8月29日,30日,慶應義塾大学三田キャンパスにおいて,日本教育学会第66回大会が開催された。初日は用事があれこれ入ったいたため参加できなかったが,2日目には参加することが出来た。
初日には公開シンポジウム「教育政策と教育学研究との対話—教育学は政策学たりうるのか—」が開催され,かなり盛況だったらしい。参加できなかったのが残念。
参加した人の話を聴くと,昨今の教育再生騒ぎと完全に教育研究が排除された現状について,登壇者はもちろんのこと,聴衆もかなりの問題関心を持って参加しており,会場全体の雰囲気も,またシンポジウムの内容もアツいものになっていたという。
私自身が出席していたら,その現場を臨場感込めてお伝えしていたところだけど…,う〜ん,残念。誰かレポートしてください。(といって,この分野で詳細にレポートしてくれる余裕のある人は少ない…とほほ。広報不足は問題だと思うんだけど。)
2日目にそのテーマに関する企画があったわけではないが,あちこちの課題研究やラウンドテーブル企画で,初日の盛り上がりの余韻が感じられたのは確かである。
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会場を眺めると,いわゆる大御所の皆さんや多くを占める中堅の研究者・教育関係者の皆さん,そして活躍する大学院生の人々など,いつものように大会を構成する人たち以外にも,新参の若者や長い人生を歩まれたであろうご老人も出席されていた。開かれた学会だから,そうした人たちが参加されていることはとてもいいことだと思う。いつもの問題意識も生まれるが,その事はまた改めて書こう。
遠方よりW先輩とKさんが出席された。久し振りに3人でお会いすることが出来たので,夕食などご一緒した。学会のこと,昨今の話題のこと,もちろん研究のことなどで話が盛り上がり,私自身についてもあれこれ話を聴いてくださった。
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もともと人生の星回りは最初からずれていた。この日本で骨を埋めるのかどうかは分からないけれど,こんな風に日本に住んで生きているなら,なぜ私は始めから純粋な日本人として生まれてこなかったのだろうと思う。
だから,この人生で起こっている様々なボタンの掛け違えのような出来事は,生まれたときからそういうものだったんだと思えば,あんまり気にならない。
周りには迷惑をかけっぱなしではあるけれど,少しずれたところで頑張ることにしよう。
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日本教育学会第66回大会
慌ただしさにかまけて,忘れないように…。
日本教育学会の第66回大会が慶應義塾大学・三田キャンパスで29日(水)と30日(木)行なわれる。
今年,教育関連の学会は,みんな関東圏で行なわれる。
場所は都合よくなったのに,いろいろ予定が厳しいぞ…,ああ悩ましい。
伊吹氏留任
安倍新内閣の文部科学大臣には誰がなるのか,まったく予想も出来ずにいたら,伊吹文明氏が留任。大臣がコロコロ変わるのはどうかと思うし,あの千両役者をそのまま手放す手はないから,ホッとした。
国家による教育の統制には二面性がある。この国の教育を下支えするという点において文部科学省の頑張りに期待したいが,地方の現実を尊重するためには地方自治にも権限をゆだねて欲しい。バランスの問題である以上,丁寧な議論と施策の実行が必要なんだと考える。
教職員の増員を目指すのは(非常勤に頼っている現実を是正する意味においても)よいことだと思う。「主幹教員その他を増やす」という言葉に一抹の不安はあるし,このあいだ義務教育費国庫負担金が減らされたばっかりなのに(地方の負担を考えると)大丈夫かなという気もする。概算要求の段階だから,厳しく言っても仕方ないけど。
どうやってお金を使えば効果的なのか。逆に,これにお金を払ってくれれば現場を支えられるというものを創り出していくことが大事なのかなと思う。少し,この感覚で自分の研究も考えてみよう。
自分はどんな存在か?
ドキュメンタリー映画監督マイケル・ムーア氏の最新作「シッコ(SiCKO)」をレイトショーで観た。「考えさせられる映画だった」という月並みな言葉は横に置いて,どんな風に考えさせられたのかを書くべきなのだろう。
ムーア監督は,これは「私たち(米国人)とはどんな存在なのか?」という問いかけをするための映画だ,と何かのインタビューで答えていた。そして本人も言っているが,それは米国人に限る必要のない問いである。
私は「プロフェッショナルとして就労するとは何なのか?」という問いかけをしている映画にも見えた。或いは単純素朴に,どんな風に働いて生きていくことを望んでいるのか?,という問いにも思える。
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私はいま,3本くらいの「私」を同時進行に走らせている。「社会人としての私」「学生としての私」「バカな浪費者としての私」である。実際のところ,シチュエーションによって,これらを混ぜて使い分ける。皆さんには幾様にも見えるだろう。
どれも本当と嘘の私が存在し,都合次第で使い分ける。私はこれについて大変卑怯だと認識した上で,そのまま自分を許している。私が口だけなのは,そういう自分への甘やかしがあるからだ。
ただし,それと引替えに,私は良い意味でも悪い意味でも徹底的に「教育的」であることにのみ,この身を捧げることにした。私の意識の中で,それを自分自身に対する免罪符として。だから私は善意を語りもすれば,悪意に満ちた皮肉をまき散らす。「教育的」であるという名の下に,私は自分を使い分け,ああでもないこうでもないと「教育的」な振りをするのである。
けれども,何故そんなことになったのだろう。私にだって,ストレートに教育に貢献するための入口が幾つも用意されていたし,実際,そのうちの一つに身をゆだね,9年間も短大教育の現場で奉仕したはずではないか。
なぜ私はいま教育現場で働いていない?
なぜ私は地位や収入を捨てて,大学院生なんぞに戻った?
なぜ私は人に冷や水掛けるような駄文を書き続けている?
なぜ私は自分に善くしてくれている人たちを,最後のところでは信用していない?
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なぜ?を掘り下げて,一体何が自分にそうさせているのかを考え続けてきた。ムーア監督の映画っぽいって?残念ながら彼の映画に巡り会うよりも前から,人生の大半掛けて考え続けていることだから,映画に感化されたってわけじゃない。たまたま作品に出会って,波長が合っただけである。
いろんな物事に原因を押しつけられるような気もする。あんな経験こんな経験。傷つけ傷ついたこと,裏切ったことも裏切られたことも,一度や二度じゃないから,そりゃ人格形成には大きく影響している。
出会った人々も千差万別。どんな悪党だって,過去を振り返る時点にまで来れば,感謝の念さえ抱く。人がいいって?そりゃどうも。調子がいいな?そりゃそうだ。
そして分かった。「矛盾だらけの世の中を生きていくためには,自分自身が矛盾に満ちていることが一番楽である」ということが。だから,すべての「なぜ?」への答えが,「それを自分が望んでいるから」あるいは「必要としているから」だ,ということに私は「すでに」辿り着いていた。
だから私は,いくつもの自分を走らせることで,事態を混沌とさせることに甘んじている。そして,そんな自分を受け容れてくれそうな場所が「教育」という世界ぐらいにしかなかったのである。
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「こんないつまでたってもモラトリアムな野郎が蔓延っているから教育が良くならないのだ」と誰かがお考えなら,それは一つの見識だと思うが,私にしてみると,大して考えてもいないそんな感想論に,失望感すら抱く。
もちろん私は天才ではないし,学力的に優秀とは言い難い。なぜいまだにペラペラと英語がしゃべれないのか,腹立たしく思うことすらある。研究者としての業績も,褒められたものじゃないだろう。
それでも周りに対して誠実に対応してきたし,身を粉にして働いたこともある。私の周りって言うと結局は教育分野でしかないから,教育に対しても人一倍は気を遣って努力してきたと思う。そう,能力が無い分,達成度が低かったとしても私だって教育のプロフェッショナルとして存在していた。
なのに「教育」に携わる者として,束の間の満足感を除けば,どんどんどんどん「教育」に対する人々の意識が衰退している現実に打ちのめされることが増えていった。個人的なレベルの事柄もそうだったが,国全体の雰囲気についても「教育」を印象論・感想論に閉じこめ,教育研究や志ある研究者をないがしろにし続けていることにもうんざりした。
「プロフェッショナルがプロフェッショナルとして生きていくことが叶えられない」なんて,そんな国はどうかしている。気がつけば,声の大きいアマチュアがこの国の教育を云々して影響力を持っていたりする。(追記20070829:まあ,「そういうアンタが一番アマチュアだ」という指摘はもっともである。でも,当然ここではそういう次元の話をしているわけじゃない。)
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マイケル・ムーア監督の「シッコ」は米国の医療保険制度をテーマとして扱うために,その比較対象としてカナダとイギリスとフランスの保険制度やサービスを取材し,なぜWhy?を連発する。
すると話は医療に留まらず,教育の保証にも及び,それらの国の人々が送っている生活の様子を見せていく。さらに,現地に移り住んでいる(監督にとって同郷の)米国人たちにもインタビューし,米国との生活の違いを語らせている。
映画における現実の切り取り方に異論はあるかも知れない。それでも,そこには「医者は医者としての使命を果たす生き方」が叶えられ,「教師は教師としての使命を十全に発揮できる生き方」が支えられ,「人が人として生きる喜び」を保証する社会があるという事実について,間違った解釈は入っていないと思われた。
だから私たちにとって,「たとえ困難があろうと自分が選択した道を安心して生きられる」ということが何よりも大事なのではないかと,映画は訴えているようにも思えるのである。この場合の「安心して」というのは,「困難に立ち向かう」のに必要なバックアップを受けられることだと私は考える。
ところが日本は,米国を真似て,あるいは他国を見るときにも米国の用意した色眼鏡を掛けて,どんどん「安心して困難に立ち向かえない」国になろうとしてきた。結果的には,財政的な浪費が過ぎて,元に戻りたくても戻れないところまで来てしまっている。
そんなとてもきわどい状態にある世の中で,教育に関しても丁寧な取組みが必要となっているのに,教育基本法改正?教育再生?教員免許更新制?耐震化や教職員増員計画で予算倍増?
発しているメッセージが無茶苦茶で,誰一人として納得のいく説明が出来ない。プロフェッショナルとしての仕事はどこにあるのだろう。あるいは現場にいる無数のプロフェッショナルを支えるという発想はどこにあるのだろう。
これは「困難」なんかじゃない。「安心」が脅かされているだけである。見せかけの困難は,私たちが本来的に生きることを遠ざけてしまう。
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それにしても,なぜ日本がそのような国になってきたのか?
私は自分自身について出した結論と同じように解釈している。それは,日本の人々がそう望んだからだと。もっと正確に書けば「合成の誤謬」ということなのだと思っているが,いずれにしても,この国はそういうものを修正しようとする手段に乏しいことを許している時点で,そうなのだと思う。
たぶん,どんな現場も,今できることを誠意を持って真面目にやろうとするだろう。困難に立ち向かうプロフェッショナルとして生きるために,来る日も来る日も努力を続ける。そうやって,この国を支えている。
けれども,それは本来的なのだろうか。その困難は,本当の困難?他国が直面もせずに悩みもしない事柄に,なぜこんなにも大きなエネルギーを割く?誰かが選択の仕方さえ変えれば済むこともあるはずなのに。なぜ,それを問題にしない?
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私は,人々の「割り切り」に敬意を表する。
「現実的であれ。」私自身,何度だって念じた。
問い続けているだけでは何も産めやしない。どこかで現実的になって,現実解を出さなくてはならない。それは妥協の連続だ。だから私自身,下手な妥協を繰り返してきた。もっとエレガントに妥協できればと思う。
けれども同時に,私は,人々の「割り切り」を疎ましく思う。
その割り切りは,何かを覆い隠したり,見ないことだったりする。ときにその割り切りがこちらに向けられたりすれば,喪失感を抱いてしまうだろう。最後のところで,人は分かり合えないのかも知れないが,その事が頻発すれば,生きる意味にも関わる重大な問題を引き起こしかねない。
「シッコ」のラストは,そのさじ加減をどこに置くべきかについて,ムーア監督なりの描き方がなされている。それだけでいいの?というさらなる問いかけもあろうが,一つの作品が描く一つの結論としてはそれでいいのだろう。
このさじ加減問題について適切な距離を取りづらい私は,様々な「私」を同時進行で走らせることによって,それを潜り抜けようとしているわけである。
ご存知のようにマイケル・ムーア作品は,内容や情報の取り上げ方や扱い方について問題視されるため,常に「鵜呑みにするな」という言葉と共に紹介される。どんな制度や仕組みにも長所短所があるわけで,描き方次第でどのようにも印象を変えられる。それゆえ,この映画にもある種の割り切りがあり,そして見る側には,割り切りで見るか,割り切らずにより問題に直接触れていくかを迫るのかも知れない。
とにかく,見て考える価値のある映画だ。
言語力育成協力者会議
文部科学省のメールマガジン「初中教育ニュース」の第63号が発行された。その中のコラム「常盤の“とっておき!”」が言語力育成協力者会議について触れていたので,ご紹介したい。
公的なメールマガジンの文章だから引用は問題ないと思うので,本来なら全文載せるのが礼儀と思うが,申し訳ない,必要な部分だけコピーさせていただく。
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(前略)
会議では、協力者の先生から次の発言がありました。
今の子どもたちには、「自分の存在に確信を持つこと」が重要なのだ。その
ために言語力を育てる必要があるのだというコメントです。
私は、思わず我が手でひざを打ちました。
この会議は言語力の会であります。しかし、言語力を伸ばすこと自体が最終目
的ではないのです。他者とのかかわりが薄くなっている今日、私たちは、子ど
もたちを孤立から救い自立への道を歩ませなければならないのです。子どもた
ちが言語を通して他者との関係性の中に自己を見つめること。言語力の育成を
通じて、生きる力、それも、社会とともに生きる力を育てることが大目的なの
ではないでしょうか。
言葉は、知識や情報を獲得する、考える、感じる、表現するなどの機能を担
っています。学習、生活の基盤となるものです。言語力という基盤をしっかり
と固めることが、子どもたちの力を大きく伸ばし、わが国の教育を大きく飛躍
させることにつながっていくものと確信します。
〔初等中等教育企画課長 常盤 豊〕
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こうした意味で言語力を重視するというのであれば,それは一つの立派なアプローチとして認められていいと思う。とすれば問題は,このメッセージが届くように幾重もの配慮が必要だということである。
正直なところ,協力者会議で議論される面々と現場を担う先生方とでは,そもそも「言語」や「言語力」に対する認識や見解のスタート地点が異なっている。たとえば物事を思想的,哲学的に捉えるという態度にも,かなりの温度差があるだろう。それを乗り越える(あるいは潜り抜ける)術を考えなければならないのではないだろうか。
端的に言えば,「どのように評価するのか」という疑問に対して,納得のいく,もしくは説得的な説明を返すことが出来るのかどうか。その辺に,協力者会議やそれに関わる人々の力量が問われているのだと思う。
星空をGoogle Earthで
夏休みの宿題として毎日,気象日記をつけずとも,気象庁のデータベースを使えば好きな場所の好きな時点の気象情報が手にはいるようになったことは一大事だった。そしてGoogleマップは衛星写真による世界地図を提供し,Google Earthは衛星写真による地球儀を提供して,世界中を驚かせた。
いよいよ私たちは高質な天体写真・星図を自由に眺めることが出来る。ニュースでも報じられているようにGoogle Earthに新機能「Sky」が追加され,地球から眺める夜空を自由に探索できるようになった。
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人によっては,宇宙や天文の世界に憧れる機会がある。雑誌の付録についてきた天体望遠鏡を使って,必死に星空を見定めようとした経験をもつ人も多いに違いない。
昨年12月には長寿雑誌であった『月刊天文』が静かに休刊となったが,『月刊天文ガイド』といった雑誌は天文ファンにとっては大事な情報源かつコミュニティの場であろう。
かつてのパソコン総合誌『月刊アスキー』から生まれた天体シミュレーションソフトの「ステラナビゲータ」が大ヒット。90年代には天文関係のムックが数多く製作されてブームが起こった。PC-9801シリーズのMS-DOS上で凝ったことをすれば,とにかく話題になった時代である。そのソフトを生んだアストロアーツという会社が,親会社だったアスキーの名を受け継いで現在に至っているというのだから,何が起こるか分からない世の中だ。
そしていま,無償配布ソフトで天文写真が自由自在に見られるようになったのである。
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こうした変化は確実に学校教育に届いていく。問題は届けられた側に,それ相応の準備や実践が出来るのかということだ。衛星写真や天文写真をこれほどリッチに扱えるようになったことは,喜ばしいことではあるけれど,同時に使い方にも工夫の余地が生まれる。場合によっては,教材の自由度が,教授の焦点を甘くしてしまう逆効果についても配慮が必要になるだろう。またまた教材研究の新たな課題がやってきたということかも知れない。
ただ,カリキュラムデザイン的な問題意識からすれば,こうした新しい教材を現行の学校教育の文脈に取り込む工夫の開発というだけでなく,こうした教材の生まれる背後の文脈を見通すことにも意識を向けたい。
こうした革新的な産物が,基本的な教授学習の営みを否定するわけではないし,慌てふためいてそれらを変えなければならないというわけではない。そのことを踏まえた上で,あらためて世界が前提としている地盤がフラットになっている現象や,地球環境の変化による過酷な世界生存競争の流れを理解していかないと,同じことをしていても結果が全く異なってしまうし,説得的な説明も難しくなる。
夏風邪?クーラー頭痛?
学会からの帰り道,列車の中でクーラーにあたりすぎたのか少しばかり頭痛があった,そのうえさらにクーラーの効いた場所に居たために,いよいよ本格的に頭痛がやってきた。一仕事終わって体調悪化は辛いなぁ。
翌日,打ち合せの約束があったが,そんな状態だったので,相手の配慮もあって延期。今日は頭痛と暑さに苦しみながら過ごしていた。熱中症かなぁと疑ってみるが,とにかく水分をとって安静にするしかない。夜にはなんとか頭痛が和らいだ。
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学会での発表は,淡々と進めたつもりだったが,最後のベルの意味を勘違いして,慌ただしく終えてしまった。基本的にスライドにいろいろ盛り込みすぎたこともある。こればっかりは精進精進。
非常勤先の大学の先生と発表が隣り合わせたのでご挨拶をした。今年から名古屋近郊に住まわれたとのことで,いいところだと褒めていらした。自分がいた馴染みの街を褒められるのは嬉しい気分である。
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このところヴィゴツキーに触れているのだが,思っていたよりもグサッときている。まだまだ勉強不足だけれど,もしかしたら今後の研究の重要な援用理論になるかも知れない。その先にはエンゲストロームの活動理論などが控えていることになるが,それも興味があったから,上手い具合に吸収できるといいんだけど…。
ううむ
そうだったのか…
http://www.gyoukaku.go.jp/siryou/tokusyu/h190810/index_rationalization.html
夏休みの終わり
夏の暑さの鬱憤を憎まれ口で晴らした後は,水戸にある常磐大学で行われる日本教育情報学会に出席することから今年後半の仕事が始まるといった感じである。ああ,夏休みよ,さようなら。というか夏休みあったのだろうか?
本日これから電車に乗って,学会へ。泊まりのない学会って,ちょっと珍しい気分なのである。午後に発表があるので,ここ数日間,傍らでヴィゴツキーを眺めながらつくっていた教員研修に関するスライドを見せる。わりとシンプルな筋書きの調査報告発表なので,本質のところで悩むことはなかったが,逆にそれでいいのかと不安になるのは私の悪い癖である。
シンプルでいいんだ,シンプルでいいんだ。そう自分に言い聞かせないと…。他人にはよく「聴いている人たちをみんなカボチャと思えば緊張しないよ」とアドバイスするが,今日は発表者の私がカボチャになって,中身空っぽになります。そのつもりであっさりいこう。
ぼちぼち大学院で取り組むべき研究の方向性を固めないと…。夏休みは終わって,本当の秋が来る前に,なんとかしよう。
※教育フォルダのサーバーに障害発生中の模様。アクセスできないときはしばらくお待ちを。
遠く眺めること
大学院生となり,慌ただしい毎日を送っていた。自分の研究を仕切り直しするために歩み出したとはいえ,学生としての学業も課題も多いので,教育界隈の話題や読みたい文献資料なども腰据えて追えていない。長らく皆勤していたカリキュラム学会の大会も,今年は近くで行なわれていたにもかかわらずお休みした。二兎は追えないものであるなぁ…。
たまりたまった日本教育新聞を久し振りに眺めると,教育界は忙しく動いているのがわかるが,同時にそこで展開している論理の,世間からの遊離具合も感じられるようになる。
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NBonlineに掲載された広田照幸氏の「教育も,教育改革もけしからん」は連載が完結したのか,夏休みに入ったからなのか,8月の新しい記事更新は途絶えている。しかし,掲載された分に対する世間(日経BP社出版物を好む層とも言える)からのコメント反応は,論考への賛意もあるが,かなりの割合で異論を唱えるものがあり,教育をテーマにしたネット記事としては賛否を交えた大変興味深い展開となっている。
それだけに,その反応を踏まえた論考続編の準備が必要になったと思われ,きっとこのお休みの間に準備しているのだと予想される。担当編集者である齋藤哲也氏の威勢のよい前口上から本人を信じるなら,きっと大リベンジを用意してくれているはずだ。そういう意味で,広田氏の教育言説への挑戦に新たな地平が広がったとも言える。広田氏をネットに引っ張り出した以上,齋藤氏にはそれなりの成果を上げることが求められるわけで,それでお金もらってるなら「教育らくがき」みたいに「難しい問題である」なんて結論で終わらせるアマチャンなことは許されるはずがない(と発破かけてみる)。意地悪はさておき,少なくとも居酒屋社長のコラムには勝ってほしいものだ。
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ちくまWebに連載中である苅谷剛彦氏の「この国の教育にいま,起きていること」も毎月楽しみにしている記事である(どうして両方のコラムタイトルに読点が入っているのだろう,流行りかな?)。このコラムの面白いところは,苅谷氏の問題関心あるいは怒りの程度がページ数に如実に表れていることである。
第1回 教育バッシングの思わざる効果(3ページ)
第2回 未履修問題から何を学ぶか(5ページ)
第3回 参院選に利用される教育再生会議(4ページ)
第4回 教育委員会制度のどこが問題なのか?(4ページ)
第5回 教育政策の路線変更と全国学力テストの意味(6ページ)
第6回 免許更新制と教員受難のパラドクス(9ページ)
第7回 選挙の目玉になりそこねた、教育再生会議第二次報告(6ページ)
第8回 政治と教育(3ページ)
第9回 参議院選挙以後の教育政策——教育振興基本計画(3ページ)
本来,3ページ程度の連載コラムとして始まったのだが,徐々にボルテージが上がって,第6回には9ページにわたる文章(まあ引用とか多かったんだけどね)を書くまでに至るが,選挙だの政治だのに関わるテーマとなると勢いが消えてしまったかのように元に戻ってしまった。
ページ数変化が面白いと書いたが,きっとこれはそれにまつわる文章を書く立場になった人間にしかわからない,「やっぱりそうだよねぇ」的な共感から来る面白味かも知れない。要するにこの手の話題は「注視する」とか以外に書きようがないのである。だって,真面目にやってない人たちのことを書くようなものだよ,真面目に書けるわけ無いじゃん。
文句たれるなら延々と愚痴はこぼせるけれど,それが建設的でないことくらい,普通の人はわかる。だから教育言説は難しい。文句を建設的なものに変えるには,それなりの「言語力」が必要になってくる(by 中央教育審議会)。
政治と教育…。教育が政治主題として取り上げられることは必要なことだった。しかし,政治舞台で教育を取り上げようとする人間がどんな人間なのかを知ったとき,私たちは大きなため息をつく他なかった。教育は人なり。あらためてこの言葉の意味を重く受け止める次第なのである。
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そんな人を育てることが大事だと考えて取組まれているはずの「教員免許更新制」。その説明会が行なわれた。ニュース報道によれば,「教員免許の更新講習は「双方向評価」」(朝日新聞)とか「10年研修と一元化せず」(日本教育新聞)とか考えられているらしい。
制度設計する人間の心理として,システムの耐性を高めるための様々な予防線や機能・規則を盛り込みたくなるのは理解できる。そもそもそうしないと客観的「評価」が出来ないと言うだろうし,客観的評価ができないと,制度としての評価が出来ず,アカウンタビリティが果たせないことになる。そういう制度設計手法に乗っ取っている以上,こういうデザインになるのは当たり前である。
問題は,説明会に集まった大学や教育委員会が,どれだけ「行間読み」して,違法ではなく「脱法」できるか,またその余地をどれだけ残してあるか,ということなのである。(野暮な説明だと思うが,「違法」と「脱法」は意図していることが違うので同列に考えないでいたたきたい,気に入らないなら「抜け道探し」と読み替えていただいて結構である)
ところが,説明会で事前に集めた質問が,約700件! 地方分権の時代にお上に対して700件も質問が飛ぶのである。こんな依存体質で,行間を読むような芸当が出来るわけがない。700件も行間を潰したかもしれないと思うとゾッとする。事前確認せずにやって,後で注意や警告を文部科学省から食らうのが嫌という発想なのだろうが,それがもう中央依存体質なのである。
そもそも注意や警告といった事態が起こったときに何とかするのが「政治」であり,それぞれの地方で選出した政治家の存在意義も,そういうところで力を発揮して,果敢な地方の挑戦と威圧的な中央の支配との折り合いやバランスをつけるべきなのである。そういう有機的な関係性を築かないから,「政治と教育」という話題について失語症になるのも当然といわざるを得ない。
本来,大学や地方自治団体という「行間読み」や「脱法」のプロ集団であるべきところが,こんなことでどうするのか?原典にあたるとか,第一次資料にあたるとか,張本人に聞くとか等が,研究や調査において重要であることは認めるが,解釈まで他人に頼っていたら,いったい自分のオリジナリティをどこで発揮するつもりなのだろう。
そういう考え方が「ライブドア」のような事件を起こしたという反論もおありかも知れないが,そうした事例による反論だけで現場を絞め殺す規制の乱立やがんじがらめの制度デザインを許すことの方がよっぽど乱暴である。
最近ヴィゴツキーづいているので,その道具主義的方法に当てはめて考えたら,どう解釈できるだろうと想像してみたりする。「行間読み」というのは,内言による思考過程によって編み出されるものだとすれば,そのような思考を可能せしめる内言へと転化する外言の行為として,説明会のやりとりがあったのか。しかし,そう考えると,700件もの質問が内言化されたとして,それら豊富な内言によって展開した思考過程によって編み出されるものが有るのか無いのか。ここでは700もの内言が実のところ自由な思考を妨げる効果をもってしまうという風に想定している。けれども,場合によっては700もの内言を踏まえ,それを乗り越えた思考のもとで高次の創造性を発揮することも可能なはずである。
そうなるとハードルは700もの質問で高められてしまったが,それらを踏まえた素晴らしい教員免許更新講習が創造されることを期待できなくもない。もしも,私たちが国づくりのためのあるべき姿の設計を目指すというのであれば,まさにその難関を乗り越えて取組んでいかなくてはならないのだと思う。
もっとも私みたいな能力のない者は,難関を「くぐり抜けて」取組んでいくほうが性に合っているのだけど,本当にこの国の大学や教育委員会の皆様は,志が高くていらっしゃる。いいんですよ,どっちでも,私,気にしませんから。