東京大学のキャンパス内には,いくつもの飲食店がある。私が在籍していた大学院は出来たばかりの福武ホールという建物にあったが,そこにもUTカフェ(UT Cafe BERTHOLLET Rouge)という飲食店があった。
東京大学のカフェと名付けられたこともあってメニューは本格的である。正直,貧乏大学院生にとっては,少々値の張る内容のため,すぐ隣にありながらも自分で利用するのは特別な時だけだった。
それでも,ゼミの後の食事会やイベント事のパーティーの席,何かの機会に複数の人間で利用することは幾度もあった。大変贅沢な料理を堪能できたのは幸せだった。
仕事に就いた今も(就いていた昔も),自分での食事は貧相なものばかりなので,UTカフェのメニューは想い出深い。特に「ポムフリ」というフライドポテトの味は絶品だ。そのことを研究室のブログに書いたりもした。その評判を聞きつけた地下鉄の広報誌が取材に来て,ポムフリが記事になったくらいの絶品メニューである。
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大学内で飲食店を営むということは,どれだけ大変なのだろう。
特に,新規開店したお店の立ち上げ時期は,何も蓄積がなく,すべてが初めてという条件の中だけに,無事に通常営業するということが難題だったのかも知れない。
その女性店長さんは,いつも黒いシンプルなユニフォームを着て,朝の開店準備を始める。スタッフが前日分のゴミ出しや店内のテーブルや食器の準備などして,店長さんは地下にある食材庫から必要な食材をせっせと運ぶ。段ボールはいつも重たそうだ。階段を上がってくる店長さんを見かけた時には,ドアなどを開けてあげる。
お店は赤門のすぐ横。お客は観光に来た人々だったり,キャンパスに散歩しに来る近所の人だったり。お昼のランチタイムは,学内の女性職員さん達がどっと押し寄せる。東大の近辺にはOLさん向けの飲食店が少ないのだ。ある意味,UTカフェは,東大の若い女性職員さん達にとってランチタイムの救世主的なお店となった。
小さい厨房で店長さんは休む暇なく調理を続ける。スタッフの皆さんもフル回転だ。ランチタイムのUTカフェは,ほぼ女性専用だと考えた方がいい。それくらい賑やかな異空間だった。
そんな慌ただしい時間を過ぎると,ようやくカフェらしいゆったりとした時間が流れ始める。やがて辺りが暗くなり,夜へと迷い込むと,UTカフェには,たまに静けさが訪れたりする。学内に残っているのは,残業中の先生方か職員さんか,大学院生くらいだ。
たまに通り過ぎる時に店内からしゃべり声が聞こえる。店長さんやスタッフさん達の憩いの時間といったところだろうか。閉店時間の夜9時半まで。そんな雰囲気でお客の来店を待つ。
そろそろ閉店時間。看板をしまい,閉店の準備。今日も何度,一階のお店と地下2階の食材庫とを往復しただろう。そんなことを考えながら明日の準備と仕込みが始まる。
10時を過ぎて,スタッフが帰ったあとも,店長さんは一人薄暗くなった店内の奥にある厨房で作業をしている。実際,どんな作業をしていたのか,ただお店の前を通り過ぎるだけの僕には分からないけれども,毎晩のように次の日お店が開くよう努力されていたことだけはわかる。
そうやって,東京大学に新しくできたカフェは,最初の一年間を乗り切り,2回目の春を迎えた。
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特別な時にポムフリとビールを飲みに行くだけだったけれども,居場所はお隣さんみたいな場所だったので,店長さんともたまに挨拶をしていた。
春になり,東京大学を離れることになった最後の日,僕はUTカフェに寄って,店長さんにお礼を言うことにした。何しろ,年間を通してこんなに贅沢な食環境にいたのは人生で初めてだったし,ポムフリの味には感動していたので,どうしても感謝の言葉を伝えたかった。
「店長さん,こんにちは」
「あ,こんにちは」
「あの,この度,東京大学を離れることになりまして…」
「ああ,そうなんですか」
「はい,で,この一年美味しい料理をありがとうございました」
「いえいえ,で,どちらへ行かれるんですか?」
「はい,徳島へ飛びます」
「そうですか,頑張ってください」
「ありがとうございます。店長さんも大変でしょうが頑張ってください」
「あ,実は…私も離れることになって」
「え?」
「今月までなんです」
「あ〜,そうですか,じゃ本店か,別の支店に…」
「いえ,別のところへ…」
「そうなんですか〜,それはまた…,本当にお疲れさまでした」
「ありがとうございます」
そんな店長さんからの意外な返事を聞きながらも,本当にその一年間のお仕事の大変さを想像して,僕は心の中で大きな表彰状をあげたくなってしまった。
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2年目からのUTカフェは,営業時間をずらして,夜の8時には閉店することになったらしい。一年目の夜の静けさを考えれば当然の変更かも知れない。90分早く終えれば,それだけ次の日の準備も仕込みも早く取り掛かれる。そうやって,UTカフェはいまも賑やかに営業しているのだろう。
夜遅くまで頑張っていたあの店長さんのその後はもちろん知らないが,きっとまた頑張られているに違いない。そんな店長さんが私にとっては想い出深い。
賑やかなUTカフェの裏側の小さな物語である。