私が学校という空間でパソコンに触れたのは,中学校のマイコンクラブだった。それは1984年頃のこと。そういえば日本教育工学会もそれくらいに設立である。
能天気な中学生にとって,臨時教育審議会なるものが行なわれて「情報化への対応」なるものが答申されたことなど無関係な世界ではあったが,断片的に伝わってくる「コンピュータ教育萌芽」の息吹は,憧れとして心に焼き付くことになった。
国が教育用コンピュータなどのハードウェア整備に予算を出し始めた頃は,ちょうど高校生から大学受験,浪人などして慌ただしく,その後,教育用ソフトウェアなどの予算が出されていた時には教育学部生としてのほほんと日常を過ごしていたので,国の動きなんてほとんど知らずに生きた。
残念ながら私の被教育経験の中にパソコンが活用されたことはほとんどない。パソコン関連の知識はすべて自学であったし,難しいことは専門家が昔から考えてくれているだろうと信じていた。まして,昔で言うノンポリ大学生に国の仕組みや政治・行政が分かるわけなかった。
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てっきりコンピュータ教育も専門家が考えてくれていて,私は不幸にも触れられなかったけれど,すぐ後の後輩たちは恵まれたコンピュータ教育を受けられる世の中になるのだと素朴に思っていた。
インテリジェントスクール,100校プロジェクト,こねっとプランだとかの名前が聞こえてくると,私のあずかり知らぬところで着実に物事は進展しているのだと信じないわけにはいかなかった。
けれども,その後少しずつ分かってきたことは,私が見ている限りのこと以外には何も起こってはいなかったということであった。
古い文献資料を掘り起こしていくと,たくさんの言説が豊かに広がっていて,まるで教育全体が情報化による豊かな学びの創造に賛同し,着実に変革が進もうとしているように思えるのであるが,残念ながら現実には少ないパソコン教室でたまに行う特別な授業といった状況は今も続いている。
四半世紀が過ぎて,新しい道具を取り入れることにまだ四苦八苦している。
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何のご縁か,総務省と文部科学省の事業に関わる立場に立った。学校現場近くで見守るだけの仕事だ。願わくは自分が見てきた現実をもっと前進させることにお役に立ちたいと思うのだが,この立場に立ってみて初めて見えてくる難しい事情もある。
とはいえ,私が関わる事業を今どこかで四半世紀前の私と同じまなざしで見ている後輩がいると思うと,もっと頑張らなければならないかなと思う。
後輩が四半世紀後に「いまだ新しい道具を取り入れるのに四苦八苦している」と繰り返して書くことがないように物事がもっと進むよう発言していこうと思う。