明日(27日),民間の「デジタル教科書教材協議会」が設立され,そのシンポジウムが開催される。有力者や有識者が集う教育の情報化推進の動きだけに,これまでのものとは注目度が違う。
これと連動するように「みんなのデジタル教科書教育研究会」という有志による会も結成され,こうした動きに関心のある人々同士で垣根のない情報交換する活動を展開し始めている。
明後日(28日)には,文部科学省「学校教育の情報化に関する懇談会」の第8回が開催され,先に示された「教育の情報化ビジョン骨子(案)」に関する討議を行なう予定である。
その他にも,総務省の動きやIT戦略本部の新IT戦略などが平行している。
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電子書籍やデジタル教科書の動向について自分なりに追いかけてきた私にしてみると,こうした動きは歓迎すべき側面と憂慮すべき側面の両方があって,注意しながら様子を見ている。
気になったり,考えていることは,次のようなことである。
・これまでの教育の情報化に関する取り組みの到達点と残した課題についての整理がないか,少なくとも共有されないまま議論がスタートしている。(先行事例との継続性の無さ)
・校務の情報化や学習の情報化などの取り組みに優先順位を付けて,取り組みやすいところから順次目標達成していくべきなのに,児童生徒による活用や学力向上目的の利用というハードルの高いところに注力して足踏みをしてきたことを忘れて,児童生徒用のデジタル教科書を優先して考えている。(優勢順位付けの無さ)
・今後ますます,地方の教育行政のあり方が,学校教育に光としても影としても差してくる。問題は,地方の現状と展望に照らして,いかなる学校教育および教育の情報化を具現化するかであり,それを可能にする国家的な施策とは何かを明らかにしなければならないがビジョン素案にはそうした視点が欠けている。(国と地方との乖離)
・デジタル教科書のハードウェア要件を絞り込むといった議論は,「デジタル教科書問題」という全体テーマのイメージを共有する手段として意義はあるが,現実的には意味がないこと。(ミスディレクション効果)
・道具や教材教具はまず提供されてから善し悪しを磨き上げていくものであり,こうも事前に盛り上がるのは,端的に教育的な理由以外の要素が多く混在しているからである。こうした複雑な問題を見通すための情報提供が少ない。(議論吟味のための情報の無さ)
etc…
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日本の学校教育は,日本自体が世界の中で相対的に沈下していくのに引っ張られる形で沈んでいるのだと思う。しかも国内で地域間格差が生じながら。
デジタル教科書は,学習指導要領や検定教科書によって保たれてきた全国一律の教育水準と機会提供という看板を降ろしたところで本格的に普及していく教育・学習のツールになると考えられる。
それはつまり,地域(とそこでの教育)にとってICTや情報化とは何かがはっきりしてこなければならないこととも関連している。
もちろん,デジタル教科書を推進する理由の一つには,経済活性化のために文教市場をもっと拓きたいという人々の思惑もある。それがナショナルブランドやメーカーによって占められるものか,地方の商業にも果実を落とすことになるのかはデザイン次第だ。
いずれにしても地域にとって何かしらのメリットをもたらさない限りは,デジタル教科書も教育の情報化も,学校教育に根付いていかないだろう。それが結局は,日本国民をさらに世界から取り残す結果を招くことにもなる。
日本人は何をとるのか,その具体的到達目標が明確にされないまま,とりあえず21世紀の学びは大事ねという曖昧な総論賛成状態では,また十年後にリセット状態から教育の情報化を議論することになるのだろう。
デジタル教科書議論が,お互いの腹を割って,教育のため,商売のため,地方のため,政局のためという構成要素を明らかにしながら,それでもなお,共通のプラットフォームで議論する努力のもと展開していくことを願う。