Web2.0のセミナーに参加したもんだから,ちょっとWeb2.0サービス馬鹿になってみている。いろんなサービスがある中で,今回紹介したいと思ったのは,Webベースのオフィススイート「Zoho」。それもこのたびプレゼンテーションのサービスがリリースされたというのでさわってみた。
初めての皆さんに「Webベースのオフィススイート」というのが何かを説明しておこう。パソコンを使って何か仕事をするという場合,パソコンにワープロソフトや表計算ソフトというものを購入して(もしくは最初から用意されていて),このソフトを使いこなすことが必要だった。その事務用ソフトで一番有名なのが「マイクロソフトオフィス」というセットで,ワープロと表計算とスライドまたデータベースなどに使うソフトがまとめられている。このような事務用ソフトのセットを「オフィススイート」と呼んでいる。
それで,今まではCDやDVDの形で販売されていたソフトを導入して使用するというスタイルが一般的だったのだが,インターネットが普及するとネットでソフトを提供しようという事になってきた。「オンラインソフト」とか「フリーソフト」とか呼ばれるものがそれで,無料で使える場合が多いので導入事例も増えてきた。この場合のオフィススイートで有名なのが「オープン・オフィス.org」というセットである。マイクロソフトオフィスと同程度のものが無料で手にはいるのだ。
しかし,これは単に配付手段がCDやDVDからインターネットに変わっただけ。Web2.0の世界は,インターネットというネットワークの特性をソフトそのものに活かそうとする試みをする。
それはソフトを入手して導入するという手間を省き,すべてをWebブラウザー(閲覧ソフト)の画面の中で済ませてしまおうという試みなのである。ソフトそのものはインターネット上に存在し,作成したファイルを保存する場所もインターネット上。こうすることで,Webブラウザの動くパソコンならどのパソコンでも,登録した会員IDとパスワードを入力することで,いつものソフトとファイルを編集することができるのである。
少しイメージしにくいかも知れないが,こんな風にインターネットに接続されている状態で使用するソフトのことを「webアプリケーション(またはwebサービス)」などと呼び,webアプリケーションで提供されているオフィススイートの一つが「Zoho」というソフトなのである。もちろんこれ以外にもgoogleなどが同じようなwebアプリケーションを提供している(WritelyとかGoogle Spreadsheetとか)。
さて,ソフトやファイルがインターネット上にあるって,一体どんなメリットがあるんだろうか。それにそういうwebアプリケーションって,いままでのソフトと同じように使えるのだろうか。
実のところ,ワープロとか表計算とかではそれほどメリットを享受するとも思えない。私たちの職場環境は,ローカルネットワークが用意されているだろうし,ワープロ文書も表ファイルもファイルサーバ経由で共有すれば済むことである。わざわざwebアプリケーションに切り替えて使う必然性が薄い。
ところが,インターネット上にファイルを保存し,誰か不特定多数と共有することがとても必要になるソフトがある。それはプレゼンテーションソフトだ。発表スライドを不特定の聴衆に配付したり閲覧してもらう場合には,インターネット上に保存して公開できれば都合がいい。とはいえ,これまでだと,発表用のスライドファイルをどこかのサーバーにアップして,そのURLを知らせて…なんていう手間が厄介だった。スライドに修正が入った場合には厄介を繰り返すことになる。
しかしプレゼンテーションソフトがwebアプリケーションとしてインターネット上で使え,それをファイル保存したら公開されるようにすれば,スライド内容を簡単に共有できるようになる。これは嬉しいかも知れない。
学会発表の会場がインターネット接続を確保するか,自分でPHS使って接続確保すれば,発表に使用できるし,まして聴衆側も同じスライドをその場で共有できる(パソコン持ってりゃの話だけど)。これがうまくいけば,当日スライドを紙に印刷する量も減らせるだろうし,スクリーンをデジタルカメラで撮影する滑稽な自分ともお別れできるじゃないか。
というわけで,「Zoho Show」という新しいプレゼンテーションwebアプリケーションが登場したようなので,試してみてもいいかも。幸い,ちゃんと日本語表示できるようだし。派手なアニメーションはないとしても本来プレゼンはパラパラアニメなのだ。枚数で頑張ろう。あとは中身だな,うん。
投稿者「rin」のアーカイブ
Web2.0で創る
BEATセミナーに参加。Web2.0で創る『みんながちょっとずつ頭がよくなる世界』というテーマで,Web2.0の世界の発想を教育に活かせる点があるなら探ってみようという場であった。
Web2.0についてはあれこれ雑誌でも紹介されていたので,ティム・オライリー氏の定義とか云々は置いておくとして,それでどんなことができるのかを朝一プログラミングでつくって見せちゃう事例には感心した。東京大学研究員である久松慎一さんの講演は,既存のサービスの紹介だけでなく,Web2.0の基礎技術の活用事例もあったので興味深かった。
それからネットユーザーのサイト利用動向を視聴率の観点で調査した結果について消費行動との関係でWeb2.0的なものを分析する話もあった。かつてはテレビ視聴率も集計していたニールセンのグループ会社であるネットレイティングスの社長である萩原雅之さんによれば,広告マーケティングも消費者の「サーチ」行動と「シェア」行動を意識しなければならなくなったということらしい。
また実際にWeb2.0的な活動をしている「百式」というサイトの管理人である田口元さんは,Web2.0をブログ界隈で言われている解釈で明解に紹介した。要するにWeb2.0というのは「○○はイケている」と同じような「格付け」概念なのだと。なんとなく2.0と言えば人が集まってくるし,かといって2.0について人々が考えるものは必ずしも完全一致しない,しかも2.0を自称する人って大概そうじゃないというような特徴の類似が「2.0」と「イケてる」にはあるんじゃないかと,実際の事例をあげて指摘するのである。それで田口さんがクルッとまとめて定義したのは
「いかに”2.0っぽいね”と格付けされるよう適切なコミュニケーション手法をとれるか」
ということ。「コミュニケーション手法」という観点から考えるというのは,技術的な観点ではなくて,多分に人文的というか教育的というか…。その辺から今日の話題がさらに膨らむのかなと期待を抱かせるものだった。
ところがそう簡単じゃなかったというのが今回の結論だった。どうも教育的なるものは1.0的なのか,0.いくつなのか。2.0とはかなりの隔たりというか,溝があるようなのである。結局,2.0は「Why not?」の世界だから,高く格付けされたければ適切なコミュニケーション手法をとればいいじゃん,うまくいくように頑張って,ダメなら仕方ないんじゃない?という感じなのである。片やフロアというか,教育界隈の人々は,積極的に相手に影響を与えたいと考えるから,ダメなら仕方ないのが許せない(?)という立場。
最後のまとめで,大きな溝をうまく跳び越える手段があれば,2.0的なものと教育とで面白いことができそうだと予感が示されたのであるけれども,そうなると既存の学校や教育の枠組みでというわけにはいかないのではないかということも会場の多くの人たちが同意していたと思う。
その後,懇親会。いつものようにテーマ絡みの雑談から青山豆腐工房と記号論の話題まで,縦横無尽におしゃべりが続き,メモの大事さを再確認してお開きとなった。
日本と英国の情報化
今日は上智大学でブリティッシュ・カウンシルとJAPETなどが主催する「教育情報化セミナー日英編」に出席した。この頃,周りの先生方が英国へ視察に出かけているのだが,私は貧乏人らしく日本で英国(UK)事情を勉強することにした。
東京と大阪(26日)で開催。UKの教育技能省(DfES)テクノロジーグループと教育工学通信協会(Becta)からお二人の担当者が来日し,UKの教育の情報化事情をお話ししてくれた。実はどちらもラストネームはマクレーンさん。でも親戚でも何でもないらしい。
DfESのケビン・マクレーンさんは,英国政府とDfESがどんな取り組みをしてきたのか紹介してくれた。現場への情報機器導入といった次元の話はほとんどなかった。英国政府は学習経験の充実のために環境整備を当然行なってきており,教師という専門家がテクノロジーを使うことも当然のことといった前提。今後は,学習者やその親御さんたちが24時間いつでも情報やサービスにアクセスできる個別的な環境を整備していくことが主眼のようである。
もちろん現場レベルにおいては,電子ボードの活用や柔軟なカリキュラムの開発や共有にまだまだ課題が残されているようだ。しかし,少なくとも国レベルでは,ダイナミックな学習経験に結びつけるためのテクノロジー施策をどんどん打っていくようだ。「This is not about technology — it is about learning.」当然といえば当然すぎる言葉がスライドに映し出されて,そのためにリソースを使っていくことに何の迷いもない英国の取り組みに,あらためて感心した次第である。
Bectaのニール・マクレーンさんは,Bectaという組織の紹介とICTを活用した現場の現状や今後について紹介してくれた。Bectaというのは日本で言うところのメディア教育開発センターなのかな。いや,もっと現場に関与して技術提供したりICT活用を支援する活動を行なっているような組織だから教育情報ナショナルセンターの方が近いか。ニールさんの発表はICTの活用が学習効果や成績にも好影響を与えているということに触れていたけれども,実のところこの効果のほどは劇的とはいえず,日本のそれとどっこいどっこいという感じではあった。
けれども,ここでもそんな後ろ向きな発想は出てこない。仮にわずかでも全体的には好影響を与えていると調査結果が出ている以上,何が違いを生むのかを真摯に捉え,それを伸ばしていこうという前向きな態度なのである。そしてインフラ,コンテンツ,実施方式の変遷を示しながら,それらの課題に対応したテクノロジーの提供と学習の場における組織デザインそのものの変革を目指すのである。たとえば「self-review framework」というICT活用と組織デザインに関する規準と基準のような枠組みを用意して,学習者のための教育成果改善へと役立てようとしている。これをWebベースで記録していき,共有化する仕組みも用意しているらしい。
ニールさんの最後のスライドを引用してみようと思う。英国においてICTに関するポリシーがどんな方向性を持っているのか,7つ示されている。日本語訳によると「教師主→学習者主」「固定→流動」「個々のデータ→データ蓄積」「コンテンツ→サービス」「まとまりのない管理,カリキュラム,評価→学習向上と個別化に焦点を置いた学習プラットフォーム」「周辺→本質」「’よい教材の一部’→’強力な解決手段’」 こうしたポリシーの方向性に基づいて,迷いなくストレートに取り組んでいるという印象であった。
午後にはパネルディスカッションが予定されていて大変興味があったが,別件で小学校現場の研究助言する仕事があるので,ここまで。英語版の資料をもらって上智大学を後にした。ちなみにニールさんのスライドは検索したらインターネット上に似たようなものがあったので,興味のある方は,そちらを(ニール・マクレーンさんのスライド)。公開を意図したものかはわからないので,とりあえず感謝しながら参照するようにしましょう。何事も感謝の気持ち大事。
午後は日本の学校現場におけるIT活用の取り組みについて。今回は2年生の国語の時間で,デジタル教科書とタッチパネル機能付きプラズマディスプレイを利用した授業を見せてもらった。そのようなツールがごく当たり前に使えるようになることは,とても大事だと思った。一方で,授業を構成し作り上げる基本的な取り組みが今まで以上に重要視されてくることも見えてくる。視覚的な効果が強ければ強いほど,本来の授業が何を狙おうとしていたのかが置いてきぼりにされてしまうことに気がつかなくなってしまう危険性。
午前中にケビン・マクレーンさんが提示した言葉「This is not about technology — it is about learning.」をもう一度思い返してみるならば,どんなに便利なツールがやって来ても,やはり根幹である授業の設計や授業中の発問などといった部分を極めていくという試みは変わらず大事である。むしろこうしたテクノロジーを活用しなければならない時代だからこそより一層大事になるのだということに自覚的でありたい。
というわけで,午前中に聞いたことを午後に受け売りでご披露して,私の小さな日英の架け橋活動は幕を閉じたのであった。その後は反省会。授業担当してくれた若き男先生に講評で辛辣なことばかり言ってしまったので,本当はとても素敵で楽しい授業だったといっぱいいっぱい褒めて励ました。
教育学部を出て十何年,友人たちの多くが現場で活躍している。彼らに直接報いることができない分,こういう機会に現場の先生のお役に立ちたいと思っている。そのためにピエロになれというならば,僕は喜んでそうする覚悟なのである。そんなことを思い出しながら,現場の先生たちとのひとときを過ごしていた。
教育基本法
第164回通常国会が閉会した。教育基本法の改正案が提出されながら,期限切れという理由で決着しなかった。改正について賛成の立場も反対の立場も,議論や改正案が中途半端状態であったことを考えると,決着しなかったことにホッとしているのかも知れない。
改正案なるものが示されて,書店にはそれに関する関連書が並び始めた。国会会期の行方と共に,駆け込みで改正案が可決されてしまうのではないかという懸念により,教育基本法改正自体は注目を集めた。けれども,この国の教育を現実的によくするため教育基本法改正が最優先であると信じる人は少なかったろうし,そもそも教育基本法自体についての認識も十分だったとはいえない。
教育にかかわる仕事に携わっていても,畑が違えば「ど素人」同然。私自身,駄文だから気楽に書くのもありかとは思うが,教育基本法の改正に関して準備もなく深入りすれば,痛い目に遭うこともよく承知している。何しろ基本法である。現場であれこれと試してガッテンするタイプの話じゃない。
本来ならば,6月2日New Education Expoで中教審の会長でもある鳥居泰彦氏が講演した教育基本法改正舞台裏の話をご紹介すべきだと思う。けれども,長い紹介をするための心の勢いがないので,その代わり,簡単に書くと,教育基本法改正案で考えられていることは,愛国心云々だけではなく,占領時代を断ち切り,この時代にあった法律へバージョンアップすることらしいのだ。そこで鳥居氏が最初に紹介したのが,法律としての「部分修正」なのか「全部改正」なのか「新法制定」なのかという法律を改正する際の方法論であった。そして内閣法制局との丁々発止?のやりとりを披露したのである。
実は,今回書きたいことは,この鳥居氏の講演でも指摘されていた「教育基本法」の前文の前文?についてである。皆さんは巷の教育基本法改正関連本をご覧になったことがあるだろうか。あるいは教育関係の方々は,三省堂か学陽書房なりの『教育六法』をお持ちだろうか。そこに記載されている教育基本法をご覧いただきたい。一般的には次のように始まっている。
—–(a)
教育基本法 (昭和二二年三月三一日 法律第二五号)
われらは,さきに,日本国憲法を確定し,民主的で…(以下略)
水無月21日目
ダンボール6箱分の援軍来たる。「おまえたちも上京したのか」,繁繁と眺めた。無作為に手にした『ポストモダンの思想的根拠』(ナカニシヤ出版2005.7)の偶然開いたページから読み始める。この手の本の誘惑に負けてる自分。
今日は午前中にお仕事。小雨の天気だったが,帰りには傘の必要はなくなった。「雨男ですか?」と冗談で言われる。そんなつもりはなかったものの,上京してからの東京の天気は不安定。もしかして不安なオーラがそうさせてますか。いかんいかん。カラッと脳天気に過ごすことを心の誓う。
ところが帰宅後,夏風邪の兆候。汗と寒気が同時に襲ってきている。これは注意しないと…頭痛が酷いと作業がストップしてしまう。しっかり食べて,休息必要。何かスタミナのつくものを食べに行こう。
#ポッドキャストを登録してくださる皆様,ありがとうございます。更新はそのうちに。それまではPodcastアーカイブスにてお楽しみください。
ゼロ・トレランス
実家で取っている朝日新聞夕刊に「ゼロ・トレランス」をテーマとした3人の見識者私論が掲載された。リンクからウィキペディアの解説をご覧になれば概要が掴めると思うが,要するに徹底した管理と規則違反に対する懲罰の姿勢を貫くことを基本とした指導方式のことである。ドラマ「女王の教室」の風景は,戯画化したゼロトレランス方式の模様なのかも知れない。もちろん冗談である。
教員組織が意識を共有したうえで一体となり,首尾一貫した指導方針に則って足並みをそろえるということが,今のご時世難しくなっている。それを上意下達によって蘇らせようとした試みを「ゼロ・トレランス方式」と呼ぶわけだが,銃や麻薬に蝕まれる危機に直面しているアメリカで試みられたそれを,日本の文脈に引き寄せたとき,また受け入れられ方も異なるのだろう。
「頑固じじいや業突ばばあがいなくなったことが世間の秩序を乱した」と唄ったのはさだまさしだったが,価値観を相対化したり多様化するのに長けていること自体は誇ってもよいことだと思う。ところが,その広がりに追いつくどころか,すっかり取り残されてしまったのが少し前の日本の学校だったし,おかげで同時代に対峙できる教育指導の理念を現場で醸成させる機会を逸してしまったのであるから,いまや宿題の分量を決めるのにも保護者の顔色をうかがう始末だ。親の方が教師に対してよっぽど「ゼロ・トレランス(不寛容)」なのである。
さてと,なんだかんだと名古屋に長居している。ダンボール6箱の書籍を郵便局まで運んで,東京に送る。本ばっかりに頼っても仕方ないが,本に拠らないのも困った話で,少なくとも独り者の話し相手としては必要不可欠なのである。明日戻ろう。
水無月17日目
名古屋に滞在中。我が蔵書とご対面し,あれこれ選びながらダンボール箱に詰め込む。どうも箱が足らないようだ。全部持ち出したいが,そうもいかないので悩ましい。
機会があったら提出してくださいとお願いされていた書類があったので,2ヶ月しか経っていないが前の職場に出かけた。特に連絡もしないでふらっと顔を見せたので,皆さん,ちょっとびっくりしながら迎えてくれた。それから,自分の職場であったパソコン教室や情報メディアセンターに寄って,なぜか残務?処理。長い出張から帰ってきただけみたい,と言われる。結局,夕食を食べに行くことになって,あれやこれやと近況報告をして時間を過ごした。皆さん,それぞれ頑張られていた。
たった2ヶ月だけども,最寄りのビデオレンタル店はつぶれて空き家になり,愛地球博で賑わった駅は新しい商業ビルの建設が始まっていた。昔は開放的な憩いスペースを中心にそれを取り囲むように背の低い2階建て店舗が並ぶ施設だったのだが,今回のビルはあまり開放的な感じがしない完成予想図。愛地球博とかいってさんざん環境の大事さをアピールしていたのに,行事が終わるとすぐ忘れてしまう。もうちょっと考えて欲しいものである。
それにしても時間の経過がはやい。
水無月15日目
これから名古屋に出かけて蔵書や衣服を取ってこようと思う。上京してそろそろ2ヶ月。もともとの目的である大学院受験準備も出願時期が近づいてきた。勉学や研究の方面もいろんな方々に出会う機会を得て,取り組みを進めているところだ。
居場所を変えただけで,直面するものはだいぶ異なる。田舎でのほほんと教員生活をしていた頃は,日々が職場の仕事で終わっていたし,外界と触れずに過ごすことも出来た。ある意味で安泰だったのである。けれども,大学淘汰の時代だ。ますます増える校務や雑務に押しつぶされて,研究職としての自分が雲散霧消してもなお安泰といえるのか。後先考えず飛び出した。
自分に課した目標はこんな感じだ。1) 基礎基本を落ち着いてやり直そう, 2) 最先端の成果に触れて学ぼう,である。温故知新というから,この2つはわりと相反せず取り組めそうな気がしたのだ。というか,実際にやって来てみたら「俺って,どうしてこんなにも基礎やってこなかったのか」と凹むこと多いのだけど…。それでも,そういうことに気がついて取り組めることに感謝。
今日も天気がすぐれない。はやく移動しよう。
ことだま by 栗原一貴さん
6月14日,東京大学大学総合教育研究センター主催のシンポジウムに出席した。センター10周年記念と,マイクロソフト先進教育環境寄附研究部門(MEET)の開設を記念したものだった。
「大学教育の情報化,そのフロントライン」と題されたシンポジウムは,大学教育のIT化やタブレットPCを活用した教育の取り組みといった最新の事例が紹介され,大変刺激的なものであった。間もなく毎日新聞Webなどで当日の様子も紹介されると思うが,もっとこうした内容が広く知られて欲しいと思う。
この日,とても素晴らしいソフトと出会った。東京大学大学院で様々な画像処理ソフトを研究開発されている五十嵐健夫氏と栗原一貴氏の研究成果である。特に栗原さんの「ことだま」というソフトウェアは,学校の教室でパソコン画面を模造紙かホワイトボードとして扱えるシンプルなソフトウェアである。非常にいろいろなバージョンがあるみたいだが,千葉県総合教育センターとの共同研究の一環として「ことだまレクチャー」という名でソフトが公開されている。
正式には「ペンベースプレゼンテーションソフト」なのだそうだが,様々に詰め込んだ機能が,教育現場での実地使用でことごとく却下されて,非常に絞られた機能が残ったのだという。このソフトがユニークなのは,スライドの一枚一枚を「視点」の位置や構図として捉える点にある。つまり巨大な模造紙の上に必要な絵や文字を適当に貼り付けて,その部分部分を拡大したり視点を変えたりして構図決めて写真を撮るように切り出したものがスライドになっていく感じなのだ。そのことによって,パワーポイントのような一枚一枚が完結したスライドを順番に見せていくという構造とは異なり,広大な模造紙領域を自在に活用できる余地が編集時にも発表時にも生まれるというメリットがある。これを「スマートスライド」と名付けていた。
もちろんこのソフトの特徴はそれだけではなくて,その描画システムとか,ナビゲーションのシステムとか,栗原さんと五十嵐さんの研究成果がふんだんに活かされている。インターネットエクスプローラーで閲覧している画面から,ドラッグアンドドロップで画像を貼り付けて,自由にペンで書き込みが出来たりするだけでも魅力的である。本来はパワーポイント・ファイルの読み込み機能などもあるらしいのだが,権利の関係上省かれているらしい。その辺はちょっと残念だが,今後商品化されれば必需品ソフトの一本になるかも知れない。ちなみにWindowsソフト。模造紙みたいに使えるシンプルなソフトをお捜しの皆さんは,ぜひお試しあれ。
ユビキタスの未来は
私たちの生活が少しずつ便利になってきたのは,それを支える技術の進歩や改善が積み重ねられてきたからだ。電話機や電球の発明に始まり,ラジオ,テレビ,自動車,飛行機などが世界を変えた。その後もパソコン,インターネット,そして携帯電話がさらに私たちの生活様式を変えたことは誰も否定しないだろう。
トーマス・フリードマン『フラット化する世界』の下巻(第6章)出だしには,著者のこんな考えが記されている。彼は止めることの出来ない世界のフラット化を最大限利用するにはどうすればいいのかという問いに「適切な知識と技倆と発想と努力する気持ちがあれば,ものにできるいい仕事が山ほどある」と答える。その一方で,「仕事は楽ではない」とも述べるのだ。
フリードマンはグローバリゼーションを1.0から3.0に段階分けしたかと思うと,1.0では「国が,グローバルに栄える方法か,最低でも生き残る途だけは考えなければならなかった」とし,2.0では企業がそれを考えなければならなくなり,いよいよ3.0に至って個人が考えなければならなくなってきたことを指摘する。「それには科学技術の技倆だけではなく,かなりの精神的柔軟性と,努力する気持ち,変化に対する心構えがなければならない。」
今夜はユビキタス技術の最新動向を触れる機会を得た。それは空間にQRコードをちりばめたり,小さなコンピュータを埋め込むことに始まって,いかに環境(システム)がユーザーの変化を読み取ってニーズに応えていくかという技術の集積である。それによって私たちの生活する空間は,より使い勝手を増し,私たちが豊かな生活を送ることに注力することを助けると期待されている。
しかし,現在も横たわるユビキタス研究分野における応用側面の課題は,これらの技術を応用すべき対象の決定打を得られていないということのようだ。もしユビキタス技術を使えば,家や事務所の空間に埋め込まれた環境制御コンピュータが,個人の持っているIDカード(少しSFチックに描けば,体内に埋め込んだIDチップ)を識別して,個人個人に合わせた環境条件のセッティングをしてくれるようになったりする。少し太っている暑がりのお父さんなら部屋のクーラーが強めにかかるとか,昨日中断した仕事の続きをするためにパソコンが自動的にファイルを開くとか,街中で知人の所在を調べることが出来るとか。便利そうな応用は枚挙にいとまがない。けれども,「便利そう」なものが「いつも使う」ものになるとは限らない。
今夜の勉強会で見えてきたのは,ユビキタス技術の前途に立ちはだかる壁が,「環境としてのユビキタス技術」に至るまでの「道具としてのユビキタス技術」段階におけるデザインにありそうだということ。フリードマン氏がグローバリゼーションに付けたバージョンを借りれば,3.0(環境)へ至る前の2.0(道具)の難しさをユビキタス技術はまだ真正面から直面していないのだと思う。仮に2.0をくぐり抜けて3.0へと飛躍したとき,今度はいよいよユーザー側がその難しさに直面する点はグローバリゼーションの場合と似ているような気もする。なぜなら,ユビキタス技術は,環境を全て技術的にフラット化するものだからだ。
そうなると,私たちがユビキタス技術もしくはその隣接研究に対して期待すべきことは何なのか?ユビキタス技術が描き出す近未来の日常生活イメージは誤解や余計な不安を抱かせるばかりだから,ちょっと横に置いといて,もっと現実的な「道具として」,私たちの生活世界へとすり合せていくことを考えないといけないような気もする。道具として必要なことは何か。
・使途を限定しない(目的)
・機能が明確である(内容)
・使用が簡単で柔軟性がある(方法)
・壊れないこと(品質)
・使用を選択できる(選択)
思いつくのはこんな感じだ。環境としての技術(3.0)を目指すユビキタス研究にとって悩ましいのは,使用の選択が発生してしまう道具としての技術(2.0)の段階をどのように克服するかということだと思う。ユビキタス技術を使う選択と使わない選択が同居する生活空間を人々が納得するようにデザインできるかどうか。もっと具体的に書くと,少し太った暑がりなお父さんにとってユビキタス対応クーラーのある部屋とない部屋の差異は納得できるのか。本社オフィスはユビキタス対応で仕事の自動レジューム機能があるが,支社オフィスへ行ったら古いデスクとノートパソコンしかない場面をうまく接合できるのか,といったことである。
現実的には全ての環境を一気に変えることが出来ない以上,そのような長い長い過渡期におけるユビキタス技術が人々を納得させた上に,日常的に使ってもらえるものとなるには,技術革新とはかなり違った努力が必要だろう。宿題をもらった感じだ。
その努力の一つとして,学校教育環境にユビキタス技術を導入するという入り口は,悪くない発想だと思う。というよりも,学校教育にとっては「環境としてのユビキタス技術」ではなく,「道具としてのユビキタス技術」の方が相性がいいかも知れない。もしかしたら,そこに「学習のための負荷」と「環境への適従」との拮抗点があるのかも知れないからだ。たとえば,今夜の勉強会でも,システムをシミュレーションの道具(教具)として使用することで,知識やノウハウの伝達に役立ててはどうかというアイデアがあった。このことから考えても,ユビキタス技術は中途半端なパソコンよりももっと柔軟な教育ツールを提供してくれる基盤技術としての役割を期待されているようにも思うのだ。
さて,何十年後になるかわからない未来。私たちの子孫は,いずれユビキタス環境3.0の構築を達成した世界に生活していることだろう。そんな時代の人たちが,どんな心理状況にあって,どんな思考を展開するのか,残念ながら私たちは体験することが出来ない。拙い想像力を展開して,明るいシナリオと暗いシナリオを描くことはかろうじてできるのかも知れないが,それをするために私たちが今この時代に何を選択しているのかを考慮しないわけにはいかない。大文字の話になってしまうが,エネルギー問題一つとっても深刻だといわれているにもかかわらず,全てが電気を必要とするテクノロジーで構成される環境を構築して,それを持続的に維持可能なのかどうなのか,それすら私には想像もつかない。
私の実家には,1960年代物のソニー製小型白黒テレビがあった。そのテレビは1979年くらいまで,食卓の上に置かれて使用していた記憶がある。今は行方不明だけれども,たぶん見つけ出せば今でもテレビ放送を受信することが出来るはずだ。それが2011年からアナログ地上波が停波することで,すべてのアナログテレビでテレビ放送を見ることが出来なくなる。
それが少し不安なのである。道具に必要なのは「シンプルであること」だと思うのである。アナログテレビがラジオキットみたいに簡単に作れるわけじゃないとしても,デジタルテレビの複雑さ(技術の高度さ)に依存しきってしまうのは,いざというときに問題を引き起こすのではないかと不安なのである。まあ,その「いざというとき」って何だよって話もあるし,アナログ放送の立て替えとして「ワンセグ放送」があるという指摘もあるから,不安は漠然としたものに過ぎないかも知れない。
ただ,少なくとも「持続可能性」の観点から考えれば,アナログ放送技術は持続を諦めるという選択を実行しようとしているのであり,そのような選択をなんの疑いも無しに迎えようとしつつある私たちの大雑把な選択眼に不安を覚えるのは確かである。ユビキタス技術導入に際してもいつかはそんなフェーズが訪れるのだろうか。そのとき私はまだ生きているのだろうか。