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「地デジの馬鹿野郎」と言いたい

 GW初の祝日。とても天気が良いので,徳島の街を自転車で探検することにした。といっても,徳島はもともと郊外型の街。やはり自動車がないといけない場所もたくさんあって,なかなか大変である。

 今回は徳島駅を中心とした周辺をぐるっと回った感じとなった。周辺の施設や中央公園に寄ったり,ヤマダ電機やいくつかの本屋さんを発見して店内を吟味した。サイクリングの途中,徳島新聞社と四国放送という地元マスコミの社屋も眺めた。サイクリング自体は天気も良かったので楽しかった。

 まあ,良い意味でも悪い意味でも,地方都市であり,近くに大都市がある微妙な土地だ。中心部でさえ自動車がないと不自由してしまうあたりが玉に瑕だが,暮らす分にはこれくらいののどかさが理想的ともいえる。

 とはいえ,新しい事柄を追求するのも教育・研究に関わる人間としての勤め。新しい事柄へのアンテナを2倍も3倍も高く張らないと,この土地で未来を見通し続けるのは,なかなか難しくなってしまう。

 もともと地上波デジタルを快く思っていない。地上波デジタルへの移行による電波の有効利用ができるというメリットを否定するつもりはないが,アナログ地上波を完全廃止することのデメリットを不安に思うからである。

 もう一つは,デジタル化による不自由を具現化するものであるという点でも,デジタル放送に対する懐疑心は強い。著作権に関する議論の未熟な状態で,放送局や製作者側の権利ばかりを優先している現状を肯定したまま,デジタル化を推し進めていることも問題だ。その結果,利活用のための迂回路があれこれ出来上がってしまう結果となっている。

 こういう愚作が繰り返されるのは,人々がまともな評論を回避してしまうからである。そのための材料もまともに用意されない。なんでこんな複雑なものが生まれるのだろう。デジタルというのは,もっとシンプルなものではなかったか。これではやけ酒したくなる。

 もちろん,流れを止められない以上,提示された条件や状況の中で最善を探す努力は必要である。しかし,もう一方の手に哲学や批評を掴んで自分たちをたしなめなければ,困るのは次代の人々なのである。

 
 そして,私がなぜ「地デジの馬鹿野郎」と言いたいのか。

 地上波デジタルに完全移行すると,徳島で視聴できる民放は一つだけになってしまうからである。

 アナログ地上波なら大阪の放送局の電波が届くので,不自由なくいろんな番組が見られるが,デジタルに移行すると地元の四国放送とNHKしか見られなくなる。

 BSとかCSとかケーブルテレビの機器を購入して視聴しなさいということか?

 テレビを見る機会は少なくなったとはいえ,こんなテレビ環境とは…。

 テレビの未来は,本当にこの道?

ゆとり世代

 「教育方法・技術論」といった教職科目を担当し続ける中で,最近の学生たちからのコメントで触れられている,ある風潮について読む度,悲しい気持ちになる。これはいまの職場だけの話ではない,念のため。

 授業で「学習指導要領の変遷」をテーマに扱い,講義をする。その時の授業で必ず,学生のコメント用紙に次のような内容のものが書かれて返ってくるのである。

 曰く,自分たちは周りから「ゆとり世代」と呼ばれている。ある者は,そのことを指して「君たちはゆとり教育の被害者(あるいは犠牲者)だから…」と口にする。あからさまではないにしても,自分たちはネガティブな見方をされている。

 そして学生によって,ある人はそのことを理不尽と思い反論するし,ある人は自分自身でやるせなくなっているし,ある人はすっかり自信を失って軽く自暴自棄なコメントを書いてくる。

 学力や学習意欲の問題は,丁寧に議論する必要があるため,安易な印象論で語るべきではない。ところが,そういう基本的な鉄則が踏まえられないために,キーワードだけ捕まえて人に何かを言ってしまう例が多い。

 学生達のコメントには,人から言われた切ない言葉が具体的に書かれていたりする。そういう言葉を若者に向けて発するのは,個人的には感心しない。

 それにしても「ゆとり世代」という言葉はどこからやって来たのか。

 「ゆとり教育」も正式な用語ではないが,かなり使われているためにある百科事典には掲載されている。(最近公開された「コトバンク」という百科事典サイトを使うと「百科事典マイペディア」で用語採録されているらしいことがわかる。)

 しかし,「ゆとり世代」はwikipediaぐらいにしかない。(ちにみにwikipediaの教育関連項目は,どうも高校教育に強い人が書いたものが多かったりして,内容のまとまり方や深まり方にムラがあるから注意が必要だ。まあ,wikipedia全体の特徴だけど。)

 どうやら,学習指導要領が平成10,11年度に改訂した際に行なった「教育内容の削減」の影響を受けた人たちのことを主に指しているらしい。この改訂が完全実施されるのが平成14年度(小中)と平成15年度(高)なので,その時点から小中高校に通っている人たちを指しているということになる。

 ただし,それ以前の学習指導要領改訂(S52,53とか)でも「ゆとり」の重視は目指されたことがあるし,平成元年改訂(H4,5,6実施)も個性重視と生活科の導入でそのような流れは続いていたのだから,広義に捉えたとき「ゆとり世代」はもっと上の年齢層も含まれるだろう。

 結局,別の世代のことを理解できないことを棚に上げて,レッテルを貼って印象論で片づけようとする行為が,「ゆとり世代」という言葉を生かしてしまっているのだろう。

 時代が移り変わることで,人がある年齢で接する文化は自ずと変わる。接する文化の違う人を理解するのは,いつでも大変なことだ。

 私自身も,とても苦労することが増えた。アニメやマンガの話は,もうほとんど分からなくなっている。自分が新しいと思っていたものが,いまの学生達にとっては二世代も三世代も前のものだったりする。

 最近は,そういう入り口に無理して追いつく必要はないなと思う。だから,あんまり無理して若者を追いかけないで,マイペースで行くことにしている。

 ゆとり世代に対するイメージは,そりゃいろいろあるが,ポジティブにしろ,ネガティブにしろ,最終的には私自身が相手にどう向かい合うかで,相手の態度も決まってくる。

 だから,ここでも「知識」というものを通した誠実な関係を学生達と育めればと思う。前へ進もう。

教育の方法及び技術

 教職科目の一つである「教育方法・技術論」という授業を受け持っている。細々とでも,教職に関心を抱く学生達と授業を介して関われるのは幸せなことである。

 私が職場で受け持っている「教育方法・技術論」という授業の名前は,この大学が採用したネーミングである。同じ位置づけの科目でも他大学では異なる名前が付けられている場合もある。たとえば「教育方法と技術」とか,「教育の内容と方法」とか。

 教育職員免許法と教育職員免許法施行規則という法律までさかのぼれば,この授業が位置づけられている項目は次のようになる。

 「教職に関する科目」の
   「教育課程及び指導法に関する科目」の内の
     「教育の方法及び技術(情報機器及び教材の活用を含む。)」である。

 要するに,法律に記された言葉をもとにつくれば「教育の方法と技術」という名前になるのが普通というわけである。

 といっても,「方法」と「技術」だけキレイに取り出して扱うことが出来るはずもない。のりしろを用意して,「内容」「方法」「技術」「評価」という一連の大きな流れを守備範囲として講義をすることになる。

 大概の「教育の方法と技術」のテキスト(教科書)も,そのような範囲で書かれている。具体的な内容は,執筆者の顔ぶれ次第で様々だが,少しでも実践に近づくことが意図されているのは共通している。

twitterは世界をつなぐ?

 CNNで,twitterがイラクでも使われるようになっていることを取り上げている。もともとイラクではテキストメッセージングが結構使われているらしい。そこにtwitterが入り込もうとしているといった感じの話題だ。

 英国の新しいカリキュラムの中にブログやtwitterも登場することが話題になっているが,twitterに対するgoogleの動きやオバマ大統領が選挙活動時に活用していたことなどもあって,ここ最近さらにtwitterへの関心は高まっている。

 私自身もiPhoneとの組み合わせで気がついたところでたまにtwitterに書き込みをする。四六時中というわけにはいかないし,忘れっぽいので間が空いてしまいがちだが,それでもその時々のつぶやきを記録で残せるのは,ある程度面白い。

 だからこそ,twitterの利用の仕方を教育現場で考えさせないと,意図せざるプライバシー侵害を引き起こすことにもなるし,巧妙な情報操作によって騙されてしまうことにもなる。

 新しい「教育の情報化に関する手引」が登場したのはご存知の通り。そして情報モラルを重視していることだけでなく,その中で「学校・家庭・地域による最新情報の共有」の重要性についても触れられている。

 twitterってなに?という素朴な疑問をお持ちになったら,ぜひ調べたり体験したりして,その可能性や危険性についていろいろと情報を共有して欲しい。

 ちなみに私のtwitterページはkotatsurin。不用意なプライバシーの垂れ流しが如何に危険か,あるいは意図的なイメージの操作がどんなものなのか,フォローするなりして考えていただきたい。

『デジタルゲーム学習』

 「デジタル・ネイティブ」という言葉を広めたマーク・プレンスキー氏の主著”Digital Game-Based Learning”の邦訳『デジタルゲーム学習』が発売された。

 「シリアスゲーム」という,ゲームを使った社会的な学びに関する領域があり,本書はそのようなゲームを介して学ぶとは何かを考察していった文献である。書名の翻訳の悩ましさで,事情を知らないとデジタルゲームについて学習することを論じた本のようにも受け止められるかも知れないが,そうではない。

 ゲームが好きな人たちは多い。本当に多い。そうした嗜好をもつ人たちは,ゲームを介して様々な事柄を学んでいたりする。物語性の高いゲームから,人生の教訓を学んだという人ももう珍しくはない。

 シリアスゲームは,その辺のゲームの効果を頼りにしながら,もっと現実の社会に沿った学びを狙ったものである。それでいてゲームとしての特性も失わないものをつくらなければならないので,この辺が結構大変みたいだ。

 ゲーム自体を云々することも重要なのだが,この議論には,デジタル時代に生きる人たちの学びのあり方を考えるという,あるいみこれからの時代にとって普遍的な問い掛けが含まれている。そういう意味で,本書は,同著者による『テレビゲーム教育論』とともに重要な文献ともいえる。

ちょっとお安い?

 Microsoft Office2007 Professional アカデミック版が19,800円で優待販売されるらしい。Office2010が来年出るとニュースがあったばかり。これぐらいの値段ならOffice2007の習得のためにも個人的に買ってみようかな。

 →PC Watchの記事

memo20090419

・厚労省,生活保護世帯の小中高校生に学習支援の新給付金(17日)
 →7月を目処に創設するという。これも経済危機対策の一環だろうか。17日の時点,厚労省サイトに情報はない。全国19万人に対して一ヶ月あたり,小学生2500円,中学生4300円,高校生5000円の見込み。使途は給食費といった学校費以外向けだという。

・小学館,『最新教育基本用語2009-2010』発売
 →H20学習指導要領に対応した新しい版が登場(ネット版)。教育関係者ならとりあえず手元に一冊。

Top school hires ‘mind gurus’ to teach its pupils how to think
 →あのマインドマップでおなじみのトニー・ブザンを雇った学校の記事。子どもたちだけでなく先生や学校スタッフ,保護者に対しても思考の技をレクチャーするみたいだ。こういう多様性が強さでもあり,厳しさ(辛さ)でもあると思う。

【教師が研究を志す日】01

 現場教師にとって,「研究」という言葉は2つの響きを感じさせます。一つは,どうにも手間ばかりかかって,あまり実効性のない試み。もう一つは,もしかしたら自分の努力を後付け更なる前進をもたらす企て。

 毎日の実践に追われて過ごす日々の中で,ある日,自分の実践を振り返る機会が与えられたりします。それはふとした自分の気付きによるものかも知れませんし,あるいは,教育委員会からのお達しによる研修としてかも知れません。とにかく,その日は突然やってきます。普段の実践研究とは違う,学術研究と向かい合う日が訪れるのです。

 ここでいう実践研究とは何でしょうか。一つ参考になるものとして,群馬県教育研究所連盟(2001)が掲げる「学校における実践的研究」があります。その特質とは:

○子供の変容や成長にかかわる研究である
○実践と理論を結び付けた研究である
○教育実践の質を高め,その方向付けを行う研究である
○研究の深まりとともに新しいことに気付き,修正を加えながら進めるというように可変性,柔軟性のある研究である

となっています(15頁)。

 そして,いくつかの研究方法の中から,これらを満たすものとして「授業研究」「教材開発研究」「事例研究」「調査研究」の4つを「実践的研究」と捉えるのです。

 ちなみに,特質を一部満たさなかったのは「理論的研究」と「実験的研究」でした。だからといって,この2つが学術研究なのだという風に分けられるわけではありません。

 
 何を実践研究と考え,何を学術研究と考えるかは,立場によって異なるでしょう。私は「見える世界を見ようとするのが実践研究」であり,「見えない世界を見ようとするのが学術研究」だと表現しておきたいと思います。

 なぜそのように表現するのか。上記の特質も引き合いに出しながら,次回以降,考えていくことにしましょう。

群馬県教育研究所連盟(2001)『改訂新版 実践的研究のすすめ方』東洋館出版社2001.2

教育情報誌『BERD』終刊

 その存在はあまり知られて無かったのかも知れないが,教育情報誌としては内容も体裁も高い水準を目指して頑張っていた『BERD』がこの3月の16号をもって刊行を終えることになっていた。引越し前の住所から最終号が転送されてきて,ようやく知った。

 教育情報誌というのもいろいろあるが,『BERD』は研究者向けという扱いで発刊されていた。確かに調査・学術研究の成果を掲載することが主だったので,読者も研究者かそういった次元の情報を望む人々におのずと限られていたところはある。

 しかし,実際にはもっと多くの人たちが目を通すべき雑誌だった。そもそも一般マスコミの流す教育情報は,安易なステレオタイプにもとづく論考か,パーセンテージだけ見てインパクトのある調査データの紹介で終わり,教育を深く考えるための材料を提示しているものは少ない。その点,『BERD』は,研究者らの研究成果を的確さを失わず読みやすく伝えていた,数少ない良心的な教育情報誌だった。

 情報を伝達するための努力は特筆すべきものがあった。一つには,インターネット上に最新号のみならず,すべてのバックナンバーを公開しているという点。二つ目は,その紙面作りの質の高さである。

 『BERD』はすべての論文や記事をPDFファイルとしてインターネット上に公開している。つまり無償で内容を見ることが出来るのである。そして申し込むことによって,印刷されたものを毎号送ってもらうことも出来た。
 そのフルカラー印刷された紙媒体も質の高いものであり,本来であれば1000円程度の値段が付いてもおかしくないものだった。たぶん,それでも足りないと思う。

 さらに『BERD』の紙面は,レイアウトとグラフィックに力を入れており,論文には必ず表やグラフなどの図版や執筆者のポートレート写真が掲載されていた。

 研究成果において黒子ともいえる研究者自身を前面に出し,ポートレート写真を掲載するということは,一見すると無駄にも思えるかも知れない。しかし,発信者の姿をしっかりと映し出すことによって,研究成果の伝達に強さや勢いを持たせることが可能になる。そのために,ちゃんとプロのカメラマンに撮影をさせていたと聞いている。研究者が一番格好良く写真に収められている雑誌はどれかと問われれば,それは『BERD』だったと断言してもいい。

 この2点が,何を意味しているかというと,編集者が内容面だけでなく,読んでもらうための雑誌を作るという点においても努力を怠っていなかったということ。それを「研究者向け」雑誌でちゃんとやっていたことが素晴らしかったと考える。

 もっと多くの人に,この雑誌が読まれることをずっと願っていたが,残念ながら終刊とのこと。とにかく,関係者の皆様,大変お疲れ様でした。雑誌は終われど,そのコンセプトは立派だったし,また復活すべきと思う。

 追記20090419:『BERD』創刊時のニュースリリース。創刊に至るための背景事情はいまだ変わらず,必要性はますます増大している。この雑誌を支える土壌や文化をつくれていない私たちの体たらくを厳しく反省すべきだろう。

リキッドな私

 新しい職場も第3週目が終わろうとしているところ。一週間が過ぎるのは速い。授業のための作業や校務もそうだが,引っ越して仕事に就いたことを知人の皆さんにご報告することも後手に回っている。いま名刺をパソコンの読み込ませたり,年賀状を整理し始めているが,それだけでも時間がかかって仕方ない…。

 『現代思想』4月号恒例の教育特集に,松下良平氏の「リキッド・モダンな消費社会における教育の迷走」という論考があった。そこで扱われている社会学者のジグムント・バウマン氏の著書(『リキッド・モダニティ』等)が気になったのであれこれ取り寄せたのだが読めていない。そういえば書店で『コミュニティ』という本が並んでいたなぁ,そっちも読みたかったのに。

 流転漂流するのに慣れた私にしてみると,リキッド・ライフ(液体的・流動的な生活)と改めて言われて,そのような生き方があまり望ましくないと指摘されると,ちょっとハッとする感じになる。

 普通は,就職したら,嫁さん見つけて,家でも建てて,落ち着いた生活や人生を送るのが健全なのかも知れない。実際,そういう近代の側に立つバウマン氏は,一連の著書でリキッドな社会や生活を批判している。

 でも,携帯電話やそれに類する道具が普及して,ユビキタスな環境が現実化する今日において,社会はリキッドたることをけしかけてくる。それも消費という誘惑を使ったり,雇用という条件をちらつかせたりして。

 都会と地方都市では,その影響の大きさがだいぶ違うのかなとも思う。結局,物事がつながっているので,まったく影響がないわけではないが,やはり地方は土着の共同体風土がリキッドになりにくい要素として残っているのではないだろうか。

 共同体やムラ社会,日本人の意識みたいなところは,山岸俊男氏の社会心理学のお話をもうちょっと丁寧におさらいをしないと…。ああ,でもあれこれやってからだな。