月別アーカイブ: 2007年2月

とるものもとりあえず成田へ ((豪州渡航記01))

 有り難いことに豪州(オーストラリア)の学校視察に連れて行ってもらえることになったので,本日成田へ向かわなくてはならない。実は荷造りも部屋の片付けもまだ完了していないので,徹夜になりそうなのだ。

 オーストラリアの教育について手元にあるわずかな資料を紐解くと,地域や州が独自に教育行政や学校制度を営む仕組みであるようだ。それでいて,オーストラリア全体での国際競争力などを高めるため,連邦レベルでの審議会でナショナルカリキュラムを示したり,教育方針の足並みを揃えようともしている。実際には,本当に州毎の独自性を前面に押し出す傾向が強くて,訪れる場所によって同じオーストラリアでもかなり様子が異なるらしい。

 それでも,コンピュータ利用に積極的であることや,英語や英語以外の言語教育,そして広大な国土ゆえに遠隔教育などがオーストラリア全体の教育の特徴であるとされている。

 今回出かけるのはウエスタン・オーストラリア州にあるパースという都市である。で,パースという街がどういうところで,どんなことになるのか。学校視察がどんな風になっているのか,ほとんど飲み込めていない。いやはや,イギリスのことを消化するのに手間取ったままなので,オーストラリアまで手が回ってなかったんだよね,とほほ。

 というわけで,恒例の旅行記を綴りながら考えをめぐらせていくしかなさそうだ。ちなみに豪州は真夏。かなり暑いとの情報を得ている。半袖あんまり持っていないんだよなぁ。どうしよう…。

如月11日目

 教え子たちの様子を見るため古巣の職場に来ている。2年間受け持つ予定だったクラスを1年でほっぽり出して上京したことから,この子たちには大きな借りがある。卒業するまで,なるべく行事などに行こうと心に決めていた。
 卒業直前の大きな行事に立ち合って,学生たちの成長やクラス内の関係が様々に動いたことが分かった。もう少し時間があれば,よりクラスの団結も深まるだろうに…とも思った。最初この教え子たちは,それぞれ個性が強くて,またそれでいて遠慮がちなところもある分だけ,まとまることが難しそうだった。それゆえ物事がなかなか前進せず,お互いイライラしてしまいがちでもあった。そんなクラスが,最後の行事でひとつのものを作り上げる団結力を発揮してくれたのである。
 辞めておいて身勝手な話だが,クラスが一丸となっていたことを見て嬉しかった。他の先生たちの支えと学生たちの根性の成果であるが,その様子を見て,私はうるうると瞳を潤ませた。本当にもう少しの時間と何かを取り組む機会があれば,このクラスはもっと強くなる。それを確信すればするほど,悔しい気持ちも増す。いろんな意味で。
 間もなく学生たちは卒業の日を迎える。私にとっては永遠に教え子だし,彼女たちのためにできることがあるなら尽力する覚悟はあれど,今後は社会の中のそれぞれの場所に散って生きる日々が始まる。機会がない限り,お別れである。
 結果的には,私もまた次の場所で生きる日々を新たに始められることになった。そのことを応援してくれた教え子たちに感謝。だからこそ,これからも恥ずかしくないように頑張らないといけない。
 精神や倫理にだけ頼るつもりはない。けれども,誰かを想い,自分にとっても誰かにとっても恥ずかしくないように努力することは,どんな場面でも大切だと思う。うまくいかないときもある。迷って間違った方向に進むこともある。それでも常に意識していることで,進むべき道を見極めていくべきだと思う。それは個人レベルでも,地方自治とか国家政治のレベルでも同じことだと思うのだ。そのための手段は違うとしても。
 校舎に響く学生と子ども達の声に耳を傾けながら,相変わらず小難しいことを考えて時間をすごしていた。 

統制と管理と自由と懐と

 ここしばらく,英国出張後の整理をかねて,イギリスの教育制度について復習していた。かなり昔に学んだ知識は,目まぐるしいイギリス教育改革のおかげで,すっかり役立たずになっていた。
 幸い,英国のオンラインリソースは充実しているので,最新情報はWebを通じてあれこれ入手できる。けれども,昔の知識からのすりあわせをしながら理解するとなると,英語だけでは少々辛い。日本語の文献をあれこれ漁って,付き合わせながら一個一個流れを押えていかないと…。日本語訳も人によってまちまちだし。
 イギリス教育に関する日本語文献としては,基本的に文部科学省の「諸外国の教育の動き」シリーズが頼りになる。それ以外だと,最近書店で見かけたのが,清田夏代『現代イギリスの教育行政改革』(勁草書房2005.10)とかあったが,これは教育行政バリバリの専門書で,教育制度を知るにはあまり手軽じゃない。読み物的なら,小林章夫『教育とは −イギリスの学校からまなぶ』(NTT出版2005.8)とか,佐貫浩『イギリスの教育改革と日本』(高文研2002.8)あたりが手頃だろう。あとは教育関係の大学テキストなどに世界の教育比較として一章割り当てられているものがある。
 ただ,今年に入っても教育改革の動きは慌ただしく,11歳と14歳で受けている各ステージ最終テストの受験時期をずらすことができる仕組みを試そうとしたり,義務教育の対象年齢を18歳に引き上げるため動き出したとか,ここ数日では新たな共通カリキュラムの試案が公開されたりしている。印刷文献だと,どうしてもこういう動きに追いつけきれない。私なんか,もう頭痛の連続である。
 こんなイギリスの教育を眺めていると変な既視感がつきまとう。ん?そうか,今の日本の教育改革はこの慌ただしさを真似ようとしているのか。ブレア政権が教育を政策の最優先事項にしたことも,地方教育当局(LEA)を縮小して国家介入を強めたことも,ナショナル・カリキュラムとナショナル・テストによる国家による目標管理体制なども,いまの安倍政権下で展開しているあれこれにリンクが張れそうである。もっともその下手な焼き直しが各方面から批判を浴びているけれども…。
 イギリスの教育を理解するには,イギリスの政治を大雑把でも把握しておく必要がある。1979〜1997年の保守党政権期を経て,1997年から今日に至る労働党ブレア政権の流れ。そしてイギリスの伝統などを考えると,単純に制度の仕組みだけを捉えて善し悪しを論じることができないことが分かる。そういう意味では,私自身もいくつかの駄文に反省を加えなくてはならない。
 梶間みどり氏が『教育の比較社会学』(学文社2004.1)に書いたイギリス教育改革に関する論考は,次のように3つの転換をイギリス国家に見ている。第1が,かつての「福祉国家」から「自立型国家」への転換。第2が,「官僚主導型の行政経営」から「受益者主導型の行政経営や政策の重点化」。そして第3が,「評価国家」への転換である。
 このことによって何がどうなっているのか。前出文献で佐貫氏が書いているのは,次のようなことである。教育価値を国家が評価主体としてコントロールすることによって目標管理システムが国家的な規模で展開しているが,一方で,個別学校や教師への統制的な命令が必要とはされていない,と(199頁要約)。
 つまり佐貫氏は,イギリスの国家介入は,評価管理であり,統制管理ではないということ。ゆえに,国家介入によって,学校現場の自由が制限されることは,日本と比較すれば少ないというのである。
 これは逆に言えば,評価をもとに自由を有効活用できなければ,仕組み自体が破綻することを意味している。そのための支援も合わせて措置されていることも重要なのだが,イギリスでこの仕組みが妥当なのは,もともと国民の意識が高いという文化的な背景が大きく貢献しているように思う。もし仕組みを日本に持ち込んだとしても,これだけの政治的問題や役所の不祥事を何もせずに忘却のもと放置できる国では,導入すら難しいのだろう。
 ブレア氏が英国首相就任の前年である1996年労働党大会の演説で,政策の優先課題3つを「エデュケーション,エデュケーション,エデュケーション」としたことは,あまりに有名。教育改革の荒っぽさはあるが,その効果は現れてきている。そして何よりも,教育予算を増加させ続けてきた。対GDP比においても就任当初から数年は減少していたが,2000年以降はこちらも増加の一途である。
 もちろん,最終的な問題は予算の「使い方」あるいは「使わせ方」である。日本の教育予算が少ないことは,どこかの失言政治家が存在すること以上に世界の恥である。百歩といわず千歩も万歩も譲ったとして,少ない教育予算をやりくりすることは仕方ないことだと信じ込んだとしても,それを効果的に使うことに関して,日本は下手くそである。
 教育委員会制度の抜本的見直しが,これに関する一つの適切な解法なのかどうかは,もう少し議論の行方を見なければならない。だけれども,そんな手にさえ可能性をみたいと思う心理を抱くのは,あまりに変わらなさすぎる日本の教育にうんざりしているせいなのかも知れない。願わくは,そんな感情ベースの判断はしたくはないけれども。

教員1人1台時代のICT活用フォーラム

 節分の日,JAPET主催の情報教育対応教員研修全国セミナーが東京で催されたので出席した。今回のセミナーテーマは「教員1人1台時代のICT活用」で,2010年までに教員用パソコンが整備されることを見据えたものだった。
 さて,関係者には馴染みのことかも知れないが,これからは馬鹿丁寧に説明することを心掛けようと思うので,あえてゼロからご紹介してみたい。
 日本の教育について大元締めは,ご存知「文部科学省」(前身は文部省)だ。しかし,文部科学省というお役所だけでは,実務的に動くには心許ないことも多いので,大概のお役所がそうであるように,特定分野に対して取り組んだり,実働するような取り巻き機関や団体,公益法人などがある。
 日本で情報教育を普及推進させることにも,関係組織が存在する。その代表とも言えるのが「日本教育工学振興会」(JAPET)と呼ばれる公益法人である。関係者は「ジャペット」と呼んでいる。英国で積極的に教育のICT活用を推進している「英国教育工学通信協会」(BECTA)呼称「ベクタ」という組織と同じ位置づけとも言えるだろう。
 こういう組織は,国から委託費や補助金をもらって目的に向けて実働するため存在する。このJAPETも「学校におけるIT活用等の推進に係る事業」という名目の委託費をもらい,さらに会員を募って資金を確保しながら運営されている公益法人の一つである。
 ちなみにJAPETには仲良し団体が2つある。「日本教育工学協会」(JAET)と「日本教育工学会」(JSET)で,3つ合わせて自分たちのことを「教育工学3団体」と称している。この「だんご3兄弟」みたいなグループは,研究活動を得意としているのが特徴だ。
 長いこと研究活動や研修活動を展開してきた教育工学3兄弟は,競争激しい世間で実務をするにはあまりにお上品すぎる性格であるということもあって,情報教育の普及推進をもっとバリバリに請け負ってくれる実働部隊が必要になってきたのが2004年頃。なにしろ2005年度末までに世界最先端のIT国家になるという計画を日本の政府がぶちあげたものだから,教育分野も情報環境の整備を約束してしまった手前,その目標を達成する必要があった。
 国はお金を用意したし,3兄弟もいろいろ働きかけた。それにもかかわらず,地方のお役所がちっとも動いてくれない。目標達成が危ぶまれた。そこで,研究熱心な3兄弟とは性格の異なる,売り込み熱心な子どもを儲けることにした。それが「教育情報化推進協議会」である。
 この他にも文部科学省の情報教育家族には,大学などの高等教育を主に担当する独立法人「メディア教育開発センター」というお兄さんがいて,たまに助けてくれたりする。
 家族はこれだけではない。国で情報分野を扱うのは文部科学省だけではなく,経済産業省も情報分野を扱っている(企業の情報化などでこっちの方が経験豊富だ)。そんなわけで,先ほど紹介した「教育情報化推進協議会」は文部科学省と経済産業省と総務省が共同で儲けた子どもだし,他にも文部科学省と経済産業省で儲けた財団法人「コンピュータ教育開発センター」(CEC)という兄弟がいる。
 親戚関係では,長い歴史を持つ視聴覚関係のおじさんや電子・情報処理関係のおばさん達がたくさんいるのだが,まあ,歳も歳だし,慌ただしく動き回るってことはない。

 というわけで,長い前振りであったが,そんな家系の中で,長男的な存在といってもいいJAPET(ジャペット)という組織が催したのが,今回の情報教育対応教員研修全国セミナーというわけである。だから,関係者にとっては,そこそこ重要な位置づけで捉えられている(はずの)セミナーなのだ。(ちなみに共催は売り込み熱心な教育情報化推進協議会。)
 その証拠に基調演説を行なったのは文部科学省初等中等教育局参事官付 情報教育係長。家長から直々に情報が伝えられる場面が用意されているという点でも,その重みみたいなものが確認できる。
 こういうセミナーにやってくるのは,教育委員会や学校現場などで情報教育に関わる関係者だ。だから,情報環境を整備するにあたって知りたい情報を得にやってくる。今回のテーマで言えば,今後国が2010年を目標として教員1人1台の校務用パソコンを配備するという施策が決定したことに伴って,それは具体的にどんな状況になるのか,どんな問題が待ち受けているのか,施策実現のために必要なアクションは何かを知ることが目的である。

 ここで日本の教育行政の姿をおさらいしておこう。古山明男『変えよう!日本の学校システム』(平凡社2006.6)などからも,この辺の話を得ることが出来るし,先日テレビでもやっていたので,そろそろ浸透しているとは思うが,ぜひ日本の教育を語る上で基礎知識として持っていただきたい。
 日本の教育行政における主要な登場人物は4者。「文部科学省」「都道府県教育委員会」「市町村教育委員会」そして「都道府県市町村の首長(知事とか市長とか)」である。そしてそれぞれのキャラが立つように,重要な権限が一個一個分け前の如く割り振られているのである。
・文部科学省には,政策や法令に基づいて「指導」する権限を…
・都道府県教育委員会には,人を雇うことが出来る「人事」権を…
・市町村教育委員会には,学校を設置して管理できる「実行管理」権を…
・都道府県市町村の首長には,教育に使うお金を決められる「予算」権を…
 そんなわけで,新しいことを始めたり,何かを変更しようとしたりするときには,それぞれの権限を持つ4者が力を合わせないと実現しないようになっているのである。ロケット発射の時に必要なロック解除キー(映画なんかで出てくる,数数えて一緒に回すアレ)が4つ必要みたいな感じである。
 ところが一人でも鍵回すタイミング間違えると,何も動きやしない。そして日本の教育を変えたいのに,なかなか変わらないのは,鍵回すタイミングがことごとくずれているせいだとも考えられている。
 それで,鍵の数が多すぎるのが問題だと考える人がいて,「じゃ教育委員会を無くして,鍵を減らしちゃえ」と論じているのが教育委員会廃止論である。でも,いざ鍵が減ったとき,容易にロック解除できるようになる怖さみたいなものもあって,必ずしも鍵を減らすことが最善の策ではないと考える人たちもいる。それに今でも,鍵回すタイミングさえ揃えれば,目的達成できるのだから…。
 問題は,コンセンサスを得て,力を合わせることが出来るかどうか。その手続きを丁寧に出来るかどうかということなのだ。そして,どうも昨今の社会では,このコンセンサスづくりが難しくなってきたということ。そして,目まぐるしく変化する時代について行くためには,手続きを簡略化することが求められているという現実があるということ。同じ丁寧にやるにしても,テキパキとしなければならない。
 残念ながら,今日の教育行政ではそれが出来ていない。考えてもみて欲しい。主要登場人物4者に関わる実際の人数に加えて,前振りでご紹介した情報教育に関わる関係団体や組織の広がり様。そのうえ,それぞれ自分たちの目的に照らして良かれと思って研究活動や啓蒙活動など,セミナーや研修会などを開いていくものだから,もはや何が何だか分からなくなってくる。
 シンプルじゃないのだ。こんな状況で物事を実現しようってんだから,日本人というのは本当に器用な民族である。

 斯様な教育行政の構図を念頭に,今回のセミナーの話に戻ってこよう。
 この手のセミナーでは,教育行政の構図における問題がくっきりと浮かび上がってくる。残念ながら日本の学校における情報機器整備は目標に対して遅れている。国が予算措置して,文部科学省が通達まで出しているにもかかわらず,予定までに目標達成できなかった。なぜなら,誰かが鍵を一緒に回さないからだ。
 でもどうして国や文部科学省が「鍵を回して!」と叫んでいるのに,同じタイミングで回そうとしないのか。それは,国が用意した予算や文部科学省の通達に強制力がないからだ。首長や教育委員会が言うことを聞かなくても済む事態が起こっているのである。鍵回さなくて済むなら,その方が面倒無くて楽なのである。
 そんなわけで,そもそも情報教育に関心がある地方自治体は積極的なところも出てくるが,そうでもない地方自治体は関心意欲が最初から無いので実現しないのである。
 関心意欲の無い地方自治体の中にある「やる気満々の学校」現場にとっては,困った事態である。情報教育を実践したいのに,教育委員会の無気力無関心で,自分の学校にパソコンが整備されないのだから。
 関心意欲の無い首長あるいは教育委員会を相手に,上からは国や文部科学省,下からは現場の学校の先生や教育センターの人々などが,情報教育の重要性と機器の整備の必要性を訴え,首長には予算を,教育委員会には実行を要請しなければならない。
−→ 国,文部科学省
|      ↓
|   関心意欲の無い首長,教育委員会
|      ↑
−→ 現場の学校,教育センター
 で,上と下の間をつないでいるのが今回のセミナーというわけである。ああ,もちろん関心意欲の有る教育委員会の人たちもセミナーには参加しているだろうし,あらゆるところでこんな滑稽な図式が展開しているわけじゃない。
 ちょっと今回の駄文は話がややこしくなってしまったか。
 こういう前提知識を踏まえて感想を書きたかったのだが,要するに今回のセミナーの難しいところは,現状の構図に対する不満が下敷きになっているため,「教員1人1台時代のICT活用」という部分の話が(有ったのに)ぼやけてしまっていたということだ。
 いろんな立場の人たちが,それぞれの立場に引き寄せて何か情報を得たのだとは思う。そして日本は地方分権が建前だから,具体的なアクションについても,それぞれが計画を作成して,実行することが共通認識になっている。だから,セミナーの場では,何かしら決定版のような見解や方策を示すことはせず,せいぜいセミナー開催を協力したSky株式会社の製品をデモすることで参考にしてもらうというスタンスであった。
 日本のJAPETが,英国のBECTAの様に出来ないのは,その構図のためだ。英国のBECTAが,条件整備に関わる業者を認定したり,チェックリストをつくって条件を満たす学校にICTマークを与えたり,Windows VistaやOffice2007の教育利用を評価したりと,ICTの普及促進に積極的に動けるのも,国がイニシアティブをとって推進しているためである。日本のJAPETが同じようなことをしようとすると,国が介入するのに等しくなって,地方自治体の権限領域対する越権行為になるおそれがあるからだ。
 だから,このようなセミナーの場で,一生懸命現場サイドから首長や教育委員会に働きかけ,情報機器整備の必要性に気づかせる努力が必要だと訴えるのである。
 もっとも,だとしたら,むしろワークショップ形式にして,もっとアクションを起こすのに必要なリソースと手順に関する情報を提供しながら,それぞれの立場でできることにフォーカスすべきだと思う。この調子では,参加者個人個人の温度差によって解釈にばらつきが起こっているにもかかわらず,そのばらついた解釈に基づいてアクションが起こることを期待していることになる。
 1人1台時代という言葉で指し示されているのは,公的なパソコンが配備され,支給されるという事態である。今回のセミナーでは,それに伴って発生する新たな業務,そのための工夫,そして問題点などが紹介された。
 仕様策定,導入,運用,保守,更新,廃棄という一連の流れを眺めた場合,それぞれのフェーズで考えておかなければならないことは多岐にわたる。しかし,一方で,こうした情報環境に対応するために発生する様々な労力を,全て教員が引き受けるべきかという疑問もある。それこそシステムに任せられるのであれば,教員に負担をかけないシステムを予め導入すべきだし,難しいとはいえ,ICTのための人員配置も検討すべきとの議論もあった。
 公的なパソコンが大量に導入されるということは,管理すべき物品や対象が増えるということである。管理するには普通人員が要る。だから企業や組織だと,そういう諸々の計画や要求書と見積もりが作成されて初めて,予算が認められて執行する。ところが,これから日本の学校に入ってくる公的パソコンは,そんな計画も準備もしていない場所に,まさに「降ってくる」形になってしまっている(もっとも降らせるかどうかは地方自治体次第だけど)。
 この見かけ本末転倒な状況もまた,日本の教育行政の滑稽な構図が生み出したものだ。だから,いっそのこと,教育委員会や首長は,各学校現場や教育センターに,計画や要求書を出させて,しかるべき体制を考えさせて準備させてからパソコン配備を承認するような形にすべきかも知れない。なんか,そういう「僕らも仕事したぁ」という役割を首長と教育委員会にさせることで,関心意欲が掻き立てられるかも知れない。それに現場にとっても,とりあえず導入して教員があたふたするより,ICT向けの人員配置も含めた計画書と要求書を作成することによって,まさに運用を見据えた準備ができるのではないだろうか。
 あと,問題は業者ね。良心的な業者も多いけれど,勉強不足な業者が多くて困る。自分たちが扱っている商品しか知らないという視野の狭さ。新しいソフトや機器が登場していても,何も情報を得られていないから,情報の提供すらできない。そういう業者が多い。
 だから,仕様策定する際には,かなり気をつけないといけない。業者との緊張関係を保たないと,お互いが損をしてしまうのである。もし,教育関係者が業者と緊張関係を保てるよう,距離感を調整できれば,彼らも勉強するだろうし,新しい情報を提供してくれるし,そしてサポートも迅速にしてくれるようになる。
 ただし,だからこそ,適正な報酬を支払うことも忘れずに。良いサービスをしてくれるようになると,今度はお客側がわがままになってしまう。業者はビジネスをしに来ているのであって,ボランティアをしに来ているわけではない。そりゃ,たまには無理をお願いしてしまうことも有るだろう。ちょっとパソコンを見てもらったことにわざわざお金を払うこともないかも知れない。
 けれども,図に乗って,時間外に来ることは当たり前,自己解決できることも頼りっぱなしという態度では,よい関係を保つことはできないし,サポートも雑になってくるかも知れない。
 そういう意味でも,本来はJAPETや情報教育推進協議会などが,学校現場に出入りする業者に対しても何かしらガイドラインや啓蒙活動を展開していくことも大事になってくる。なのに,そういう話は,こういうセミナーではすっぽり抜けてしまうのだ。

 というわけで,だいぶ長編駄文となってしまったが,いろいろな状況を踏まえてみると,実はそう簡単に割り切れるセミナーでなかったことが分かってくる。
 私より下の世代は,過去を知らない分,こういう複雑怪奇な現状について,だいぶフラストレーションを感じているはずだ。なぜ物事がストレートに進行しないのか,疑問に感じているはずなのだ。一度「ぶっ壊す」方がすっきりするのではないかと考えるのも無理はない。でも,歴史を紐解くと,そう簡単な話でないことも分かってくるはずである。そして,下の世代はある意味優しいから,理解を示してくれたりする。
 だからいつも思うのは,何かが変わるために必要なきっかけは何か?という問い。世代交代を待って,若い人たちに変えてもらう?それとも,いま物事を変えるほどの地位や権限を持っている人々が意識を変えて取り組み始める?あるいは,自分たちで種まきをして,じわじわと変わっていくよう努力する?とにかく,いろいろ考えを巡らしたりする。
 冒頭から繰り返し書いてきたように,JAPETを始めとした教育工学や情報教育を推進する団体・組織は,研究活動を得意としてきた流れがあるので,今日のセミナーもまた研究的スタンスのもと,自制的な発表だったと思う,それはそれで評価すべきこと。最終的に何を読み取るか,読み取ったものを生かすも殺すも,聴衆個々人の立場にあった選択をすべきである。
 けれども,私はもっと積極的な主張を示すことも大事なのではないかとも思ったのだ。結局,人を動かすのは人の熱い志によることが多い。何かを変えたいのだとしたら,熱く語るべきだし,それをたたき台に議論を展開することが必要なのではないか。ときには反発を生むことさえ,戦略として取り入れることが,物事を大きく変えるためには必要なのだと思う。

紙の上でデバッグ

 今日,大学院のゼミがあり出席した。春からの新入生が全員集まって発表をした。まだまだ学ぶべきことは多い。
 終わって食事をしながら歓談。プログラミングの話題になって,どんな言語を使っているかなんて話になった。「いやぁ,最近はフレームワークを勉強しないといけないでしょ,そういうのに慣れなくて…」なんて話をしていたら,「りんさんの頃は,アセンブラでプログラミングだから。連続用紙に印刷してたんでしょ…」なんてツッコミが入った。
 ははは…。図星だよ,おい。
 紙に印刷してデバッグしてたもんな。論文の推敲と同じで赤ペン持って,極めて文系的プログラミングスタイルでした。懐かしいなぁ〜,ツッこまれるまで忘れてたよ。今年は頑張ってAjax使いになりたい。