月別アーカイブ: 2006年12月

探索の魅力

 新世代ゲーム機が出揃い,注目されていたレースの行方は,現時点で任天堂のWiiが圧倒的な優勢のようである。ファミリー・コンピュータをヒットさせ,この分野を開拓した歴史を持つ会社が,原点に戻って再び成功したともいえそうだ。
 その勝因については,早耳の方はご存じのように,あのWiiリモコンという新しいインターフェイスの開発と導入がある。ワイヤレスであることは,他のゲーム機でも同じなのだが,デザインや操作スタイルを一新したこと。それに併せてミニゲームソフトのラインナップで魅力を伝えた点が任天堂らしい。
 Wii専用Webサイトでは,実際にWiiリモコンでゲームをプレイしてもらった体験映像が山ほど公開されている。日本人はもちろん,アメリカやドイツやイタリアの人たちまで,テレビの前でリモコンを持って身体を動かしてプレイしている様子は,見ているだけでも楽しい。
 その中に,Wii Sportsテニスを体験する女性の映像がいくつかあるが,こちらの女性の映像は興味深い。Wiiリモコンの操作を初めて体験して,使い方を見いだしていく様子がちょこっとだけ見られるからだ。(はい,そこ。こういう女性が好みなんだ…と話ふくらまさないように)
 こんな風に,いろいろ探索して学習しながら体験していくのは楽しい。そして見ているこちら側も「やってみたい」と思うものだ。こういう「わくわく」が,偏在する学習のタネなのだなぁと思う。
 さて,Wiiリモコンに関しては,別売りで単体購入が出来る。3800円プラス税。実は,このリモコンは,Bluetoothという無線技術をベースに開発されたもの。このBluetooth技術はパソコンのマウスなんかにも利用されている。
 つまり,Wiiリモコンは,マウス代わりに使える可能性があるのだ。そしてすでにインターネット上には,Wiiリモコンをパソコンのマウスならぬポインタとして利用できるようにするソフトが開発されて公開されている(Mac)(Win)。
 というわけで,学校のパソコンをWiiリモコンで操作しながら授業したら,子どもたちからの注目度アップは間違いなし。デジタル教材をWiiリモコン使ってページをめくったり,ポイントしたり,線を引いたら,なんか来年前半までだったら格好いいかも知れない。
 すでに工学分野では,学会発表にWiiリモコン使う人が出てくるんじゃないかという話題まで飛び出している。花札からビデオゲーム,ゲームウオッチからファミコン,そしてDSやWiiリモコンへ…,いやはや任天堂はいろんな意味で社会に影響を与えてくれる会社だ。その探索の過程がある意味で魅力的なのかも知れない。

記憶圧縮率

 日々の記憶が,立て板に水のごとく流れ去っている気がする。今日の夕方何をしていたのか,ちっとも確かな記憶が見つからない。いや,たぶんパソコンに向かってちまちまと作業をしていたのだ。けれども,その記憶が曖昧。
 出かけるべきところがあったり,メールを出すべき頃だったりしたのに,そのことも意識にのぼらなかったらしい。かといって集中していたのかどうか。どちらかというとボーッと単調に過ごしていたような感じがある。それすら確かではないのだけれど。
 大人になると日々の出来事を記憶するやり方が上手になって,時間感覚がどんどん短くなっていく。これを意味する何か学名を聞いたことがあるのだが,それも忘れちゃってるなぁ。とにかく,記憶の圧縮方法の向上によって効率化するというわけである。
 でも,圧縮方法ばかりでなく,そもそも圧縮の対象となる出来事の方がスカスカだと,圧縮のしようがないというか何というか。記憶にとどめるのさえやめちゃってるんじゃないかと自分を疑ったりする。
 なんというか…,要するに,ど忘れする自分にちょっと凹んでいる,というわけである。皆さんごめんなさい。
 ダメだダメ。この頃は後ろ向きになりやすい話題ばかり気にしているからダメなんだ。こういうときこそ前向きに,希望や野望を語っていかなくては!自分の周りのことから,どんどん頑張っていくことにしましょう。

教育界世代議論メモ

○世代役割
70歳代以上 〜歴史を語る
60歳代 〜経験を語る
50歳代 〜責任を引き受ける
40歳代 〜現実を動かす
30歳代 〜課題に邁進する
20歳代 〜挑戦する
10歳代以下 〜世界を学ぶ
○世代特徴後
70歳代以上 〜理想
60歳代 〜回想
50歳代 〜俯瞰
40歳代 〜冷徹
30歳代 〜野望
20歳代 〜情熱
10歳代以下 〜夢
○つぶやき
 年齢規範と世代規範という枠組みを使用したのは稲増龍夫氏であった。googleで検索しても,このキーワードを使っているページはほとんどないので,あまり一般的に認知されているとは言い難いようだ。枠組みの妥当性があるのかないのかは置いておくとして,示唆に富んでいることは確かである。
 いまの若い人たちが「子どもと友達でいたい」という線引き曖昧な関係を好んでいるのは悪いことではないが,だからといって線引きできなくなってしまうことは決して望ましいことではない。
 団塊の世代以上の人たちが「気持ちを若々しく保ちたい」という人生我が世の春を謳歌したいというのは悪いことではないが,だからといって引き際を忘れていつまでも舞台中央に居座ることは決して望ましいことではない。
 中間の世代の人たちが「誰にも迷惑かけない自分の生活が大事」という開き直りで過ごすのも悪いことではないが,だからといってみんなが好き勝手に動いてバラバラでしかないのは決して望ましいことではない。
 けれども,どうしてそうなってしまうのか。そのことを想像力めぐらせて考えてみることが大事だと思う。「そうせざるを得ない世の中」だとしたら,それは何かしら変えていけるかも知れない。
 個々人の思いや希望は個々人の自由であるから,それに働きかけられるのは直接対峙する人たちだけである。何かしら包括的なアプローチをとりたいというなら,「そうせざるを得ない状況」そのものに注意を向けて,働きかけられるかどうか考えないといけない。もっとも教育基本法なんてのは的外れもいいとこである。
 稲増氏は『パンドラのメディア』(筑摩書房2003)でその対象としてテレビを扱った。その題材選びはとても的確だと思う。日本には宗教がない代わりにテレビメディアがそれを立て替えちゃっている現実がある。
 『日経ビジネス』2006.12.4号の特集はベネッセ・コーポレーション。会長インタビューのタイトルには「宗教を超える株式会社へ」とある。その響きに違和感を感じないわけではないが,けれども,それは真面目に議論されるべき事柄だと思う。
 日本国内で過ごす分には,曖昧な宗教観が心地よい。けれども世界と対峙する段になれば,主張する何かを持たなくてはならない。テレビか,株式会社か。学校や教育という神話が崩れつつある今,目立った選択肢がこの二つくらいというのも寂しい話。
 それよりも何よりも,どこもかしこも倫理観も哲学も失われた世界。世界を学ぶ次代の子どもたちに,胸を張って示すことの出来る何かを残していかなくてはならない。それが先に生まれた私たち世代の共通した義務のはずである。

扇情的な議論の横行

 人々が教育議論を異なる立場から交わすこと自体は好ましいことではある。けれども,このところ教育議論がどんどん拡散していて,結局何がしたいのかわからない状態がひどくなっている。
 文部科学省や中央教育審議会という場が形骸化したからと,首相官邸が教育再生会議を立ち上げたところからして,税金の無駄遣い。もうちょっとマシなPR戦略に基づいて活動するかと思ったら,会議非公開の上に,肝心の議事録公開は遅いから,そのことをテレビで突っ込まれる始末。「そのことも議論してますよ」なんて,余裕こいているんじゃない!
 マスコミは相変わらずそんな事態に配慮もしてくれなくて,いじめだ,未履修だ,法改正だ,ダメ教師だ,5年更新だ,なんてことばかり報道。なんだよ,これじゃ会議を非公開にしている効果がまるでないじゃん。本来的にマスコミが継続的に取り扱わなければならないのは,たとえば教育予算などといった議論である。
 『アステイオン第65号(阪急コミュニケーションズ)において,苅谷剛彦氏が「「機会均等」教育の変貌」という興味深い論考を披露している。ちょうど「教育らくがき」でも駄文「減り続ける日本の教育予算」(1)(2)で触れられなかった部分について,歴史をさかのぼって詳述している。(教育予算を「標準法の世界」で考えることと,「パーヘッドの世界」で考えるという構図の描き方は,さすが教育社会学的にキレイな論述の仕方だと感心する。)
 苅谷氏の議論は,多くの人々にとっては(悲しいかな)新鮮だし,驚きのはずである。マスコミはそういう話題をしつこく扱っていくべきなのだ。それが出来ないから,この国の教育議論はどんどん迷走して,雲散霧消してしまう。不毛なんかじゃなくて,そもそも議論されていないも同然なのだ。

先行成果探し

 教員が教育活動を展開することを支援する取り組みを始めたいと思って教育工学の入口に立つ。改めて取り組むべき何かを具体的に考えるにあたって,先行成果を見回し始めなければならない。
 私が教育研究を志すよりも遥か昔から,教師支援を考えた来た先達がいるのは当然で,その成果も様々。教員支援のためのコンテンツも教育情報ナショナルセンターのサイトを始めとして存在している。
 いろんなバリエーションがあって構わないとは思うものの,同じものを再生産しても何も前進しない。しかも,残念ながら先行成果も大成功しているというものはほとんどない。活用されているとは言い難いのである。 「ポータルという発想じゃダメ」という意見もある。
 何かしら違ったアプローチで取り組まない限りは,うまく根付かないことだけは確かなようだ。
 使いにくさの解消も考えなければならないが,むしろ教育現場や教師の日常のフローに入り込む仕組みを見つけ出すことの方が重要なのだと思う。それがプッシュ型のツールという形になるのかは,まだ分からない。あまりややこしくても逆効果だとも思う。とにかく調べないといけないことはたくさんあるようだ。

エビちゃんHAWAII BOOK

 すでに街はクリスマス・イルミネーションで彩られている。書店も雑誌の新年号や年賀状イラスト集みたいな季節モノでいっぱいだ。そして今日は『CanCam』創刊25周年記念号を買った。
 ある種,時代の象徴ともいうべき雑誌。私がこの雑誌を初めてまじまじと眺めたのは,大学生時代に書店でアルバイトをし始めた,その休憩所だった。とにかく世の中にはたくさんのブランドがあるということだけわかったが,あまりの情報量の多さに面食らった。まさか自分が女子大生たちを相手にする職業に就くなどと微塵も思わなかった,旧き良き時代のことである。
 そして仕事に就いてから,たまに機会があると眺めるようになった。学生の話について行くのにはリサーチも必要である。モデルの名前,ブランドの名前,今年の流行色が何色で,今風のヘア・スタイルは何か。一年に一回,そういう知識を活かせる場面があるか無いかという程度だが,そのたった一回に余裕で対応できるのとそうでないのとで,一目置かれる距離が変わることもある。振り返るに,変な世界に身を置いていたものだと思う。
 ところで,秋に出かけたハワイ。そこで地震と大停電に見舞われた。どうもその時期にモデルのエビちゃんもハワイ・ロケをしていたらしい。で,その成果が創刊25周年記念号の付録『エビちゃんHAWAII BOOK』である。(まじめに付録名を引用している自分がだんだん情けなくなってきたな…)
 ほれ,同じ時期にハワイ滞在していたと思うと,ちょっと嬉しいじゃない。その付録にも一カ所だけ地震と大停電に触れた部分があるので間違いない(そのことさえ宣伝材料になっているところに,この雑誌の商魂を見た)。
 というわけで,押切もえちゃんのCanCam引退(姉CanCam昇進?)号でもあるから買ってみたというわけである。ええ,わたくし,女性好きですよ。それが何か?