法]
前文
第一条 教育の目的
第二条 教育の方針
第三条 教育の機会均等
第四条 義務教育
第五条 男女共学
第六条 学校教育
第七条 社会教育
第八条 政治教育
第九条 宗教教育
第一〇条 教育行政
第一一条 補則
以上が現行の教育基本法である。さて,では先頃与党で最終報告されたとされる教育基本法の改正案はどうだろう。毎日インタラクティブの記事によると前文と18の条項から成っているようだ。
[改正案]
前文
第一条 教育の目的
第二条 教育の目標
第三条 生涯学習の理念
第四条 教育の機会均等
第五条 義務教育
第六条 学校教育
第七条 大学
第八条 私立学校
第九条 教員
第一〇条 家庭教育
第一一条 幼児期の教育
第一二条 社会教育
第一三条 学校,家庭及び地域住民等の相互の連携協力
第一四条 政治教育
第一五条 宗教教育
第一六条 教育行政
第一七条 教育振興基本計画
第一八条 補則
以上が改正案の概要である。もちろん現行法も改正案も,各条項に複数の条文が含まれている。なんか改正案は,現行法をいじろうとして結果的には付け加えることしかできなかった下手な改変に見える。中日新聞(東京新聞)は『国家の品格』の著者である藤原正彦氏に取材し,「下手な文章」と言わせている(該当記事)。
つくづくこういう,教育の見本にならないようなプロセスやレベルで国を動かさないでいただきたいと思う。こんな政治家達がいる国を思えと訴えること自体説得力に欠けるし,まして愛せよと傲慢かませるあなた達の精神構造をどうにかしていただきたい。百歩譲って,これに関わる政治家達のみなぎる愛国心がなせる技だと認めたとしても,そしてそれを寛大に受け止めるとしても,条項の数や順序をもっと見直そうとするセンスを持ち合わせていないことに幻滅する。作家でなくても,もう少し義務教育で習う程度の国語力を発揮してくれれば,ちぐはぐな順序に違和感を感じるはずだ。そこからしてダメ。
ちょっとばかり内容を吟味すると,「教育の機会均等」の条項と「教育行政」や「教育振興基本計画」の条項との間で矛盾が生じる余地を残している。いろいろ付け加えすぎて,のちのちに問題を生みやすくなったわけだ。
消費は教育を豊かにできるのか
教育界隈では,教員の資質向上が最も注目を集めているのかも知れないが,一般社会では家庭教育を市場のトレンドとして持ち出そうとしている。一番わかりやすい兆候は家庭教育関係の雑誌が立て続けに創刊されていることである。
小学館『エデュー』は試行期間を経て,とうとう月刊化した。『日経Kids+』も順調のようだ。朝日新聞社も触手を伸ばし始めたようで,いつものようにAERAの臨時増刊の形で『AERA with Kids』を発売した。
この辺の雑誌は,教育らくがき書庫であらためて比較分析するとして,この動きをどう考えたらいいだろう。一つには,子育て・マタニティという先行モデルの後追いであると考えることもできる。すでに赤ちゃんや幼児の教育に関する雑誌の方は満開状態で,マタニティ市場との連動を前提として一つの世界を成り立たせている。そうした乳・幼児の子育てを経た親が次の段階として継続して読む雑誌を用意するのは自然な発想であるし,そのことによって先行モデルを継承することが意図されている。
二つ目には,気がつけばそのようなセグメントの情報提供手段がすっぽり空いていて,かつニーズが高まってきたこと。義務教育段階の子ども達に関する情報を定期的に得る手段は従来までほとんどなかった。学校の出来事は子どもや保護者同士のネットワークから得るのが大半だったろうし,塾に関することも地域の評判がメインである。学習指導要領が変わるとか,日本の学力が低下しているとかの情報は,テレビや新聞で取り上げられるのを聞くだけ。子ども達を取り巻く環境がどうなっているのかを考えたりするメディアはありそうでなかったのである。しかし,公立学校の危機とか,子ども絡みの事件も多発し,子どもの教育や生活という問題は,注目すべき主題となった。それを扱うメディアのニーズも高まってきたのである。
その他にも,「親」の世代交代といった変化も絡むし,それゆえライフスタイルを気にするベースができてLOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability)というものへの注目も無関係ではない。そうやって考えていくと新雑誌たちが詰め込む情報はバラエティに富むといえそうだ。
宗教的なベースによって安心感を得られたり,教育の在り方を考えることができる諸外国とは違って,日本はどこか曖昧だ。教育基本法の改正話を再びぶり返そうとする動きもあるようだが,結局何も議論できていないし,それが人々の意識のベースになり得るとも思えない。すると,日本人にとっては消費に結びつくムーブメントによって物事を進めていった方が性に合っているということなのだろうか。消費やマーケティングによって感動さえも演出できるご時世である。教育を「サービス」と言わずに「ニーズを満たすもの」に仕立て上げられるとすれば,日本にいる私たちはそれ以上の何を求めるのだろうか。
IT活用による学力向上の証し・研究発表フォーラム
文部科学省の「教育の情報化強化月間」に絡むイベント第一弾として,文部科学省委託事業である「IT活用による学力向上の証し」という検証研究の発表フォーラムがお台場の東京国際交流会館で行なわれた。
「教育の情報化」の目標達成が遅々として進まない現状は,地方における財政がIT環境整備に振り向けられていないことが大きな原因となっている。文部科学省を始めとした国側は,「e-Japan戦略」等に基づいて,学校現場へのIT環境整備を予算的にも補助し推進してきている。にもかかわらずこのような目標達成からほど遠い実態であるのは,財政的な問題に留まらず,地方行政におけるこうした施策への認識の程度が十分でない(地方によって格差がある)ためだと考えられている。
つまり教育の情報化にお金を振り向けさせるためには,財政当局が納得する(もしくは財政当局を何らかの形で説得する)努力が必要であり,そのための説得材料が必要だということである。
これまでもIT活用に関する有用性は様々な実践報告や研究で明らかにされている。しかし,こうした単発の研究成果,あるいは先進校に限定された事例だけでは,全ての学校で環境を整備するための説得材料として乏しいらしいのである。
そこで文部科学省がNIME(メディア教育開発センター)という独立行政法人に,「なんとか説得材料として使える分厚い検証研究結果を用意できないか」という依頼が投げられたようなのである。その委託研究事業のとりあえずの成果を発表するのが今回のフォーラムというわけだ。(毎日インタラクティブWeb記事はこちら)
(つづきは本家に書いちゃった)
教育の情報化 強化月間
3月。2005年度も最終月というわけだが,教育界で2005年度までにしなければならなかった大きなトピックスは「教育の情報化」であった。国の「e-Japan戦略」とも連動して目標が掲げられたはずだが,その達成率は芳しくない。
そんなこともあって「教育の情報化強化月間」というキャンペーンが3月1日〜31日まで展開する。なんか思うに,こういう事を最後の一ヶ月で一気に展開しようとするあたりが,日本人の年度末に道路工事する習性とお祭り好きという特性に合致しているのかな。
明日からこのキャンペーンがらみの催し物も始まる。「IT活用による学力向上の証し」は,もう申し込みいっぱいになって急遽副会場もできたらしい。私も参加する予定。迷わず行けるかな。