ニューヨークタイムズWebの教育欄をダラァ〜と眺めていたら,日本発の記事があった。「Japan’s Conservatives Push Prewar ‘Virtues’ in Schools」という見出し。「学校で戦前の徳目を推す日本の保守」といった意味である。
内容は東京杉並区で始まった教員養成塾「杉並師範館」の様子を書き出しに,日本の教育基本法改正の議論や東京都の動き,教科書採択などを通して日本の教育行政動向を紹介している。
こういう記事が世界的に読まれて,日本の教育というのがどんな風に思われるのか,ちょっと気にかかる。「戦前戦後(prewar/postwar)」というキーワードが飛び出してくるあたり,日本の教育界って教育的取り組みよりも政治思想が好きなんだと思われているのかどうなのか。Web記事についている写真がまたそういう雰囲気を醸し出しているから不思議だ。
イメージという点でいうなら,文部科学省の立ち位置も見方によってはかなり変わってしまう。義務教育費国庫負担金削減の問題でいえば,それを維持しようとする文科省は「現場への影響力保持」とか「官僚の既得権益確保」にこだわっているように描かれるのがマスコミ報道の常であったし,世論にもそういう見方は多い。ところが,『世界』7月号に苅谷剛彦氏が書いている全体構図のようなものを考えていくと,文科省はこれまで整備してきた「学校教育の条件」を死守しようとかなり頑張ってくれていると見えなくもないのである。慣れてない上に切り札もない状態で政治的駆け引きの場に突然引き込まれてしまった文科省について,その要領の悪さに落胆はするけれども,一方では同情したくなってしまう。
いまのところ,日本の教育に関する確固としたシナリオはどこにも存在していないように思う。それだけに現状がどうなのか,今後どうなるのかについて,確かなものを伝えることが困難である。だから,NYT記事のようなものが諸外国に紹介されると,それは一つのシーンを描いたものとして全く間違いではないのだけれど,それが日本の教育界全体のトーンというわけでもないと思うのである。そこのところが,ちょっと気になってしまった。
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水無月10日目
今日は大学見学に出かけた。たくさんの人たちと一緒にたくさんの説明を聞いて,学問や研究の面白さのようなものに触れられたのは楽しかった。どんな形になろうと,そうした最先端の取り組みに関われるように精進していきたい。
TOEFLの得点キャンセルの件は,(有料なのが玉に瑕だが)復活を申し込むことにした。TOEFL Servicesに国際ファックス。近くにフェデックス・キンコーズがあって助かった。普通のコンビニでは国際ファックスが出来ないから…。とにかく,こちらも今後頑張ろう。
前の職場の大学案内を取り寄せた。在職中に職員さんたちがつくっていたものなので成果を見たかった。9年間ご厄介になっている間にも大学案内のパンフレットというのは様々に変化したことを覚えているが,今回はここ数年と比べるとコンパクトになって,別に小冊子がつくようにアレンジされた。昔も似たようなアレンジがあったので,懐かしい感じ。幾人かの教え子や卒業したOGも登場していて,そういう点でも懐かしい気分を味わった。私もある意味,卒業生か。
書店で『フラット化する世界』を見つけた。書名は聞いていたが,どんな本だろうと思ってパラパラと。お金が無いけど,下巻だけ買ったので,読んでからまた感想を書こう。フラット化自体の発想は目新しいものではないけれど,こうやって世界的なジャーナリストが膨大な取材の上に描くと話題になるんだな。ちなみにその本の隣り,未来学者トフラー氏の新著『富の未来』っていうのがあった。こっちも話題になるんだろうか。本の帯を見ると,今までのアイデアを全部ぶち込んだ感じになっているけど,新しいのかな?
水無月9日目
今日は雨。再度TOEFLテストを受験した。勉強した分だけ自信があったのに,得点に進歩がなかった。あんまりショックだったので得点をキャンセルしたが,キャンセルしたからといって再受験は認めてないので「意味ないですよ」と後で言われた。じゃ,なんでキャンセルなんて仕組みがあるんじゃ!と思ったが,自分の進歩のなさを他人に八つ当たりしても仕方ないので,寂しく帰ってきた。
帰宅したら前回のTOEFLテストの成績表が届いている。どうしてこうやって物事は束でやってくるのかわからないが,とにかく「いきなり受験」の結果が返ってきていた。準備して受験しても,準備なく受験した得点とあんまり変わらないというんだから,テスト精度の高さが安定しているというか,なんというか…。とにかく気を取り直して,今日からは英語文献にじっくり取り組む方法で小さい積み重ねしていこう。前向きが私の取り柄だし(脳天気の間違いか?)。
やっとTOEFLも(次回からテスト方式が変わる予定)一段落したので,ギアチェンジ。持ってきていない文献を運び出す準備のためにも,久しぶりに名古屋へ戻ろうかと思う。やはり自分の蔵書が揃わないと研究とか勉強とか不便でしようがない。原稿依頼もあったし,夏の集中講義の準備もあるし,あれやこれや…。毎日があっという間に過ぎるのは,歳のせい?,毎日充実しているせい?とにかく頑張ることがあるのは有り難いことだ。さて,今夜も研究会に行って頑張りますか。
見えない世界を見る
企画助言の仕事を終えて,ご一緒している先生と渋谷で昼食を取った。それからNHKまで連れて行ってもらって,スタジオパークを見学した。国会中継のために「スタジオパークからこんにちは」の放送はなかったが,おかげで入場者も多くなく,のんびりと見学できた。スタジオでは,「功名が辻」と「おかあさんといっしょ」の収録が行なわれていた。でも仲間由紀恵を直接見ることは出来なかった,残念。
かつてはNHKで働きたいと思ったことがあった。漠然とテレビ局で働きたいという思いでしかなかったので,アナウンサーとかカメラマンとか,仕事の種類関係なくいろいろやってみたかった。現在の実情がどうあれ,かつてNHKの番組は,僕らを楽しませてくれたし,様々なものを画面を通して見せてくれる仕事に憧れさえ抱いたのである。
スタジオパークに展示されたラジオとテレビの歴史と,NHKアーカイブスから選ばれた主な放送番組の歴史を振り返ると,ほんの少しだけ,当時の憧れを思い出す。何故だろうと考えてみると,そこに映る人の存在を想うからではないかと気づいた。さらにいえば,画面に映ってはいないけれども,その画面から伝わる作り手の気持ちのようなものを感じるからではないか。
昔に比べれば,番組の映像技術も演出技法も高度化し,過去の番組映像は古くさく感じるのも確かである。そうやって(限られた範囲だけれども)過去と現在を比較できる立場にいる人間として抱く感情は,特別なものかも知れず,それが普遍化できるわけではないかも知れないが,「見せ方が上手くなった分,感じさせるものが貧しくなった」という気がしないでもないのである。
何もかもを「見える化」して明示していくことは,伝達においては必要不可欠なのかも知れないが,「見えない世界を見る」ための能力の育成方法としては限界を持っているようにも思うのだ。というよりも,「やりすぎ」なのかも知れない。
(追記:20060608)—
こう書いてみたものの,本心とはずれているようにも思う。私だって見せ方上手なリッチコンテンツ大好きだからだ。要するに,私の感受性が弱まってしまったか,あまりに重厚な画面づくりに意識がいきすぎて,本来画面から読み取るべき内容を読み取れないか,作り手の気持ちや心意気を感じとることが出来なくなってきたか。あるいは,作り手の方もそうした見せ方の技術的なところにエネルギーを注ぎすぎてしまうアンバランスな状態にあるのではないか,といった根拠のない危惧なのだと思う。
少し違う例で考えるとすれば,教科書の分量に関する議論で考えることが出来る。見せることにこだわって,デザインを改善し,分量を制限し,全体的に取っ付きやすさを増した教科書。しかし一方で,分量の少なさが知識の少なさを招き,より深い学習や複雑な問題からの距離を大きくしてしまったとも指摘される。学校教育で触れさせる学習情報の絶対的な量が貧しくなったために,子どもの理解の多様性を封じ込めているのではないかとも考えられている。
結局,一つで全てを満たすことは出来ないのだから,組み合わせの選択肢を用意して活用する環境や条件をつくるしかない。とはいえ,選択という環境条件は,選択主体の芯をどうするかという,とっても大きな問題を掘り起こしてしまうのだけど。
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その文脈において,どう解釈していけばよいのか,まだ考えらしい考えもないのだが,ここのところ911テロの周辺を描いた映画が登場している。「United 93」はハイジャックされた飛行機の出来事をドキュメント風に扱った映画だと聞いている。あの事件を映画で扱うのはまだ早すぎるのではないかという議論も起こったそうだが,事件の記憶を風化させてはならないという遺族たちの思いに後押しされているとも聞く。最近になってもう一つ出てきたのが,ハリウッド的にアレンジされたと思える映画「World Trade Center」である。オリバー・ストーンとニコラス・ケイジが組んだ実話映画化作品。予告編を見るだけで少し感傷的になるのは,これが実話だからなのか,ハリウッドによる映画化のせいなのか,正直戸惑いを感じる。たぶん後者なんだろう。だから,またこの映画に関しても議論が巻き起こるかも知れないし,それでも事件当日に勇敢にも現場に立ち向かっていった警察や消防士たちの活躍という実話のもとで,映画の結末次第では,もしかしたら何かまた違った影響を与えるかも知れない。
カリキュラムを考えるということは,世界を考え,見えない世界を見ようとする行為のことである。そのことは(大文字過ぎるとしても),すでにわかっていることなのだ。それを実際の私たちの生活に据えようとする(桁を下げるとか,ブレークダウンするとか,言い方は何でも結構だが…)とき,どんな実際行為として具体化し,そのための環境をどのように構成していくのか。そのことについて,想像力を働かさなければならない。
プレイバック19981226
1998/12/26 Sat.
[知ること]((情報の存在性))
量子力学の世界にはEPRパラドックスという問題が存在している。どんな問題かを説明するかは厄介なので省略するが、量子の世界における情報伝達の不可思議を扱った問題だといえる。
ところで、私たち教育を考える人間はしばしば「知ること」について思いを巡らす。知識論なんて議論もあるし、認知心理学という賑やかな研究分野もあって追いかけきれないが、もっと素朴に「知る」ということを考えてみると、先の量子力学のEPRパラドックスにも似た不思議な世界と妙に共通する感覚にとらわれる。
たとえばこんな場面を思い描いてみてほしい。ある人が自分との約束を守らなかった。こちらとしては不快な気分になっている。ところが後で事情を聞くとどうにも仕方のない理由があったことを知り、不快感が和らいだという経験。私たちの心理というのは、情報を「知っている」か「知らない」かで瞬間的に変化してしまことは、たぶん皆さんも経験があるはずである。
知っておけばよかったこと、それと同時に、知らなければよかったこと、そのようなものが世の中に混在し、私たちの生活を様々に彩る。それにしても何かを知ってしまったために起こりうる急激な変化というものは、かくも不思議な現象である。本当のところ「知る」とは何者なのだろうか。ある情報の存在を認めることが、自己の存在を大転換させる、そのダイナミックな働きに私たちは身を任せている。
クレーン撮影
無理にメディア教育とひっかけたいわけではなくて,私自身の欲求として「クレーン撮影」がしてみたいのである。男の子は機械ものに興味を持ちやすいが,その後,それがどんな発展をするかはそれぞれだ。私の場合,カセットレコーダとか,ビデオとか,そういうものに興味を持ったので,おのずと表現活動への関心が強くなった。
それで,いわゆるカメラワークみたいなものにも興味を持つのだけれど,とにかくなめらかなカメラ移動をする映像に引き込まれる傾向があって,その最たるものがクレーン撮影というわけである。
いやなんというか,肩で風を切って歩くファッションモデルの姿をスーッとクレーンカメラで追いかけていく映像を見ると,そのカメラワークにぞくぞくしてしまう(なんか変か?)。あるいは,気持ちの良い空撮も見ていてうっとりしてしまう。
クレーンではなく,カメラマンが身につけてカメラを支える器具があり(名前まだ知らない),これはカメラマンの動きの振動が直接カメラに伝わらないようなしくみになっているものなのだが,もし家庭用ビデオカメラに使えるものがあったら欲しいくらいだ。
実は先月,主要携帯電話会社の人々の話を聞く機会を得て,いまどきの子ども向け携帯の動向を勉強した。最近の子ども達は,携帯のムービー機能を使って,短い短編映画を撮影する遊びもしているらしい。そんな話を聞いて,「あ,それは俺がかつてナショナルのカセットテープレコーダー「スナッピー」で友達と音だけドラマを野外ロケしながら吹き込んだ遊びの現代版だな」と思ったのである。いつの世も子ども達は身近なメディアを面白がって遊びに使おうとしている点で変わらないのだなと思ったのである。
で,おじさんになった私は,性懲りもなくハイビジョンビデオカメラで映画撮影できないものかと夢想していたりする。もっとも今となっては機材も何もかも無いけれど…。
NEW EDUCATION EXPO 2006
東京臨海副都心(つまりお台場)にある東京ファッションタウンビルで行なわれた「NEW EDUCATION EXPO 2006 in 東京」に出かけた。これまでも東京や大阪や名古屋で行なわれていたが,いつも都合が悪かったので,今回初参加である。
会期が3日もあるし,どのセミナーも関心があるのだが,さすがに全日出席するのは大変。というわけで,2日目の基調講演を目当てに出かけることにした。午前中は企業各社の展示を軽く眺めてみた。人が少なかったこともあって,あちこちからパンフレットを差し出されて大変である。あのね,売り込みたい気持ちは伝わってくるのだけど,ゆっくり眺める余裕を与えないと素通りされることも理解しようね。ずらっと並んでいる説明員の視線を浴び続けるこちらは,思った以上に気恥ずかしいのだから。
EXPOという名前から,私なんかはだだっ広い場所を想像していたのだが,実際にはわりとコンパクトにまとまった会場だった。もちろんそれでもこうした催事としては規模の大きい方だと思うけれど。
午後になれば会場はかなり賑やかになってくる。スーツ姿が多いが,カジュアルなクールビズ風の人たちもいる。スーツの場合,靴下の色が白ならば教育関係者,黒系ならば企業か行政関係者が多いということも見えてくる。夕方あたりになると若い世代のラフな格好の入場者もちらほら見かけた。
今回,次の講演を聴くことが出来た。
山西潤一氏 「これからの「教育の情報化」に必要なこと」
坂元昂氏 「世界の「教育の情報化」緊急レポート」
鳥居泰彦氏 「世界と日本の教育改革」
山西先生は日本教育工学協会の会長で,2005年までの取り組みとポスト2005における課題を丁寧に解説された。目新しい内容とはいえないとしても,地道に説いていかなければならない部分の話だったと思う。山日先生曰く,教育の情報化という目標達成のために私たちは「授業モデルの蓄積と共有」「発達段階に合わせた能力形成プログラムの開発」「校務処理の改善意識」に取り組んでいかなければならない。思うに,これは教育の基本に徹するということであり,新しい時代にふさわしい教育の姿を再考しようということなのだろう。
日本教育工学振興会会長の坂元先生は面白かった。実は,動く坂元先生を初めて見たのである。流行りの映画を見ていないと同じ調子で,なかなか遭遇する機会がなかったのだが,今回初めて講演をお聞きして,その人柄の面白さにすっかりやられてしまった。なるほど,大物は独特なウィットをお持ちである。その一方で,なるほど日本の教育工学界隈が行政に対して強引さが無いのは,皆さんお上品だからだなとあらためて理解した次第である。つまり,地方の議員や公務員の人たちに坂元先生たちみたいな人たちが口にする上品かつ痛烈な皮肉が理解できないか通じないんだなということである。
坂元先生の講演は,英国やアメリカの話を中心として,諸外国の情報化の前進ぶりを報告して,いかに日本の情報化が足踏みしているかを浮き彫りにしていた。けれども決して「日本が遅れている」と先生は言わないのである。そして最後に日本の取り組みを紹介して,「世界中を学校に」という学校概念の変革の夢を描いたあと,「やりゃできる」と聴衆を激励するのである。終始明るい口調で,海外の事例を嬉々として紹介されている様子から,日本の現状を嘆くとかの空気は全く感じられない。
けれども,講演の内容をよくよく考えてみると,「興味深い講演でした」と他人事のように言えない。なにしろ「お金も力もあるのに,やってないのはあなた達ですよ」と坂元先生は問いかけているのである。ああ…。
鳥居先生は,中央教育審議会の会長。日本の教育改革について,その中心にいる人物である。講演の内容は,世界の教育行政の動向を紹介して,義務教育費国庫負担の顛末,教育基本法改正に関する本当の争点など。これも他人事では済まないのだが,興味深いないようであった。長くなりそうだからあらためて書こう。
教育らくがきPodcast No.006
東京人…
なれそうにないなぁ…,忘れっぽいから。(^_^;
毎回,川口探検隊する人です,私は。
所得格差が学力格差?
読売新聞Web記事「学力の差、「親の所得が影響」75%…本社全国世論調査」のような内容は,「〜との意識を多くの人が持っている」という記事の書き方からもわかるように,あくまでも意識調査である。
本当に所得格差は学力格差へと連関するのかについては,いろいろ調査があり,条件によってはそうとはいえないこともある。たとえば日本全国どこでもその現象があるわけではない,とか。けれども,全国報道でそんな論が取り上げられると,人々の意識は自身の周辺実態とは別にそのように染まってしまうものかも知れない。
子どもの学力や学習意欲が向上するための家庭内条件とは何か。そんなことを考える長い長い土日を過ごして,必ずしも所得だけが全てではないとあらためて思った。ブルデューを始めとして論じられる経済資本と文化資本の関係も確かに働いているとは思うものの,それは単に個々の家庭の所得という形ではなく,社会全体が教育施策に費やす程度も変数になるだろうし,あるいはそれに値する経済活動からの効果のようなものも無視できないかも知れない。いずれにしても,単純でないことだけは確か。
また,たくさんの人たちに出会った。初対面ながらも気さくに迎えていただいたことに感謝。私の場合,笑顔と度胸が資本です。